対公害闘士列伝

第参頁 萩野昇……対イタイイタイ病・原因分析

公害名イタイイタイ病
発生大正年間(1910年代)と推定されている
終焉平成二五(2013)年一二月一七日 神通川流域カドミウム被害団体連絡協議会と三井金属鉱業が全面解決の合意書を交わし、同社の謝罪を初めて正式に受け入れた。
決着同上
責任企業三井金属鉱業
公害要因神岡鉱山から排出されたカドミウム
主な被害 多発性近位尿細管機能異常症・骨軟化症が主な特徴。多尿・頻尿・口渇・多飲・便秘に苦しみ、多発性近位尿細管機能異常症が進行すると、リン酸、重炭酸再吸収低下による症状が出現し、骨量も次第に減少する。
 重篤化すると脈を取る為に腕を持っただけで骨折するほど骨が脆くなる。並行して腎機能も低下し、腎不全に陥り、寝た切りとなる。
 風土病・業病とされた初期は地域への風評被害も深刻。
事件年表
月日出来事
天正四(1586)年 豊臣秀吉が飛騨を平定した際に、金森長近が越前大野から飛騨に転封となり積極的に鉱山開発を行った。
長近は鉱山師・茂住宗貞に茂住・和佐保銀山の鉱山経営を始めさせ、江戸時代には神通川周辺の農業や飲料水に被害が出ていたという記録がある。
明治年間 経営主体が明治政府に移ったが、すぐに三井組が本格経営を開始して三井組神岡鉱山稼働となる。
明治一九(1886)年 三井組により全山統一。
明治三七(1904)年 日露戦争を契機に非鉄金属が注目されて生産量が大幅に増加。以後も戦争や高度経済成長による増産で大量の廃物を放出。
大正九(1920)年 上新川郡農会長・金岡又左衛門が農商務大臣・山本達雄と富山県知事・東園基光に神岡鉱業所の鉱毒除去の建議書を提出。  建議書には「神岡鉱業所事業の勃興に伴い、土砂に流入する田地の稲は発育に変調をきたし、完全に登熟しない。鉱山経営者に対し除害施設を講ぜしめられたい。」と訴えられていた。
昭和二三(1948)年 熊野村(現:・富山市婦中町)等三町四村の農家が神通川鉱毒対策協議会を結成。富山県を通じて交渉。
昭和二六(1951)年 神岡鉱業所が農業協力費を関係市町村へ支払うことになる。しかし、原因は未解明ままとなった。
昭和三〇(1955)年この年 地元・開業医である萩野昇を地元富山新聞記者の八田清信が取材に訪れた際、看護婦が患者を「イタイイタイさん」と呼んでいると聞き、「そのままいただいて『いたいいたい病』としては?」と提案したことによる。
八月四日  富山新聞社会面で初めて病名として報じられる。
八月一二日 イタイイタイ病の謎を解くため、河野稔を中心とした一〇数人の医師等による集団検診が萩野病院で行われた。
一〇月 河野稔と萩野昇の名前で研究成果が発表。
昭和三二(1957)年一二月一日 第一二回富山県医学会が開催され、萩野昇が富山県医学会で鉱毒説を発表。
昭和三四(1959)年五月一三日 萩野昇と岡山大学教授・小林純が富山県知事・吉田実と会見。研究経過を説明し、イタイイタイ病は三井金属神岡鉱業所の廃水が原因であると報告。
六月二四日 萩野が札幌市で開催された第三四回整形外科学会でそれまでのデータを農学博士・吉岡金市との連名で発表。
一二月 富山県地方特殊病対策委員会が作られ、富山県はイタイイタイ病の原因究明に乗り出す(但し、その目的は神岡鉱業所を庇うもので、編成された委員の中に萩野と小林の名前はなかった)。
昭和三六(1961)年一月 岡山大学の小林純等が患者の骨や内臓および神岡鉱業所の廃水や川水からカドミウムを検出したことを基に萩野昇と農学者・吉岡金市がイタイイタイ病の原因はカドミウムであると発表。
一二月 富山県が原因究明に乗り出す。
昭和三八(1963)年六月 厚生省及び文部省が原因究明に乗り出す。
昭和四一(1966)年一〇月六日 萩野昇が富山県社会保障推進協議会から、イタイイタイ病に関する講演を依頼される。
一一月 被害者の家族や遺族等がイタイイタイ病対策協議会(略称:イ対協)を結成。 その後、イ対協は神岡鉱業所と交渉するも難航し、会長・小松義久等が裁判に訴えることを決意。
昭和四二(1967)年三月 富山県イタイイタイ病患者審査委員会が、富山県が住民に行った健康診断結果に基づき患者七三人、要観察者一五〇人を認定。厚生省も日本公衆衛生協会に研究委託するなど原因究明に努めた。
五月二五日 参議院議員・矢追秀彦が萩野病院を訪ね、イタイイタイ病患者を見舞い、国会で取り上げることを約束。
一二月六日 イタイイタイ病の患者代表三名が、上京し。矢追の紹介で厚生大臣・園田直、通産大臣・椎名悦三郎と面会し、病状と患者の置かれた境遇を訴えた。
一二月一五日 萩野昇が参議院産業公害特別委員会に参考人として招致される。
この年 日本医学会総会にて萩野・小林の動物実験に成功が報告される。
昭和四三(1968)年一月 全国から二〇人の弁護士が集まり、イタイイタイ病訴訟弁護団を結成。
三月九日 患者・遺族二八人(婦中町、富山市、大沢野町の各被害地域を代表)が三井金属鉱業を相手に一四件(患者一人につき一件)、加害責任の明白化と、総額約六億三〇〇〇万円の第一次訴訟を起こす。
五月八日 厚生省が「イタイイタイ病の本態はカドミウムの慢性中毒による骨軟化症であり、カドミウムは神通川上流の神岡鉱業所の事業活動によって排出されたものである。」と断定。これによってイタイイタイ病は政府によって認定された公害病の第一号となった。
一〇月八日 第二次訴訟が起こされる(訴訟件数は一四八件)。
昭和四四(1969)年三月一〇日 第三次訴訟が起こされる(訴訟件数は一四件)
一一月二〇日 第三次訴訟に四件が追加される。
昭和四五(1970)年二月一日 健康被害救済法が施行され、公害病患者九六名が認定される。
二月二〇日 第四次訴訟が起こされる(訴訟件数は一三件)。
昭和四六(1971)年五月七日 第六次訴訟が起こされる(訴訟件数は八件)。
六月三〇日 三六回の口頭弁論の末、第一審にて原告勝訴の判決。「近年の死者には五〇〇万円、それ以前の死者及び生存する患者には四〇〇万円の支払いが相当である。」とした。 三井金属鉱業は判決を不服として即日控訴。
七月三日 第七次訴訟が起こされる(訴訟件数は一件)。各訴訟は併合されて審理が始まる。
この年 富山県が汚染実態を把握する為、農用地汚染防止法に基づいて、最密検査と補足検査を実施(昭和四九(1974)年まで行われた)。
昭和四七(1972)年六月 環境庁が「公害に係る健康被害の救済に関する特別措置法によるイタイイタイ病の認定について」を制定。以後、この法規に則って富山県が患者の認定を行っている。
八月九日 名古屋高等裁判所金沢支部にて原告側勝訴の控訴審判決。 三井金属鉱業は上告を断念し、第二次以下の訴訟も判決内容に従って補償することを決定。慰謝料は「死亡患者全員に一〇〇〇万円、生存する患者には八〇〇万円」と倍増された。
 更に判決はカドミウムの放流とイタイイタイ病とは因果関係があると断定。 三井金属鉱業は第五次訴訟まで総額二三億五六三三万円の損害賠償金の支払い、農業被害の賠償と汚染土壌の復元義務、住民の立ち入り調査権を認めた公害防止協定書の締結の三点を内容とする和解に応じることとなった
昭和四八(1973)年七月 三井金属鉱業と医療補償協定が締結され、県や政府の医療救済補助も加わり、患者・要観察者への救済が始まる。
昭和四九(1974)年八月 神通川左岸の六七.四ヘクタールが農用地汚染防止法に基づく汚染地域に指定(最終的に一六三〇ヘクタールが汚染地域になった)。
九月一日 公害健康被害保障法が施行され、国からの救済も始まる。
昭和五一(1976)年五月 裁判の勝利を記念して、イタイイタイ病対策協議会が被害地域の婦中町萩島(現・富山市婦中町萩島)に清流会館を建設。
昭和五四(1979)年 土壌復元事業が始まる(完了したのは平成二四(2012)年三月一七日)。
平成二(1990)年六月二六日 萩野昇が胆嚢癌にともなう敗血症のため富山市民病院で逝去(七四歳)。
平成一三(2001)年六月二九日 鉱脈の枯渇により神岡鉱業所が亜鉛・鉛鉱石の採掘を中止。その長い歴史を閉じる。
平成二〇(2008)年一〇月 この時点での認定患者一九二名。
平成二四(2012)年四月二九日 富山県立イタイイタイ病資料館が開館。
平成二五(2013)年一二月一七日 神通川流域カドミウム被害団体連絡協議会が三井金属鉱業と全面解決の合意書を交わす。
 被害者住民団体は、患者賠償と土壌復元、三井金属の子会社・神岡鉱業による環境対策が解決したとして、三井金属鉱業の謝罪を初めて正式に受け入れた。
平成二六(2014)年九月 従来行われてきた五歳刻みで対象年齢を決めていた流域住民への健康調査が全年齢を対象に切り替えられる。これにより同月末時点では認定患者は一九八人、要観察者が延べ四〇八人となる(調査対象の切り替えにより、精密検査対象者は調査開始以来最多となり、健康調査への受診率が低迷していることもあって患者数の正確な数字は把握出来ていない)。



闘士 萩野昇(はぎののぼる)
生没年大正四(1915)年一一月二〇日〜平成二(1990)年六月二六日
事件時の職業開業医



略歴 大正四(1915)年一一月二〇日、医師・萩野茂次郎の長男として長崎県に生まれた。

 昭和一五(1940)年、金沢医科大学(現・金沢大学医学部)を卒業、同病理学教室の研究生となり、同年一〇月に応召入隊し、戦地に赴いた。

 昭和二一(1946)年 中国より復員し、富山県婦中町(現・富山市)の実家・萩野病院を継ぐ。
 程なく、苦痛の余り「痛い!痛い!」と叫ぶ、原因不明の病に苦しむ多くの女性患者達に出会う。
 脈取りやくしゃみだけで骨折する悲惨な有様に加え、前代未聞の病態、更には患者が出産経験を持つ中年女性に集中したこともあって、時には家族からも遠ざけられ、なまじ脳が冒されないために意識明瞭なまま激痛の果てに衰弱死………萩野昇は即行で原因究明に動き、外部の研究者達と共同研究を行った。

 だが当然、過去に例の無い病状に原因究明は困難を極めた。
 過労説、栄養失調説も取り沙汰されたが、どの仮説にも萩野は納得出来なかった。
 やがて疫学調査から患者の発生地域が神通川流域と特定され、昭和三二(1957)年第一二回富山県医師会で鉱毒説を発表。その後、岡山大学教授の小林純や農学者の吉岡金市の助力を得て研究を進め、昭和三六(1961)年六月、第三四回日本整形外科学会において、三井金属鉱業神岡鉱山から排出されるカドミウムが原因であると発表した。

 だが、地方の開業医に過ぎない萩野に対して周囲の反応は冷ややかで、親身なった筈の地域住民からすら「嫁のきてが無くなる」、「米が売れなくなる」との罵声が浴びせられ、脅迫されることすらあった。
 さすがに萩野は荒れ、一時は酒に溺れもしたが、昭和三七(1962)年に妻・茂子を亡くしてからは、酒もゴルフも一切絶ち、再び研究に打ち込んだ。

 昭和四三(1968)年五月八日、厚生省がイタイイタイ病を公害病と認定するに及ぶと、萩野は日本医師会最高優功賞、朝日賞を受賞した。

 平成二(1990)年六月二六日、敗血症で死去。萩野昇享年七六歳(数え年)。


 荻野昇とイタイイタイ病との戦い
 現代に生きる我々はイタイイタイ病の原因がカドミウムによるものであることを知っている。だが、イタイイタイ病発生当時、その原因究明は困難を極めた。その背景には大企業を優遇する当時の富山県政と、未知の病を奇病・業病と見做して現代以上に風聞を恐れる患者サイドの隠蔽傾向もあり、荻野昇はそのあおりをもろに食らった。

 萩野は医師として純粋に、身を切られるような激痛に苦しむ患者を哀れみ、その想像を絶する苦しみを自らの肌で感じ、患者を救いたいという使命感で動き、一切の私心は無かった。
 戦時中は中国で七年間軍医として様々な患者を診察した萩野だったが、戦地帰りの萩野の眼前に現れたのは前例なき奇妙な患者達で、神経や骨の激しい痛みを訴える中年女性達だった。
 痛みは慢性進行性で、痛みが始まると数年後には患者はかならず多発性の骨折をきたし、当然ながら萩野には全く見当がつかなかった。レントゲンを撮ると身体中の骨は枯れ枝の様で、萩野は驚愕するとともに痛みの訴えの切実さを理解した。
 そして「痛い、痛い」と泣き叫ぶ患者の様子を看護婦達が「イタイイタイさん」と呼んでいたことから萩野病院ではいつしかこの病気を「イタイイタイ病」と呼ぶようになった。

 謎の病の初期症状は軽度で、農繁期や過労が続いたあとに、手や腰に痛みが出る程度だった。また入浴や休養によって回復することから、最初は農作業による単なる過労と軽く受け止められていた。おまけに初期症状において患者の外見に異常は見られない。
 だが痛みはしだいに強くなり、大腿部、背部などに神経痛に似た、切られるような鋭い痛みが走り、骨のレントゲンでは骨粗鬆症の所見が見られた。
 痛みは年単位で悪化し、患者は全身に痛みを訴え、歩く際には大腿部の痛みをかばうため、アヒルのような格好で歩くようになった。そして痛みのため仕事や家事ができなくなり、数年後には骨折をきたし、激しい痛みから歩行も困難となった。
 骨は薄く脆くなり、身体を動かしただけで、また医師が細い腕の脈をとるだけで、あるいは咳をしただけで容易に骨折を引き起こした。
 ここまで来ると多発性の骨折のため、昼夜を問わず「痛い、痛い」と訴えるようになり、中には全身七二ヶ所の骨折をきたした患者や、脊椎の圧迫骨折のため三〇センチも背が縮んだ患者まで現れた
 これらの前例無き症状に当然有効な治療法はなく、寝たきりになっていった患者の中には余りの痛さや精神的苦悩から逃れんとして自殺する者も出て来た。

 奇妙だったのは、患者の殆んどが四〇歳を過ぎた中年以上の女性で、子供の患者はなく、男性患者は稀だったことだった。女性の中でも、更年期の主婦、子供を多く産んだ経産婦が大半であった。

 この奇妙な傾向故、患者の出た過程では主婦が動けなくなることで主婦の仕事を家族が分担するという負担が生まれた訳だが、それ自体はどの病気でもある話である。
 問題はピンポイントに発症する奇病にイタイイタイ病は丸で呪われた病気であるかのように業病と捉えられたことにあった。業病、つまりは前世の因縁によって発症する宿命的病気と取られ、家族は病人の存在を他人に知られることを恐れ、病人を周囲から隠そうとした。

 萩野病院に訪れた患者の七割をイタイイタイ病患者が占め、重症化して歩けなくなった患者はリアカーに乗せられたり、畳ごと担ぎ上げられたりして病院へ運ばれて来て、その光景は一種の地獄絵図だった。
 萩野は骨がボロボロに折れている患者を診察する度、胸が塞がれる気持ちになった。 そして長い激痛の果てに落命した患者を火葬すると頭部以外の骨は殆どが灰となって、原型を留めなかった。残された骨は薄く、箸でつまめない程脆くなっていた………。

 悲惨な患者達を救いたい一心で萩野は必死になって医学書や医学雑誌などを調べたが、(当然のことながら)どこにもそのような病気の記載はなかった。萩野は、午前中は外来診療、午後は往診、そして深夜になってイタイイタイ病の研究という日々を送った。
 業病とされたイタイイタイ病だったが、萩野は患者を前にして、「この患者達に何の罪が有るのだろうか?有る筈はない。病気には病気になる病因が必ず有る筈。」と考えていた。

 大学で病理学を専攻していた研究熱心な萩野は、「イタイイタイ病にも必ず原因があり、それが分かれば、治療法も確立し患者を救うことが出来る。」と考え、それが自分に課せられた使命であると信じていた。
 過労、貧血、栄養障害、寄生虫、あらゆる原因を想定して検査をしたが、この奇病の原因は依然として不明だった。治療法が分からないまま患者だけが増え、地獄の苦しみの中で患者は死んでいった……… 。

 また先祖代々医師の家系に生まれていた萩野は、萩野病院に残されたカルテを丹念に調べもした。
 萩野病院二代目院長だった祖父の時代にこの病気の記録はなかったが、三代目だった父が院長だった大正時代に最初の記録が残されていた。だが父は既に亡くなっていたので父がこの病をどのように考えていたかを聞くことは出来なかった。ただ父がこの病を富山の風土病と考えていた様だったことが残されていただけだった。
 確かにこの病が富山県婦中町を中心とした数キロ四方の地区に限られ、日本のどの地区にもこのような病気は見られなかったからである。六キロ下流にある富山市にも患者は存在しなかったゆえに当初風土病と考えられたのも無理はなかった。

 だが、萩野は中年女性が大半を占める中でも、地元出身の主婦の発症年齢は若く、他から嫁に来た主婦の発症年齢は遅かったこと、時代まで神通川流域で育ち、他の土地に嫁に行った女性は発症しなかったことに気付いた。
 また、血縁のない姑と嫁が同じように発病したことから遺伝病・風土病と考えるのはおかしいとした。
 いずれにせよ萩野は田舎の開業医に過ぎない自分の力だけではイタイイタイ病の解明は困難と考え、昭和二二(1947)年、母校・金沢大学医学部第一病理学教室を訪ね、イタイイタイ病解明への支援を頼むことにした。
 第一病理学教室の恩師・中村八太郎教授は既に亡くなっていたが、萩野の先輩にあたる宮田栄が教授になっており、宮田は共同研究を快く引き受けてくれた。
 宮田は暇を見つけては萩野病院を訪ね、萩野と共に患者の家を訪問し、患者の頭から足先までレントゲンを撮り、採血、採尿を繰り返したが原因は分からなかった。

 この段階で、病気の初期症状が骨粗鬆症で、中期以降の症状は骨軟化症の症状と一致していたことは分かっていた。そのため骨軟化症の治療薬であるビタミンDの投与を行ったが、終戦直後のビタミンDは粗悪品で、下痢、嘔吐などの副作用ばかりで治療効果は見られなかった。
 一方で、イタイイタイ病が通常の骨軟化症と異なる点も見え出していた。腎臓の尿細管がまず障害され、尿中のタンパク、カルシウムが増加することだった。
 それによってカルシウムが体外に排泄され、当然骨が薄くなった訳だが、依然その原因は不明のまま、昭和二一(1946)年には四〇人、翌年には二〇人、翌々年には三〇人、と総患者数は増加していった。

 萩野は原因の一つとしてウイルスや細菌などの感染症を疑い、病院の片隅に動物小屋を作って、患者の便、尿、血液などを数10匹のラットやウサギに感染させる実験を繰り返したが、動物は何ら変化を示さず、そうこうする内の昭和三〇(1955)年、宮田が脳卒中でこの世を去り、一〇年間の共同研究は暗中模索の中で挫折した。

 同年五月、東京北品川にある河野臨床医学研究所の河野稔(こうのみのる)がリウマチの講演のため富山県を訪れた。県の厚生部から婦中町にリウマチに似た不思議な病気があることを聞いた河野は萩野病院を訪ねてきた。
 患者を診察した河野は原因解明のための共同研究を約束し、河野が専門とするリウマチとは明らかに違う疾患と断言した。
 同時に遺伝性疾患も否定され、同じ地区に多発することから感染症の可能性が高いと考え、トリコマイシンの発見者である東大名誉教授・細谷省吾を伴い本格的な共同研究を行うことになった。

 同年八月四日、富山新聞朝刊の社会面トップ記事にイタイイタイ病が五段抜きの見出しで、記載された。この記事によって、婦中町熊野地区の奇病・イタイイタイ病が広く世に知られた。
 それまでこの病は婦中町を除けば富山県民でも知る者は少なかった。だがこの記事により、富山県民が驚愕するだけに留まらず、患者とその家族達も改めて自分達がとんでもない病になることを痛感し、困惑した。
 また、これを機にマスコミが挙って動き出したことで医学界の権威者が注目したことが、このことは間違いなくイタイイタイ病の謎解明への第一歩でありながら、萩野にとんでもない苦難の日々を強いる一歩ともなってしまったのだった。

 同年八月一二日、イタイイタイ病の謎を解くため、河野稔を中心とした一〇数人の医師等による集団検診が萩野病院で行われた。
 該当患者と思われた人々二〇〇人が朝の四時から萩野病院の前に集まり始め、この数に驚いた婦中町当局は、職員、保健婦を集め病院前にテントを張って対応した程だった。
 集団検診は二日間に及び、五二人がイタイイタイ病患者と判明し、その中で男性は僅かに三人だった。
 患者の一人だった女性は河野に縋りつき、「こんな病気は一日も早くなくして欲しい。どうせ死んだも同然の身体だから、痛む片腕でも片足でも良いから切り取って研究して下さい」と訴えた。
 この言葉に医師達は胸を打たれ、河野は二人の患者を東京に連れて帰り、各大学の専門家を集め、世界的な学者達が参加し、骨系統の疾患を中心に共同研究が精力的に行われた。
 これによりイタイイタイ病が感染症ではないことだけは共通の認識となったが、それでも真の原因は不明のままであった。
 感染症でもなく、遺伝性疾患でもないとなると、次に考えられたのは地区特有の環境が疾患の原因とするものだったが、この時点ではまだ想像の域を出ず、悪い云い方をすれば、権威ある先生方が「原因不明」と云えない立場から出た推論でしかなかった。

 ともあれ、同年一〇月、河野稔と萩野昇の名前で研究成果が発表された。
 発表は原因を「栄養不良、過労、ビタミンD不足、日照時間不足、産後の休養期間が短いこと、夫婦生活の多いこと」と結論づけたものだったが、当の萩野自身がこの結論に納得していなかった。もしこれらが原因であればイタイイタイ病と同様の患者は世にごまんといてもおかしくない筈だった。
 だが、田舎の開業医に過ぎなかった萩野の立場では大学の研究者の結論に反対することは出来なかった。不本意な結果に、萩野は権威ある偉い先生の学説に反対出来ない悔しさを味わった。

 勿論婦中町の農民達もこの発表に憤慨した。自分達の町が日本で最も劣悪な地区というレッテルを貼られたに等しく、「婦中町では嫁にはろくなものを食べさせず、朝から晩までこき使っている」という暗いイメージが作られた原因を萩野にあるとして、地元民達は不満を萩野に浴びせた。
 実際、婦中町は「栄養不良、過労、ビタミンD不足」どころか、健康栄養模範農村として三回も表彰を受けていた町だった。勿論地元医師である萩野がそのことを知らない筈が無かった。
 だが、共同研究班は「原因を解明した。」として解散し、富山県厚生部は婦中町の住民に対し、「過労を防ぎ、肝油や小魚を多く摂るように。」指導し、日本中に恥を晒す形になった住民達は共同研究から戻った萩野を、「余計なことを云いやがった!」として反発の声を浴びせた。

 だが、萩野や婦中町民達の知らないところで原因究明の動きは生まれつつあった。
 共同研究に成果はなかったが、世界的な学者が取り上げたことから、イタイイタイ病萩野昇の名が世界に知れ渡たり、この病が骨軟化症と似つつも、「腎臓の尿細管障害を伴う」という点に注目された。
 前述した様に、尿からカルシウムが異常に多量に排出されるため、血液のカルシウムが減り、それを補うため骨のカルシウムが放出され、そのために骨が薄くなり骨折をきたすというメカニズムだった。
 となると、妊娠によって胎児にカルシウムを大量に奪われ、母乳からもカルシウムが奪われる経産婦に患者が多いことも説明がつくこととなった。だが、それでも原因とともに、「何故婦中町だけが?」という謎が残った。

 そのことは萩野にも疑問で、研究班解散後も彼の孤独な戦いが続いた。その間も患者は増え続けたが、ある日、萩野は県下の患者の家が婦中町、八尾町、大沢野町を中心とした神通川中流の一定の地域に限られていることに気付いた。
 上流には患者は見つからず、下流の富山市でも患者は見つからず、中流の稲作地帯だけに発生していたのである。
 このことから萩野の眼は神通川上流にある神岡鉱業所に釘付けとなった。
 萩野は富山県から数キロ離れた岐阜県吉城郡神岡町にある神岡鉱業所の排水による鉱毒説を考えるようになり、この鉱毒が「神の通る川」を「悪魔の通る川」に変えてしまったのでは?と考え出したのである。

 神通川の上流・中流を比較すると、北アルプスの山々から平野に入るまでの上流では地形の高度差が大きく流れが速かった。同時に渓谷のため神通川の川水は農業用水として利用していなかった。
 だが中流である婦中町付近では流れは急に緩慢となり、急流によって運ばれてきた土砂が川底に堆積し、周囲の水田より川底が高くなっており、堤防工事が完成するまでは毎年のように洪水による被害が起きていた。
 川底が周囲の水田より高いから、婦中町では神通川の水を農業用水として取り入れ、水道が引かれる昭和四〇(1965)年まで、住民は生活用水や飲料水として利用していた。
 特に井戸が凍る冬場は川水を汲み飲用水として飲んでいた。

 神岡鉱業所の排水による鉱毒説が正しければ、神通川上流に患者がいないのは川の流れの速さと川底の深さで氾濫が起きないこととの説明がつき、下流に患者が少ないのも、井田川、熊野川の合流によって鉱毒が希釈されることで説明がついた。
 萩野は神通川の水を採取し、全国の大学や研究所に送りその分析を依頼した。しかしいずれの分析でも有毒物質を検出することは出来なかった。

 昭和三二(1957)年一二月一日、第一二回富山県医学会が開催され、萩野は初めてイタイイタイ病の原因として鉱毒説を発表した。
 昭和二一(1946)年以来、九三例の患者の殆んどがタンパク尿を呈しており、その原因として神通川の水に含まれる亜鉛、鉛、砒素等の鉱毒が体内のホルモンを乱し、二次的にビタミンD不足をきたしイタイイタイ病を引き起こすとした。
 同時に者の発生が神通川流域の婦中町付近に限られるのは、特有の地形により中流域のみが神通川の水を多く摂取しているせいだと説明した。
 この鉱毒説により、萩野が名前を出さずとも、聴衆はその出所が神岡鉱業所であることを理解していた。だがこのことは同時に神岡鉱業所−それを経営する日本屈指の大財閥である三井を相手にすることを意味していた。

 結論から云うとこの時の萩野の発表は周囲に支持されなかった。
 前述した様に神通川の水質検査で異常は見られず、萩野の発表は「何の根拠もない仮説」として学会で非難された。また亜鉛、鉛、砒素が起こす慢性中毒症状は既に知られており、それらがイタイイタイ病を引き起こすとは考えられなかった。
 結局科学的裏付けなきゆえに萩野の鉱毒説は医学界から完全に無視され、ある学者は学会誌にて萩野の鉱毒説は何の根拠もないと反論した。
 確かにこのときの萩野の発表は何の証拠もない憶測に過ぎなかった。そんな状態で(名前は出さずとも)神岡鉱業所を犯人として公然と名指しにしたも同然で、大企業を敵に回した萩野は周囲から中傷を浴び、黙殺され、非難、攻撃の嵐に曝された。証拠が無かったばかりに………。

 そんな中、昭和三三(1958)年、東京大学教授の吉田正美が萩野病院を訪ねてきた。
 吉田は萩野の鉱毒説に深い関心を示しており、神岡鉱山の実情を知らなければ学問的裏付けが出来ないと萩野に説き、二人して神岡鉱業所を視察に行くことになった。
 鉱業所でも東大教授の名刺を受け取るや、職員は丁寧に案内してくれた(肩書って、強いのね………)。その地で、萩野は神岡鉱業所周囲の山に緑の樹木が一本もないのを見て驚き、神通川が死の川とすれば、神岡鉱山は死の山であることを知った。

 古い歴史を持つ神岡鉱山は明治時代になって三井組(現・三井金属鉱業)に買収され、日露戦争時に軍の需要増大を受け、大正時代には更に需要が増し増産されていた。
 同鉱山ではドリルで穴をあけた岩にダイナマイトをつめ爆破する採掘法を取っていた。砕かれた鉱石は粉末状にされ、水を加え泥状にして、鉛、亜鉛を精製していたのだが、残った堆積物は水とともにダムに流して沈下させ、その上澄みを川に流していた。
 このダム方式といわれる採取法はかつて神通川の氾濫で鉱毒により農作被害を受けた際に造られたもので、鉱毒被害を防止するために通産省が認定した方法であった。このダムが出来るまでは排水はそのまま川に流されていた。
 これ等の作業行程を目の当たりにした萩野と吉田はイタイイタイ病の鉱毒説を確信した。

 だがそれでもまだ状況証拠に過ぎず、萩野の研究は行き詰まり、失意の日々を過ごしていた。イタイイタイ病萩野の名前が有名になったことで多くの研究者が萩野病院を訪ね研究の手助けを申し出たが、結局は話を聞くだけで協力する者はいなかった。

 その一方で、他の分野から意外な協力者が現れた。
 それは農学・経済学者で、金沢経済大学学長だった吉岡金市で、たまたま黒部川水系の冷水害の調査のために富山県に来ていた折に、ついでに神通川の冷水害を調べようと婦中町を訪ねたのが両者の邂逅だった。
 婦中町の稲の根を見た吉岡は鉱害であると即座に断定。「これだけひどい農業鉱害があれば、環境を同じにする人間にも影響がある筈だ。」と云った吉岡の言葉を聞いて町議員の青山源吾がイタイイタイ病のことを吉岡に詳しく話した。
 その青山は祖母と母をイタイイタイ病で亡くしていた。

 話を聞いた吉岡はイタイイタイ病も鉱毒が原因と直感し、電話で萩野に面会を求めてきた。度重なる批難と中傷を受けて疲れ果てていた萩野はいつもの冷やかしの訪問と考え面会を断った。
 だが吉岡は萩野病院を訪ね、「五分間でいいから院長に会わせてくれ。」と玄関で粘り、萩野は根負けして渋々吉岡に面会した。だが話している内に、二人の考えが完全に一致した。
 農作物と人間の違いはあるものの、初めて鉱毒説の力強い味方を萩野は得たのだった。
 吉岡はイタイイタイ病患者の家をスポットした地図に神通川からの農業用水を書き入れ、神通川を利用した農業用水の使用地区でのみで患者が発生していることを確認し、鉱害により被害を受けた農作物の分布と比較するという科学的データを作り上げた。そして患者の発生地域と農作物の被害地域が一致することを示した。
 また地元役場で死亡診断書を調査し、患者の発生数増加と神岡鉱山の生産量が比例関係にあることを確かめた。これらの調査は萩野の研究を最後まで支えることになった。

 昭和三四(1959)年、更に力強い味方が現れた。岡山大学教授の小林純から「神通川の水質を調べたい。」と依頼の手紙が突然届いたのである。
 小林はかつて農林省農事試験場技師として昭和一七(1943)年に婦中町の稲作被害の調査を命じられ、「これは冷害による被害ではなく、上流の神岡鉱山から流れた亜鉛、鉛などによる鉱毒である。」と農林省に報告したことがあった。
 だが、この報告書は戦時中のごたごたで曖昧に処理され、農民には補償金は出されなかった。その後、小林は岡山大学の教授となり、河川の水質検査の専門家となっていた。そしてスペクトログラフという最新の機器を岡山大学の研究所に備えたばかりであった。

 小林は「科学読売」に報道された「日本に例をみない奇病、イタイイタイ病の記事を読み、かつての神岡鉱山の鉱毒を思い出した。
 そして何らかの手掛かりが掴めると思った。かつて農林省に出した自分の鉱毒報告にしても、余りに農作物の被害がひどいことから、「亜鉛、鉛以外の何かがある。」と考えていた。それゆえ小林は神通川流域の奇病に関心を抱き、採水用のビンを手紙にそえて、萩野に神通川の水を調べたいので採取して欲しいと郵送してきたのだった。

 萩野は神通川の水と患者の家の井戸水をプラスチックのビンに詰め、小林の元に送った。それまで各地の大学で問題なしと分析されていた神通川の水であったが、小林のスペクトル分析によって「神通川の河水から、亜鉛、鉛、砒素、カドミウムが多量に検出された。」という驚きの報告が返って来た。
 ここで初めて「カドミウム」の名前が出て来たのである。既に亜鉛、鉛、砒素の慢性中毒がイタイイタイ病の症状と異なることは分かっていたので、小林からの手紙にはカドミウムが最も怪しい物質である、と書かれていた。

 当時、カドミウム汚染について書かれた文献は日本にはなく、その名前を記載した医学書もなかった。当然人体への影響分からなかった。そのカドミウムは亜鉛の鉱石に副産物として必ず含まれる物質で、神岡鉱業所は亜鉛製錬の際に生まれるカドミウムを神通川に流していたのだった。

 萩野は金沢大学、富山大学の図書館でカドミウム中毒の文献を探したが見つからなかった。だがその間に、吉岡がドイツの医学雑誌「中毒の治療と臨床」に、僅かに慢性カドミウム中毒の記載があるのを見つけてくれた。
 その論文はカドミウム電池工場で働く六人の労働者がカドミウム中毒によって歩行が出来なくなり、レントゲンでは骨に横断状のひびが見られたというもので、その症状は正にイタイイタイ病の中期症状そのものであった!
 更にドイツの医学雑誌を調べると、「カドミウム中毒は潜伏期が二年であり、三年から四年後に神経痛様の痛みと貧血を生じ、八年後には明らかな骨軟化症の症状を示し、レントゲン所見では骨に亀裂が入り、患者は衰弱してアヒルのように尻を振って歩く………。」とあり、イタイイタイ病の初期から中期の症状と酷似することに萩野は飛び上るほど驚いた。

 残念ながらこれらの書にイタイイタイ病の末期症状である多発性の骨折の記載はなかった。これはカドミウムの摂取量の違いによるものだった。日本人は白米を食べるが、欧米人は食べなかったからである。
 ともあれ、萩野はこの論文と、小林によるスペクトル分析とでイタイイタイ病の原因として重金属カドミウムにあることを確信し、イタイイタイ病の解明に大きな前進がもたらされた。

 小林によって神通川の水がカドミウムに汚染されていることが証明された。しかしカドミウムがイタイイタイ病の原因であるかどうかは、患者に含まれるカドミウムの分析が必要で、残念ながら小林は生体内に含まれる重金属の分析法を知らなかった。
 そこで小林は人体に含まれる重金属の定量分析の方法を習得するため、昭和三六(1961)年五月からテネシー大学のティプトン女史のもとに留学することになった。
 またカドミウム研究で知られているシュレーダー教授を訪ね、カドミウムに関する多くの資料と分析法を学んだ。

 小林は三ヶ月間、アメリカで分析技術を学んで帰国。真っ先に萩野病院に保管されているイタイイタイ病患者の臓器の分析に取り掛かった。これにより亡くなった患者の各臓器から高濃度のカドミウムが検出された。
 結果、患者の臓器に含まれていたカドミウムは常人の一〇〇〇倍!イタイイタイ病発症地区の白米からは他の地区の数十倍のカドミウム濃度!稲の根からは数百倍!土壌からも数十倍のカドミウムが検出された!
 更には神通川の鮒、鮎からも大量のカドミウムが検出され、婦中町がカドミウムに高度に汚染されていたことに疑いの余地は完全になくなった。

 神通川の川水を下流から上流に沿ってカドミウム濃度を調べてゆくと、上流に行くほどカドミウムの濃度が高くなり、神岡鉱業所付近の川水のカドミウム濃度が異常に高い数値を示していた。
 当時、神岡鉱業所は軍の蓄電池用の亜鉛を生産しており、その過程で生じたカドミウムを廃液として捨てていた。廃液中のカドミウムが二〇年〜三〇年間の長期間に渡り川や土地を汚染し、飲料水、川魚、米に混入して、カドミウムが体内に蓄積してイタイイタイ病を引き起こしたのであった。カドミウムは骨のカルシウムを追い出して骨を脆くしたのだった。

 同年五月一三日、萩野と小林は富山県知事・吉田実と会見し、これまでの研究経過を説明し、イタイイタイ病は三井金属神岡鉱業所の廃水が原因であると報告した。
 報告に驚いた吉田は県庁幹部二〇人を集め、小林、萩野から詳しい分析報告の説明を聞いた。この会合は秘密の内に行われている筈だったが、密かに入室していた富山新聞の記者が、その内容を翌日の社会面のトップ記事にした。

 新聞の見出しは「イタイイタイ病の原因は鉱毒。患者の骨からカドミウムが検出、岡山大学小林教授が発表」、「亜鉛、鉛、カドミウム、神通川に多量に含まれる」、「白米にもカドミウムが含有されている」で、その日以来、多くの新聞記者が萩野を取り囲むようになり、同時にカドミウムという重金属の名前が初めてマスコミに取り上げられたのであった。

 同年六月二四日、萩野は札幌市で開催された第三四回整形外科学会でそれまでのデータを吉岡との連名で発表。会場には整形外科医・マスコミ関係者が多数押し掛けていた。
 だが、この学会は萩野達にとって、決して勝利宣言の場ではなく、むしろ新たな中傷・悪意との戦場と化していた……。
 学会では悪意に満ちた質問が相継いだ。「何故中年女性に多いのか?」、「骨以外の臓器障害が少ないのは何故か?」、「動物実験をしていないのにカドミウムが原因と云えるのか?」、等々。これらに萩野は一つ一つ丁寧に、且つ正確に答えていった。
 にもかかわらず萩野は難癖に近い非難を浴びせられた。「データそのものが間違い」、「田舎の開業医の売名行為」、「神岡鉱業所から金を取る為の行為」と邪推された(怒)。
 根底には「学者でもない田舎の開業医に何が分かる。」という先入観があり、高名な学者達の殆どが萩野の研究を非難した。それは学者として萩野の研究に嫉妬する気持ち以外の何物でもなく、ある週刊誌に至っては、「萩野昇は学者でない、科学的証明が何一つなされていない。」と高名な学者が非難文を寄稿した程だった。
 この流れに神岡鉱業所は当然の様に「萩野学説は実証のない独り善がりの考え。」と反論した。

 さしもの萩野もこれには愕然とした。
 正確で科学的データに基づいているカドミウム説が何故非難されるのか分からず、その後も学会は萩野への非難、中傷を浴びせた。
 イタイイタイ病がカドミウムによって腎障害をきたす骨軟化症の一種であるとの医学的な診察基準も確立していたが、天下の三井財閥を背後に持つ神岡鉱業所の肩を持つ医師が多く、岐阜大学と金沢大学医学部の高名な教授がイタイイタイ病との関連性を否定し、産業医学の権威者は萩野の研究に難癖をつけた。
 中にはネズミにカドミウムを投与する動物実験ではイタイイタイ病の発現はなかったと断言する医師までいた。完全な財閥迎合萩野は学会で四面楚歌となった(怒)。

 追い打ちをかける様に、被害発生地である筈の富山県も萩野の鉱毒説に否定的態度をとった。
 その背景には富山県が考えていた産業活性化の為の工場誘致が有り、企業側に都合の悪い鉱毒説を否定したかったからであった。
 イタイイタイ病の原因を神岡鉱山とする科学的根拠が示されたにもかかわらず、富山県は三井財閥を正面から批判することを避けた。つまり県は、病人よりも企業誘致を優先させ、県内に潜行しているイタイイタイ病を歴史の闇に葬らんとした。大の虫を生かす為に少の虫を殺そうとしたのである。当時の県政責任者、出て来いやぁ!!!!!!!

 いかん、いかん、つい興奮してしまった…………だが、腹立たしい展開はこれでも終わらなかった。追い打ちをかける様に、萩野が親身になった農民達まで背を向けた(怒)。
 彼等は農作物の売れ上げが落ちることから萩野の悪口を云った(←自分達の作物が売れるのなら、毒入りを売ってもいいんかい?!)。またイタイイタイ病が神通川流域の奇病として知られることで農村に嫁が来なくなることを彼らは恐れた。
 このため萩野は「地元のイメージを悪くした。」として批判され、「萩野病院へゆくとイタイイタイ病と診断される」との噂が立てられ、萩野病院の患者の数が激減した。
 病院には嫌がらせの電話が鳴りっ放しとなり、「病院を爆破する」、「地元にいられないようにする」といった脅しの電話や手紙(←はっきり云って犯罪行為である!)が、萩野だけでなく病院職員にも相次いで舞い込み、卑劣な中傷や脅しによって、身の危険を感じた職員たちは萩野病院を去っていった。

 萩野は四面楚歌の状況に対して理解に苦しんだ。勿論彼は心から患者のことを想い、それを救わんとの善意で私心なく取り組んで来たのである。
 だが学会も、行政も、企業の論理に操られた周辺住民も、当然犯人とされた三井財閥(←実際犯人だった訳だが)も萩野を責め、萩野は絶望の淵に立たされた。

 同年一二月、富山県地方特殊病対策委員会が作られ、富山県はイタイイタイ病の原因究明に乗り出したが、一五人で編成された委員の中にイタイイタイ病に最も詳しい筈の萩野と小林の名前はなかった。
 県の云い分は、「この人選はイタイイタイ病の原因について偏見を排除するため、自説を持たない学者によって研究を進めたい為。」と云うものだったが、一五人の委員達は富山県医師会長を除いて萩野の鉱毒説に反対を唱える学者が殆どだった。
 そんな有様だから、同委員会が行ったことは、患者名簿を作り、日照時間、栄養摂取状況などの調査で、端から過去の栄養説を補強するためのものでしかなかった。
 更に金沢大学でも、カドミウム説に反対を唱える学長を中心に「イタイイタイ病研究班」が作られ(当然そこにも萩野は選ばれなかった)、萩野のカドミウム説に反対の立場を取った学者は富山県当局に取り込まれ、三井財閥に不利な発言をしなかった。
 そしてある一流月刊誌はカドミウム無害説を連載し、萩野の鉱害説を否定、彼の研究だけでなく人格まで非難した。

 すっかり打ちひしがれた萩野は次第に酒に溺れ、自堕落な生活に陥った(←無理も無い………)。ひどいことにマスコミは萩野の自暴自棄の生活を面白おかしく報道。これで心身を病まない方が異常で、いつしか萩野は肝臓病、糖尿病、中心性網膜炎という病魔に冒されていた。
 いい加減、キーを打つのが辛くなるが、その後も萩野の不幸は続いた……。
 昭和三七(1962)年一〇月、萩野の妻・茂子が他界した。病弱で、一四年前に長男・茂継を出産して以来結核を患い、病弱な身体で家事をこなし、子供を育て、病院経営も手伝い、診療と研究ばかりの萩野の生活を支えていた茂子は、結核に加えバセドウ氏病を患い、そのアイソトープ治療の副作用に苦しみ死んでいった。
 これには萩野は激しく後悔した。茂子は研究に多忙だった夫を気遣って自分の病状を喋らず、医師でありながら萩野は茂子の看病をあまりしてやれなかった。 もう本当に嫌になるが、マスコミはこのことまで萩野を攻撃した。茂子の病死を萩野へ下された天罰であるように報道したのである!(←まさにマスゴミだ………)
 ために、茂子の死を自殺だったとする噂まで流された。萩野イタイイタイ病の研究に打ち込んで、茂子の看病を疎かにしてしまったことを後悔していた。


 だが、萩野昇という漢(おとこ)はこれでだらしなく潰れる漢ではなかった。

 悲しみのどん底の中で茂子を想いながら、萩野は酒を止め、コーヒー・茶も断ち、趣味だったゴルフも止め、すべてをイタイイタイ病の究明に尽くすことを決意して生活を一変させた。
 何もしてやれなかった妻のためにも、イタイイタイ病解決に費やした日々を無駄にする訳にはいかなくなったのであった。
 一介の開業医の力に限界を感じていた萩野だったが、「自分の命がある限り、呼吸をしている限り、最後の血液の一滴を燃え尽くしてでも、真実を証明する!」と云うことを茂子の霊に誓ったのであった。

 だが、ここでようやく捨てるかに対して拾う神が海外から現れた。
 日本整形外科学会で発表した萩野のデータがアメリカで認められ、アメリカ国立保健研究機構(NIH)から一〇〇〇万円の研究費が送られてきた。日本の学会で白眼視された研究をアメリカが認め、萩野は、アメリカは自由の国、学問の国、偏見のない平等な国であると喜んだ。そしてアメリカが認めたことで、萩野のカドミウム説は本当かも知れない、と周囲も次第に認めるようになったのだった。しかし、良い方に転んだから良いようなものの、政治だけじゃなく、学問まで日本はアメリカにとことん弱いのかよ………アメリカという国に悪意はないが、ここまで一方的に弱いのは情けな過ぎる‥‥……。

 意外な形で資金を得た萩野は動物小屋を作り動物実験を再開。神岡鉱山の廃水を集め、ウサギに投与する実験を行った。実験は失敗を繰り返したが萩野は挫けなかった。元より、慢性疾患を動物実験で成功させるには長い時間と根気が必要だったのを知っており、息子の手伝いもあって実験は次第に成功に近づいていった。

 また過去に協力してくれた岡山大学教授の小林純の実験室でも、ネズミを用いた実験が平行して行われて、カドミウムを混ぜた餌を与えたネズミでは、食べた以上のカルシウムが尿から排出され、骨が薄くなることが証明された。
 実験は成功し、一年間でネズミの骨の三〇%以上が溶け出し、二二五匹のネズミがイタイイタイ病と同じ症状を示した。
 この実験結果は昭和四二(1967)年の日本医学会総会で発表された。動物実験に成功は萩野・小林の学説を証明する強い論拠となり、ここに至って学会も地元住民達も萩野を認めるようになった(←ちゃんとそれまでのことを謝罪したのだろうな?)。

 調子の良い事に、カドミウム説を否定するために作られ「富山県地方特殊病対策委員会や金沢大学イタイイタイ病研究班も、萩野のカドミウム説を次々に支持する実験結果を示した。
 ともあれ、萩野への迫害は賞賛に転じた。

 同時に小林は「イタイイタイ病の原因がカドミウムであれば、日本の他の亜鉛鉱山の河川にも同じイタイイタイ病患者がいてもおかしくはない。」と考えた。
 小林は日本中の川水の分析を行っていたので、可能性のある鉱山を知っており、昭和三九(1964)年九月、萩野と小林は、最も可能性が高いと見ていた長崎県対馬にある東邦亜鉛対州鉱業所に調査に出かけた。
 三週間に渡る診察と調査から、その地区にもイタイイタイ病患者一人、死亡者二人、疑わしい患者数人を発見した。全身に疼痛を訴える患者は四二人で、半数の二一人から尿蛋白を検出、水田の土壌や井戸水からも高濃度のカドミウムを検出した。
 不幸中の幸いと云っていいのか、対馬は稲作に向かない地勢で水田が少なく、亜鉛工場の規模が小さかったことから婦中町よりは被害が小さかった(←勿論、罹患した方々や亡くなった方々やその身内が悲惨なのは婦中と同様である)。
 いずれにせよ対馬の調査はイタイイタイ病のカドミウム説を裏付ける証拠のひとつとなった。

 昭和四一(1966)年一〇月六日、萩野は富山県社会保障推進協議会から、イタイイタイ病に関する講演を依頼された。これを皮切りに富山県各地で講演が頻回に行われ、富山県民はイタイイタイ病の悲惨な現状と、萩野の学説の正しさを知り、それに比例して三井財閥が経営する神岡鉱山に対する県民の怒りが高まっていった。

 同年一一月、それまで萩野を中傷していた婦中町の中から、一人の青年が立ち上がった。
 小松義久というその青年は祖母と母をイタイイタイ病で亡くしており、近所に何人もの患者が苦しんでいるのを長年目撃していた。また農家で育った小松は農作物に被害をもたらした神岡鉱山の鉱毒被害を知っており、萩野の鉱毒説発表当初から祖母、母も同じ鉱毒で死亡したと信じていた。
 小松は神岡鉱業所に責任を取らせる被害者の会・イタイイタイ病対策協議会を結成。イタイイタイ病を引き起こした神岡鉱業所の責任を裁判に訴え、謝罪を求めることを誓い合った。
 小松は農家を一軒一軒回り、イタイイタイ病対策協議会への入会を勧めた。それまで萩野に批判的だった婦中町も神岡鉱業所のカドミウム説を信じるようになった。三井財閥という巨大な陰を住民は恐れていたが、イタイイタイ病をもたらした神岡鉱業所を許すわけにはいかなかった。
 これまで大企業である三井金属が相手では裁判で勝てる筈がないとの諦観の強かった婦中町の住民達だったが、小松はイタイイタイ病被害者の会の組織づくりに奔走し、住民大会を開き、業病の汚名を雪ぐべく団結した。
 イタイイタイ病被害者の会は富山県に協力を求めたが、県は「婦中米の不買運動が起きる」との理由で協力出来ないと回答した(呆)。
 そこで小松は次に神岡鉱業所との直接交渉を行った。
 イタイイタイ病被害者の会の三〇人は神岡鉱業所に出かけ責任者に面会を求めたが、警察による身元確認がなされ長時間待たされた上、「三井を犯人扱いしているようだが、そのような科学的根拠はない。」というのが返事であった。

 だがついに政治家からもイタイイタイ病に動く者が現れた。参議院議員・矢追秀彦だった。昭和四二(1967)年五月二五日、矢追は萩野病院を訪ね、イタイイタイ病患者の悲惨な様子を見て涙を流した。
 矢追はこのような悲惨な公害に何の手も打たず、追求もしなかった政治家としての責任を「申し訳ない」と詫び、頭を下げた。また涙を流しながら、「こんなことが許される筈はありません。政治家としてイタイイタイ病を国会で取り上げる。」と約束し、実際に尽力した。

 昭和四二(1967)年一二月六日、イタイイタイ病の患者代表・小松みよ等三名が、全身の激痛を押し、死を覚悟の上で上京した。目的は厚生大臣・園田直(そのだすなお)、通産大臣・椎名悦三郎の両名に病気の実情、悲惨さを訴える為で、矢追の紹介を受けてのものだった(←余談だが、園田は現職の厚生大臣として初めて水俣市を訪れた人物でもあった)。
 患者達は様々な想いや痛みから涙がこみ上げるばかりで一言も言葉を発することが出来なかったが、TVの前の国民には確実に伝わった
 そしてその九日後の一二月一五日、萩野昇は参議院産業公害特別委員会に参考人として証言を求められた。

 席上で萩野は、
 「私は単なる田舎の開業医でございます。何の力もございません。神岡鉱山のような日本の基幹産業を相手に戦おうというような気持ちは微塵もごさいません。
 ただ、一人の医師として患者が可哀相なばかりに、この病気の研究を積み重ねてきただけでございます。「痛い、痛い、先生なんとかして下さい。」と泣き叫びながら死んでいった中年の農婦達、全身の激痛のため診察も出来ない老女の絶叫、主婦が寝込んだために起きた様々な家庭の悲劇……あの人達に何の罪があるのでしょう?何があの人達を地獄の苦しみに追い込んだのか……。
 私はただ患者が気の毒だと思います。私はただ患者を助けるのが医師の宿命として、純粋な立場で、謙虚な気持ちで研究を積み重ねただけです。」

 と切々と説いた。

 一八〇センチ、一〇五キロの巨体を振るわせ、涙ながらに語る萩野を前に会場は静まりかえっていた………。

 翌昭和四三(1968)年五月八日、園田は萩野の主張をそのまま受け入れ、厚生省の見解が発表された。

 内容は、
 イタイイタイ病の本態はカドミウムの慢性中毒により腎臓障害を生じ、次いで、骨軟化症を来たし、これに妊娠、授乳、内分泌の変調、老化及び栄養としてのカルシウムなどの不足が原因となってイタイイタイ病という疾患を形成したものである。
 慢性中毒の原因物質として、患者発症地を汚染しているカドミウムについては、神通川上流の三井金属鉱業株式会社神岡鉱業所の事業活動に伴って排出されたもの以外には見当たらない。」

 というもので、日本史上、公害が初めて政府によって言及されたものだった。
 同時にこれは、イタイイタイ病を三井金属神岡鉱業所のカドミウム汚染が原因と正式に認めたので、厚生省の見解が裁判で争われた場合には、受けて立つとの見解も公表された。
 これによってイタイイタイ病は日本で初めての公害病の認定となった。萩野が鉱毒説を唱えてから実に一一年が経過してのことだった。

 患者達は涙を流して園田の正式見解を迎え入れた。
 患者のみならず、日本という国にとっても重大なターニング・ポイントとなった。この日、初めての公害病公式認定とともに企業責任が言及されたことで、大衆を犠牲にして産業を育成させようとする戦後政治の誤りが明白にされ、まだまだ不完全ながら日本の環境が改善される第一歩ともなったのであった。
 同時に、これにおいて萩野昇の名誉も完全に回復された

 この間、日本では辛酸を舐めた萩野の学説だったが、前述のアメリカからの協力を初め、世界ではいち早く高い評価を受けていた。
 イタイイタイ病は英語では同意の「pain disease」、ドイツ語でも同意の「 Verver Krankheit」と呼ばれていたが、後に萩野の命名に因んで、英語でも「itai-itai disease」、ドイツ語でも「Itai-itai Krankheit」と改められた。
 世界保健機構(WHO)を初めとする国際機関や国際学会でもカドミウムをイタイイタイ病の原因であると公式に結論づけ、国内でも萩野は日本医師会最高優功賞、厚生大臣感謝状、朝日賞(社会奉仕賞)等を次々に受けることになった。

 政府がイタイイタイ病を神岡鉱業所が排出した公害と認定すると戦いの場は法廷に移った。
 第一次裁判にて患者・遺族二三人が三井金属鉱業を相手に総額六二〇〇万円の損害請求額を求めて争われ、彼等を全国から手弁当で集まった二〇人の弁護士が支えた。
 ただでさえ裁判には多額の費用(訴訟請求額にもよるが、印紙代だけで数十万円かかったらしい)が掛かるが、全国三〇〇人の弁護士から三〇〇万円のカンパが集まった。
 同時に婦中町議会は「イタイイタイ病訴訟支援」を決議し、全員一致で町費から一〇〇万円の援助金を寄付することになり、周辺の町からも援助金が集まった。
 ところが「イタイイタイ病は鉱害ではない。」と主張していたことに片意地を張ったものか、肝心の富山県が患者達に背を向け続けた

 県は患者に協力しないどころか、「市町村が一方的に裁判を応援するのは地方自治法違反である。」という馬鹿げたコメントを出した!(怒)
 これに対し婦中町は、イタイイタイ病の医療費は町で負担している。もし原告が負ければ婦中町には膨大な被害を受けることになる。イタイイタイ病は個人の問題ではなく町全体の問題であり、もし県が市町村を非難するならば、特定企業を応援する富山県こそ地方自治法違反である。」と反論した。
 そして婦中町の議員全員がマイクロバスに乗り富山県の市町村を廻り、富山県内三五の市町村の内、三二の市町村から支援を得た。

 そして国も住民のために立ち上がり、原告に代わり訴訟費用の一部を負担した。
 だが、この展開に難色を示した地方自治体もあった。神岡鉱業所のある神岡町だった。町にとって神岡鉱山は税収入の七割を納める重要な企業で、神岡鉱山が倒産することにでもなれば町にとっての死活問題だった。
 神岡町長は「神岡鉱山を守る会」を結成して抵抗しようとしたが、そう考えたのは政治家だけで(笑)、町長の掛け声に神岡町民は協力しなかった。
 神岡町の町民達は、一歩間違えば自分たちが犠牲者になっていたこと、さらに神岡鉱業所の横暴な態度を見て協力しなかった。町民達はイタイイタイ病の原告や弁護士が鉱山を調べに神岡町へやってくる度に、温かく迎え入れ、道案内や宿泊の手配などを手伝った。

 神岡鉱業所側では長期裁判に持ち込むことで原告側の疲労と諦めを期待していたが、裁判の過程では次々に原告に有利な証言が飛び出した。

吉岡金市の証言
 イタイイタイ病発生地区の杉の木を切って年輪を調べると、大正末期から昭和一八(1943)年頃まで年輪の幅が非常に狭くなっていて、殆ど成長していない。それ以降は徐々に成長して昭和二〇(1945)年以降は回復している。この杉の生長が止まった時期は神岡鉱山がさかんにカドミウムを流していた時期と一致すること、更にイタイイタイ病が発生していない他の地区の杉の年輪はそのような変化は見られない。

神岡鉱山元従業員の証言
 神岡鉱業所は人体に影響を及ぼす程大量のカドミウムを流したことはないと主張しているが、亜鉛は潜水艦の蓄電池に使うため、太平洋戦争中は増産に次ぐ増産だった。そのため鉱滓(亜鉛抽出後のかす)は貯まる一方で、捨て場がないため川に流していた。

 そして昭和四六(1971)年六月三〇日一〇時八分、富山地方裁判所の周囲に全国各地の公害被害地から駆けつけた住民代表や支援団体、新聞記者などの報道陣が集まり、見守る中、裁判所三階の窓から「勝利」のたれ幕が下がった。
 富山地方裁判所裁判長・岡村利男は、
イタイイタイ病の原因は神岡鉱業所が排出したカドミウムであり、被告は速やかに六億七六〇〇万円の賠償金を原告へ支払え。」
 との判決を下していた。
 裁判は住民側の全面勝訴となり、周囲にいた五〇〇人を超す支援者達は万歳を繰り返した。

 裁判にて神岡鉱業所は「カドミウムがイタイイタイ病を引き起こす科学的根拠が不明であり、もしカドミウムがイタイイタイ病の原因だとしても、神岡鉱業所がどれだけ関与していたのかが不明である」と主張していて、判決を不服として即日控訴したが、昭和四七(1972)年八月九日の名古屋高裁金沢支部での裁判でも敗訴した。
 しかも、賠償命令額は倍に増額された、「ざまあ見ろ。」と云いたくなる敗訴で(笑)、事ここに至って神岡鉱業所は上告を断念。ここに住民側の全面勝利が決定した。
 第一次から第七次までのイタイイタイ病訴訟の原告者数は 五一五人で、三井金属は総額一四億円を支払い和解することになった。

 具体的な内容交渉の為、イタイイタイ病被害者と支援者二〇〇人はバスに分乗して三井金属鉱業本社に向かった。三井金属鉱業との一一時間の交渉の結果、以下の三つの誓約書に三井金属鉱業は署名した。

一、イタイイタイ病の原因が神岡鉱山からのカドミウムであることを認め、今後争わないこと。
二、イタイイタイ病発生地の過去将来の農業被害を補償し、土壌汚染復元費を全額負担すること。
三、今後公害を発生させないことを確約し、被害者、被害者が指定する専門家の立ち入り調査に応じ、要求される公害関係の資料を提供し、これらに必要な費用はすべて負担すること。

 正に被害者側の全面勝利で、日本の多くの公害訴訟の中で初のものでもあった。
 勿論、日本の公害史への影響は大きく、熊本県の水俣病、四日市市の四日市ぜんそくといった公害病裁判における患者側勝訴に影響したであろうことは想像に難くない。
 国も「企業優先から環境優先」の政策に転換し、企業倫理も大きく変わることになった。

 その後、時は流れ、平成二(1990)年六月二六日、萩野は胆嚢癌にともなう敗血症のため富山市民病院でこの世を去った。萩野昇享年七四歳。
 イタイイタイ病の研究と治療に半生を捧げた田舎の開業医は反骨人生を安らかに終わらせ、彼の偉業により神通川は「毒の通る川」から再び「神の通る川」となり、奇病、業病の町との偏見から解放された婦中町の人々は白眼視の逆境の中で研究を進め、患者のために真実を明らかにした勇気ある医師を「富山のシュヴァイツァー」と呼んで今も尊敬している。 恐らくその敬意が消えることはないだろう。

 患者勝訴から四〇余年、萩野に協力し続けた方々も次々と鬼籍に入った。
 農学博士・吉岡金市は萩野の逝去から五ヶ月後の平成二(1990)年一一月死去。
萩野と共にイタイイタイ病の原因を突き止めた小林純は平成一三(2001)年七月二日、虚血性心疾患により享年九一歳で逝去。 奇しくもその三日前に鉱脈の枯渇により神岡鉱業所は亜鉛・鉛鉱石の採掘を中止し、その長い歴史を閉じていた。
 もはや鉱業によって神通川が汚されることはなくなったのであった。
 そして政治家として初めてイタイイタイ病を国会で言及した矢追秀彦は平成二一(2009)年一二月一二日に心不全により享年七六歳で逝去した。


薩摩守所感 その病気に罹ったこともない者が「病気の苦しみが分かる。」と云っても嘘になってしまう(正確には「分かりきれない筈」と云うべきか)。くしゃみや脈取りだけで骨折してしまう程に全身の骨が脆くなったことに伴う苦しみは想像しようにも想像し得ず、しかしながらその恐ろしさを想像すると背筋が寒くなる。
 私事だが、道場主は腕を骨折したことがあるので骨折の痛みは分かる。それが頻繁に全身に起きるとなると………正直想像したくない。

 また、道場主の父はALS(筋萎縮性側索硬化症)でこの世を去った。この病気は全身の筋肉が重篤に委縮してしまう病で、最後には呼吸筋麻痺で命を落とすのだが、内臓や脳が全く冒されない故に意識がはっきりしているがゆえに体の衰えを嫌というほど痛感させられる。イタイイタイ病もまた脳が侵されず、意識がはっきりしたままが故に地獄の苦しみを死ぬまで感じることとなる………よくもまあこんなひどい病が生まれたものだ、と思わずにいられない……………。
 同時に、萩野昇博士が受けた仕打ちもまた患者やその身内の方々が受けたものに勝るとも劣らないものがあり、文を綴る途中において何度も「ひでぇ世の中………。」とぼやかずにいられなかった」。

 イタイイタイ病の歴史が刻んだ悲惨さは何度も繰り返したくないのでここでは書かないが、ただただ、悲惨な歴史を通して企業優先の社会風潮が改められたり、絶大な財力と権力を有した財閥系大企業の思い上がりが挫かれたり、企業理念が是正されたりしたことで犠牲になられた方々の霊が慰められることが願われてならない。

 また個人的にはイタイイタイ病の歴史を追うことは「捨てる神あれば拾う神あり」という言葉を感じる作業でもあった。
 萩野がブライドに囚われた学界や、大企業からの税収に期待する富山県や、心無いマスゴミに中傷される中、国際社会が味方したり、医学者ならぬ農学者の小林純や吉岡金市が助力を申し出たり、富山とは何の縁もゆかりもない矢追秀彦が立ち上がったり、と心の底から困っている人々の為に戦う人物を神仏が見放したままにしないことも実感した。

 元より、これほどの重大な公害病の解決に尽力した人物が萩野だけな訳はないことは先刻承知だったが、萩野を調べる過程において、それまで知らなかった吉岡・小林・矢追・園田直・椎名悦三郎といった人物の名と偉業を見ることが出来たのは嬉しい発見でもあった。

 繰り返すが、イタイイタイ病の悲惨な歴史がその後の日本社会を是正して来たことが犠牲者達の供養になっていると信じたい次第である。



患者を診察する萩野昇
萩野昇と小林純
国会でイタイイタイ病問題を訴える矢追秀彦



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令和三(2021)年六月一〇日 最終更新