本作は光栄社刊『爆笑三国志』のパクリです。

第肆頁 御家滅亡編

朝倉義景(あさくらよしかげ 天文二(1533)年九月二四日〜天正元(1573)年八月二〇日)
概略 越前の守護大名。「小京都」と呼ばれ?栄する越前文化を築きつつも、軍事的には浅井長政との同盟や、足利義昭提唱による対織田信長包囲網を綻びさせた者として、一般に「頼りない同盟者」と見られることが多い。
 自身も信長によって滅亡に追いやられ、それに際して身内・配下から相当数の裏切り者を生んだことで人望面での評価も低い。
 結果論で見れば評価が低くなるのも止むを得ないが、一時は多くの人々に頼られ、信長や加賀一向一揆と渡り合った朝倉義景の見るべき点を再注目したい。
弁護壱 でか過ぎる信長との絡み・比較
 朝倉義景に限らず、戦国時代後半の人物を観察する際、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の、所謂、三英傑との関連を全く排除するのはかなりの困難を伴うだろう。
 勿論三英傑はその知名度や事跡が明らかなことから、彼等に絡んだ史実は考察が容易という利点がある一方で、その知識が誤ったものや、偏ったものである場合、正像が歪みかねないと云う危険性もある。
 その点を鑑みると、信長と並行して観察される際の義景はかなり不利である。

 信長が足利義昭を奉じて上洛し、彼を第一五代征夷大将軍に据えることで天下布武の大きな足掛かりとしたのは今更云うに及ばずだが、義昭から信長より先に頼られながら、彼を奉じて上洛出来ず、好機を逸したことをもって義景を低く評価する者は多いことだろう。
 そしてその信長が自分を体よく利用しているに過ぎないと察知した義昭は諸大名に御内書を送って対信長包囲網を形成し、信長追討令が遠近に発送された訳だが、その中には当然義景もいた。

 周知の通り、義景は敗れ、滅亡した。そしてその過程も決してカッコの良いものではない。義昭と通じたことで信長の怒りを買うや、忽ち滅亡寸前に追い込まれた。幸いにして同盟者である近江の浅井長政が信長との姻戚より、祖父の代からの同盟を重視し、加勢してくれたおかげで滅亡を免れたが、その後姉川の戦いでは浅井軍が織田軍を圧倒していたのに自軍が寡兵であった徳川軍に敗れたことで浅井勢の優勢までふいにして大敗した。
 その後も周囲からの信長に対する出兵要請に対して言を左右にして動かず、対信長包囲網の一角である武田信玄が病死すると東の憂いを失くした信長から猛攻を受け、僅か一二日で滅亡した。

 「対信長」という観点で義景の生涯を見ると丸で良い所が無いように思われる。同様に信長に滅ぼされた浅井氏・武田氏はもう少し粘っている。こうなると信長と並行して描く分には、義景が凡将・愚将に描かれるのは避けようがない。
 武田勝頼、足利義昭、松永久秀、斎藤龍興、今川氏真等も個々に優れた面がありながら、「信長に滅ぼされた。」というフィルターを通したことで実情以上に白眼視されたり、長所がスルーされたりして来た。確かに義景はこと戦に関しては御世辞にも名将とは云い難く、対信長戦はカッコ悪い言動・判断ミス・戦下手が幾つも出て来る。
 戦以外に関する義景の長所は後述に譲るとして、まずは「信長の天下布武の過程で倒された。」というフィルターの影響は差っ引く必要があることを述べておきたい。
 何せ、一連の戦いの中で一時は信長も対信長包囲網に抗し得ないと判断し、元亀元(1570)に義昭の仲介で義景と和睦した際には、「天下は朝倉殿持ち給え。我は二度と望みなし」という起請文を出したと云われている。義景が一方的な弱者だったとは云えないだろう。


弁護弐 難敵・加賀一向一揆の存在
 永禄の変で殺された第一三代室町幕府征夷大将軍・足利義輝の弟・義秋(義昭)が頼ってきたのを、義景がこれに合力して上洛を果たさなかったのは、確かに結果論から云えば、「千載一遇の好機を逃した」との批判は逃れ得ない。しかし、これは結果論である。
 実際、信長がそうだったように義昭を奉じて上洛し、義昭を征夷大将軍として正統に復すれば、朝廷と幕府双方の覚えが目出度くなる。義昭は当初信長に相当感謝し、僅か三歳年上の信長を「御父」と呼び、信長が自分の元を辞するときは門前まで見送り、その姿が見えなくなるまで立って見送った。管領や副将軍に任命しようとしたのも有名である。
 そりゃ、何時までも義昭の下にいる気の無かった信長にして見れば、義昭の示した待遇が格段に嬉しかった訳でも無かったろうけれど、義昭が如何に感謝していたかは充分うかがえる。
 もし義景が信長に先んじて、義昭を奉じての上洛を行っていれば、この栄誉をそっくりそのまま得られた可能性が有った訳で、義昭が自分の元を脱して信長を頼ったのは痛恨の極みだっただろう。

 ただ、義景とて何も動きたくない訳では無かった。動けるものなら動きたかったことだろう。だが東西の事情がそれを許さなかった。
 西の若狭には若狭武田氏が朝倉と事を構えていた。若狭武田氏は甲斐や安芸の武田氏同様、清和源氏の流れを汲む名家で、越前守護である斯波氏の代理に過ぎない家柄だった朝倉家を見下し、両家は度々干戈を交え、義景は容易に越前を空に出来なかった。
 そして東に控えていたのは加賀一向一揆である。越中守護・富樫政親を自害に追い込み、越中を「百姓の持ちたる国」と云わしめた最強の一向一揆勢力で、その武力はあの上杉謙信でさえ手を焼いた。
 そんな一向宗徒は若狭武田氏以上の難敵で、義昭の越前滞在時のみならず、その後も義景が京の義昭や、浅井長政・武田信玄からの出兵要請に度々応じられなかった要因に一向宗徒に背後を突かれる恐れと、北陸の豪雪があったことを失念してはならないだろう。

 その点、背後に信頼出来る同盟者・徳川家康を控え、農繁期にも動ける常備軍を擁していた信長の先鋭性には今更ながら感心させられる。
 歴史の「if」を云い出せばキリがないが、せめて背後を一向一揆に脅かされていなければ、義景は喜んで義昭を奉じて上洛したのではあるまいか?
 同時に、後世「手紙魔」と揶揄された義昭は上洛への助力を義景・信長以外にも多くの大名に求めて書状を送りまくった。だが結果として応じたのは信長一人だった。隣国や、場合によっては国内の身内や国人衆との諍いも絶えないことの多い時代、義景に限らず多くの大名にとって上洛は容易な話では無かったのである。


弁護参 文政家としてはピカ一
 ある意味、旧作で「名誉挽回」した今川氏真や大内義隆に似ている。義景は確かに戦は得手ではなく、逆に政治・文芸には優れていた。
 その成果は越前・一乗谷の繁栄を目にした多くのものが証言している。義景は歌道・和歌・連歌・猿楽・作庭・絵画・茶道等を好み、中でも茶道にはかなり凝っていたようで、一乗谷からは現在も多くの茶器が出土している(当時としては高価且つ珍品だった海外製の物も多い)。
義景の死後だが、天正九(1581)年に越前にてキリスト教を布教せんとして当地にやってきたルイス・フロイスは、越前を「日本において最も高貴で主要な国の一つであり、五畿内よりも洗練された言語が完全な形で保たれていた」と記した。
少年期に家督を継いだ義景だったが、治世の前半は朝倉宗滴という信頼出来る身内にして名将の補佐を受け、その死後も深刻な政治情勢に巻き込まれることが無かった。
これにより越前は周辺諸国に比べて安定・平和・栄華を極め、当時の洛中の戦乱を避けて多くの公家・文人・僧侶が越前を訪れたが、彼等は義景の殿は聖人君子の道を行ない、国もよく治まっている。羨ましい限りである」と讃えている。
 戦乱の世に「小京都」と共云われた越前と越前文化を構築した手腕はもっと評価されて然るべきであろう。

また義景は外交にも力を入れていた。
浅井長政との蜜月ぶりは云うに及ばずだろう。他にも足利将軍家、越後上杉氏にも度々書状を出し、遠くは薩摩の島津氏、出羽の大宝寺氏、安東氏、常陸の土岐治英など、かなり広範囲にわたって外交を行っていた。
勿論ただ文通しただけでなく、島津義久や安東愛季等との友好関係を通じて貿易ルートも構築し、イベリア半島の鉛やイタリアのヴェネツィアで作られたガラス容器が一乗谷から出土している。
 そもそも永禄の変で兄・弟・母を殺され、自身も命が危うい中、足利義昭が越前を頼ったのも、かねてより義景が細川藤孝(幽斎)を初め、室町幕府の重臣達との関係を構築していればこそだった。義昭達にしても、頼るべき相手を間違えれば亡命したその場で殺されて三好義継の元に首を届けられるリスクもあった訳で、頼るべき亡命先の選択は慎重を要し、その選択肢の中に朝倉義景がいたのは決して故無き話では無かったのである。


弁護肆 同盟者の娘が讒言?
 「勝てば官軍」という物の考え方は好きではないのだが、歴史という物は概して勝者によって綴られるので、敗れた者が悪し様に云われるのはある意味避け様の無い話である。
 過去作で採り上げた今川氏真・武田勝頼・北条氏政等はその典型で、義景もまた同様のことが云えるだろう。ただ、世の中には例外という物がある。
 その例外とは、義景の同盟相手で運命を共にした浅井長政である。そしてこのことが逆に義景を実像以上に歪めている可能性があることに注意を要すると薩摩守は考える。

 織田信長との同盟を反故にし、結果信長に滅ぼされた長政は「信長公に反逆した者」として後世悪し様に云われる可能性が大きかった。だが、それに「待った。」を掛けた者達がいた。長政の娘達である。
 浅井家滅亡後、長政の娘達は敗将の娘でありながら、「信長公の姪」として一目も二目も置かれ、長姉・茶々(淀殿)は豊臣秀吉の側室となり、その息子・秀頼を産んだことで秀吉の寵愛と諸大名の敬意を得た。その豊臣の天下は徳川家の手で閉じられたが、茶々の末妹・お江が徳川秀忠の正室、後の将軍御台所となったことで彼女は天下人の妻にして、天下人の母となった。
 こうなると世の人々は浅井長政を良く云いこそすれ、悪く云う事は出来なかった。勿論娘達は父母への敬意を持ち続け、父・長政が如何に優れた武将であったかを語り続けた。
 すると、「何故そんな優れた武将が一朝に滅びたのか?」という疑問が世に流布し、そこに「同盟相手である朝倉義景が頼りにならなかったから。」という物の見方が生まれた。
 確かにこの論を「荒唐無稽な暴論」とは云い切れない。長政が姉川の戦いに敗れたり、対信長包囲網が綻びたりしたのには義景の判断ミスや力量不足によるところもあった。娘達にしてみれば、「義景殿がしっかりしていれば、父上は滅びず、弟が浅井家を継ぎ、母上や姉妹達とも幸せな日々が送れたのに……。」という想いもあったことだろう。
 何せ、お江は実家が滅亡した時は乳飲み子で、父や兄の記憶がない。後付で得た知識に想像で負の感情を増幅させた可能性は充分である。

 戦に優れていたとは云い難い義景ゆえ、同盟者として「頼りにならない奴」との烙印を押すのも、致し方のない面もあるにはあるが、浅井家滅亡の責任まで負わすのは些か行き過ぎであろう。
総論 越前守護を斯波氏から下克上で奪い、越前守護代から越前守護となった朝倉家。その歴史は一族間でもかなり複雑で、義景も宗滴(曽祖父の弟)存命中とは立派に当主の務めを果たし、最後は従兄弟である景鏡の裏切りで落命しています。
 それでなくても成り上がり一族を面白く思わない国人領主も多く、東西は難敵に挟まれていた朝倉家にあって、まずは文化・政治を巧みに担った義景は、平和な世なら充分な名君として天寿を全うしたと思われます。
 惜しむらくは義景がなかなか子宝に恵まれず、越前支配権を虎視眈々と狙っていた一族・重臣の前に越前が一枚岩たり得ないところにもあったと思われます。身内と重臣の裏切りに滅びた義景ですが、義景を裏切った者達も多くは碌な死に方をしていません。
 一統治者としては充分及第点の能力を保持しながら、文化と政治に凝り過ぎて武士としての本文を薄れさせてしまったのが義景の不幸とするのは過言でしょうか?



斎藤義龍 (さいとうよしたつ 享禄二(1529)年〜永禄四(1561)年五月一一日)
概略 下剋上で美濃の領主となった戦国のマムシ・斎藤道三の息子。その道三を弑逆したことで、「親殺し」に手を染めた者として評判の悪い人物である。
 「骨肉の争い」が日常化していたと云われる戦国時代だったが、父と息子との間における殺し合いは稀で、子が父を殺した例は更に稀なため、父を手に欠けた義龍に向けられる視線は冷たい。
 父を弑逆してから僅か五年で若死にしたため、「父殺し」を上回るイメージがなく、実像の余り伝わらない人物だが、その実態は果たして………??
弁護壱 そりゃ、そんな立場に置かれればねぇ………
 義龍が父・道三に反旗を翻した理由の一つに、「義龍は道三の実子ではなく、道三が美濃から追放した土岐頼芸(ときよりなり)の妻妾・深芳野が道三の妾になったとき既に義龍を身籠っていた。」とし、それを知った義龍が道三を「父ではない。」として土岐家再興の為に道三打倒に立ったとする説が長年囁かれてきた。

 ただ、この説は昨今否定されつつある。深芳野の実在が怪しまれている上、義龍が「土岐頼芸の忘れ形見」を自認するのであれば、土岐姓に改正しなかったことに疑問が残る。義龍は氏としては「一色」を自称したが、これは室町幕府の体制下において斎藤は勿論、土岐よりも格上の家柄だった。
 そして義龍の後を継いだ龍興は斎藤姓のままである。

 それ故、血筋を巡る疑問は置いておくのだが、それを差し引いても義龍が置かれた立場はかなり微妙だった。
 まず義龍は道三から家督を譲られたが、これは道三の本意ではなく、土岐家から美濃を奪ったことで道三を快く思わない家臣達との衝突を避ける為だったと云われている。それゆえ、家督は譲ったものの、道三は当然の様に実権を持ち続けた。
 そして出自や血縁はどうあれ、確かな事実として道三は嫡男である義龍よりも次男・孫四郎龍重、三男・喜平次龍定を可愛がった。
 一説に、道三は義龍を愚か者と見做して密かに廃嫡を目論み、孫四郎を次期当主とする一方で、喜平次には美濃の名家である一色氏の名跡を継がせようとしていたと云われている。

 道三の美濃奪取経緯や、土岐蹴旧臣達との微妙な関係を考えると、道三が義龍を廃嫡して自分の権利権威を取り戻すことを考えたとしてもおかしくないと思うし、一方でそんな状況下で一度家督を譲った義龍を廃嫡するなんて簡単に出来るのか?との疑問もある。
 結局道三が義龍をどう思っていたかは推測の域を出ないのだが、現代に生きる我々でさえ様々な疑念を抱くのだから、複雑な状況下で家督を継ぐも父との微妙な関係にあった義龍が様々な疑念を抱くのは想像に難くない。
 また、道三の寵愛を受けてか、孫四郎と喜平次も兄を侮る言動が見られたと云われている。

 結果、義龍は仮病でもって孫四郎と喜平次を呼び寄せて二人を斬殺し、それを知った道三は稲葉山城を逃れ、父子相克は決定的なものとなった。
 もし弟二人を殺めたのが疑心暗鬼から来たものなら、義龍の行為は大いに非難されるべきだが、薩摩守はもし義龍が手を拱いていれば七割の確率で義龍は廃嫡されていたと思っている。
 根拠として、弟を殺した後に斎藤家の家中の多くが義龍に従った事実を挙げる。個人的感傷だが、喧嘩であれ、戦争であれ、薩摩守は基本的に「先に手を出した奴が悪い。」と考える。勿論「先に手を出した理由」も様々だから例外を認めない訳では無いし、それ相応の理由には注目するが、斎藤家中の複雑さを思えば、もし義龍の立場が同情に値しないものであれば、ただでさえ「父殺し」と云うとんでもない汚名を背負い込んだ義龍に味方した者は少なかった筈である。
 もし薩摩守が美濃家中の武士で、野心家だったら、「父親殺し」を糾弾する形で道三に味方しただろう。孫四郎・喜平次は既に亡く、道三も老い先短いのだから道三の味方をして義龍を討てば斎藤家中における立場を大きくベースアップ出来ただろう。
 勿論、これは想像・仮定に過ぎない。ただ、この事態に直面した際に同じ様に考える者は少なくないだろう。にもかかわらず大半が義龍に味方したのだから、義龍の置かれた立場や、廃嫡されかねない雰囲気には同情する者・反発する者が多かったという事だろう。


弁護弐 マムシにも相当の落ち度有り
 義龍の父である斎藤道三はかなり有名な人物で、下剋上の代表選手の様にも見られている。一介の油商人から土岐家重臣長井長弘に取り入り、それを足掛かりに長井家に取って代わり、遂には美濃守護・土岐頼芸を追放して美濃一国を乗っ取った立身出世譚は目を見張る成功劇である一方で、多くの人々の怨みや蔑視を買ったことは想像に難くない。
 それは道三の渾名である「マムシ」が示している。毒蛇であるマムシは漢字で「蝮」と書くが、それは卵胎生であるマムシが母体内にて孵化し、母体外に出て来る様が「親のを破って出て来る。」と見られ、そこから虫偏に腹と同じ作りを合わせて「蝮」とされ、主殺し・親殺しの喩えにされた。
 つまり、道三の人格・能力がどうあれ、彼が主筋に当たる者達を押しのけて出世してきたことに蔑視の目が合ったことは疑い様がなかった。

 勿論、それでも美濃奪取に成功した道三は只者ではなく、間違いなく有能な人物だった。自分が長井家・土岐家を押しのけて来たことで多くの家臣が内心面白からざる感情を抱いていたことぐらい先刻承知だった事だろう。
 それゆえ不承不承義龍に家督を譲って内紛の芽を摘み、一方で国外では末娘・濃姫を織田信長に嫁がせ、国の内外に様々な手を打っていたことだろう。後世に生き、歴史の結果を知る我々は道三が濃姫を嫁がせたことを一つの成功と理解しているが、当時の尾張は守護代である織田家が尾張半国を治める身内同士で諍い、信長はその支族に過ぎない、しかも「うつけ者」と云われていた人物だった。
 そんな信長の将才を見抜き、蜜月関係を抱いていた道三には先見の明もあった訳だが、にもかかわらず兄弟相克・父子相克を防げなかった。
 何故だろうか?

 もし道三が「美濃一国を固めることがすべて。」と考えていれば、もっと義龍を立て、孫四郎・喜平次の方を寵愛するにしても、余り目立たないように寵愛し、二人にも自重を促していた筈である。義龍廃嫡だってもっと慎重に行っていてもおかしくない。
 思うに、一代の梟雄でもある斎藤道三はまだまだ隠居する気になれなかったのだろう。美濃一国で満足せず、家臣との融和の為に義龍に家督を譲ったことにも納得しておらず、いずれはすべての権威権力を掌中に収め直さんとして、状況次第では義龍が自分に従順ならざる者と見れば孫四郎・喜平次を手駒に本当に廃嫡するのは充分あり得ただろう。

 結局、そんな野心家な一面を捨て切れなかった故に道三は家中の信頼を集めることも、一族結束もままならず、義龍が袂を分かってきた際に彼の元に集まる者は少ないと云う結果に陥ったのではあるまいか?
 長良川の戦いの際、義龍側一万七五〇〇に対し、道三方の手勢は二七〇〇に過ぎなかった。道三を恐れる者は多くても、道三を尊敬する者は少なかったと見るべきではなかろうか。


弁護参 信長と絡んだ不幸
 過去作で何度か触れたことがあるが、道場主が最初に読んだ日本人の伝記がポプラ社刊行の『織田信長』だった。同書は主役である信長に対して悪い面に目を瞑ることをしてはいなかったが、今振り返ればやはり細かい記述において信長贔屓が目立ったように思われる。そしてそれ故、少年の頃の道場主が斎藤義龍を白眼視していたとも………。
 同書において、信長は義龍が道三を殺したことを激しく怒り、義龍が病死した後もその子である龍興を相手に恨みを晴らさずにはおれない心情を描いていた。
 実際、同書を見る限り、義龍はとんでもない奴である。自分を道三の子ではないとして蜂起した義龍に対し、「確かに彼が言うように、彼が道三の子だったかどうかははっきりしません。」と記述し、道三が義龍よりも喜平次を可愛がったことには触れつつも、「弟二人とともに道三に育てられたことは間違いありません。」として、仮病でもって誘い出した弟を殺し、父に反逆した義龍を卑怯者・残虐人間の如く書き並べていました(直接非難する単語は使っていませんでしたが)。
 そして道三を討ってから五年後に三三歳の若さで早世した義龍に対し、「祟られたのか早くに亡くなりました。」と記述しており、当時まだ小学生だった道場主は義龍に対しすっかりダークなイメージを抱いていたが、仮病で弟を呼び寄せて殺すという事は信長もやっていたりする
 信長が弟・信行と対立し、これを殺したことは有名だが、薩摩守はこれに対して信長に非有りとはしていない。信長が信行を倒さないと自身が倒されていたのは明白で、しかも信長は母の懇願もあって信行を一度は許している。にもかかわらず、信行は凝りもせず信長に反逆したのだから、これは殺されても自業自得である。
 そしてその際に信長は仮病で信行を呼び寄せて殺している。「卑怯」とは云わないが、手段として騙し討ちを用いている信長の伝記が義龍の仮病騙し討ちを非難するのはチョットいただけない(苦笑)。

 要するに、信長と比較されると、信長と敵対した者は悪し様に語られる可能性を後世に生きる我々は注意しなくてはならない。それでなくても戦国時代を「織田信長」を起点に学び出す者は少なくなく、『信長公記』から発した記述の影響を全く受けない者は稀少だろう。
 有名な話だが、娘を娶った信長と始めた会見した際、美濃に来る道中異装で馬上にふんぞり返る婿を見て「略服で良かろう。」としていた道三が、会見の場に正装で臨んでいた信長を見て、会見後に「儂の子や孫はあのうつけに仕えることになるだろう。」と呟いたと云われている。
 そんなエピソードもあり、実際に美濃が信長に奪われた事実も相まって、義龍・龍興が色眼鏡で見られていないと誰が云えるだろうか。

 かように上述の朝倉義景にも云えることだが、信長と悪い意味で絡んだ者は実像以上に悪く見られることを注意する必要がある。判官贔屓の見方が強い日本人故、「敗者=悪」という見方はまだマシな方だが、それでも「主人公の敵=悪者」に傾向が強いのは否めないだろう。
 そして信長ついでに云うなら、最終的に龍興の代に美濃を奪取した信長も、(国内情勢や今川義元の脅威があったにせよ)義龍存命中は美濃に手出し出来なかったことを、「名誉挽回」の一端として付け加えておきたい。


弁護肆 骨肉の争いと儒教思想
 戦国時代は、所謂、「骨肉の争い」が頻発した酷い時代である。
 勿論親子の情愛や兄弟愛が存在しなかったとは云わない。当人同士には身内としての愛情がありながら、背後にある正室側室の家督を巡る対立や、野心に燃える側近達の担ぎ上げで心ならずも対立や対決が悲しい事実として数多く起こった。

 実際、そこそこの覇業を成し得た者ほど、その過程において身内と戦っている。
 信長は弟・信行を、家康は嫡男・信康を、秀吉は甥・秀次一家を、伊達政宗は弟を殺している。また上杉謙信、今川義元の様に、命を奪いこそしなかったものの兄弟と干戈を交えた者は少なくないし、叔父や大叔父となると距離的に「他人」に近く、相争った例は枚挙に暇がない。
 ただ、そんな戦国時代に在っても、やはり血が近い程抵抗が有るものか、父子相克は決して数が多くない(対立自体が有ったとしてもだ)。それゆえか「父殺し」の罪過を背負う義龍の汚名は大きい。

 実際、身内を手にかけた者でも然程悪し様に云われず、逆に身内と争わざるを、手にかけざるを得なかった過程を同情されるものも少なくない一方で、義龍がここまで悪し様に云われるのは儒教思想が背景にあるからだろう。

 これを考察するのに大いに参考となるのが武田信玄である。
 信玄が父・信虎を甲斐から追放したのは有名だが、信玄と対立する諸大名は信玄を痛罵する際にこの「親不孝」を殊更持ち出した。
 云うまでも無いが、信玄は信虎を殺しておらず、追放にして国境を封鎖して甲斐に帰れなくするという方法で、駿河の今川義元(信虎の娘婿でもある)に「病気療養」を名目に「預かって欲しい。」としてその為の費用も毎年払っていた。
 極めて穏便な方法を取り、追放後の面倒も見ているのだが、それでも相手が「父親」だったことで信玄の行為はかなり悪し様に世間から叩かれた。それもこれも「孝」を重んじる儒教思想の影響に尽きる。
 現代でも、父親が息子を殴るのと、息子が父親を殴るのとであれば、圧倒的に後者のイメージの方が悪い。勿論殴る理由や、殴った度合いでイメージは大きく異なるだろうけれど、儒教思想の強かった近代以前、相手が理不尽な父親であってもそれに反逆すること自体がとんでもない罪業と見られた訳で、義龍ももし道三を殺さず、寺の一室に閉じ込める程度に留めておけば、ここまでの悪名を引き摺らなかったかも知れない。

 一説には、長良川の戦いにおいて義龍は道三を討たずに、生け捕りにするよう命じていたが、戦場の勇み足で道三は討たれたと云われている。まあ、討滅より生け捕りの方が難しいのは誰にでも分かることで、まして槍の名手である道三が全力で抵抗すれば討たざるを得なかったのも無理ない話ではある。
 また戦国きっての曲者である道三のこと、例え監禁状態でも生かしておけば新たな戦の火種になることは充分に考えられる。「死んでくれた方が後腐れない。」と考える者が出たとしても不思議ではない。

 本来、時代がそうさせるとは云え、「骨肉の争い」自体が悲しい話である。戦後義龍が「一色」の姓にこだわったのも、斎藤姓の父と弟を手に掛けたことに対する後ろめたさもあったことだろう。一方で家中を強力に牽引する為には後悔や罪悪感を周囲に見せる訳にはいかなかったことだろう。
 義龍の「父親殺し」を必要以上には庇う気も無いが、平成の世まで刑法に「尊属殺」という概念があったことを思えば、同じ骨肉の争いでも父が対象であったことで義龍が実態以上に悪く云われている可能性に留意する必要はあるだろう。
総論 父を討ってから僅か五年で早世したことが斎藤義龍にとってマイナスイメージを増幅していると見ています。
 義龍が単純に権力の為に身内を躊躇いなく殺す冷血人間だったのなら、斎藤家はもっと早く織田信長の前に膝を屈していたでしょうし、義龍にそれなりの人望があったから生前信長は美濃に攻め入れず、信長から美濃を奪われた龍興もそれなりに命を永らえることが出来たと見ています。

 信長はその個性の強烈さ故に好き嫌いの別れる人間ではありますが、彼が戦国時代を急速に終息に向かわしめた一代の傑物であることは誰の目にも明らかです。そんな信長を敵に回し、敗れた者達は長く、「敗者」、「無能者」、「人望皆無」、「父に似ぬ愚者」と云った色眼鏡で見られてきました。義龍は間違いなくその一人でしょう。

 「if」は云い出せばキリがありませんが、たとえ同じ結果に終わったとしても、義龍が今少し長生きし、信長相手に善戦し、美濃国内を固め、道三討滅に対して然るべき云い分がそれなりに伝わっていれば、義龍のダークなイメージも多少は軽減されていたと思われてならない次第です。


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令和六(2024)年八月一六日 最終更新