本作は光栄社刊『爆笑三国志』のパクリです。

第伍頁 長州存続編

毛利輝元 (もうりてるもと 天文二二(1553)年一月二二日〜寛永二(1625)年四月二七日)
概略 謀将・毛利元就を祖父に持ち、吉川元春・小早川隆景と云った優れた叔父の補佐を受け、中国地方に覇を唱え、タイミングよく豊臣秀吉と和睦したことで、豊臣政権における五大老の地位を得た西方の雄となりながら、関ヶ原の戦いにおいて中途半端なリーダーシップしか発揮しなかったことで、「戦わずして負け。」の果てに一族の勢力を大きく減退させたことで凡将と見られがちな人物である。

 曲がりなりにも一二〇万石という毛利一族の歴史において最大版図を築いた人物であり、幕末まで雄藩となり得る周防・長門を巧みに収めた政治巧者でもあったのだが、「優秀な身内や賢臣の御蔭」と見る向きも多い。果たして個人としての力量や如何に?
弁護壱 最大の武器が最大の困惑要因
 輝元の祖父・元就は三本の矢のエピソードに代表されるように、一族結束を強く云い残した人物として有名である。残念ながら「三本の矢」はフィクションだが、石像化され、かかるエピソードがすんなり受け入れられる程、兄弟・身内の結束を説いた人物であるのは史実である。
 自身、謀略に優れていた元就はそれ故に国内外問わず恐れられ、嫌われているであろうことを察知し、それ故に一族の結束が肝要であることを息子達に説き、嫡男・隆元が自分に先立つと隆元に代わって輝元を補佐し、武勇に優れた次男・吉川元春と、知略に優れた小早川隆景も良く支えた。

 この時代、嫡流が何より重んじられ、輝元が当主となった上は、叔父と云えども臣下とされ、敬意を払わなければならなかったのだが、元春・隆景は目上の身内として接し、隆景が輝元を折檻した事すらあった。
 実際、輝元が毛利家の家督を継いだのは一一歳の時だった。周囲の補佐が必要なのは当然だった。それもこれも父・隆元が若くして急死した故で、輝元が元服したのは家督継承の二年後だった。
 この頃既に毛利家は誰が当主になったとしてもチョットやそっとじゃ揺らがないだけの勢力・態勢を保持。偏に、元就が残した一族結束体制の賜物で、中国地方の大半を抑え、織田信長という大勢力からの侵攻とも互角以上に渡り合った。

 天正八(1580)年から信長の命を受けた名将・羽柴秀吉が攻め込んできて、秀吉に諸城を落とされ、名将・清水宗治の籠る備中高松城迄水攻めにあったことで秀吉相手に苦戦を強いられていたイメージが強い輝元だが、相手は最終的に天下を取った一代の傑物で、しかもその傑物を相手に毛利家は二年半に渡ってこれを良く防いでいた。

 長々と書いたが、輝元は叔父を初めとする一族の結束を受けて毛利一族の歴史における最大版図を構築したが、「長所は短所」とは良く云ったもので、皮肉にも最大の武器である、頼りになる身内は有能故に拗れると始末が悪かった。

 それが端的に現れ出したのは本能寺の変直後であろう。信長が明智光秀の裏切りにより横死したことを知った秀吉はその事実を伏せ、清水宗治の切腹を条件に高松城の城兵を助命して和睦すると持ち掛けた。
 宗治は自分一人の命で城兵が助かることに何の躊躇いも見せず、死を選んだことで和睦が成立したが、毛利家中は誰もがその死を惜しみ、宗治を犠牲にして和睦するか否かはかなり紛糾した。
 そして和睦が成立するや秀吉は即座に退陣し、直後に毛利方は本能寺の変を知った。これを受けて元春は和睦を反故にして秀吉軍を追撃すべし、としたが、隆景と安国寺恵瓊が反対し、輝元は後者を承認した。

 結果的に輝元が秀吉に味方したことは後々秀吉が天下人に近付くに比例して輝元の地位も高め、秀吉が天下を統一すると輝元は叔父・隆景と共に豊臣政権の五大老に列せられ、毛利家は一二〇万石の大大名となり、石高で云えば五大老筆頭の徳川家康に次ぎ、五大老次席であった前田利家の一〇〇万石をも上回った。
 九州征伐への従軍では元春とその子・元長が相次いで病死するという不幸もあり、朝鮮出兵などでも毛利家はこき使われはしたが、秀吉は概ね毛利家に好意的で、何かと輝元・隆景を頼った。

 だが、秀吉死後に、輝元が頼りとした一族の結束は肝心なところでそれを崩していた。
 要するに内部において密かに親豊臣と親徳川が割れていたのである。既に秀吉存命中に隆景が病死しており、輝元は家督継承期から頼りとしていた目上の身内を失った。
 勿論吉川広家、毛利秀元と云った身内、累代の家臣である福原広俊といった有能な家臣も多数いて、人材がいない訳では無かったが、痛いことに彼等は個々に毛利家を想うが故に独断専行に出ていた。

 悪く云えば、輝元は肝心なところで相談・報告も受けず、身内や家臣の勝手な行動を止められていなかったことになるが、豊臣秀吉・徳川家康と云った傑物を相手に如何に立ち回るか?という問題は誰にとっても未経験で、判断一つ間違えば御家滅亡に繋がりかねない故、家中全員の意見統一を見ることは不可能に近く、彼等は輝元に悪いと思いつつも、場合によっては己で責任を被る為に独断専行に走った(それ故に安国寺恵瓊は毛利家に対する家康の敵意を一身に背負う形で関ヶ原の戦い後に石田三成・小西行長と共に斬首された)。

 ここで関ヶ原の戦いにおける輝元をクローズアップする。
 周知の通り、西軍において関ヶ原の戦いを主導したのは石田三成だが、人望が無いことを諭す親友・大谷吉継の言を受けて、三成は輝元を総大将に、同じ五大老の一人である宇喜多秀家を副将に祭り上げた。
 輝元は「秀頼公をお守りする。」との名目で大坂城西の丸に入り、最前線には吉川広家、毛利秀元、安国寺恵瓊、小早川秀秋等を派したが、彼等は輝元の指揮下にあって、輝元の指揮下になかった。秀秋に至っては隆景の養子で、そもそも毛利家の人間ではなく、この時点で既に他人に近かった。
 そして反家康派である秀元・恵瓊が戦意を燃やす一方で、親家康派だった広家は黒田長政を通して家康に叛意がないことを伝え、毛利家の本領安堵を約し、関ヶ原ではこの広家が南宮山の麓を動かなかったことで秀元・恵瓊の軍も動くに動けず、最後には秀秋の裏切りを契機として東軍大勝利に繋がった。

 ここで広家は輝元に対して初めて家康との約定を伝え、家康と争うのは得策ではないとした広家の進言と、本領安堵の約定を信じて輝元は大坂城西の丸を退去した。
 果して、家康は広家との約定を反故にし、毛利家を改易すると宣言。輝元が慌てたのは勿論だが、もっと慌てたのは広家で、主家を想っての独断専行が首かを改易に追いやるとあっては堪ったものではなく、必死に徳川家への忠節を訴えて、「もし毛利家が徳川に逆らう場合は自分が輝元の首を取って献上する。」とまでして、皮肉にも自身が与えられる筈だった周防・長門三七万石が毛利家の新領土とされた。

 輝元・広家はまんまと家康に騙された形となり、殊に輝元は(祭り上げられたものとは云え)総大将の立場にあって、秀頼を擁して抵抗すれば東軍に着いた秀吉子飼いの大名達(福島正則・加藤嘉明・黒田長政・脇坂安治等)も味方につけ直して天下をも狙え得たものを、碌に動かずして多くを失ったことでその評価を大いに下げた。
 しかしながら、これまで一族結束を信じ、身内の意見に翌々耳を傾けて重要な決断を下してきた輝元にとって、いきなりここに独断専行されまくってきた上、一〇万を超える軍勢のぶつかり合いが僅か一日で勝敗が決するような急展開に直面したとあっては、余程肝が据わっていないと「秀頼様を擁しての徹底抗戦」を簡単には選べなかったと思われる。

 「身内に頼り過ぎて独自の判断力を磨いていなかった。」、「独断行動が横行するほど、身内から軽んじられていた。」と非難するのは簡単だが、果たして同じ立場に立たされた時、輝元と同じ判断をしない、と自信を持って断言出来るものはどれほどいたことだろうか。
 「船頭多くして船山に上る」………………関ヶ原の戦い前後における毛利家の実態と云い捨てるのは酷だろうか?少なくとも当主とはいえ、輝元一人の責に帰すのは適切とは云えまいて。


弁護弐 かなり周囲から頼られた
 関ヶ原の戦いにおける西軍総大将として、碌な働きも無いまま家康に陥れられたことで評価を下げている輝元だが、そもそも総大将に選ばれること自体、「頼りない奴」と最初から見られていたのであれば、あり得ない話だった。
 実際、石田三成は莫逆の盟友・大谷吉継から自分に人望がないとの苦言を呈され、それを補う為に輝元を総大将に選んだのである。「祭り上げられた」と云えばイメージ悪いが、少なくとも三成は家格・石高・人望と云った自分にないものを輝元に求めたのである。

 つまり、関ヶ原の戦いにおける体たらくのイメージが悪過ぎて無視されがちだが、元々毛利輝元とは、「頼られた男」なのである。上述しているが、輝元はもとより毛利家の面々が四国攻め九州征伐朝鮮出兵で秀吉から頼りとされた。
 秀吉だけではなく、信長と戦っていた時の石山本願寺からも頼られ、何より信長に京を追われた将軍・足利義昭が(将軍位を追われ、復位に成功した足利義稙の例に則った面もあるにせよ)返り咲きの為に輝元を頼った。
 周知の通り、義昭の将軍返り咲きはならなかったが、それでも義昭は輝元の尽力に終生感謝し、秀吉の御側衆として生涯を終えたが、秀吉に謁見する輝元への饗応に尽力していた。
 また、関ヶ原の戦いに際して石田三成が輝元を西軍総大将に祭り上げたのは何度も述べてきた有名な話だが、三成は秀吉生前より家康が豊臣家に仇為すとの疑いを抱いており、五奉行共同で家康に対抗するには輝元の力が必要と考え、輝元も五奉行に味方する起請文を出していた。

 そしてその関ヶ原の戦い後の立ち居振る舞いに失敗して御家を滅亡に追いやりかけた輝元だったが、石高を約四分の一とされる大減封のために多くの家臣をリストラせざるを得なかったが、それ等の中には態勢立て直し後に帰参した者も少なくなかった。
 大坂夏の陣が終わった後の平和な時代ならいざ知らず、関ヶ原の戦い直後はまだま世の中は不穏で、戦勝により大加増を受けた大名の中には減封・改易された西軍諸大名の浪人を進んで受け入れる者も少なくなかった。そんな中、輝元からリストラされた家臣が他家に仕えず、時を経たとはいえ輝元の元に戻ったものが少なからずいたという事は、リストラを行って尚彼を慕い、尊敬する家臣が決して少なくなかったことを意味していると云えよう。


弁護参 その男・「温厚」につき
 最盛期には一二〇万石もの版図を領有していた大大名となると、どうしても政治・軍事及びその結果で見られがちである。勿論大身にはそれだけの責任が伴うので、マクロに見られるのは当然なのだが、ここでは人としての毛利輝元に注目したい。

 温厚篤実だった父・隆元に似たものか、副題に掲げた様に輝元は温厚な人物だったと云える。勿論中国地方を制覇する戦いの中では非情の決断を下したこともあるだろうし(実際、関ヶ原の戦い後、徳川家から親豊臣の疑念を抱かれた際には責任を取らされる形で切腹に追いやられた家臣が複数存在する)、宇喜多・赤松と云った国人勢力が向背定かならぬ存在として座していた備中を挟んで織田信長と対峙した訳だから人の良い凡人ではいられない。秀吉による天下統一後も五大老の一人として徳川家康・前田利家・上杉景勝と云った老練・曲者とも渡り合わなければならなかった。
 ただ、そんな中に在ってやはり輝元は温厚な人柄で、敵味方問わず認められていた。

 まず、温厚性についてあげてみたいが、輝元慶長の役で日本軍の捕虜となった朝鮮の官人・姜?から「慎み深く、ゆったりと大らか。」と記されている。
 朝鮮出兵に際しては、遠い国外での戦故に戦功の証である首級を送るのが困難で、鼻削ぎ・耳削ぎが行われ、首級の代わりに送られたが、姜?は輝元がこれら残虐行為を見て、哀れだと思う心を持っていたとも記しるしている。敵(←それも外国人)から人格を称えらえるというのはかなりのことである

 秀吉が死の間際に五大老・五奉行にみっともない程頭を下げて秀頼を託したのは有名だが、その際、秀吉は輝元を「本式者(=正直者の好人物)」と評していた。秀吉は秀頼の為とあれば誰かれなく頼ったが、その中で人柄にまで触れているのは稀有である。

 また輝元は室町幕府に対し、名実共に滅んだ後も忠義を忘れず、天正一七(1589)年に足利義輝二五回忌に際して、鹿苑院塔主・西笑承兌にその仏事を依頼し、それに際して「鹿苑院塔主が導師を勤めれば、昌山殿(義昭)も喜ばれるだろう。」としており、忠義に加えて温厚な輝元の人間味がしのばれると評されている。
 その前年である天正一六(1588)年閏五月、義昭自身、輝元・隆景に対し、「忠節を忘れることはない」と記した感謝の御内書を発給していた。偏に長年の尽力に加え、没落後も自分を粗略にしなかった輝元への謝意と、人柄に対して認めるところがあればこそだろう。

 そんな人柄故か、輝元は様々な人物と昵懇な交流があり、秀吉臣従中に何度か病に陥ったことから、名医・曲直瀬道三と親密な交流があり、在京中の活動は道三邸を第二の基点としていたとさえ云われて。
 また輝元は柳生宗厳を剣術の師として印可状を与えられたが、それは関ヶ原の戦いの前年である慶長四(1599)年のことで、家康とまだ敵対していない時期とは云え、徳川家の剣術指南役に師事していたとは意外な交流関係で、これも立場の違いを超えた交流を可能とする温厚さがあればこそだろう。
 勿論、大大名や大軍団の総帥としては温厚であることが頼りなさにつながることもあり得、輝元にもそれが当てはまる面があるのは否定出来ない。ただ、一当主・一個人・一政治家として見て見た際に、この温厚さが彼の長所に繋がっている面もあることは否定出来ないだろう。

 そして平和な時代が到来すると、家康の後を継いだ秀忠・家光も温厚な輝元に対する警戒を捨てた。晩年の輝元が病身を押して上洛すると秀忠は幕臣達に輝元を丁重に迎え、もてなすよう命じた。将軍期に数多くの大名を改易した秀忠が完全に敵意を捨てていたのだから、悪く云えば「牙が抜け落ちた。」と見られていたのかも知れないが、別の味方をすれば平和な世で政務に尽力する温厚者に厳しく相対する必然性や落ち度が見受けられなかった都とも取れよう。


弁護肆 没落した末の底力
 詳しくは、過去作「隠棲の楽しみ方」を参照して頂けると有難い(笑)。
 責任の所在がどうあれ、関ヶ原の戦いの論功行賞による一二〇万石から三六万九〇〇〇石への大減封は何もせずのうのうとしていられる甘い事態では無かった。単純計算で当てはめて、年収が一二〇〇万円から三六九万円に下がったら生活が一変するだろう。まして国政である。

 同様の大減封を食らった上杉家では誰一人リストラせず、牢人として従軍した前田(慶次郎)利益すら召し抱え続けたが、「望めば一〇万石は固い。」と云われた利益に対して僅か二〇〇〇石しか出せなかった様に、上も下も大言及に苦しみながら凌いだ。
 これとは正反対に輝元は大リストラを敢行したのだが、昨今のブラック企業が安直に乱発する首切りと同一視してはいけない。リストラを受けて帰農した者もいたが、上述した様に後に帰参した者も少なくなく、リストラは事が収まった後の復位を睨んでもものだったとされている。
 御家の為に尽力しつつも結果的に御家を窮地に追いやった吉川広家に冷や飯を食わせ、幕府に睨まれる要因となりかねない家臣を何人も粛清するという非情手段を取りつつも、自分に無断で徳川に通じた益田元祥を永代家老としているから輝元の人事は単純ではなく、深い考えや様々な対人関係への考慮があるのだろう(増田と同様の行動を取った者でも、熊谷元直は族滅され、宍戸元次は一門衆筆頭とされた)。
 これらの人事には、「二人の叔父に支えられた両川体制の成功を、続く広家・安国寺恵瓊の補佐で潰してしまったことへの反省があるとされている。いずれにせよ、過去に学ぶ能力はあったのである。

 そんな輝元の領国経営のすべてが褒められる訳では無いにせよ、輝元は表向き長男秀就を藩主として立てつつ、自らは藩内政を主導して新田開発と特産品奨励で長州藩の実収増大に努め、リストラした家臣達の帰参も為しているので、政治家としては充分一流と云える手腕を持っていたと云えよう。
総論 毛利輝元と云う人物、或る意味、温厚で人当たりが良い故に多くの人々が彼に近付き、多くの人々が利用せんとし、時に周囲に助けられ、時に周囲に翻弄された人生と云えるのかもしれません。

 しかし、そこはそこ、単純に振り回されるだけではなく、時に非情の決断を下し、時に大鉈を振るい、海千山千の天下人・大大名・将軍・著名人とも堂々と渡り合い、少なくとも中堅大名としては充分に及第点と云える実績を残した人物でした。

 確かに関ヶ原の戦いに前後する腰砕け振りはカッコ悪く、この時の立ち居振る舞いが毛利家の家格を大きく減退させたことに云い訳の余地は無いでしょうけれど、それでも政治家としての在り様、温厚者(と云い切れるほど単純じゃありませんが………)としての在り様がビクともしなかったのはもっと注目されて然るべきと薩摩守は捉えています。



吉川広家 (きっかわひろいえ 永禄四(1561)年一一月一日〜寛永二()1625年九月二一日)
概略 中国地方に覇を唱えた謀将・毛利元就の孫で、猛将・吉川元春の子で、五大老・毛利輝元の従弟。長兄・次兄が早世したことで三男でありながら吉川家当主となり、父の実家・毛利家を支える一翼を担った。
 当主・輝元が両川体制を失った後、元春の後を継いで知将として本家を支えたが、何と云っても、関ヶ原の戦いに際して毛利家の為に働いた筈が、徳川家康から物の見事に反故にされ、本家を改易の憂き目に追いやったのが痛過ぎる。

 結果、本家は石高を四分の一にされる大減封を食らい、結果吉川広家自身を初め、その子孫達は本家から「身内」と見做されず、領国も「藩」とは認められず、白眼視され続けた。
 では広家の取った行為は間違っていたのだろうか?毛利家大減退は広家・輝元だけの責任だったのだろうか?結論を先に書けば個人だけを責めて終わる結果ではないのだが(苦笑)。
弁護壱 ぶれなかった親家康路線
 広家の取った行動の何がまずかったかを一言で云えば、「独断専行」であろう。
 結果論だが、関ヶ原の戦いが東軍の勝利に終わり、徳川の天下が来た訳だから、広家に限らず、勝馬に乗った者はまずは選択を誤らなかったと云える。
 ただ、これは結果である。稀代の策士・黒田如水(官兵衛)ですら、関ヶ原の戦いが一日で決着するとは思っておらず、完璧に未来が読めた者等いなかったことだろう。
 勝利を得た筈の家康にしたところで、息子・秀忠が遅参した為に半数の勢力で戦わざるを得ず、ある程度予測していたこととはいえ、股肱の臣・鳥居元忠を亡くし、戦後の論功行賞に難渋を極め、遂に島津家の本領安堵を認めざるを得なかった。

 華々しい勝利を収めた側ですら先行きが見え難い時の流れの中にいたのである。毛利家中もまた一族の為に家康につくべきか?家康と戦うべきか?で個々人の意見は分かれ、決めかねていた者も少なくなかったことだろう。
 そんな中、広家は家康と敵対すべきではないと確信したが、同じ家中でも毛利秀元(元就四男・穂井田元清の子で、輝元の元養子)と外交僧から大名格の重臣となった安国寺恵瓊が家康と敵対する道を選び、当主輝元が御輿と担ぎ出されるのに賛成してしまった。

 毛利一族の強みである、身内間の結束の強さを活かすなら広家は親徳川路線を捨てて輝元の西軍総大将としての尽力に随身すべきだったのかも知れない。ただ、そうすれば敗戦の折には毛利家族滅が避けられなかったことだろう。
 関ヶ原の戦いに際しては真田昌幸・信幸・信繁(幸村)や、九鬼嘉隆・守隆の様に一族で敢えて東西に分かれ、どんな結果になっても一族の血が残る様に計らった者達もいたが、結束の固さを頼みとして来た毛利家には出来ない相談だった事だろう。
 結果、広家は単独で徳川と通じ、「輝元は周囲に担がれたに過ぎない。」とし、毛利家の本領安堵を条件に家康への合力を密約。戦中、秀元や恵瓊から何度督戦されても「弁当を食べてから出陣する。」とまで云って、南宮山に張った陣から動かず、秀元や恵瓊のみならず、長束正家や長宗我部盛親も動けず、家康包囲網を無力化せしめ、東軍勝利の一因を担った。
 この時の阿呆みたいな振る舞いは広家の通称から、「宰相殿の空弁当」と云って、現代でも評判が悪い。ただ、逆を云えば、広家の行動は「本家生き残りの為には例え当主・身内の意に反してでも親徳川路線を採る。」という信念が一貫してブレていなかったとも云える

 戦後、安国寺恵瓊は刑場の露と消え、秀元は毛利家による天下取りを簡単には諦めなかったが、重臣の福原広俊等が広家に理解を示し、合力したことで毛利家は徳川の天下における中堅大名として幕末まで生き続ける道が選ばれた。
 関ヶ原の戦いで東軍勝利が確定した時点で初めて広家は輝元に対して徳川との密約を伝え、これを受けて輝元は大坂城西の丸を退去した。これも結果的には輝元の腰砕けとあっさり本領安堵を反故にされたことで広家共々評判が悪いが、広家の独断専行は輝元次第ではいつ斬られてもおかしくない行為で、逆に広家の信念とブレなさが半端ないから輝元は彼の言に従ったと云える。


弁護弐 どんなに冷遇されても本家を見捨てず
 吉川広家の名を貶めている要因の一つに、家康との密約をあっさり反故にされた結果の悪さがあるのは余人の言を待たないところだろう。広家は輝元が西軍総大将として大坂城西の丸に入った事実を、「周囲に担がれただけで、輝元本人に徳川家に対する叛意は無い。」と訴えたが、戦後、輝元が総大将として伏見城攻めや大津城攻めの命令を発信していたことを理由に、広家の「担がれただけ」という云い分は撥ねつけられた。

 かくして家康は毛利家に対しては改易とし、終始自分に味方した広家に対しては周防・長門三六万九〇〇〇石を与えるとした。伝手であった黒田長政を通じてこのことを知った広家にとって勿論これは青天の霹靂で、家康に対して輝元があくまで担がれただけで、徳川家に忠誠を尽くす旨の起請文を提出した。
 この起請文にて広家は輝元が人間的に未熟故に担がれたと訴え、後々輝元徳川家に反逆した際は自分が輝元の首を取って献上するとまで宣した。輝元が見たらな即座に広家を斬り殺しかねない酷い文章だが(苦笑)、勿論これは言葉の綾で、徳川への忠誠を必死に訴えて毛利家を救わんとするもので、同起請文にて広家は毛利の家名を何としても存続して欲しいと訴え、万一それが通らない際には自分にも輝元と同じ罰を与えて欲しいと訴えていた。つまり「利用された。」と訴えたい故に輝元をこき下ろしはしたが、毛利本家への想いは充分窺えよう。

 結果、広家に与えられるとした領土・石高が輝元に与えられ、大減封とはなったが毛利家は西国の中堅大名として幕末まで存続することが出来た。
 とはいえ、この結果に毛利家中の多くが広家を怨んだことは云うまでもない。殊に家康と戦う気満々だった毛利秀元は勿論、(一時的とはいえ)リストラされた家中の面々が広家を怨んだのは想像に難くない。
 実際、大減封からの立て直しを図る過程で山代慶長一揆、吉見広長の反乱等が起きた。こうなると広家の勧めに従った輝元も多くの家臣達の手前、広家を初めとする親家康路線を取った者達を冷遇せざるを得なかった。
 広家と共に「家康に通ずべし。」とした福原広俊・宍戸元続・益田元祥・熊谷元直等は移封後に家政の一線を退き、元直は慶長一〇(1605)年に粛清された。尚、広家の母は熊谷氏の娘で、元直は広家と八の繋がった従兄弟だった。

 そしてそんな渦中に在って輝元は萩に本拠を置いて長州藩主となると、元養子で甥でもあった秀元には長府藩六万石を与えた。そして広家には岩国を与え、共に東方の守りを担わせたが、広家に与えられたのは三万石で、しかも彼は岩国の「領主」とされ、支藩の藩主とは認められなかった(後に石高は六万石にはなったが)。
 明らかな報復人事で、広家は幕府からは「藩主」とされ、岩国藩は参勤交代も義務付けられたのに毛利家中に在っては第二代〜第一一代の歴代領主は肖像画を残すことが許されなかった。
 だが、広家はそんな冷遇・白眼視の中、岩国の政治に勤しみ、家康・秀忠との謁見を重ね、大坂冬の陣に際して毛利家中の一部が豊臣秀頼に通じた際は激怒して隠居する等、親徳川路線を堅持しつつも、毛利家存続に尽くした。

 これは薩摩守の推測だが、輝元も大減封という厳しい現実・結果の手前、広家を表立って認めることが出来なかったものの、広家の気持ち自体は理解していたと捉えている。冷遇した広家に対して何度も秀元との和解を仲介し、広家死後ではあるが、吉見家の養子となっていた次男・政春が後に毛利姓を名乗ることを許され、毛利就頼と改名して長州藩一門家老の大野毛利家を創設することが認められている。

 何より、もし広家が我が家の立身出世だけを考え、毛利本家に対する想いが無ければ周防・長門を独り占めして中堅大名として君臨することも出来ない話では無かった。まあ、本当にそんなことをすれば毛利本家の面々やその直臣達からの報復対象とされ、命が幾つあっても足りなかったことだろうけれど。
 結果は決して良くなかったが、広家が本家を本気で思っていたことに疑いを持つ者はいないことだろう。恐らくは大減封という結果の前に広家を怨んでいた者でさえも。


弁護参 独断専行は彼のみにあらず
 関ヶ原の戦いにおいて毛利一族が立ち居振る舞い方次第では自らが天下を取るか、或いは豊臣政権における筆頭家老の地位を持てたかもしれなかったのをふいにしたことへの責任は個人に求められる単純なものではない。強いて云えば、毛利家が最大の武器としていた一族結束が失われていたことが最大の要因だろう。
 勿論広家も出来ることなら輝元を初め、一族・重臣の全員に親徳川路線が堅実な路線であることを納得させ、西軍総大将に祭り上げられることを防ぎたかったことだろう。だが、反徳川路線を採る秀元や安国寺恵瓊を初め、全員を説得することは叶わなかった。それ故彼は独断専行に走った。
 だが、家中の意見を統一し、一族結束して一つの路線に当たらせることが出来なかったのは反徳川路線を考えていた者達も同様だった。これは吉川元春・小早川隆景が生きていたとしてもまず同様だったことだろう。
 実際、恵瓊は独断で三成に通じた(ために彼は戦後打ち首となった)。そして秀元は輝元より二日早く大坂城西の丸に入り、彼が西軍総大将に祭り上げられ、且つそれを今更拒めない立場に追いやった(←一応、輝元が秀元に密命した説もある)。

 輝元にしてみれば、豊臣秀吉死後から周防・長門移封までの間、自分に従わず勝手に諸大名と密約する輩が後を絶たず、内心憤懣やる方無い想いもあったことだろう。輝元が広家を冷遇しつつも、秀元に和睦を促し、諸将を粛清した陰には、「御前達だって広家同様勝手なことをしていたじゃないか。」という想いがあってもおかしくない。
 勿論、「お前何であんなことしたんや?」、「○〇君がやっていたからです。」という小学生の様な云い訳が通用する訳では無いが、決して毛利一族及び重臣達は馬鹿だった訳でも、我儘者だった訳でもない。天下分け目の戦いを前に誰しもが前例のない判断を迫られ、毛利一族最大の武器である一族結束が図れない中、独断専行も辞せず、恐らくはそれを輝元も少なからず理解していたのだろう。

 広家に限った話では無いが、独断専行に発した者全員を罪に問えば毛利家中は大変なことになっていただろう。
総論 吉川広家・毛利輝元の両名に共通して云えることですが、関ヶ原の戦いに前後して毛利家面々の名を貶めている要因の一つに腰砕け振り、要するに「戦わなかった。」ということが大きなウェイトを占めていると思われます。
 大坂城をあっさり退去した輝元の腰砕け振りが嘲笑される様に、「弁当」という嘘をぶっこいてまで不戦状態を保持した広家もまた戦わざる傍観者振りを嘲笑されています。

 しかしながら、槍や弓矢に訴えるばかりが戦いではありません。外交も内政も立派な戦いで、その勝敗・成否には一族の命運がかかっていました。そして結果論を論じるなら、関ヶ原の戦いにおける敗軍となった諸大名はその殆どが改易されており、減封で済んだ輝元・上杉景勝・佐竹義宜等は稀有な例で、本領安堵された島津に至っては奇跡と云って良いでしょう(東軍に寝返った者の中にすら改易された者はいます)。
 そんな中、広家には自分だけが三六万九〇〇〇石の中堅大名として大加増を受ける道もありましたが、本家を見捨てず、結果、自身は一四万二〇〇〇石の石高を三万石にまで減じる結果に甘んじました。

 結果だけを見れば彼はかけに敗れたかもしれませんが、本家を存続させ、その為に親徳川路線を堅持した初志貫徹振りは大いに認められるべきでしょう。


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令和六(2024)年八月二八日 最終更新