本作は光栄社刊『爆笑三国志』のパクリです。

第参頁 室町創成編

足利直義(あしかがただよし 徳治二(1307)年〜正平七(1352)年二月二六日)
概略 室町幕府の創始者・足利尊氏の実弟で、同母弟として何かと頼りにされた。

 自他ともに尊氏の片腕と認められ、建武の新政では後醍醐皇子の成良親王を補佐して旧幕府の本拠で、東国武士の勢力が強い鎌倉にて事実上の統治者を務めた。政治力に優れる一方で戦は兄程ではなく、中先代の乱で北条時行に敗退し、鎌倉撤退の混乱の中、護良親王(後醍醐皇子・征夷大将軍)を殺害した。

 室町幕府開府に当って、北朝の光厳上皇との関係強化に努め、幕府基本法『建武式目』の制定も直義の能力が大きく寄与した。
 しかしながら保守的な政治傾向から鎌倉幕府の古法を多く模倣したことで尊氏の重臣にして執事だった高師直と対立し、これが足利一族郎党の結束を乱し、室町幕府の盤石化を大きく妨げ、政敵である高師直・師泰兄弟には勝利したが、最後には兄に敗れ、降伏後に急死した。
 死去した日が高兄弟を殺した丁度一年後であったことから、尊氏に毒殺されたとされ、謎の多い最期も相まって、兄との関係が様々な色眼鏡で見られていることに注意する必要のある人物である。
弁護壱 疑い様の無い政治的力量
 「弁護」と云う程でもないが、まずは足利直義の政治家としての力量を疑う者はまずいないと思われる。尊氏は戦を得意とし、直義は政務を得意として、互いにその逆は苦手とした。それ故尊氏は戦後処理や対朝廷工作、内政体制編成の殆どを直義に一任した。
 悪く云えば、「丸投げ」で、良く云えば、「全幅の信頼」である。
 鎌倉幕府滅亡後、一般に、手柄のある武士達を冷遇したと云われる建武の新政だったが、さすがに足利一族はそれなりに優遇され、直義は左馬頭に任じられた。そして後醍醐天皇が旧幕府勢力の本拠である鎌倉を抑えるべく向かわせた成良親王の補佐を命じたのも直義で、このことで直義は鎌倉幕府で云うところの執権北条氏に類似した立場に立ち、後の室町幕府における鎌倉府の基礎を築いた。
 自身を絶対的君主と自認し、長く政権を握っていた武士を白眼視していた後醍醐天皇でさえ、直義の政治的力量は認めざるを得なかった、それ程直義のそれは優れていたという事だろう。ま、これに関してはわざわざ取り上げるまでも無かったかな(苦笑)。


弁護弐 尊氏との仲を裂いた者達は?
 何度も触れた様に、直義は尊氏程には戦巧者では無かった。と云うより、明らかに敗戦が目立っており、中先代の乱に敗れ、新田義貞との戦いにも敗れている。一方で、兄・尊氏はそれとは対称的に戦にはべらぼーに強かったが、非情になれない性格もあって政治は苦手だった。
 そんな状況下で、直義と尊氏は互いの長所短所を弁え、同母兄弟だったこともあって幼少の頃から互いが互いの長所を活かして短所を補い合った。勿論元々心優しい性格の尊氏が直義を大切に思わない筈がなく、直義が敗れる度に後醍醐天皇の許しも受けず救援に駆け付け、事が収まった後の鎮定処置には直義の手腕が重んじられた。正に車の両輪であった。少なくとも、この兄弟の協力体制が機能している分にはその能を認めない者はいないと思われる。

 そんな理想的な兄弟の仲が裂かれたのは、端的に云って「周囲が悪い。」というものがあった。早い話、二頭体制が室町幕府の派閥化と対立を生み、中でも直義と高師直の対立が室町幕府の盤石化と足利兄弟の蜜月を完膚なきまでに妨げた。
 冷たい云い方をすると、「利用された側にも問題有り。」という事にはなる。殊に非情に徹し切れない尊氏が愛弟に反抗的な師直を抑えられなかったのは致命的だった。ただ、鎌倉幕府→建武の新政→南北朝対立という世相の変遷にあって、多くの者が野心に燃え、大義名分となる錦の御旗を乗り換え、返り忠が横行した世の中に在って、尊氏・直義ともに「利用してやろう。」という者は身分の上下に関係なく数多く存在した。

 殊に人の良い尊氏は利用し易い手合いだった事だろう。
 先祖代々有力御家人の立場にあった鎌倉幕府を裏切ってまで後醍醐天皇についた尊氏は最後まで後醍醐に敵対し切れず、時には剃髪し、時には南朝に対して降伏したりもした。
 勿論後醍醐天皇につき続ければ、武士の権益は完膚なきまでに叩き潰されただろうから、尊氏は北朝を立て、室町幕府を新設するに至ったが、それでも後醍醐天皇への敬意は終生失わず、それ故に何度も南朝を打倒出来る機会があったのに逃し続けた。
 室町幕府の二大巨頭が対立し、状況に応じて南朝に降ったのだから、室町幕府が安定する筈も無かった。

 直義が賢弟でありながら、兄と添い遂げられず、袂を(完全にではないが)別ったのも、余り好きな考えでないが、「時代と周囲が悪かった」という面が大きいだろう。


弁護参 軍事的活躍もちゃんとあり。
 兄・尊氏との比較や、要所となる戦いに敗れたことで戦下手なイメージを持たれ易い直義だが、よくよくみると、「主将」としては強くないが、「副将」としては充分強い。
 三種の神器が南朝方に渡ったことで大義名分を失くした尊氏・直義は大敗して一時九州に逃れたことがあったが、菊地氏を破って捲土重来を期した際、主将として海路を進んだ尊氏は陸路を直義に任せていた。単なる戦下手では身内としての愛情があっても任せられない大任である。
 何より、楠木正成を倒した湊川の戦いに勝利したのは直義である。この勝利でもって、大義名分の前に一時的に不利に陥ることがあっても戦力的に北朝方が不利に陥ることはなかった。

 尊氏存命中に北朝が決定的勝利を得られなかったのは、尊氏が「朝敵」の汚名を恐れたに他ならなかった。逆を云うとそれが無ければ戦術的には南朝方を圧倒しており、何時でも武力制圧が出来たと云っても過言ではない。そんな北朝方の精強さは尊氏によるところが大きいが、直義が副将として支えたのも間違いなかった。
 惜しむらくは同じ立場に立った高師直と対立したことに在った訳だが……。


弁護肆 節操なき南朝こそ責められるべき
 一人の人間として、薩摩守は後醍醐天皇が嫌いである。
 朱子学の信徒として、朝廷が天下を統べること、天皇親政を正統として幕府と云う武家政権を敵視した姿勢には一定の一貫性が有るが、何てことはない、「俺様がナンバーワン」でなければ気の済まない性格で、朱子学の語る大義名分が天皇としての自分による天上天下唯我独尊的な世界が、都合が良かったからに他ならない。
 欧州での絶対王政時代、王権神授説やマキャベリの『君主論』が専制君主達によって都合よく解釈・利用されたのに似ていると云えようか?

 後醍醐天皇がこの世に生を受けた当時、朝廷は鎌倉時代中期に後嵯峨上皇と後深草天皇との対立から生まれた両統迭立状態にあり、持明院統と大覚寺統が交互に即位する中、歴代天皇は対立する方から退位をせっつかれる状態にあった。
 後醍醐がこれに不満を抱いたのは無理もないし、自らの系統に皇位を取り戻そうとしたこと自体は悪いことではない。ただ、正統にこだわるなら本来兄弟順的に云って後醍醐に皇位が巡ってくることはなく、兄である後二条天皇の系統に皇位を譲るのが筋である。
 政治家としての在り様や、性格はともかく、すべての皇族・武士・貴族が自分に従って然るべきと確信(盲信?)していたので、武士を利用したり、捨て駒にしたりすることに一片の罪悪感もなく、それでも「朝敵」を恐れた武士程この後醍醐天皇に良い様に利用され、使い捨てにされた。楠木正成然り、新田義貞然り、足利兄弟然り、である。

 個人的な感傷だが、薩摩守は思想的な賛否や好悪は別として、一つの立場や価値観を貫く者に対し、その姿勢自体には敬意を抱くことが多い。確かに後醍醐天皇は良い云い方をすれば「信念の人」である。しかしそれならそれで、自分に敵対する者を徹底的に討伐する姿勢を持ち、安直な降伏を許したり、大義で釣ったりしないで欲しかった。
 結局、天皇と将軍がこんな有様でくっついたり、離れたりするのだから、下々の武士が返り忠に走ったのも、有力御家人が自分に都合の良い錦の御旗を掲げたのも無理はなく、このことが室町幕府の盤石化を妨げ、後々の戦国の世に繋がったと見る人は多いだろう。
 非情になり切れず、大鉈を振るえなかった尊氏の責任も小さくないが、節操なく武士を利用し、大義名分を振りかざしまくった後醍醐天皇、及びそのやり方を(遺言に従ってだが)受け継いだ南朝方の在り様も眉を顰められて然るべきだろう。


弁護伍 根強く残った人望
 戦に強く、気前良く、部下に優しい足利尊氏は人望が厚かった。それとは対称的に直義は冷静沈着で、金品のやり取りを嫌い、理詰めなところがあったから、多くの武士にとって、直義には「とっつきにくい。」という面があったことだろう。
 ただ、尊氏も直義も各々の長短所を能く弁えていたので、一貫性を持っていた。必要に応じて立ち居振る舞いを変えることが無かった。それ故、尊氏ほどでは無くても、直義にも人望はあった。否、尊氏のそれと比べられると可哀想と云えようか?

 それを具現化した人物が一人いる。足利直冬(ただふゆ)である。
 直冬は尊氏の庶子で、直義の養子となった人物である。『太平記』によると庶子ゆえに実父から冷遇され、幼くして僧侶となり、素行は良くなかったが、有能だったことで後に子のない叔父・直義の養子となった、とされている。
 そんな直冬を尊氏はなかなか実子と認めず、面会すら拒んだと云われている。まあ、『太平記』の記述を鵜呑みにする訳にはいかないので、尊氏が直冬を冷遇したのか否かは一概に云えない(同書以外に直冬の事跡を著した史料は少ない)が、直冬が実父以上に養父を慕ったのは事実だった。

 それ故、直冬は直義に従い続け、直義が兄と対立すると直冬は躊躇うことなく養父に従った。勿論、直義と尊氏の対立は単純なものでは無かったので、直冬も時には尊氏の命令で実兄・義詮の救援に向かったこともあったが、最終的に直義が尊氏に降伏し、急死した後も直冬は九州・中国地方を転々としつつ、尊氏・義詮に抵抗し続けた。
 そんな直冬の没年は不詳なのだが、それ自体が最後まで尊氏サイドに復さなかったことを意味している。
 尚、尊氏は自身が世を去る直前に、直義を従二位に叙するよう後光厳天皇に願い出、年月日は不詳であるが直義は正二位を、康安二(1362)年に「大倉宮」の神号が贈られた。兄弟相克は互いが周囲に担がれた悲劇だったが、直義は尊氏にも、直冬にも愛され、尊氏に続く義詮・義満もその存在を重んじていたことが歴史の随所に垣間見えるのである。
総論 足利直義と尊氏の兄弟に関しては過去作「日本史『賢兄賢弟』」にて採り上げたことがあります。例によってこちらも参照して頂けると嬉しいです(笑)。
 実の所、直義は本来本作で採り上げるべき人物ではなく、彼の有能さ、兄弟愛、人としての長所は薩摩守が語るまでもないとすら思っています。それでも採り上げたのは、政治的混乱や周囲の担ぎ上げによっては有能な人格者であっても道を誤ったり、悲惨な最期を遂げたりすることが避けられないことがあるというのを訴えたかったからに他なりません。

 個人的には尊氏も直義も好きなので、『太平記』にある様に「尊氏が直義を毒殺した。」という説には否定的………というか、否定したいのが本音です(苦笑)。
 確かに高兄弟が死んだ丁度一年後に死んだのは自然死としては怪しいのですが、政治的に返り咲けないことを絶望した直義が高兄弟の死に当てを突けるように自害したのが真相ではないか?と考えています。

 過去作でも触れましたが、尊氏と直義は平和な世に生まれるか、或いは戦乱の世でも中小大名家に生まれていれば周囲に変な担がれ方をされることもなく、互いの長所で短所を補完し合う理想的な賢兄賢弟として生涯を遂げたのではないか、と考えています。



足利義詮 (あしかがよしあきら 元徳二(1330)年六月一八日〜貞治六(1367)年一二月七日)
概略 室町幕府第二代将軍。室町幕府の始祖となった父・尊氏と、南北朝統一を成し遂げて室町幕府最盛期を築いた息子・義満の間に在って何かと影の薄い人物である。

 嫡男に生まれたことから幼くして尊氏の後継者兼名代として新田義貞の軍勢に合流して鎌倉攻めに参加し、建武の新政では、叔父・直義に支えられて鎌倉に置かれ、尊氏が後醍醐天皇と袂を分かった後も主に鎌倉において関東統治に尽力した。
 直義の補佐を受けたことで政治力に優れる一方で、尊氏程には戦に強くなく、観応の擾乱で直義と高師直が共倒れとなると義詮は京都へ呼び戻され、南朝方と戦うも北畠親房や楠木正儀等が京都へ侵攻すると、京を追われて近江へ避難。結果、光厳、光明、崇光天皇の三上皇及び皇太子の直仁親王を奪われ、その後も異母兄・直冬や山名時氏等に敗れては度々京都を追われた。

 尊氏死後に第二代征夷大将軍となるも、三種の神器を擁して正統を声高に主張する南朝方に対して北朝方の一枚岩を保持出来ず、京都を奪い奪われを繰り返した果てに九年後に南北朝と一を見届けることなく没した。
 確たる成果を為せず、色濃い初代と三代目の狭間にいた彼は果たして無能なボンボンなのか?それても優れた中継者なのか?そんな足利義詮をプロ〇ァイル!(←岡●准□っぽく)
弁護壱 名作の犠牲者がここにも………。
 前頁の楠木正儀同様、足利義詮もまた『太平記』にて損な役回りを振られた人物である。同書では他者の口車に乗り易く、酒色に溺れた愚鈍な人物として描かれたが、他の伝記や史料を見る限り、義詮は悪く云えば「毒にも薬にもならない」人物ではあったが、別の味方をすれば「可もなく不可もなし」と云える。
 詳細は他の弁護に譲るが、義詮が尊氏の後を継いだ時点の世情は極めて混沌としており、単純に個人の能力だけでどうこう出来る状態とは云えなかった。その中で義詮は目を見張る成果こそ上げられなかったが、北朝方の基盤地盤は保っており、息子である義満の代に南北朝統一を達する足掛かりは残していた。
 少なくとも最低限の能力・人望がなければ南北朝動乱にて勢力を保つのは不可能で、『太平記』に書かれた様な、無能な人物であればそれは出来なかっただろう。何せ野心に燃える有力守護にしてみれば、義詮が頼りない主君と見限れば、直冬(庶兄で叔父・直義の養子)、基氏(後の鎌倉公方)と云った弟達を担ぎ上げることは充分可能だった。

 少なくとも義詮『太平記』に掛かれたような人物と見るべきでないことは断言出来るだろう。


弁護弐 叔父譲りの政治力
 個人的見解を一つ述べると、薩摩守は足利一族をそれなりに有能な一族と見ている。勿論「氏より育ち」という言葉がある様に、有能な一族に生まれたから有能に育つとは限らないし、どんな人間にも優れたところはある。
 五代目・義量や七代目・義勝の様に実権を握る前に夭折した者は判断のしようがないが、一般に歴史上白眼視されている八代目・義政も芸術面での見る目は確かで、一〇代目・義稙・一五代目・義昭の様に何度倒れても這い上がる精神力の持ち主もいて、そんな義昭をどの権力者もついには殺せなかった。

 そんな足利一族の能力面における特徴を一言で捉えれば、「得意分野に特化し過ぎ」と薩摩守は見ている。別の見方をすれば、「得意分野における行動力が目立ち過ぎて、他が霞んでいる」と云える。
 尊氏を例に挙げると、文化人や政治家としてそれなりの力量を持ちつつも、戦場での勇猛さや、将としての部下への接し方や生来の人の良さが抜きんでていて、「戦馬鹿」に見られかねない傾向がある。

 ここで話が義詮に戻るが、義詮は足利一族に在って少し例外的に見える。
 抜きんでた得意分野が見当たらないが、逆に極端な欠点も見受けられない。そんな中、さすがに軍事や将としての在り様を父と比べられると可哀想だが、将としてもそれなりに活躍し、同時に政治家としては叔父・直義に似たのか、それなりの敏腕を振るった。
 政治に関しては尊氏存命中から尊氏の留守居を務め、半済令(荘園からの税収において武士の権益を守る法)を出して武士の経済力を確保し、更には細川清氏や斯波が一時失脚(貞治の変)した際に、これに逆手に取って守護勢力を抑制し中央の将軍権力を高めるといった離れ業も発揮した。

 室町時代に安定期が少なく、最終的に戦国時代に突入した要因は有力守護大名の力が強過ぎ、幕府と云えどもこれをなかなか制御出来なかったところにあった。それゆえ、例え一時的でも幕府の権威を高め、安定をもたらした将軍はかなりの政治力の持ち主と云えよう。
 そして南北朝動乱の陰に隠れてしまっているが、安定に最善を尽くした義詮もそこにカウントされると薩摩守は考えるのである。


弁護参 苦手分野は部下を使って
 少し前述しているが、義詮は個人としては目を見張る行動を見せていない。
 勿論、上述した様に優れた政治力を持っていたし、父に及ばずとも将としての戦果も挙げている。何せ楠木正成を討ち取ったのは義詮の軍なのである。

 義詮の軍事力・政治力によって向背定まらなかった中国地方の大内弘世・山名時氏、足利氏の支族で南朝方に降っていた仁木義長・桃井直常・石塔頼房等も幕府に帰参した。そんな義詮だが、南北朝の対立に加え、九州の懐良親王の様に地方に独自勢力を築く者までいて、体が幾つあっても足りない状態だった。
 自分だけで手が足りないとなると、政権の長が採る道は一つで、部下に託すことになる。

 例を挙げると、地方で独自勢力を張る手合いに対して義詮は奥州に石橋棟義を、九州に斯波氏経、渋川義行を派遣し、鎮撫に勤めた。九州平定は実現せず、南朝方の主張する大義名分の前に幕府内にも向背常ならぬ者達が存在したが、そんな簡単に周囲が信用出来ない中、部下を使うことに優れていた義詮の指揮能力はかなりのものが有ったと思われる。
 細川清氏が南朝に降って以降空席だった管領には斯波義将を据え、義将が失脚すると細川頼之を据えたが、この人選は概ね正解だった。そして内政と軍事を上手く周囲に託すことで義詮自身は文化面と対南朝講和に尽力し、そんな義詮の前に南朝方は幾度か京を奪って優位に立ちつつも、確固たる軍事的・政治的優位は遂に築き得なかった。

 対朝廷、対有力守護、対悪党、対公家と様々な揉め事に着手しなければならなかった南北動乱期は如何に有能な者がトップに立っても個人で処理し切れるものでは無かった。故に部下を如何に使いこなすかが大切だが、その部下とて身内間の権力争いや野心で簡単に室町幕府に背を向ける状況にあった。
 そんな中、それなりに人を使いこなした義詮は最もっと評価されて良い人物と云えよう。


弁護肆 今際の際に有効策を
 義詮の享年は三八歳で、はっきり云って若死にである。もっとも、足利将軍一五代の面々は概して短命だった。
 病没したのが一三人だが、その中で最も長命だったのが義昭(一五)の六一歳で、他に還暦を迎えたものは一人もいない。
 簡単に列記すると、

 五〇代で死去………尊氏(初)・義満(三)・義政(八)・義稙(一〇)
 四〇代で死去………義持(四)・義晴(一二)
 三〇代で死去………義詮(二)・義澄(一一)・義栄(一四)
 二〇代で死去………義尚(九)
 一〇代で死去………義量(五)・義勝(七)

 時代の平均寿命を考慮しても長寿とは縁遠い一族である。
 義詮の死因が病没なのは間違いないが、彼が常日頃身体頑健だったのか、それとも病弱だったのかは詳らかではない。ただ、彼が待望の世継ぎ・春王(義満)を設けたのは尊氏が没した一〇〇日後で、義詮の臨終時にはまだ一〇歳の幼さだった。
 後世に生まれて歴史を知る我々は義満が歴代足利将軍の中でも最も権勢を振るった人物に成長したのを知っているが、そんな義満が幼少時より聡明だったとしても、さすがにこの年齢で政治が出来る筈はない。当然側近の補佐を必要とし、それを託されたのが細川頼之だった。
 義満と頼之の関係は過去作「師弟が通る日本史」「『君側の奸』なのか?」で触れているので、本作では割愛するが、義詮の人選は大正解だったと云える。

 上述した様に、軍事では父に及ばなかった義詮だったが、それでも苦手分野を有能な家臣を上手く用い、託す成果を挙げており、これに関しては父・尊氏より優れていたと云える。つまりは「人を能く用いる」ことに優れていたと云え、幕府を作る人物としては自身の能力が優れている必要があるが、幕府を守る人物としては自身の生能力よりも人を使う能力に優れている方が好ましい。ある程度幕政が落ち着いた段階で将軍となっていれば、義詮の評価はもっと大きくなっていたのではあるまいか?

 過去作で触れているが、義満と頼之とて当初は無敵では無かった。頼之に反発する守護大名のリコールを若き日の義満は抑え切れず、義満は頼之の管領職を解任した(康暦の政変)。だが後に力を得た義満は頼之を中央に復帰(表向きは頼之の養子が義満側近を務めた)させ、二人は室町幕府時代でも屈指のコンビネーションを発揮した。
 さすがにここまでの未来を義詮が予見していたとは云わないが(苦笑)、力不足と失脚を乗り越えて強力なコンビネーションが発揮されたのだから、義満と頼之がくっついたことは大正解で、これは相当に両者の馬が合い、且つ能力的にも噛み合った訳で、かかる遭遇は容易には訪れない。恐らく、義詮には義満のために頼之に対して強く思うところがあったのだろう。
総論 惜しむらくは足利義詮の生まれ落ちた時代が混迷し過ぎ、尚且つ、義詮の天寿が短過ぎました。
 『太平記』では悪く書かれ、存命中に南北朝統合が為せず、創始者である父と最盛者である息子の間で影の薄い人物となったことが義詮の不運と云えばそれまでですが、少なくとも史書・史料を丹念に読んでいけば、それなりに有能で、将器もあり、誰が政務を担っても一筋縄ではいかなかった時代に最善を尽くした人物であることが分かり、今しばらく長命であれば、自身の代で南北朝統合を果たせていた可能性があることが伺えるでしょう。

 確かに南北朝を統合し、室町幕府最盛期を築いたのは息子の義満で、そんな義満の手腕が当代随一であったことに疑いの余地はないのですが、その義満とて、義詮の残した地盤・人脈・教訓無しに成果が発揮出来たと思わないのは薩摩守だけではないでしょう。


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令和六(2024)年八月九日 最終更新