第壱頁 源義経…敵と身内に追われ続けた人生

氏名源義経
生没年平治元(1159)年〜文治五(1189)年閏四月三〇日
追跡者平清盛・源頼朝
主な流浪先奥州平泉
匿ってくれた恩人藤原秀衡
主な同行者武蔵坊弁慶、源行家、佐藤忠信
流浪の目的延命
流浪の結末潜伏先の平泉にて襲撃を受け、自害
略歴 平治元(1159)年に清和源氏の棟梁・源義朝を父に、常磐御前を母に、九男として生まれた。幼名は牛若丸
 生後すぐに平治の乱にて父・義朝が敗死し、母・常磐御前に伴われて同母兄・今若、乙若とともに雪中を逃走するも、常磐はその母を平清盛に捕えられて出頭。常磐が清盛に身を委ねることで助命され、寺に預けられた。

 長じて、母の再婚相手の縁で鞍馬寺から奥州平泉へ下り、奥州藤原氏の当主・藤原秀衡の保護を受けた。
 治承四(1180)年八月に兄・頼朝が伊豆国で挙兵すると、これに馳せ参じ、富士川の戦い直後に黄瀬川の陣で涙の対面を果たした。
 義経と範頼(義朝六男)の加勢を得た頼朝は二人に遠征軍の指揮を委ね、自らは本拠地の鎌倉にて東国の地固めに専念した。

 寿永二(1183)年、先に平家を追って入京した従兄の木曾義仲と後白河法皇の仲が険悪になると頼朝の元に法皇より義仲追討の院宣が下され、頼朝の命を受けた義経は寿永三(1184)年に範頼と合流し、一月二〇日、宇治川の戦いに勝利し、粟津にて義仲を討ち取った。

 続いて範頼・義経は平氏追討を命ぜられ、二月七日に一ノ谷の戦いで有名な鵯越の逆落としによる奇襲を敢行し、これに勝利した。
 しかし義経は直後に、頼朝に無断で検非違使任官を受けたことから頼朝の不興を買って遠征軍から外された。
 しかし範頼軍の苦戦からすぐに戦線に復帰し、元暦二(1185)年二月、暴風雨を潜り抜けての奇襲で四国讃岐にて屋島の戦いに勝利。そして三月二四日、壇ノ浦の戦いで遂に平氏を滅ぼした。

 平宗盛を捕え、三種の神器の内の二つ(鏡・勾玉)を奉じて四月二四日に京都に凱旋した義経だったが、頼朝の許可なく官位を受けたことで頼朝の怒りを買い、鎌倉入りを阻まれた。
 兄・頼朝に叛意のないことを記した有名な腰越状を大江広元に託すも、兄の許しは得られず、六月九日に宗盛父子・平重衡を伴って京都に戻ることを命じられ、さすがに義経も頼朝を恨むに至った。

 近江にて宗盛父子を斬首した義経は一〇月一七日に頼朝が放った刺客六〇余騎の襲撃を受け、叔父の行家とともにこれを撃退。刺客の首を晒すと、行家と共に挙兵した。
 翌日後白河法皇より頼朝追討の院宣を得たが、賛同者は少なく、当てにした法皇は頼朝の圧力を受けて義経追討の院宣を出す始末だった(←本当に誰か何とかしてくれ、この大天狗…)。
 頼朝が軍を起こすと義経は再起の為の行動を起こさんとした、天候に味方されず、立ち往生した。また、政治力では断然兄の方が一枚も二枚も上手で、義経追討の院宣に続き、義経を捕えることを名目に守護と地頭が全国各地に置かれた。
 そしてこの間に叔父の行家が討たれ、静御前が捕えられ、各地の労党達も捕えられたり、殺されたりした。
 畿内に寄る辺をなくした義経は奥州平泉に藤原秀衡を頼って、配下とともに山伏と稚児の姿に身をやつして落ち延びた。

 秀衡は義経を手厚く遇してくれたが、文治三(1187)年一〇月二九日に没し、頼朝は秀衡の遺児達の仲の悪さに付け込んで、院宣を発して嫡男・泰衡に、義経を引き渡すよう圧力をかけた。
 臨終の際に秀衡は義経を将軍として鎌倉方と対抗するよう遺言したが、頼朝の圧力に屈した泰衡は文治五(1189)年閏四月三〇日、兵五〇〇騎をもって十数人足らずの義経主従を衣川に襲った。
 武蔵坊弁慶を先頭に郎党達は死力を尽くしたが、衆寡敵せず全滅し、義経は持仏堂にて正妻・郷御前、娘とともに自害して果てた。源義経、享年三一歳。


流浪の日々 源義経こと牛若丸が最初の逃亡を余儀なくされたのは平治元(1159)年に父・義朝が平治の乱に敗れたことにあった。
 乱は平治元(1159)年一二月に始まり、永暦元(1160)年三月に終結した為、逃走時の牛若丸は数え年で二歳。当然自力逃走はままならず、同母兄・今若、乙若とともに母・常磐御前に伴われてのものだった。
 逃亡先は大和だったが、上述した様に、常磐はその母を人質に取られたために平清盛の下に出頭したことで最初の逃亡生活は終了し、牛若丸は僧への道を強要された。


 次の逃亡は一一歳の時である。
 嘉応元(1169)年に母の再婚に伴って鞍馬寺に預けられた牛若丸遮那王(しゃなおう)と名乗ったが、すぐに鞍馬寺を出奔し、自らの手で元服を行い、源義経を名乗った。

 『平治物語』では近江国蒲生郡鏡の宿で元服したとされているが、『義経記』では父・義朝が最期を遂げた尾張にて元服し、源氏嫡流に代々受け継がれた「」の字(例:頼家・為朝・平)と、清和源氏初代・経基王の「」の字を取って、「義経」と名乗ったとしている。
 鞍馬寺を出奔した義経は、母の再婚相手である一条長成の従兄弟の子・藤原基成が奥州藤原氏三代目当主にして鎮守府将軍であった藤原秀衡の舅だった縁を頼って奥州平泉に下った。後に秀衡が逝去した折に義経は「(秀衡のことを)父とも想っていたのに…。」と述懐して滂沱に暮れたというから、少年期に匿われたことへの感謝の念は推して知るべし、であろう。

 治承四(1180)年に異母兄・頼朝の挙兵を知った義経は、兄のもとに馳せ参じたが、当初、秀衡は義経の参陣に反対した。
 源平が恐れた大物・藤原秀衡には平家滅亡後の義経の運命が見えていたのかもしれない。
 しかし義経の決意が覆らないのを悟った秀衡は佐藤継信・佐藤忠信兄弟等およそ数十騎を同行させた(この兄弟が義経の為に死力をつくしたのは云うまでもない)。
 そして元暦二(1185)年三月二四日、壇ノ浦の戦いに勝利して、悲願だった平氏滅亡を果たした義経だったが、頼朝に許可なく任官を受けたことや、梶原景時の讒言もあって、既に頼朝にとっては厄介者でしかなかったことから、三度目の逃亡人生を余儀なくされた。

 義経が頼朝に憎まれることとなった数々の要因やその責任についてはここでは語らないが、結果として四月二四日、京都に凱旋した義経だったが、兄・頼朝はその九日前の四月一五日に無許可で朝廷から任官を受けた関東の武士等に対し、それを罵り、京での勤仕、東国帰還禁止を命じていた。
 勿論義経も例外ではなく、鎌倉腰越まで戻りながら、頼朝との対面は叶わず、捕虜である平宗盛父子・平重衡を伴わっての帰洛を命じられ、さすがの義経も頼朝を恨み、「関東を怨む者は、義経に属くべき」との捨て台詞を吐くに至った。
 勿論、こんな暴言を許すイキモノではない頼朝は。彼は義経の所領をことごとく没収し、その累は舅の河越重頼にも及んだ。

 九月、京に戻った義経の様子を探る為、頼朝は梶原景季(景時嫡男)を京の六条堀川にいる義経のもとに遣わし、叔父・源行家を過去に木曾義仲に従った咎で追討するよう要請させたが、義経は病と同族の行家を討つことの躊躇い理由に断った。
 報告を受けた頼朝は義経の釈明を「仮病」・「既に行家と結託している」と見做し(ま、実際その通りだったが)、一〇月一七日は土佐坊昌俊以下六〇余騎が刺客として堀川に送られた。

 自ら門戸を打って出て応戦する義経に行家が加わり、刺客達は返り討ちにされた。
 捕らえた昌俊から、襲撃が頼朝の命であったことを聞き出した義経は昌俊を晒し首にして、行家と共に打倒頼朝の兵を挙げ、後白河法皇に再び奏上して、翌一〇月一八日に頼朝追討の院宣を得た。
 しかし、上記に示した様に、挙兵は失敗し、頼朝の脅迫に屈した法皇は、今度は義経追討の院宣を出す始末だった(←やっぱり何とかして欲しい、この二人…)。

 当初は九州での再起を図った義経主従一行は、一一月三日に緒方氏を頼って離京し、多田行綱の襲撃を撃退しつつ、六日に摂津国大物浦(現:兵庫県尼崎市)から船団を組んで九州へ船出しようとしたが、途中暴風のために難破し、摂津に押し戻された時には主従は散り散りになってしまい、さしもの義経も九州行きを断念せざるを得なかった。

 直後に義経・行家逮捕の院宣と、赴任された守護・地頭が諸国を駆け巡った。
 吉野に身を隠していた義経だったが、追討を受け、静御前が捕らえられた。吉野を逃れた義経は頼朝に反感を持つ貴族・寺社勢力に匿われて京都周辺に潜伏するも、翌文治二(1186)年五月に和泉国で行家が討たれ、各地に潜伏していた郎党達も次々と発見され殺害された。
 追い打ちを掛けるように同年一一月に頼朝は京に対して「義経に味方するならば大軍を送る」と恫喝し、遂に義経は奥州行きを決意した。
 義経は追捕の網を掻い潜り、伊勢、美濃、加賀を経て、北陸道から奥州へ向かい、平泉に身を寄せた。一行は山伏と稚児の姿に身をやつしていた訳だが、このスタイルで安宅(あたか)の関で義経一行と見咎められた際に機転を利かせた弁慶が義経を殴りつけたことで関盛・富樫泰家は一行が義経主従であることを察知しながら見逃した『勧進帳』のエピソードは余りにも有名である。


流浪の終焉 紆余曲折を経て、奥州平泉・藤原秀衡の元に辿り着いた源義経一行は、「義経を引き渡せ。」の院宣を笑って無視する秀衡の元で一時の安息を得た。
 義経の危機が去った訳ではなかったが、「流浪の日々」は終わった。

 しかし頼みの秀衡は文治三(1187)年一〇月二九日に病没した。
 死に臨んで秀衡は、義経を将軍に立て、兄弟一致団結して鎌倉に屈しないように泰衡、国衡、忠衡等、息子達に遺言したが、息子達の兄弟仲は決して良くなく、頼朝の圧力に屈した泰衡は義経殺害を決意した。

 文治四(1188)年二月には出羽に出向いて鎌倉方と応戦して、秀衡の恩義に報いんとしていた義経だったが、文治五(1189)年閏四月三〇日、衣川館に居する義経主従十数人足らずの元に、泰衡が放った兵五〇〇騎が襲いかかった。
 武蔵坊弁慶を先頭に郎党達は死力を尽くしたが、衆寡敵せず全滅し、先頭に立った弁慶は有名な立往生を遂げ(←勿論伝説の域を出ないものですがこれぐらいの贔屓はさせて下さい)、鈴木重家、亀井重清、片岡為春、鷲尾三郎、備前平四郎等が次々と討死または自害し、義経自身は覚悟が決まっていたのか、敵と干戈を交えることなく、持仏堂にて正妻・郷御前、娘とともに自害し、増尾兼房が介錯して、持仏堂に火を放った。源義経、享年三一歳。

 自害した義経の首は美酒を入れた首桶に浸けて頼朝の元に届けられ、首実験の結果、歴史的には源義経の死が確定した。
 だが、判官贔屓から様々な義経不死伝説が生まれ、衣川よりも北方の、蝦夷地、更には樺太、大陸、モンゴルに渡ったとの伝説までが生まれたが、その辺りの詳細は拙サイト・『生存伝説…判官贔屓が生むアナザー・ストーリー』を参照して頂きたい。


流浪の意義 源義経の三度の逃亡人生は表面的には延命が目的であった。
 最初の落ち武者狩りからの逃亡は義経こと牛若丸に自らの意思で行いようもなかったが、二度目の奥州行きと、三度目の奥州行きは完全に自らの意思によるものであった。

 伝説を完全に排除すると義経が史書の上にその名を見せるのは貴瀬川の頼朝の元に参上した時から、衣川に自害するまでの九年間に過ぎない。だから源義経の人物像は日本史上の超有名人物でありながら、謎が多いのだが、薩摩守は彼をなかなかの頑固者と見ている。
 ここからは薩摩守の推測が大方を占めるのだが、鞍馬寺から平泉への人生二度目の逃亡を敢行した義経の胸の内にあったのは打倒・平家の一念だろう。
 勿論、その意がばれたら命はない。
 実際、平治の乱後、兄・頼朝が伊豆にて監視付きの生活を送っていた訳だが、他にも希義(義朝五男)は流刑先の土佐で殺され、範頼(義朝六男)は存在を知られていなかったために事無きを得、同母兄でもあった阿野全成(義朝七男)、義円(義朝八男)は僧の生活に徹していた。
 義経も命を永らえるだけなら平家都落ちまで僧としての生活に徹していればよかったのだが、僧のままでは武者修行も積めない訳で、それゆえに義経の平泉行きが自らの手でいつの日か平家を討つことを目指したものであったことは明白だろう。
 自らが立たずとも平家を討つ道はあったのだが、北方への逃亡と潜伏を選んだことに義経の意志の強さがみられる。

 そして最後の逃亡だが、これまた表面的には頼朝の害意からの逃亡に見える。
 義経は京にて院宣(=大義名分)を得て頼朝追討の挙兵をした訳だが、前日に刺客の襲撃を受けており、命を狙われたとあっては、充分理解出来る行動である。
 だが、義経に頼朝に対する反感がそれ以前から全く無かった訳ではない。
 一ノ谷の戦いの直後に、兄・範頼は三河守に任ぜられているが、功労者である義経には何の沙汰もなく、後白河法皇から検非違使の位を貰うと、頼朝は激怒して義経を軍役から外した。
 また壇ノ浦の合戦後に、頼朝に無許可で官位を得たために鎌倉入りを阻まれた際も、腰越状にて五位の位を授かったことを「当家の名誉」として、自らの任官を不当なものでないとしていた。
 悪意的に見れば、「武家政権樹立を目指す為に朝廷からの官位拝領を禁じた頼朝の気持ちが丸で分かってなかった」と云えるし、善意的に見れば「どこまでも源氏の名誉と、朝廷への忠勤に励んでいる」とも云える。
 事の是非や互いの云い分は別にせよ、義経は自らが理解されないことに対して、腹を立てていたのは間違いなく、頼朝のやり方に不服な者は自分について来い、との捨て台詞も吐いていた。

 積極的に頼朝を殺そうと思っていた訳ではなさそうだが、自らの云い分にはかなり執着し、譲る気配は微塵も見られなかった。

 結局の所、義経の逃亡生活は平泉にて終了した。
 秀衡が没した翌年には出羽にて鎌倉軍と一戦を交えたり、そのまた翌年の文治五(1189)年一月には義経の京都へ戻る意思を綴った手紙を持った比叡山の僧が鎌倉方に捕えられたり、と義経が鎌倉方を敵とした戦闘行為を取っていた訳だが、同年閏四月三〇日に泰衡の襲撃を受けた際には、義経は一切の戦闘行為を行っていない。
 弁慶を始めとした配下が奮戦したのも、自害する為の時間稼ぎだったのだろう。
 伝説こそ義経を死なさず、北方や大陸への逃亡を続けさせたが、学会ではこれらの生存伝説は相手にされておらず、薩摩守も義経は衣川で死んだと見ている。
 義経の言にあった様に、彼にとっての父は顔も知らない実父・義朝よりは、少年期から青年期の成長過程の育ての親となった藤原秀衡の方だったのだろう。
 数々の魔の手を逃げた義経が平泉からは逃げずに、泰衡とも争わなかったところに三一年に終わった義経の真の人情を見て取れないものだろうか?


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令和三(2021)年五月二五日 最終更新