第弐頁 足利義稙…唯一「重祚」した征夷大将軍

氏名足利義殖
生没年文正元(1466)年七月三〇日〜大永三(1523)年四月七日
追跡者厳密には無し
主な流浪先越中・周防・阿波
匿ってくれた恩人神保長誠・大内義興
主な同行者畠山政長・畠山尚順・大内義興・細川高国
流浪の目的将軍位奪還
流浪の結末一度は成功。最後は阿波にて客死
略歴 戦国房初登場の室町幕府第一〇代将軍・足利義稙(あしかがよしたね)は、応仁の乱から美濃に逃れていた足利義視(あしかがよしみ)を父に、裏松重政の娘を母に文正元(1466)年七月三〇日に生まれた。初名は義材(よしき)。
 父・義視は八代将軍足利義政の弟で、義政の実子が夭折したことから、還俗して九代将軍になることを要請されたが、程なく、義政に実子・義尚(後に九代将軍)が生まれたために、義材出生の翌年に応仁の乱が勃発した。

 応仁の乱はいずれが勝者ともつかぬまま自然消滅的に終結したが、乱中の文明五(1473)年に第九代征夷大将軍に就任していた義尚は、長享三(1489)年三月二六日に近江の六角高頼征伐の在陣中に死去した。
 義尚逝去の報を受けた義材は父・義視に伴われて上洛し、義尚の葬儀に参列。勿論義尚の後継者となることを狙ってのことであった。

 薩摩守が「戦国時代勃発元凶のA級戦犯」と見ている日本史上屈指の優柔不断男・足利義政は、このとき後継者を決めることが出来ず、候補者としては義材と、他に従兄の香厳院清晃(後の足利義澄)が挙げられたが、結局は将軍不在のまま義政が引き続き幕政を見ることになった。
 だが、翌延徳二(1490)年一月七日に義政は没し、義材が義政の養子として第一〇代征夷大将軍に就任した。


 政治の実権は「大御所」と称した父・義視が握った(←将軍に就任していないのに態度のでかい奴だ)が、父・義視は伯父・義政が没した丁度一年後の延徳三(1491)年一月七日に逝去した。
 義視の死後、義材は前管領の畠山政長と協力して独自の権力の確立を企図したが、自らを立ててくれた日野富子(義政未亡人)や、清晃支持派の細川政元等と対立が生じた。

 同年八月、前将軍・義尚の遺志を継いで、六角高頼征伐を再開。自ら近江に出陣して高頼を追放した。
 明応二(1493)年二月には、畠山政長の要請で、畠山義豊討伐の為、河内に赴いた。
 しかし、義材の離京に乗じて、細川政元、日野富子等は同年四月、清晃を擁立して義材を廃するクーデターを敢行し、京にて義材派は次々と粛清された(明応の政変)。

 この醜い争いに、自分が任命した将軍である義材の廃立を怒った後土御門天皇は、一時、抗議のため退位を表明する始末だった。
 一方で政元は軍隊を河内に派遣して義材・政長を打ち破った(政長は自害)。
 義材は政元の家臣上原元秀の陣に投降し、京都の龍安寺に幽閉された。

 幽閉中、流刑に処されることを知った義材は京都を脱出して越中国放生津(畠山氏の領国)に下向し、畠山政長の家臣・神保長誠を頼った(それゆえに義材には越中公方(越中御所)の通称がある)。
 明応七(1498)年九月に政元側との和睦交渉進展と見た義尹(よしただ:義材より改名)は越前の朝倉貞景の元へ移った。ところが和睦は不調となり、義尹は武力による将軍位奪還を決意して上洛の兵を起こした。
 延暦寺、根来寺、高野山の僧兵も義尹に呼応し、一時は近江まで迫ったが、近江で六角高頼に敗れ、更に河内に逃れたがここでも政元に敗れて、義尹は周防の大内義興(おおうちよしおき)を頼った。


 永正四(1507)年六月二三日に細川政元が暗殺され、細川家分裂状態を好機と捉えた義尹は永正五(1508)年四月に大内義興の軍事力をバックに、分裂する細川家からは細川高国の支援を受け、他にも中国・九州の諸大名とともに上洛した。
 同年六月、京都を占領した義尹は、第一一代征夷大将軍となっていた足利義澄や管領細川澄元を追放し、七月一日に従三位権大納言に任ぜられたのと同時に征夷大将軍宣下を受け、将軍職に復帰した。

 義澄派との抗争は、永正八(1511)年八月一四日に義澄が三二歳の若さで病没し、直後の船岡山の戦い義尹派が勝利。義尹は名を義稙と改めた。
 しかし親政志向の強かった義稙は支援者だった細川、大内、畠山の諸氏と対立し、永正一〇(1513)年三月に義稙は一時京都を出奔して甲賀に逃れ、当地で病を発した。
 重病に陥るも回復し、五月に和解が成立して義稙は京都に戻った。

 しかし永正一五(1518)年に大内義興が帰国すると、義稙と細川高国は再度対立。
 大永元(1521)年三月、義稙は再び和泉堺に出奔した。これは同月に予定されていた後柏原天皇の即位式直前のことであったため、天皇は激怒して高国に即位式の準備を命じ、式を挙行させた。
 高国はこれに乗じて、新将軍として義澄の遺児・義晴を擁立した。義稙は和泉から淡路に逃れ、再起を図るも、高国に敗れ、大永三(1523)年四月九日、阿波撫養(現:徳島県鳴門市)で病死した。足利義稙、享年五八歳。


流浪の日々 足利義稙の流浪は父・義視の代に始まっていた、といっても過言ではない。
 本来、義視は、義稙の伯父・義政の養子として第九代征夷大将軍となる筈だった。僧籍にあった義視は還俗に際して、義政に「男児が生まれたらどうするのか?」と確認したところ、義政は「すぐに僧にする。」と約束していた。
 恐らくは義政だけが問題なら、義視の将軍就任は実現していただろう。
 しかし、後になってから義政の子・義尚を生んだ日野富子はそんな夫と義弟の約束に素直に従う玉ではなく、義政もそんな妻を抑えて約束を履行する様な硬骨漢では決してなかった。

 結局、そんな足利兄弟の馬鹿な対立が応仁の乱を起こし、それがために義視は京都に留まれず、逃亡先の美濃で生まれたのが義稙であった(正確にはこのとき「義材」だが、以後は「義稙」で統一します)。
 つまりは足利将軍の地位及びその権力は全くもって盤石ではなく、当然のことながら、歴代将軍は自分の地位をバックアップする勢力を必要とし、彼等に敵対する勢力は対立候補を立てて、権益を手にせんとし、この安定の無さが後々の戦国時代突入に繋がった。


 義稙の場合は、(義尚死後に)自らを立ててくれた日野富子(義政未亡人)や、香厳院清晃(=足利義澄)支持派の細川政元等と対立したことが権威・権力の脆弱化を生んだ。
 明応二(1493)年二月一五日に、畠山政長の要請で、畠山義豊討伐の為、河内に赴いた隙に富子と政元は四月、清晃を擁立して義稙を廃するクーデターを敢行。

 所謂、明応の政変であった。
 政元は、富子の他にも赤松政則、伊勢貞宗を抱き込み、四月二二日に清晃を還俗させて足利義澄を名乗らせると、第一一代征夷大将軍に擁立。富子も先々代御台所の立場から直接指揮を執って政元に京都を制圧させた。
 洛中の義稙派は次々と殺害され、その報に義稙軍は動揺し、伊勢貞宗が守護・奉行衆に対して新将軍(=義澄)に従うよう命じた密書が届くや、義稙の側近を含め、殆どが帰洛し、義稙側に軍としての態を為すことは不可能だった。

 義稙自身は初代・尊氏以来足利家に伝わる家宝の甲冑「御小袖」と「御剣」だけを携えて政元の家臣・上原元秀の陣に投降することで京都竜安寺にて幽閉されることで命を永らえた。
 しかし、出兵の機会となった畠山政長は河内国正覚寺城内にて自害。父・義視以来の側近であった葉室光忠は処刑された。

 戦そのものは呆気なかったが、後に後に与えた影響は甚大で、この対立が後々の足利義視流と足利政知(義澄の父・義視の兄)流が対立する基となった。
 竜安寺内で小豆島に流されることを知った義稙は六月二九日に側近等の手引きで京都を脱出して畠山氏の領国・越中国放生津に下向。政長の重臣、射水郡分郡守護代・神保長誠を頼った。


 この下向には義稙派の幕臣・昵近公家衆・禅僧ら七〇人余りがつき従った。
 五年後の明応七(1498)年九月に政元側との和睦交渉進展と見た義稙は越前の朝倉貞景の元へ移った。
 結局、和睦は不首尾で、義稙は武力による上洛と将軍位の奪還を決意した。
 付き従うは朝倉貞景、畠山尚順(政長の子)、延暦寺、根来寺、高野山の僧兵達だったが、京を目前にした近江で六角高頼に敗れ、落ちた先の河内でも政元に敗れて、尚順ともはぐれた(尚順は紀州に逃走)。
 最後に頼ったのは応仁の乱で父・義視に味方した縁を持つ周防の大内義興だった。

 周防に逗留すること八年、永正四(1507)年六月二三日に細川政元が暗殺され、細川家分裂状態に陥ると、翌永正五(1508)年四月に大内義興、九州の諸大名とともに上洛の途についた。
 途中の伊勢で細川一族からの内紛から義稙についた細川高国の手引きを受けて入洛に成功した。
 周防を出て二ヶ月後の六月、義稙は京都を占領して足利義澄・細川澄元を近江に追放し、七月一日に従三位権大納言に任ぜられたのと同時に征夷大将軍宣下を受け、将軍職に復帰し、逃亡生活に終止符を打った。


 逃亡生活はひとまず終了したが、その後も義澄派との抗争はその後三年続いた。
 永正八(1511)年八月一四日に義澄が三二歳の若さで病没し、直後の船岡山の戦いに勝利したことで決着をつけたが、義稙が再び同じ過ちを犯すのに時間はかからなかった。

 親政志向……早い話、政権を自らの手にせずにはいられなかった義稙は自らを支えてくれた筈の細川、大内、畠山の諸氏と対立し、永正一〇(1513)年三月には一時京都を出奔して甲賀に逃れ、当地で病を発した。
 一時は死亡説が流れるほどの重病だったが、この時は何とか回復し、五月に和解して京都に戻った。

 永正一五(1518)年に大内義興が領内の事情から管領代を辞して領国に帰国すると、義稙と細川高国との対立は決定的となり、三年後の大永元(1521)年三月、義稙は再び和泉堺に出奔した。
 結果としてこの出奔は完全な裏目に出た。

 というのも、同月に予定されていた後柏原天皇の即位式直前のことであったため、義稙は天皇の怒りを買い、激怒した御柏原天皇は細川高国に即位式の準備を命じて予定通りに挙行させた。
 図に乗った高国は、朝廷の信頼を失った義稙に代わる新将軍として義澄の遺児義晴を擁立して第一二代征夷大将軍に据えた。
 失意の義稙は淡路に逃れ、再起を図るも、高国に敗れ、最後は阿波にて没した。


流浪の終焉 殆ど前述したが、足利義稙は人生において二度(父・義視に連れられてのものを加えると三度)、流浪を強いられている。そして一度目は将軍位復位の目的を遂げ、成功。しかし二度目は細川高国との抗争に敗れたまま阿波に客死し、復位が叶わないまま、流浪と人生の両方を終えた。

 墓所は徳島県阿南市の西光と、鳴門市の岡崎城跡にある将軍塚。法号は恵林院巌山道舜。流浪と亡命の人生を終えた義稙は前述の「越中公方」に加え、「流れ公方」「島の公方」とも称された。

 実子の無かった義稙(竹王丸という実子がいたにはいたが夭折)だったが、将軍位を巡って争った足利義澄の庶子・義維(よしつな)を養子としていた。
 義維は義澄の次男だったために阿波の細川家の元で育てられていた。それゆえ阿波に流れてきた義稙の養子となった訳だが、義稙の死後、義維は将軍職を継いだ兄の足利義晴と対立した(←足利家、こんなんばっか………)。

 将軍就任こそなかったものの、義維は一時堺に本拠を置いた状態で京都をも実効支配し、「堺公方」とさえ云われた。
 結局は細川家と三好家の内紛に巻き込まれ、妻の実家であり、養父・義稙同様、大内義興を頼ったりしたが、第一三代将軍足利義輝が松永久秀に殺されると、三好・松永の手によって義維の嫡子・義栄(よしひで)が第一四代将軍に据えられ、義維はこれを後見した。
 しかし義輝の弟・義昭が織田信長に伴われて上洛すると摂津にてこれを迎え撃たんとしたが、当の義栄が一度も入京することなく病死し、義維は阿波に戻ってその地で病没した。
 義維の死は義昭が信長によって京都を追放された三ヶ月後のことで、周防の大内を頼り、京を支配し、阿波に没した義維の人生は養父義稙の後半生に似たものとなった。

 そしてその間、足利将軍家は義稙流(義稙、義維、義栄)と義澄流(義澄、義晴、義輝、義昭)が将軍位を巡る「両統迭立」状況を呈し、その周囲で織田、朝倉、大内、細川、斯波の諸氏が血みどろの戦いを繰り広げ、その様は鎌倉末期から室町初期の南北朝時代の大覚寺統と持明院統に分かれ、その周囲で北条、足利、新田、楠木が争った両統迭立に似てもいた。
 足利義稙の流浪は二〇年足らずに終わるも、その影響はその後半世紀に及び、まさしく「歴史は繰り返す」を地でいったものだった。


流浪の意義 文正元(1466)年七月三〇日に生まれた足利義稙は長享三(1489)年に第九代将軍足利義尚逝去の報を受け、父義視に伴われて上洛したのが二四歳の時だった。
 延徳二(1490)年七月五日に二五歳で第一〇代征夷大将軍に就任し、在職五年で明応三(1494)年一二月二七日に明応の政変で将軍職と京を二九歳で追われた。
 そして一時降伏の後、越中に逃れ、越前、近江、河内、周防を経て大内義興の庇護を受け、細川家の内紛に乗じて将軍位に復帰したのが永正五(1508)年七月一日で、一三年半の流浪と亡命の果てに従三位権大納言叙任と同時に征夷大将軍に復帰したのが義稙四三歳の時だった。
 その後細川高国との抗争で和泉境に出奔後に大永元(1521)年一二月二五日に在職一三年半で将軍位を追われた時の義稙は五六歳だった。

 最終的に一年四ヶ月後の大永三(1523)年四月九日に病死した義稙の享年は五八歳。つまり義稙の流浪・亡命は一四年一〇ヶ月で、通算在職年数は一八年半で、辛うじて在職年数の方が流浪・亡命帰還を上回っているが、将軍就任前の前半生の半分を「応仁の乱の首謀者・足利義視の息子」として過ごした。

 詰まるところ、足利義稙の人生は将軍位を巡って身内と争い続けた、住処も地位も安住を許されなかった「流浪の人生」そのものだった。
 同時に初代にして高祖父の父・足利尊氏とその弟・直義の争い、
 第三代にして曾祖父・足利義満とその従弟にして鎌倉公方・足利氏満の対立、
 第四代にして大伯父・足利義持とその弟・義嗣の殺し合い、
 伯父にして第八代・足利義政・義尚父子と父・義視の応仁の乱を含む対立、
 といった足利一族内紛の歴史の継承でもあった。

 義稙の人生のみならず、足利一族自体が一枚岩とならなかったのには初代・尊氏が「優し過ぎた男」という所にあった。
 尊氏は武士の権益を守る為に、心ならずも後醍醐天皇と対立した(というか後醍醐が自己中過ぎたのだが)。
 しかし尊氏は後醍醐に対して非情に徹し切れず、尊氏自身は戦上手と人情の厚さで多くの武士を惹きつけるも、それでも弟・直義と側近・高師直、師泰兄弟の対立を鎮められず、武士の権益を重んじた為に、鎌倉幕府倒幕や室町幕府成立に合力した細川、斯波、山名、赤松、今川諸氏に大きな武力と権力を残した。
 つまりは尊氏が優し過ぎた故に室町幕府は有力守護大名との連合政権の色合いを濃くし、足利家を始め、管領家、有力大名家で家督を巡る権力抗争が絶えず、それは戦国時代の始まりに繋がった。
 勿論、尊氏一人の責任ではなく、自己中名後醍醐天皇と、無責任な皇族・公家、その後の政治を御し切れないどころか、内紛に走った足利家の後継者達の責任も大きいのだが。

 そしてそんな時代背景を背負って将軍位を巡る流浪と亡命に生きた足利義稙は鎌倉、室町、江戸を通じて唯一人、将軍位を「重祚」した人物となった(※重祚(ちょうそ)……本来は君主に使う言葉で、一度退位した皇帝・国王が再度その即位することを意味する)。
 そしてその退位も自らの意思によるものではなかったことも皇室には例の見られないことであった。
 生まれながらに持ってしまった地位と居住の不安定さは時代の悲劇で、決して義稙一人の「責任」でも「落ち度」でも「専売特許」でもなかったが、その中でただ一人複数回将軍位を掴み、複数回将軍位を追われたことに、権力抗争の極みを見たような気がしてならなかった。


 参考までに、下表は初代・尊氏から末代・義昭までの歴代将軍の出生地と没した地をまとめたものである。
 義稙以降の将軍位就任者で、京都で生まれた者は第一三代義輝・第一五代義昭の兄弟だけである。
 こうして見てみると、如何に足利将軍の地位が脆いものであったかが窺い知れる。
足利将軍出生地没地死因先代との続柄
初代:足利尊氏(あしかがたかうじ)京・鎌倉・下野(足利)の諸説有り京都病死
二代:足利義詮(あしかがよしあきら)鎌倉病死
三代:足利義満(あしかがよしみつ)病死(暗殺説有り) 
四代:足利義持(あしかがよしもち)病死
五代:足利義量(あしかがよしかず)病死
六代:足利義教(あしかがよしのり)暗殺
七代:足利義勝(あしかがよしかつ)病死(赤痢)
八代:足利義政(あしかがよしまさ)病死
九代:足利義尚(あしかがよしひさ)近江病死
一〇代:足利義稙(あしかがよしたね)美濃阿波病死従兄
一一代:足利義澄(あしかがよしずみ)伊豆近江病死従兄
一二代:足利義晴(あしかがよしはる)近江近江病死
一三代:足利義輝(あしかがよしてる)暗殺
一四代:足利義栄(あしかがよしひで)阿波阿波病死従兄
一五代:足利義昭(あしかがよしあき)大坂病死従弟


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令和三(2021)年五月二五日 最終更新