第拾頁 高野長英…顔を焼いてまで逃げた執念

氏名高野長英
生没年文化元(1804)年五月五日〜嘉永三(1850)年一〇月三〇日
追跡者鳥居耀蔵・遠山景元
主な流浪先伊予宇和島・江戸
匿ってくれた恩人鈴木忠吉・内田弥太郎・松下寿酔・伊達宗城
主な同行者清吉
流浪の目的翻訳活動への執念
流浪の結末潜伏先の江戸にて襲撃を受け、自害未遂の果て、傷が元で死亡
略歴 文化元(1804)年五月五日、陸奥国仙台藩の水沢領主水沢伊達氏家臣・後藤実慶の子として生まれる。通称は悦三郎(えつさぶろう)、諱は(ゆずる)。叔父・高野玄斎の養子となった。
 養父・玄斎は江戸で杉田玄白に蘭法医術を学んだことがきっかけでも幼い頃から蘭学に強い関心を持ち、文政三(1820)年に江戸に赴いて杉田伯元・吉田長淑に師事した。ここで吉田長淑に認められ、師の「」の字を受けて「長英」を名乗った。

 同年、父の反対を押し切り出府して、長崎に留学してシーボルトの鳴滝塾に医学・蘭学を学ぶ。その折、抜きん出た学力から塾頭となった。
 文政一一(1828)年、シーボルト事件が起き、彼の教え子も捕らえられて厳しい詮議を受けたが、長英はこれを巧みに逃れ、豊後国日田(現:大分県日田市)の広瀬淡窓に弟子入りした。
 この間、義父玄斎が亡くなり、長英は水沢に帰郷し、許嫁者の千趣(ちお)との婚姻を求められたが、逡巡した果てについにこれを拒絶。家督も士分も捨てたのだった。

 天保元(1830)年に江戸に戻り、麹町にて町医者として蘭学塾を開業。間もなく三河田原藩重役渡辺崋山と知り合い、小関三英や鈴木春山とともに蘭学書の翻訳に当たった。
 天保三(1832)年、紀州藩儒官遠藤勝助の主宰する、天保の大飢饉の対策会である尚歯会に入り、崋山や藤田東湖等とともに中心的役割を担い『救荒二物考』などを著した。

 天保八(1837)年、異国船打払令によってアメリカの商船モリソン号に砲撃が撃ち掛けられた(モリソン号事件)。これに対して長英は崋山らとともに幕府の対応を批判。その意を長英『夢物語』を著して示した。
 天保一〇(1839)年、蛮社の獄が勃発。鳥居甲斐守耀蔵(「耀蔵」の名と、「甲斐守」の官職名から、通称“ようかい(妖怪)”と呼ばれた)の指揮の元、学者達に対する弾圧が激化し、渡辺崋山は田原藩に累が及ぶのを恐れて自害し、長英も幕政批判の廉で捕らえられた。

 長英に下された判決は永牢(終身刑)で、伝馬町牢屋敷に収監された。牢内では囚人達の医療に努め、また劣悪な牢内環境に苦しむ囚人達の助けとなったことと、親分肌の気性から牢名主に祭り上げられた(正直、長英は才能を鼻にかける面があり、学者仲間内では性格的な評判は悪かったが、牢内では良い様に活きた)。

 蘭学者仲間による働きかけや、開明派の幕臣が自らの才を認めることで牢を出る日を期待して服役していた長英だった鳥居が老中でいる内は丸でその期待が持てなかった。
 合法的な出牢を諦めた長英は、入牢六年目の弘化元(1844)年六月三〇日、牢役人の栄蔵をに放火させ、火災時の「切り放し」に乗じて脱獄した。
 放火・脱獄は供に重罪で、火災時の緊急措置である「切り放し」は焼死を免れる為に一時的な出牢が許可されるもので、三日以内に所定の場所に戻れば罪一等減じるが、戻って来なければ待ち受けるのは死罪であった。
 勿論それを承知の上で、放火をさせてまで脱獄を図った長英が牢に戻る筈はなく、長英は牢内で自分を慕っていた越後生まれの清吉という囚人と供に脱獄した。

 三日後に長英の逃亡は当然発覚し、それを知った鳥居は躍起になってその行方を追い、全国の関所と云う関所に長英の人相書きが出回った。
 与力達の鵜の目鷹の目の警戒網と人相書きが出回る中、長英は医師仲間・蘭学仲間・侠客・洋学を重視する大名等に匿われるも、職業柄多くの人々と顔を合わせる協力者達がいつまでも長英を匿い続けるのは不可能で、結局長英は江戸葛飾→高崎→直江津→水沢(故郷)→仙台→宇都宮→江戸→宇和島→広島→江戸を転々とし、その間も洋書・兵法書の和訳に務め続けた。

 いつまでも各地を転々としている訳に行かず、流浪中にしっかり三人の子供を作った長英は翻訳と偉業の為に硝酸で顔を焼いて人相を変え、「沢三伯(さわさんぱく)」の偽名で町医者となって潜伏し続けた。

 しかしながら翻訳の腕の良さが仇となって脚がつき、嘉永三(1850)年一〇月三〇日、潜伏先である江戸青山百人町に密告を受けた町奉行所に踏み込まれて捕縛された。
 脇差でもって抵抗した長英だったが多勢に無勢で、自害を図ったとも、何人もの捕方に十手で殴打されたとも云われており、いずれにしても縄をかけられた時には半死半生だった長英は護送される最中に絶命した。高野長英、享年四七歳。


流浪の日々 人生の途中にての逃亡劇なら、逃亡者が逃亡終了後に当の本人か、逃亡に協力した者達がその過程を詳らかにすれば全貌は明らかになる。しかし高野長英の逃亡は長英の死をもって終わり、破牢・火付けの重罪人・長英の逃亡を幇助したり、その身柄を隠匿したり、と協力した者も重罪となる故に詳細な記録は抹殺されることになった。
 本職の歴史学者でもない薩摩守に真の史実を探求する術は無いので、長英逃亡の過程は吉村昭氏の小説・『長英逃亡』鵜呑みにしている事を白状しておきたい(苦笑)。


月日出来事潜伏・立寄り先同行備考
天保一五(1844)年
一二月二日からは弘化元年
六月三〇日 午前二時、栄蔵放火・長英脱獄(出頭期限は七月三日)。 −  −  切放しは牢屋奉行・石出帯刀の名で発令。
 栄蔵は二年後に相模で捕えられ、火刑に処される。
 大槻俊斎邸にて身なりを整える(脇差も入手)。下谷練塀小路囚人数名 大槻は医師・陸奥国出身・鳴滝塾での長英の同門・湊長安の知人
 伊東玄朴邸を頼ろうとして断念。 −  囚人達と別れる。 − 
七月一日  加藤宗俊邸にて休息・食事を取る。牛込赤木明神 囚人の一人・清吉と再合流。 加藤は漢方医。長英の赦免運動に協力してくれていた。一昨年前に加藤邸が火災に遭っていたので協力要請を断念。
 遠藤勝助邸にて髪を整え、髭を剃る。紀伊国坂 −  遠藤は紀伊藩お抱え儒学者にして尚歯会主宰。
 内田弥太郎邸にて家族の近況を伺い、逃亡手段を相談。故郷水沢にすぐには向かわず、しばしの江戸潜伏と上州・越後の迂回路選択を決意。市兵衛町 −  内田は明屋敷番伊賀者にして和算家として塾も経営。長英入牢中の老母・妻子の世話等にも最も尽力。
七月二日 斎藤三平が住み込んでいる料亭の隠し部屋に潜伏。向島小梅村の料亭大七。 −  斎藤は元南部藩御用掛りで長英と元同囚。脱獄の前年暮れに赦免。
 潜伏中米吉鈴木春山と手紙をやり取りする。
七月三日 −  −  −  暮れ六つをもって切放し期限切れ。七名が戻らず(四名が捕えられて斬首。一名は地理不案内を理由に不問)。
七月二六日 人相書き手配状況から遠方潜伏説の広まりを知り、米吉の手配により舟で上州に向かう。 −  安全の為、清吉と一時別れ、板橋まで米吉が同行。 − 
七月二七日 水村玄銅邸に立ち寄るも潜伏困難で浦和・高野隆仙邸に向かう。板橋 −  水村は医師で、蘭学に興味を持っていたことから長英とも知己を得ており、減刑赦免運動にも協力。
七月二八日 高野隆仙邸に向かう。隆仙は離家に長英を匿う。武州浦和 隆仙邸まで水村が同行。隆仙は医師にして水村の兄。
七月二九日 隆仙より岡っ引きの探索が及びつつある旨を聞き、大宮に向かう事を決意。 −  小島邸まで隆仙が同行。 直後に隆仙長英隠匿の容疑で拷問を受ける。頑として口をつぐんだ事と、地元からの嘆願で一〇〇日後に釈放されたが、拷問の後遺症で生涯不具に苦しんだ。
七月三〇日 小島平兵衛を頼るが、探索状況を鑑み、一晩で辞去。大宮土呂村 −  小島は土呂村名主。長英とは漢方医・薬種問屋を通じて知己あり。
八月五日 境宿で村上随憲を訪ねる予定だったが、探索状況から変更。渋川の小暮足翁遠藤玄亮を頼るのも危険と考え、殆ど行き倒れていた所を横尾村の門人・高橋景作に助けられる。
 景作の計らい、町田明七都築伊藤太の協力で都築所有の文殊院内に潜伏。
上州境宿→渋川→中之条町→横尾村 −  村上は蘭法医で吉田長淑の元での長英の先輩。赦免運動に協力。
 小暮長英に蘭学を学んだ門人、玄亮長英の従弟。
 高橋長英門人で蘭語の才は門弟随一。
 その他にも中之条町には長英の直弟子・孫弟子多数。
 明七は百姓惣代として市場争いに敗訴した際に長英と同囚。
九月中旬 明七が文殊院に食事を運ぶのを怪しまれたことから柳田邸に移り、潜伏。中之条町 −  柳田長英の門人。入牢以前にも経済面での協力多し。
 この間、鳥居耀蔵失脚。
九月下旬 柳田の雇人の口から邸内居候者の存在が外部に漏れ、柳田邸を辞し、湯本順左衛門を頼るが、中之条町の代官所の動きから危険を察知し、同地を離れる。草津温泉に近い赤岩 明七が案内。湯本は漢方医・湯本俊斎の従兄。俊斎は長英の直弟子・福田宗禎を通じて知己あり。
一〇月初旬 関所を避ける為清水越えを決行。暮坂峠→大道峠→三国街道(猿ヶ京関所前を横断)→利根川沿→湯檜會川沿→清水峠→越後清水村 清吉と再合流、鈴木忠吉の子分も清水峠まで同道。利根川まで景作も同道。 後に中之条町の長英協力者は全員取調べを受けるが、代官根岸権六が長英に好意的であった為、拷問を逃れる。
 − 和算家・小林百哺を頼るが、門人・住み込みが多い為、二夜で福永七兵衛邸(小林邸の向い)に移り、奥座敷に潜伏。越後直江津今町 −  小林内田弥太郎の友人。
 福永は直江津の大肝煎(庄屋)。福永の子は小林の門弟。
 福永邸潜伏中も小林は藩からの砲台用測量の都合上、長英に教えを請う。
一一月下旬 例年の酒仕込み行事の為、杜氏・蔵人の出入り増加から福永邸の潜伏が困難となり、内田宛に奥州行き手配を書簡で依頼。
 福永の手配で出雲崎の侠客・観音寺勇次郎の協力を得る。
 −  −  観音寺の亡父は越後屈指の目明頭で、読み書きに長じていたことから福永と知遇あり。
一二月初旬 −  直江津今町→関川河口→出雲崎→新潟阿賀野川河口観音寺勇次郎の子分が同道。
 清吉と出雲崎で別れる。
この直前、鈴木忠吉の手の者により長英が奥州街道矢吹宿に現れ、蝦夷松前に向かったとの虚報が流される。
一二月上旬 忠吉子分の手引きで故郷手前の屋外にて老母と一時の再会を果たす(勿論これが今生の別れとなる)。南部→前沢→仙台 忠吉の子分三名が同道。 老母は高野家の存続に尽力。忠吉の協力は老母の世話にも及んでいた。
弘化二(1845)年三月下旬 福島本町の薬種商・油屋藤兵衛を頼り、蔵に匿われる。潜伏中油屋に請われ、西洋医学を教授。
 到着前に敏腕番人に顔を見られた懸念から三日で油屋邸を辞す事に。
 −  忠吉子分が油屋邸まで同道。潜伏先選定は福島が旅人への警戒が薄い事を知る忠吉からの助言による。
 長英油屋を知らなかったが、油屋は長崎遊学中に長英を見知っていた。
 −  米沢藩医にして蘭学者・堀内忠亮を頼り、土蔵に匿われる。
 同じ藩医の伊東昇迪(いとうしょうてき)もこれに協力。
福島→李平→板谷峠→大沢→米沢元籠町米沢まで花見を装って油屋が同道。堀内伊東は長崎で長英と知遇を得ていた。
 堀内は対面時に門人の手前、長英を知らぬ振りして追い返してから単身追い直した。
 伊東は米沢に種痘を根付かせた功労者。
四月中旬 堀内邸の潜伏を米沢藩に知られ、堀内邸を脱出。中和田の医師・高橋嘉膳(たかはしかぜん)を頼り、長屋門の中二階に匿われる。
 高橋は金銭的な謝礼は拒み、代わりに蘭語知識を求めた(この間、鳥居の完全失脚を知る)。
中和田(天領)  高橋邸まで伊東が手引き。高橋堀内の教え子。
 直後に堀内伊東は藩の取り調べを受け、長英を匿ったことを自供(後の行方については知らぬ存ぜぬを通した)。藩主が両名の才を惜しみ、事を幕府に知らせない事を決めた為、両名の処分は奇跡的に「一ヶ月の遠慮」(かなり自由度の高い謹慎)で済む。
弘化三(1846)年一月下旬 米吉が訪ねて来る。長英は破牢理由である兵書翻訳への志から江戸行きを相談する。 −  −  米吉訪問は長英が福島を離れた事を心配した忠吉指示による。
三月中旬 高橋邸を辞し、比較的取り締まりの緩い会津道より江戸に向かう。熊倉→今市(日光街道)→宇都宮→栗橋(利根川)→越谷宿→千住大橋→麻布六本木 米吉が同道。 − 
三月下旬 二年振りに江戸に到着。内田邸は危険なので内田の甥・宮野信四郎を頼る。麻布六本木この間も米吉が同道。宮野邸到着後仙台に去る。宮野は下級幕吏。
 この頃には長英ロシア亡命説すら流れていた。
四月初旬 内田より、鈴木春山長英が江戸に戻っている事が伝えられる。 −  −  この時、春山は重病に伏せっていた。
四月下旬 内田松下寿酔健吉父子と清吉の協力で六本木宮下町に移り、妻ゆき・娘もとを迎え、七年振りに暮らしを共にし始める。六本木宮下町 −  松下江川(太郎左衛門)英龍配下の鉄砲師。
 清吉は賄方新組で越後まで同行した清吉とは別人。
 娘もととはこれが父娘初対面。
四月末 春山最期の願いにより春山が和解した西洋兵書の校閲を行う。 −  −  − 
五月九日 内田の勧めで江川英龍長英江戸潜伏を知らせることに同意。
 同日夕刻、鈴木春山の訃報に接する。
 −  −  江川は伊豆韮山代官にして反射炉・西洋砲術導入で有名。長英とは尚歯会にて面識があり、減刑運動にも協力。
七月中旬 春山に託された草稿を終える。遺族の了解を得て更に兵書の翻訳を勧める。 −  −  この頃、ゆきが妊娠。
八月下旬 斎藤弥九郎内田に伴われて訪問。
 江川の意を斎藤より伝えられ、江戸を離れることを決意。
 −  −  斎藤は当時の江戸で屈指の剣客。江川と同門。その伝手で渡辺崋山と知遇を得、尚歯会にて長英とも面識あり。
九月初旬 旧名主の離家に潜伏。内田春山から託された蘭書の翻訳に没頭。相模足柄上郡山田村斎藤の配下が山田村まで同道。 斎藤配下を通じて内田との蘭書と翻訳文の送受を行う。
 翻訳謝礼金は偽名・「環海」の名でゆきに送られる。
一二月 春山より託されたヘーリング・ウルベイン共著の兵書の翻訳を終え、『兵制全書』と題する。春山が未訳に終わったミュルケンの蘭訳兵書・『三兵活法』の完訳に掛る。 −  −  − 
一二月下旬 内田の手紙を持って能勢甚七が訪問。能勢より島津斉彬長英を買っている事を知り、『兵制全書』を託す。 −  −  能勢は薩摩藩士。長英とは洋学者が集まる物産会を通じて面識あり。
弘化四(1847)年二月中旬 斎藤配下より内田の手紙を受け、江戸に戻る事にする。 −  −  江戸帰還は内田江川の分析による判断。この時点で奉行所では長英ロシア潜伏説が支配的だった。
 −  生計の為、『兵制全書』の写本を売品とする。
 内田より伊予宇和島藩主伊達宗城の庇護に入る事を勧められる。
六本木宮下町 −  宗城長英は投獄前に田原藩江戸屋敷にて面識あり。
二月下旬 内田門弟の宇和島藩士・徳久忠助を通じて宗城長英江戸潜伏が伝えられ、近習・松根図書内田を訪ねる。 −  −  この頃、ゆきが長男・(とおる)を出産。
四月中旬 宗城が参勤交代で宇和島に帰還することが決定。長英は新たな翻訳文として『知彼一助』宗城に贈る。 −  −  − 
一〇月上旬 ブラント著ミュルケン訳の兵書『taktiek der drei wapens』の訳を終え、『三兵答古知幾』(さんぺいたくちいき)と題する。 −  −  − 
一二月上旬 内田の勧めで松根図書と対面する。 −  −  この間、内田松根にも能勢にも長英の居場所は隠し続けていた。
弘化五(1848)年 二月二八日からは嘉永元年一月一六日 内田より宗城長英に西洋兵書翻訳を依頼する為の宇和島召喚の意を受ける。 −  −  − 
一月一八日 妻子の生計の為にも宇和島召喚に応じる。 −  −  − 
二月晦日 宇和島に向けて江戸を発つ。 − 藩医と足軽二人、故鈴木春山の学僕・昌次郎が同道。事の時用いた偽名は「出羽生まれの浪人伊東瑞渓」で、「越後の縮緬問屋光右衛門」ではない(冗談)。
三月一四日 大坂の宇和島藩邸に到着。大坂 −  − 
三月二二日 伊達宗城と再会。薩摩情勢・西洋事情を話し合い、蘭書翻訳及び藩士への蘭語指南を依頼される。 −  −  この時宗城は参勤交代で江戸の向う途中。
四月二日 宇和島到着伊予宇和島 −  − 
四月六日 家老吉見左膳より四人扶持で蘭書翻訳御用を拝命。早速翻訳に掛る。 −  学僕・下男下女と同居。 − 
四月二二日 藩士三名の蘭学教授を拝命。 −  −  − 
四月二三日 二宮敬作と再会。 −  同居人に二宮の子・逸二が加わる。 二宮は医師で、長英とは長崎鳴滝塾で同門。
五月 デッケル著の兵書翻訳『垤氏三兵答古知幾』に本格着手。 −  −  この間、下女とよに手をつけ、後に妊娠。
一〇月 オランダ砲兵大尉スチールチイスの砲台に関する兵書の翻訳が完成し、『礮家必読』 (ほうかひつろく)と題す。 −  −  − 
一一月二三日 藩の依頼で砲台設置予定地の調査に同行。 −  −  − 
嘉永二(1849)年二月初旬 松根より宇和島潜伏を幕府に嗅ぎつけられた事を知らされる。宇和島退去を決意。 −  学僕の一人、昌次郎逸二のみ同行。退去に際し、藩の依頼で自らの身分を偽っていた旨を記す証書を残す(宇和島藩に罪人隠匿の累を及ぼさない為)。とよと生まれてくる子は門人の斎藤丈蔵に託す。
 −  二宮敬作を頼り、宇和島脱出を図る。 −  闇夜の途上で昌次郎が足を負傷し、脱落。 敬作に五〇両を渡し、宇和島に残した事柄への後事を託す。
二月中旬 広島藩医後藤松軒を頼る。広島下中町 −  長英後藤は長崎鳴滝塾で知己を得ていた。シーボルト事件直後には寄宿して蘭語を教えたこともある。
二月下旬 九日間の潜伏後、藩医として出入りの多い後藤邸から神農堂に移る。日渉園神農堂 −  広島滞在は薩摩に渡る手筈を整え、昌次郎を待つ為の一時的なもの。
三月二五日 昌次郎の怪我が悪化し、託してある辞書の入手が事実上不可能となった事を知る。 −  −  − 
四月上旬 薩摩藩士能勢より書簡にて薩摩の内情を知らされ、薩摩行きを断念する。 −  −  薩摩の内紛は所謂お由羅騒動
五月初旬 二宮敬作を訪ね、昌次郎を見舞い、江戸行きを打ち合わせ、その間清水甚左衛門邸に潜伏する。伊予卯之町 −  清水甚左衛門敬作の向いに住む酒造りを生業とする大庄屋。
 とよが男児を産んだ事を知る。
六月一五日 江戸に行く過程として名古屋潜伏を図り、山崎玄庵を頼ることを決意。 卯之町から廻船にて姫路飾磨→明石→大坂を経て、陸路で伏見→早崎を経て七月三日に名古屋に到着。 昌次郎は一命を取りとめたが、江戸同行はかなり先になるとして断念。市次郎が荷運び役として同行。 山崎玄庵は尾張藩医総取締浅井貞庵の子。少年の頃に放蕩していた所の保護を玄庵の兄・紫山に求められた事があった。
 市次郎清水甚左衛門が信頼する百姓。
七月三日 予定通り、山崎玄庵を頼り、潜伏。名古屋牧野村 名古屋到着の翌日に市次郎は卯之町に帰す。 偽名を「沢三圭」に改める。
八月 近隣で長英の存在が知られる様になり、潜伏先を移動。しかしすぐに江戸行きを決意。 尾張下中村江戸行きに対し、玄庵が同行を申し出る。 東海道経由で江戸に向かうが、道中、偽手形に対しても殆ど詮索されず。
八月中旬 宮野信四郎邸を頼る。松下寿酔の協力で本村町の借家に潜伏。
 すぐにゆきもとも合流。
江戸麻布六本木→麻布本村町玄庵とはここで別れる。 名古屋に帰った年の暮れ、玄庵長英を匿った取調べを受け、沢三圭 =高野長英と知らなかったとして逼塞(軽度・短期間の外出禁止)の処分で済むが、後に若くして病死。
九月末日 浦賀から内田弥太郎が戻り、身辺の守りについて相談。 −  −  この頃から冬にかけて、旅費・借金返済・妻子養育で手元不如意に近付く。松下や宇和島からの翻訳・写本の礼金が糧となる。
嘉永三(1850)年六月 生活苦から町医として生計を立てることを決意し、身元を隠す為に硝酸で顔を焼く −  −  この時、ゆきは身重で、長英の火傷治療中に次男・理三郎を産む。
七月中旬 町医として内田松下の協力で小島助次郎宅を借家にて医業を開業。青山百人町 − 小島は鉄砲組同心。
 町医としての偽名を沢三伯とする(ゆきしらと名乗る)。
 百人町は家康の時代に徳川家に功績のあった伊賀組・甲賀組に因んだ土地である。
八月患者である横井宗与から蘭学に熱心且つ海防に強い関心を持つ旗本の子・勝麟太郎に会い、兵学者・荻生徂徠の著書『鈐録外書(けんろくがいしょ)』を託す。 −  −  勝麟太郎→早い話、勝海舟の事である。
 この頃、江戸南町奉行では遠山景元の指揮の下、高度の洋書が出回っている線から長英生存が考えられるようになる。
一〇月二九日 上州無宿の元一に身元を看破される。 −  −  元一長英入牢中に同囚。彼の人相を知る者として南町奉行の手先となる。
一〇月三〇日 南町奉行同心・岡っ引きの襲撃を受け、それが元で絶命(詳細後述)  −  −  − 


 ひ〜!大変な作業だった……『長英逃亡』の上下巻を読むだけでも大変なのに、月日の流れを追いながら逃亡に関する動きをピックアップするだけでこんなに苦労するとは………。
 コホン、個人的な愚痴はさておき、長英の逃亡は放火による破牢に始まり、時に蘭学仲間、時に医者仲間、時に侠客、時に国防の為に洋楽導入に前向きな開明的な藩とその藩主の助力を得て、牢屋だけではなく、自らの顔を焼き、人相を変えてまで六年四ヶ月に渡って続けられたものだった。
 北東は水沢から南西は宇和島まで、地位的にも、分野的にも実に多くの実に多くの人脈によって為された逃亡の日々であったと云える。


流浪の終焉 前述したように、高野長英の逃亡は嘉永三(1850)年一〇月三〇日に終わりを告げた。翻訳の腕の良さが仇となって町医・沢三伯が逃亡中で、一時はロシア逃亡説や死亡説すら流れていた高野長英その人であることを知った南町奉行所は色めきだった。
 脱獄者も、他国からの流れ者も「三日あれば捕えられる」と謳われる程の探索能力を誇っていた同心・岡っ引き達にとって、六年以上も逃げおおせ、自分達の膝元に潜伏さえしていた長英は誇りを踏み躙った憎き敵でもあった。

 運命の夜、長英の元に戸板に乗っけられた怪我人が急患として担ぎこまれた。怪我の具合を見ようとした長英に戸板の上の怪我人を装っていた同心が十手を振りかざして長英に襲いかかるや怪我人を運んで来た者達=岡っ引きも一斉に十手を長英めがけて打ち降ろし、長英はたちまち瀕死の重傷を負った。もはや長英に助かる術は無かった。

 同心達の襲撃に端を発した高野長英の最後には二つの説がある。
 一つは捕まる直前に長英が自害を図ろうとして死に切れず、護送の途中で息を引き取ったというもので、もう一つは十手で殴打された際に致命傷を負って護送中に絶命したというものである。いずれにせよ取り物の際に命に関わる傷を負い、護送中に行きを引き取ったことに変わりはない。
 いずれの説が正しいかの真相は知る由もないが、『長英逃亡』の作者・吉村昭氏は後者を支持し、その説に基づいて長英の最期を綴っている。誇りを踏み躙られた同心達の襲撃が抵抗する長英に対し過剰な攻撃を生んだとしても不思議はない。
 ちなみに幕府への報告では前者になっている。勿論脱獄・火付けの大罪人であっても容疑者は生きて捕らえるのが取り方の任務である故に町方が勢い余って長英を殺したすれば重大な過失である。それを隠蔽する為に「自害しようとした。」と報告に記載したとしても不思議はない。断言するのは早計だが、こういったお役所の虚偽はいつの時代にもあり得る話と見るのは薩摩守だけではあるまい。

 重罪人である長英の罪は彼が死んだだけで事は終わらなかった。常識として役所の追及は長英を匿った者たちにも及んだ。
 妻のゆきが取り調べられ、宮野信四郎の名が漏れ、宮野は長英を匿ったことを認めながらも、彼が御尋ね者であることは知らなかったと白を切り通した。
 借家を手配した松下寿酔・健吉父子も、賃貸契約時の保証人も捕えられた。

 その年の一二月に判決は下った。既に死者となっている長英には蘭学者に対する弾圧が酌量され、火刑を一等減じて死罪とされた(実際に遺体を斬首した)。
 妻のゆきは押込めに処され、三人の子共々ゆきの実弟に預けられた。
 松下父子・宮野は遠島(但し、五九歳の寿酔は牢内環境に耐えられず獄死していた)、相手を長英と知らずに部屋を貸した鉄砲組同心小島助次郎は押込めとなり、唯一人内田弥太郎だけは奇跡的に取り調べも罰も免れ、明治一五(1882)年に天寿を全うするまで無事生き延びた。

 高野長英の死から約二年後、嘉永六(1583)年浦賀にペリーに率いられた黒船が来航し、日本が開国に向かったのは周知の通りで、その過程において先見の明で国防を訴えていた長英がこの世にいない事を伊達宗城、島津斉彬、松平春嶽等の開明的な藩主達は深く嘆いたという。

 尚、長英の妻子のその後は不明で、御家人崩れでろくでなしであるゆきの実弟に彼女達を養える筈もなく、融と理三郎は他家に預けられ、もとは吉原に売られ、安政地震の際に炎に包まれた遊郭の中でもとは一七歳の若い命を散らしたことだけが分かっている。悲惨である。


流浪の意義 結果論で切り捨ててしまえば、高野長英の逃亡は早計だった。鎖国継続論と開国開発論と技術だけを取り入れる国防充実論を巡って賛否激論が交わされる時代にあって、長英最大の不幸は権力者の中に鳥居耀蔵がいた事であった。逆を云えば、鳥居が権力の座に無ければ減刑・釈放の可能性は充分にあり、事実、長英脱獄の二ヶ月後に鳥居は失脚した。

 鳥居の洋学嫌いは病的で、明治まで生きて尚、その考えは全く変わらなかった(開国を経て、江戸幕府が滅びたのも、自分の意見を受け入れなかったからである、とこぼし続けた)。蛮社の獄も彼によって起こされたと云っても過言ではなく、長英入牢後、多くの大名・医師・学者・侠客が減刑嘆願運動を行ったが、その運動が高まれば高まるほど鳥居は態度を硬化させ、彼が権力の座にある状況では長英の減刑はそれこそ著作のタイトル通り、『夢物語』でしかなかった。

 そんな歴史的背景の中で牢内に不衛生な環境の中で命を落とすことを受け入れられず、兵書の翻訳の為に命を賭ける覚悟を固めた長英は遂に牢獄に放火して、脱獄をするという凶行に出た。長英の半生を見れば同情の余地はなくもないが、はっきり云って死刑間違い無しの重大犯罪である。
 延命の為とは云え長英の行動ははっきり分かっているだけで火付けと逃亡の罪で五人の刑死者を出しているが、明暦の大火の例からも当時の江戸は火事にとても弱かったことから付け火によって大勢の人が亡くなることも充分考えられたことで、長英の投獄を同情的に見る役人も多かったが、放火・脱獄については軽く考える役人は誰もいなかった。
 後々、鳥居の失脚を知った長英は帰らぬ繰り言と知りつつも、二ヶ月待たなかった事が悔やまれてならない逃亡の日々を送り続けた。

 さて、本作では様々な逃亡者を扱っているが、中でも高野長英は戦争・謀反・権力闘争に敗れた敗者ではなく、大塩平八郎同様、法的な罪人として逃げ続けたことに注目して欲しい。源義経や宇喜多秀家も罪人とされたが、事後法による物と云って良い。
 つまりは新たな罪を作ることを知った上で確信犯的に行った点が他の逃亡者と大きく異なる。流浪はそれを匿う人間がいて成立するが、落ち武者や罪人を匿うことはいつの時代にも法を犯すことになる(伊達宗城に至っては武家諸法度違反で、ばれれば切腹・改易ものである)。
 現代でも以下の定めがある。

刑法第一〇三条 罰金以上の刑に当たる罪を犯した者又は拘禁中に逃走した者を蔵匿し、又は隠避させた者は、二年以下の懲役又は二〇万円以下の罰金に処せられる。

 まして連座の概念が強かった時代、逃亡者と同罪となることも少なくなく、長英を匿った者が罪に問われれば、医者であれ、学者であれ、藩士であれ、藩主であれ、本人は勿論家族の生活が一変することは確実だった。
 そんな危険を冒してまで長英を匿った人々は家族・元同囚者・侠客・学者仲間(蘭学・医学・和算家・兵学者とジャンルは様々)・大名・武士と多士済々で、人格的には傲慢ですらあった長英がその先見と学識と国防への思いで多くの人々に認められていたことが実に興味深い。
 また、連座の危険を冒してまで長英を匿おうとした意図も職種によって様々である。一年とはいえ、最も長英に安住をもたらした宇和島藩主伊達宗城は投獄前から長英に好意的で、蘭学を藩士に広める目的があった(成立しなかったが薩摩藩も同じ目的で彼に好意的だった)。江戸潜伏に最も尽力した内田弥太郎は純粋な友情によるもので、長英の老母の面倒を見、関所破りにまで合力した鈴木忠吉配下の米吉を初めとした侠客達は侠気により長英に尽くした。
 侠客というのは一言で云い表し難い。そもそも正式な職業じゃないし、現代の任侠に触れるのはその筋が怖くて書けない(苦笑)が、大前田長五郎や清水の次郎長や新門辰五郎や田代栄助がその名を史上に連ねており、「ヤ」のつく自営業といっしょくたにするには深く、複雑な存在だが、忠吉一党が金銭的・学術的な見返り一切無しに家族の面倒・逃亡・潜伏・連絡・虚報活動にまで尽力した様は不可思議であり、興味深く、人間の情の理屈で割り切れない面を教えて食れる。

 早計な逃亡の為に、追手に怯え、潜伏先を転々とし、生活に窮し、それでも子供を三人作り、顔を焼き、その中に兵書翻訳への執念を持ち続けた高野長英……………破牢の段階で法的にはいつか罪人として法の前に消される定めを背負い込んだのだろうけれど、そこまでして命を永らえんとした執念が史上に特異な存在感を刻みつけているのは誰にも疑う余地はないだろう。
 時代の犠牲者というには余りに数奇且つ徹底的に抗った人生と云えよう。


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平令和三(2021)年五月二五日 最終更新