年 | 月日 | 出来事 | 潜伏・立寄り先 | 同行 | 備考 |
天保一五(1844)年 一二月二日からは弘化元年 | 六月三〇日 | 午前二時、栄蔵放火・長英脱獄(出頭期限は七月三日)。 | − | − | 切放しは牢屋奉行・石出帯刀の名で発令。 栄蔵は二年後に相模で捕えられ、火刑に処される。 |
大槻俊斎邸にて身なりを整える(脇差も入手)。 | 下谷練塀小路 | 囚人数名 | 大槻は医師・陸奥国出身・鳴滝塾での長英の同門・湊長安の知人 |
伊東玄朴邸を頼ろうとして断念。 | − | 囚人達と別れる。 | − |
七月一日 | 加藤宗俊邸にて休息・食事を取る。 | 牛込赤木明神 | 囚人の一人・清吉と再合流。 | 加藤は漢方医。長英の赦免運動に協力してくれていた。一昨年前に加藤邸が火災に遭っていたので協力要請を断念。 |
遠藤勝助邸にて髪を整え、髭を剃る。 | 紀伊国坂 | − | 遠藤は紀伊藩お抱え儒学者にして尚歯会主宰。 |
内田弥太郎邸にて家族の近況を伺い、逃亡手段を相談。故郷水沢にすぐには向かわず、しばしの江戸潜伏と上州・越後の迂回路選択を決意。 | 市兵衛町 | − | 内田は明屋敷番伊賀者にして和算家として塾も経営。長英入牢中の老母・妻子の世話等にも最も尽力。 |
七月二日 | 斎藤三平が住み込んでいる料亭の隠し部屋に潜伏。 | 向島小梅村の料亭大七。 | − | 斎藤は元南部藩御用掛りで長英と元同囚。脱獄の前年暮れに赦免。
潜伏中米吉・鈴木春山と手紙をやり取りする。 |
七月三日 | − | − | − | 暮れ六つをもって切放し期限切れ。七名が戻らず(四名が捕えられて斬首。一名は地理不案内を理由に不問)。 |
七月二六日 | 人相書き手配状況から遠方潜伏説の広まりを知り、米吉の手配により舟で上州に向かう。 | − | 安全の為、清吉と一時別れ、板橋まで米吉が同行。 | − |
七月二七日 | 水村玄銅邸に立ち寄るも潜伏困難で浦和・高野隆仙邸に向かう。 | 板橋 | − | 水村は医師で、蘭学に興味を持っていたことから長英とも知己を得ており、減刑赦免運動にも協力。 |
七月二八日 | 高野隆仙邸に向かう。隆仙は離家に長英を匿う。 | 武州浦和 | 隆仙邸まで水村が同行。 | 隆仙は医師にして水村の兄。 |
七月二九日 | 隆仙より岡っ引きの探索が及びつつある旨を聞き、大宮に向かう事を決意。 | − | 小島邸まで隆仙が同行。 | 直後に隆仙は長英隠匿の容疑で拷問を受ける。頑として口をつぐんだ事と、地元からの嘆願で一〇〇日後に釈放されたが、拷問の後遺症で生涯不具に苦しんだ。 |
七月三〇日 | 小島平兵衛を頼るが、探索状況を鑑み、一晩で辞去。 | 大宮土呂村 | − | 小島は土呂村名主。長英とは漢方医・薬種問屋を通じて知己あり。 |
八月五日 | 境宿で村上随憲を訪ねる予定だったが、探索状況から変更。渋川の小暮足翁・遠藤玄亮を頼るのも危険と考え、殆ど行き倒れていた所を横尾村の門人・高橋景作に助けられる。
景作の計らい、町田明七・都築伊藤太の協力で都築所有の文殊院内に潜伏。 | 上州境宿→渋川→中之条町→横尾村 | − | 村上は蘭法医で吉田長淑の元での長英の先輩。赦免運動に協力。
小暮は長英に蘭学を学んだ門人、玄亮は長英の従弟。
高橋は長英門人で蘭語の才は門弟随一。
その他にも中之条町には長英の直弟子・孫弟子多数。
明七は百姓惣代として市場争いに敗訴した際に長英と同囚。 |
九月中旬 | 明七が文殊院に食事を運ぶのを怪しまれたことから柳田邸に移り、潜伏。 | 中之条町 | − | 柳田は長英の門人。入牢以前にも経済面での協力多し。
この間、鳥居耀蔵失脚。 |
九月下旬 | 柳田の雇人の口から邸内居候者の存在が外部に漏れ、柳田邸を辞し、湯本順左衛門を頼るが、中之条町の代官所の動きから危険を察知し、同地を離れる。 | 草津温泉に近い赤岩 | 明七が案内。 | 湯本は漢方医・湯本俊斎の従兄。俊斎は長英の直弟子・福田宗禎を通じて知己あり。 |
一〇月初旬 | 関所を避ける為清水越えを決行。 | 暮坂峠→大道峠→三国街道(猿ヶ京関所前を横断)→利根川沿→湯檜會川沿→清水峠→越後清水村 | 清吉と再合流、鈴木忠吉の子分も清水峠まで同道。利根川まで景作も同道。 | 後に中之条町の長英協力者は全員取調べを受けるが、代官根岸権六が長英に好意的であった為、拷問を逃れる。 |
− | 和算家・小林百哺を頼るが、門人・住み込みが多い為、二夜で福永七兵衛邸(小林邸の向い)に移り、奥座敷に潜伏。 | 越後直江津今町 | − | 小林は内田弥太郎の友人。
福永は直江津の大肝煎(庄屋)。福永の子は小林の門弟。
福永邸潜伏中も小林は藩からの砲台用測量の都合上、長英に教えを請う。 |
一一月下旬 | 例年の酒仕込み行事の為、杜氏・蔵人の出入り増加から福永邸の潜伏が困難となり、内田宛に奥州行き手配を書簡で依頼。
福永の手配で出雲崎の侠客・観音寺勇次郎の協力を得る。 | − | − | 観音寺の亡父は越後屈指の目明頭で、読み書きに長じていたことから福永と知遇あり。 |
一二月初旬 | − | 直江津今町→関川河口→出雲崎→新潟阿賀野川河口 | 観音寺勇次郎の子分が同道。
清吉と出雲崎で別れる。 | この直前、鈴木忠吉の手の者により長英が奥州街道矢吹宿に現れ、蝦夷松前に向かったとの虚報が流される。 |
一二月上旬 | 忠吉子分の手引きで故郷手前の屋外にて老母と一時の再会を果たす(勿論これが今生の別れとなる)。 | 南部→前沢→仙台 | 忠吉の子分三名が同道。 | 老母は高野家の存続に尽力。忠吉の協力は老母の世話にも及んでいた。 |
弘化二(1845)年 | 三月下旬 | 福島本町の薬種商・油屋藤兵衛を頼り、蔵に匿われる。潜伏中油屋に請われ、西洋医学を教授。
到着前に敏腕番人に顔を見られた懸念から三日で油屋邸を辞す事に。 | − | 忠吉子分が油屋邸まで同道。 | 潜伏先選定は福島が旅人への警戒が薄い事を知る忠吉からの助言による。
長英は油屋を知らなかったが、油屋は長崎遊学中に長英を見知っていた。 |
− | 米沢藩医にして蘭学者・堀内忠亮を頼り、土蔵に匿われる。
同じ藩医の伊東昇迪(いとうしょうてき)もこれに協力。 | 福島→李平→板谷峠→大沢→米沢元籠町 | 米沢まで花見を装って油屋が同道。 | 堀内・伊東は長崎で長英と知遇を得ていた。
堀内は対面時に門人の手前、長英を知らぬ振りして追い返してから単身追い直した。
伊東は米沢に種痘を根付かせた功労者。 |
四月中旬 | 堀内邸の潜伏を米沢藩に知られ、堀内邸を脱出。中和田の医師・高橋嘉膳(たかはしかぜん)を頼り、長屋門の中二階に匿われる。
高橋は金銭的な謝礼は拒み、代わりに蘭語知識を求めた(この間、鳥居の完全失脚を知る)。 | 中和田(天領) | 高橋邸まで伊東が手引き。 | 高橋は堀内の教え子。
直後に堀内・伊東は藩の取り調べを受け、長英を匿ったことを自供(後の行方については知らぬ存ぜぬを通した)。藩主が両名の才を惜しみ、事を幕府に知らせない事を決めた為、両名の処分は奇跡的に「一ヶ月の遠慮」(かなり自由度の高い謹慎)で済む。 |
弘化三(1846)年 | 一月下旬 | 米吉が訪ねて来る。長英は破牢理由である兵書翻訳への志から江戸行きを相談する。 | − | − | 米吉訪問は長英が福島を離れた事を心配した忠吉指示による。 |
三月中旬 | 高橋邸を辞し、比較的取り締まりの緩い会津道より江戸に向かう。 | 熊倉→今市(日光街道)→宇都宮→栗橋(利根川)→越谷宿→千住大橋→麻布六本木 | 米吉が同道。 | − |
三月下旬 | 二年振りに江戸に到着。内田邸は危険なので内田の甥・宮野信四郎を頼る。 | 麻布六本木 | この間も米吉が同道。宮野邸到着後仙台に去る。 | 宮野は下級幕吏。
この頃には長英ロシア亡命説すら流れていた。 |
四月初旬 | 内田より、鈴木春山に長英が江戸に戻っている事が伝えられる。 | − | − | この時、春山は重病に伏せっていた。 |
四月下旬 | 内田・松下寿酔・健吉父子と清吉の協力で六本木宮下町に移り、妻ゆき・娘もとを迎え、七年振りに暮らしを共にし始める。 | 六本木宮下町 | − | 松下は江川(太郎左衛門)英龍配下の鉄砲師。
清吉は賄方新組で越後まで同行した清吉とは別人。
娘もととはこれが父娘初対面。 |
四月末 | 春山最期の願いにより春山が和解した西洋兵書の校閲を行う。 | − | − | − |
五月九日 | 内田の勧めで江川英龍に長英江戸潜伏を知らせることに同意。
同日夕刻、鈴木春山の訃報に接する。 | − | − | 江川は伊豆韮山代官にして反射炉・西洋砲術導入で有名。長英とは尚歯会にて面識があり、減刑運動にも協力。 |
七月中旬 | 春山に託された草稿を終える。遺族の了解を得て更に兵書の翻訳を勧める。 | − | − | この頃、ゆきが妊娠。 |
八月下旬 | 斎藤弥九郎が内田に伴われて訪問。
江川の意を斎藤より伝えられ、江戸を離れることを決意。 | − | − | 斎藤は当時の江戸で屈指の剣客。江川と同門。その伝手で渡辺崋山と知遇を得、尚歯会にて長英とも面識あり。 |
九月初旬 | 旧名主の離家に潜伏。内田・春山から託された蘭書の翻訳に没頭。 | 相模足柄上郡山田村 | 斎藤の配下が山田村まで同道。 | 斎藤配下を通じて内田との蘭書と翻訳文の送受を行う。
翻訳謝礼金は偽名・「環海」の名でゆきに送られる。 |
一二月 | 春山より託されたヘーリング・ウルベイン共著の兵書の翻訳を終え、『兵制全書』と題する。春山が未訳に終わったミュルケンの蘭訳兵書・『三兵活法』の完訳に掛る。 | − | − | − |
一二月下旬 | 内田の手紙を持って能勢甚七が訪問。能勢より島津斉彬が長英を買っている事を知り、『兵制全書』を託す。 | − | − | 能勢は薩摩藩士。長英とは洋学者が集まる物産会を通じて面識あり。 |
弘化四(1847)年 | 二月中旬 | 斎藤配下より内田の手紙を受け、江戸に戻る事にする。 | − | − | 江戸帰還は内田と江川の分析による判断。この時点で奉行所では長英ロシア潜伏説が支配的だった。 |
− | 生計の為、『兵制全書』の写本を売品とする。
内田より伊予宇和島藩主伊達宗城の庇護に入る事を勧められる。 | 六本木宮下町 | − | 宗城と長英は投獄前に田原藩江戸屋敷にて面識あり。 |
二月下旬 | 内田門弟の宇和島藩士・徳久忠助を通じて宗城に長英江戸潜伏が伝えられ、近習・松根図書が内田を訪ねる。 | − | − | この頃、ゆきが長男・融(とおる)を出産。 |
四月中旬 | 宗城が参勤交代で宇和島に帰還することが決定。長英は新たな翻訳文として『知彼一助』を宗城に贈る。 | − | − | − |
一〇月上旬 | ブラント著ミュルケン訳の兵書『taktiek der drei wapens』の訳を終え、『三兵答古知幾』(さんぺいたくちいき)と題する。 | − | − | − |
一二月上旬 | 内田の勧めで松根図書と対面する。 | − | − | この間、内田は松根にも能勢にも長英の居場所は隠し続けていた。 |
弘化五(1848)年
二月二八日からは嘉永元年 | 一月一六日 | 内田より宗城の長英に西洋兵書翻訳を依頼する為の宇和島召喚の意を受ける。 | − | − | − |
一月一八日 | 妻子の生計の為にも宇和島召喚に応じる。 | − | − | − |
二月晦日 | 宇和島に向けて江戸を発つ。 | − | 藩医と足軽二人、故鈴木春山の学僕・昌次郎が同道。 | 事の時用いた偽名は「出羽生まれの浪人伊東瑞渓」で、「越後の縮緬問屋光右衛門」ではない(冗談)。 |
三月一四日 | 大坂の宇和島藩邸に到着。 | 大坂 | − | − |
三月二二日 | 伊達宗城と再会。薩摩情勢・西洋事情を話し合い、蘭書翻訳及び藩士への蘭語指南を依頼される。 | − | − | この時宗城は参勤交代で江戸の向う途中。 |
四月二日 | 宇和島到着 | 伊予宇和島 | − | − |
四月六日 | 家老吉見左膳より四人扶持で蘭書翻訳御用を拝命。早速翻訳に掛る。 | − | 学僕・下男下女と同居。 | − |
四月二二日 | 藩士三名の蘭学教授を拝命。 | − | − | − |
四月二三日 | 二宮敬作と再会。 | − | 同居人に二宮の子・逸二が加わる。 | 二宮は医師で、長英とは長崎鳴滝塾で同門。 |
五月 | デッケル著の兵書翻訳『垤氏三兵答古知幾』に本格着手。 | − | − | この間、下女とよに手をつけ、後に妊娠。 |
一〇月 | オランダ砲兵大尉スチールチイスの砲台に関する兵書の翻訳が完成し、『礮家必読』 (ほうかひつろく)と題す。 | − | − | − |
一一月二三日 | 藩の依頼で砲台設置予定地の調査に同行。 | − | − | − |
嘉永二(1849)年 | 二月初旬 | 松根より宇和島潜伏を幕府に嗅ぎつけられた事を知らされる。宇和島退去を決意。 | − | 学僕の一人、昌次郎・逸二のみ同行。 | 退去に際し、藩の依頼で自らの身分を偽っていた旨を記す証書を残す(宇和島藩に罪人隠匿の累を及ぼさない為)。とよと生まれてくる子は門人の斎藤丈蔵に託す。 |
− | 二宮敬作を頼り、宇和島脱出を図る。 | − | 闇夜の途上で昌次郎が足を負傷し、脱落。 | 敬作に五〇両を渡し、宇和島に残した事柄への後事を託す。 |
二月中旬 | 広島藩医後藤松軒を頼る。 | 広島下中町 | − | 長英と後藤は長崎鳴滝塾で知己を得ていた。シーボルト事件直後には寄宿して蘭語を教えたこともある。 |
二月下旬 | 九日間の潜伏後、藩医として出入りの多い後藤邸から神農堂に移る。 | 日渉園神農堂 | − | 広島滞在は薩摩に渡る手筈を整え、昌次郎を待つ為の一時的なもの。 |
三月二五日 | 昌次郎の怪我が悪化し、託してある辞書の入手が事実上不可能となった事を知る。 | − | − | − |
四月上旬 | 薩摩藩士能勢より書簡にて薩摩の内情を知らされ、薩摩行きを断念する。 | − | − | 薩摩の内紛は所謂お由羅騒動。 |
五月初旬 | 二宮敬作を訪ね、昌次郎を見舞い、江戸行きを打ち合わせ、その間清水甚左衛門邸に潜伏する。 | 伊予卯之町 | − | 清水甚左衛門は敬作の向いに住む酒造りを生業とする大庄屋。
とよが男児を産んだ事を知る。 |
六月一五日 | 江戸に行く過程として名古屋潜伏を図り、山崎玄庵を頼ることを決意。 | 卯之町から廻船にて姫路飾磨→明石→大坂を経て、陸路で伏見→早崎を経て七月三日に名古屋に到着。 | 昌次郎は一命を取りとめたが、江戸同行はかなり先になるとして断念。市次郎が荷運び役として同行。 | 山崎玄庵は尾張藩医総取締浅井貞庵の子。少年の頃に放蕩していた所の保護を玄庵の兄・紫山に求められた事があった。
市次郎は清水甚左衛門が信頼する百姓。 |
七月三日 | 予定通り、山崎玄庵を頼り、潜伏。 | 名古屋牧野村 | 名古屋到着の翌日に市次郎は卯之町に帰す。 | 偽名を「沢三圭」に改める。 |
八月 | 近隣で長英の存在が知られる様になり、潜伏先を移動。しかしすぐに江戸行きを決意。 | 尾張下中村 | 江戸行きに対し、玄庵が同行を申し出る。 | 東海道経由で江戸に向かうが、道中、偽手形に対しても殆ど詮索されず。 |
八月中旬 | 宮野信四郎邸を頼る。松下寿酔の協力で本村町の借家に潜伏。
すぐにゆき・もと・融も合流。 | 江戸麻布六本木→麻布本村町 | 玄庵とはここで別れる。 | 名古屋に帰った年の暮れ、玄庵は長英を匿った取調べを受け、沢三圭 =高野長英と知らなかったとして逼塞(軽度・短期間の外出禁止)の処分で済むが、後に若くして病死。 |
九月末日 | 浦賀から内田弥太郎が戻り、身辺の守りについて相談。 | − | − | この頃から冬にかけて、旅費・借金返済・妻子養育で手元不如意に近付く。松下や宇和島からの翻訳・写本の礼金が糧となる。 |
嘉永三(1850)年 | 六月 | 生活苦から町医として生計を立てることを決意し、身元を隠す為に硝酸で顔を焼く。 | − | − | この時、ゆきは身重で、長英の火傷治療中に次男・理三郎を産む。 |
七月中旬 | 町医として内田・松下の協力で小島助次郎宅を借家にて医業を開業。 | 青山百人町 | − | 小島は鉄砲組同心。
町医としての偽名を沢三伯とする(ゆきはしらと名乗る)。
百人町は家康の時代に徳川家に功績のあった伊賀組・甲賀組に因んだ土地である。 |
八月 | 患者である横井宗与から蘭学に熱心且つ海防に強い関心を持つ旗本の子・勝麟太郎に会い、兵学者・荻生徂徠の著書『鈐録外書(けんろくがいしょ)』を託す。 | − | − | 勝麟太郎→早い話、勝海舟の事である。
この頃、江戸南町奉行では遠山景元の指揮の下、高度の洋書が出回っている線から長英生存が考えられるようになる。 |
一〇月二九日 | 上州無宿の元一に身元を看破される。 | − | − | 元一は長英入牢中に同囚。彼の人相を知る者として南町奉行の手先となる。 |
一〇月三〇日 | 南町奉行同心・岡っ引きの襲撃を受け、それが元で絶命(詳細後述) | − | − | − |