第九頁 大塩平八郎…潜伏四〇日と生かされた伝説

氏名大塩平八郎
生没年寛政五(1793)年一月二二日〜天保八(1837)年三月二七日
追跡者土井利位
主な流浪先大坂靭油掛町
匿ってくれた恩人美吉屋五郎兵衛
主な同行者大塩格之助
流浪の目的乱前に江戸に送った告発文が到着するのを期待して
流浪の結末潜伏がばれ、捕縛隊に包囲され、爆死自害
略歴 一与力でありながら小学校の社会科の教科書にも登場する大塩平八郎正高(おおしおへいはちろうまさたか)……さすがに通りの良さを重視して、以下、大塩平八郎は寛政五(1793)年一月二二日、代々大坂町奉行与力を務める大塩家の八代目に、敬高の子として生まれた。まさか生存伝説……判官贔屓が生むアナザー・ストーリーに続く、二度目の登場があるとは思わなかった(苦笑)。

 七歳の時に父が死亡し、祖父と祖父の後妻に育てられた。義理の祖母の教育は厳格ながらも愛情あるもので、平八郎の剛直な性格はここに起因している。
 一四歳で与力見習い、二六歳で正式与力に就任し、祖父の後を継いだ。
 勤務態度は真面目一徹で、独学と交流にて陽明学(朱子学の一派)を学び、優秀な役人として上司・高官を相手にしても私心により手心を加えることは無かった。必然、平八郎は融通の効かない存在として上司達に煙たがられた(世の常である)。

 それでも東町奉行に務めていた時は高井実徳(たかいさねのり)という上司にも恵まれ、平八郎は文政一〇(1827)年〜文政一二(1829)年の間には禁教であるキリシタンの取り締まり、破戒僧の処罰、悪徳与力・悪徳同心・悪徳役人の糾弾に、と大活躍した。
 しかし文政一三(1830)年、大塩平八郎は三八歳の若さで辞職した。目付役筆頭・地方役筆頭・盗賊役筆頭・唐物取締役筆頭・諸御用調役等の重役を兼務する与力最高位にありながら…。

 辞職の理由は平八郎の剛直振りを高く買い、内部告発に対する周囲の憎悪からも守ってくれた上司・高井実徳が老齢により辞職したことにあった。しかも奸吏糾弾時に平八郎によって腹心を処罰された西町奉行・内藤矩佳(ないとうのりよし)が彼に対して報復人事に出る可能性は極めて高かった。
 保身か、諦観か、一種の達観か、平八郎はそれ以上の出世に執着せず、自らの私塾である洗心堂(せんしんどう)での教育専念を表向き上の理由に辞職を申し出て受理された。
 既に現役時代より平八郎は自宅内にという陽明学の塾を開設し、近隣の村役人や奉行所仲間、親戚等に陽明学を教えてもいたが、辞職後は弟子の一人を養子に迎え、養子・大塩格之助に家督を譲り、朝は常に八つ(午前二時)に起床して天象を見、門人を集めて講義。真冬でも雨戸を開けたまま、厳格な教育を門弟達に注ぎ続けた。

 与力辞職から三年後の天保四(1833)年天保の大飢饉が発生。その三年後、高井実徳の後釜として大坂町奉行に就任した跡部良弼(あとべよしすけ:老中・水野忠邦の実弟)は大坂市中や近在の米の値段が暴騰に目を付け、「将軍交代の準備」の名目で米を買い占め、江戸に回すという、強欲極まりない暴挙に出、大坂市中の豪商達も便乗買い占めに走り、米価は更に急騰した。

 隠居に身とはいえ、こんな暴政を座視出来ぬ平八郎は跡部に対して『飢饉救済策』の建白を、何度訴えた。しかし、実兄・水野忠邦の権勢を笠に着るような男である跡部が隠居与力の意見に耳を傾ける筈もなく、「与力の隠居風情が身分を弁えずしつこく云うなら、牢屋にぶち込む!」と逆ギレ的に脅しにかかる始末だった

 飢饉と暴政による大坂の惨状は結果、米価を六・七倍に急騰させ、大坂市民の殆どがその日暮らしを余儀なくされ、餓死者は一冬で五〇〇〇人に達する有様だった。
 既に甲斐、三河加茂を皮切りに全国で一揆・打ちこわしが続発しており、平八郎は大坂でも同じことが起こりかねないことを訴えるも、跡部が耳を傾けることは無く、既に労咳(肺結核)に体を蝕まれ、余命幾許もないこともあって、平八郎は決起を決意した。

 同年九月、蔵書をすべて売り払った平八郎は後々累が及ぶことを懸念して妻を離縁し、全財産を売却して得た金銭を武器・弾薬・檄文(そしてそれを読んでもらう為の謝礼)に注ぎ込んだ。
 一〇月、平八郎は洗心洞の信頼出来る塾生に打ち明け、米価益々値上がり・それを悪用して暴利を貪る悪政を怒り、奉行に対する反逆を声明し、大坂市民に蜂起を呼び掛ける「檄文」を刷りにかかった。

 挙兵は天保八(1837)年二月一九日に決定した。
 計画は天満にて西町奉行・堀利堅(ほりとしかた)、東町奉行・跡部の両名が巡回途中、朝岡邸で休息する時間を狙って、爆殺するもの。平八郎は自らの兵力が微々たるものであることを自覚しており、悪徳官吏・悪徳商人の打倒が幕閣を動かし、大義が通ること期待し、挙兵前日、書き上げた数々の書類を木箱にいれ、直接幕府に届くよう江戸向けの飛脚に託した。

 しかし、計画は密告によって露見したため、平八郎は自宅に火を放って、養子・格之助とともに予定を早めて挙兵し、『天照皇太神宮』『湯武両聖王』『八幡大菩薩』『東照大権現』 (前から順に「皇祖の女神」・「暴君を倒して新王朝を打ち立てた殷の湯王と周の武王」・「源氏の氏神」・「徳川家康の尊号」)等と書かれた旗を持ち、『救民』と大きく染め上げられた幟を風に靡かせて、集合場所の川崎東照宮から天満橋筋を南下した。

 だが、周知の通り、大塩平八郎の乱は大坂城から出て来た奉行軍に半日持たずに敗れた。跡部の指揮は稚拙の一言だったが、密告によって準備不足の蜂起を余儀なくされ、武器の質と量の前に敗れたものだった。
 天満橋の八軒屋船着場から船で逃走した大塩父子はその後四〇日に渡って、大坂の町を逃げ回り、幕府方は躍起になってその行方を追った。
 大坂の街中を逃げ回る平八郎の唯一の希望は江戸に宛てた大坂町奉行告発の密書が採り上げられることだったが、密書は箱根山中で発見されて幕閣には届かなかった。
 潜伏しながら来る筈もない吉報を待ち続けた大塩父子も三月二七日に靭油掛(うつぼあぶらかけ)町の隠れ家に潜伏していたのを探索方が取り囲まれ、最早これまで、と見た平八郎は予てから用意してあった爆薬に火をつけて、壮絶な爆死を遂げた。大塩平八郎正高、享年四五歳。


流浪の日々 「流浪」というよりは「逃亡」・「潜伏」という方が相応しいかも知れない。しかし大塩平八郎の四〇日に及んだ逃亡は、その生存か死亡かの推測が見せた重大性から、乱から自害までの、一連の平八郎の逃亡は本作で取り上げている「流浪」に相応しい、と見た(詳細は「流浪の意義」に譲る)。

 天保八(1837)年二月一九日に決起した平八郎が靭油掛町で「最早これまで…。」と爆死の道を選んだのは同年三月二七日である。
 北浜・北船場(現大阪市中央区)で奉行軍に敗れた平八郎は午後四時に群衆に紛れて現場から逃亡した。直後に大塩父子は天満橋の八軒屋船着場から逃走した。
 敗北直後から平八郎と供に決起した、連判状に名を連ねた仲間達は次々と逮捕された。

 敗北同日一九日には、柏岡伝七が逮捕された。翌二〇日には宮脇志摩が入水自殺。更に翌二一日、瀬田済之助が逃亡先の河内恩知村にて首を吊った。そのまた翌二二日には柏岡源右衛門が逃亡を諦めて自首(ちなみに同日、乱を知った尼崎藩が、自藩の奉行所へ米を民間へと解放する命令書を出し、これに習うように全国各藩が同じ触れを出した)。

 同月二七日、平八郎の妾、格之助の妻子が、三月に入って大井正一郎が京都にて逮捕。そして平八郎の妻、息子の妻子が逮捕されたちょうど一ヶ月後の三月二七日に大塩父子は追い詰められた。場所は靭油掛町の商人・美吉屋五郎兵衛宅の離れで、追い詰めたのは大坂城代・土井利位(どいとしつら)と家老・鷹見泉石(たかみせんせき)の率いる探索方だった。

 実際の所、逃亡中の大塩平八郎がいつ何処にいたかの詳細は薩摩守の研究不足で不詳である。この間、大坂の町民は乱の飛び火で町々や家々を灰にされてしまったにもかかわらず、誰一人平八郎を恨まず、それどころか口々に「例え賞金が銀百枚に増えようが大塩さんを売ったりするもんか!」と(秘かに)叫び続けた。


流浪の終焉 大塩平八郎正高父子は追い詰められた。
 彼を匿っていた美吉屋五郎兵衛の使用人による密告だったと云われている。五郎兵衛は離れに潜伏していた平八郎にもう後が無いことを告げに来た。

 五郎兵衛「……全国に、大塩平八郎が指名手配されているそうです。もう逃げ場はありまへん。」
 平八郎「という事は、この騒動は全国に知れ渡ったちゅう事やな。狙いは完璧や。強いて云えば、跡部の首を取っておれば、云う事はなかったんやけどな……。まぁ、しゃあないな。後は……民達にもう一押ししてやるだけや。」

 そんな会話を交わした後に、平八郎は、着物の裏に縫いつけていた火薬を取り出した。
 「大塩平八郎が捕まったとあれば、せっかく捲いた火種が消えてまう。せやから、わしはコレで木端微塵に派手に逝く。
 昔にもあったろう。源義経はホンマに奥州で死んだのか、とか、織田信長の遺体がないから、本能寺から逃げ出したんやないか、とかな。
 わしも源義経や織田信長になるんや。民達がもしかしたら大塩平八郎が戻ってくるかも知れへん……そう思うだけでええんや。
 自分等の味方がどこかにいるかも知れん。そう信じるだけで炎を燃やし続けられるもんなんや。
 そしたらいつか、民達は自分らの手で……新しい日本を作る。」
 これが平八郎の遺言となり、格之助もこれに殉じた。

 平八郎、格之助父子は焼身自殺を遂げた。平八郎のみならず、乱に参加し、逃亡途上で自害したり、抵抗して斬り死にしたりした者達の遺体は塩漬けにされた。
 しかし平八郎父子の遺体は顔の判別が付く状態になかった。


流浪の意義 大塩平八郎正高の乱は、刑法上は単なる「暴動」である。何せこの時の大塩平八郎は隠居の身で、正式には役人ですらなかった。
 だが、隠居の身とはいえ、幕府元役人が奉行所を襲う意図を持って武装蜂起したのは明らかに「内乱」で、幕閣も民衆も大いに驚いた。
 実際、平八郎の「流浪」は僅か四〇日程で、本作で取り上げた島津義弘に次いで短い。にもかかわらず、単なる暴動が歴史に大きなインパクトを残したのは、この乱が由比正雪の乱以来の幕政に対する反逆だったこともあり、同時に彼の「流浪」を単純な逃亡とは意を異にするものとなった。

 そして当の本人である平八郎の逃亡・潜伏にも大きな目的…否、希望があった。それは前述したように、挙兵前日に大義が通ること期待して直接幕府に届くよう江戸向けの飛脚に託した書簡だった。
 その書簡が届けば、自らの罪は消えずとも幕政が一新され、窮民が救われるなら、との期待があったのである。

 結論から云えばその書簡は箱根で発見されて握りつぶされたため、平八郎の意志は幕閣には届くことはなかった。
 しかし、平八郎の遺志は大坂町人達の心に間違いなく響いていた。それゆえに、町人達は乱の被害を恨まず、平八郎を庇い、そして死ぬことを許さなかった。否、死んだという事実を認めることが許されなかった。
 つまり、平八郎は死して尚、「流浪の人」とされたのである。

 平八郎自害の数日後には、早くも、「死体は影武者のものだ。」という噂が大坂市中に流れ、町奉行の市内巡回が中止になってしまうという事態が起こった。
 その後も「平八郎は船に乗って清国へ逃亡した。」、「オロシャ(ロシア)のシベリアに逃げた。」、挙句の果てには「モリソン号に平八郎が乗っていて、一緒に幕府を攻めに来る。」という話まで、実しやかに囁かれる始末だった。

 他方で、平八郎が決起前に撒いた「檄文」は方々に伝わり、その遺志が生き続けた。
 越後柏崎の国学者・生田万(いくたよろず)を始め、摂津・能勢でも平八郎門弟を名乗る者が兵を挙げ、各地で乱が勃発した。

 乱の翌年の天保九(1838)年になって、大塩親子、昨年死せしは偽りにて、今以って生存するなり」という怪文書まで出回り、幕府では同年九月に大塩一味の「処刑」を行うこととなった。
 勿論、一度死んでいる人間をもう一度処刑するのは生理学的に不可能で、既に息を引き取り、変貌までしている遺体に刑を加える、という奇妙且つ凄惨なのものになった。
 幕府側ではこの「処刑」を持って乱と大塩平八郎の生存(の噂)に終止符を打とうとしたのである。

 遺体をもう一度処刑にした例は皆無ではない(例:畠山義継・大久保長安)が、想像するだに不気味である。前述したように、平八郎父子自害の状況からも、当時の医学・科学では遺体が平八郎父子のものと断定するにはあたわず、それゆえに「処刑」は用意された十九の磔柱の内、たった一つを除いてすべての柱に正体不明の塩漬け死体を磔にすることとなった。

 大塩平八郎は乱だけではなく、その流浪までもが大きな影響を持っていたのである。


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令和三(2021)年五月二五日 最終更新