第参頁 武田信虎…逃亡中も策謀忘れず

氏名武田信虎
生没年明応三(1494)年一月六日〜天正二(1574)年三月五日
追跡者無し
主な流浪先駿河・京
匿ってくれた恩人今川義元・今川氏真
主な同行者古川小平太(側近)
流浪の目的武田家上洛への布石打ち・甲斐帰還
流浪の結末三男・信廉の招きで入った信州高遠にて逝去。甲斐帰還は叶わず
略歴 戦国房初登場の武田信虎は明応三(1494)年一月六日に甲斐源氏の名門・武田氏の第一七代当主武田信縄(たかだのぶつな)を父に、岩下氏を母として第一八代当主を継ぐ嫡男に生まれた。

 武田家は信虎の祖父・信昌の時代に跡部氏を排斥し、国人勢力を駆逐して、守護権力を回復したが、穴山氏、小山田氏等といった新勢力が台頭していた。
 国人勢力は駿河の今川氏、相模の伊勢氏(=北条氏)等と連携して武田氏と対抗。父・信縄は祖父・信昌、油川信恵(信昌次男、信綱弟)が対立する有様だった。

 永正二(1505)年、祖父・信昌、父信縄が相次いで死去し、二年後の永正四(1507)年に信虎(初名は「信直(のぶただ)」で二八歳の時に改名したが、本作では「信虎」で通します)は一四歳で武田家家督を相続した。
 信虎は対抗する叔父・信恵を永正五(1508)年一〇月四日の坊峰合戦にて討ち、武田宗家の統一が達成。翌永正(1510)七年には郡内の小山田氏を従属させ、小山田信有に実妹を嫁がせた。

 その後、甲斐北西部の国人・今井氏を従わせ、永正一二(1510)年一〇月一七日に駿河今川氏に属していた大井信達・信業父子の拠る西郡上野城を攻め、今川氏とも争った。
 永正一四(1517)年には一時今川氏と和睦し、永正一七(1520)年には大井氏と同盟して大井信達の娘を室に迎えた(この大井夫人が信玄、信繁、信廉の母となった)。


 その後も国人領主(栗原氏、飯富氏、今井氏)、信濃の諏訪氏、駿河の今川氏、関東管領の両上杉氏、新興勢力の北条氏、と争い、時に勝利し、時に敗れ、時に和睦を繰り返した。

 しかし翌天文五(1536)年に、今川氏輝死後に今川家の家督争い(花倉の乱)が勃発すると梅岳承芳(今川義元)を支援し、これが勝利したことにより今川氏との関係は好転し、戦に次ぐ戦の日々にも変化が生じた。
 天文六(1537)年に長女を義元に嫁がせ、その今川氏の仲介で嫡男・晴信が公家三条家の娘を迎え、同時に甲駿同盟が成立した。
 天文九(1540)年に諏訪頼満の孫・頼重に三女・禰々を嫁がせて正式に和睦した。


 しかし運命は急激に暗転した。
 天文一〇(1541)年六月一四日、信虎は信濃から凱旋し、娘婿である今川義元と会う為に河内路を駿河に赴くと、嫡男・晴信の手によって国境が封鎖され、武田家当主・甲斐国守護の座を奪われた。

 駿河における信虎は、後になって側室も送還され(正室にして晴信の母である大井夫人は甲斐に残った)、「同盟国の御隠居」、「現当主の岳父」、「次期当主・氏真の祖父」として遇され、今川家も粗略には出来なかった(逆にそのことを逆手に取って、義元は後に晴信に隠居料の値上げを要求している)。
 信虎追放事件には諸説あって、そこに関する考察は後述するが、信虎追放を甲斐の直臣、国人、民衆のすべてが支持し、晴信は北信濃諸豪族・上杉謙信と戦い続けながらも、駿河今川氏、相模北条氏と三国同盟を成立させ、産金に、治水に、と安定した領国支配が行われたのは史実である。


 そんな中、何だかんだ云って悠々自適の日々を送っていた信虎は出家して無人斎道有と名乗って、隠居を受けて入れ、天文一二(1543)年六月には上洛し、京都遊覧していた。
 その後も信虎は駿河−京都間を往復し、第一三代将軍・足利義輝にも謁し、公家、諸大名、と交流した。

 だが、天文一九(1550)年に、今川義元正室でもあった娘・定恵院(じょうけいいん)が三二歳の若さで死去し、一〇年後の永禄三(1560)年五月一九日に桶狭間の戦いで婿の今川義元がまさかの戦死を遂げ、孫の氏真が後を継ぐと信虎の身辺はきな臭くなった。
 嫡男の信玄(前年に出家して晴信から改名)は今川侵攻を考えるようになった。嫡孫・義信は、これまた孫娘である嶺松院(れいしょういん)を正室に迎えていた三国同盟への信義から駿河侵攻に反対したが、結果として義信は謀反に失敗して東光寺に閉じ込められ(後に自害)、孫娘の嶺松院も甲斐から駿河に送り返され、遂に信玄は駿河に侵攻した。
 自分の血を引く子や孫同士の諍いに信虎は何を想っただろう?


 この後、しばし武田信虎の動向は歴史に埋没するが、永禄四(1561)年の第四回川中島の戦いで(恐らくは最も愛していたであろう)次男・信繁が戦死し、永禄一〇(1567)年には在京であったことが確認されている。
 永禄一一(1568)年に美濃の織田信長が足利義昭を奉じて上洛すると、信虎は当時、武田氏と織田氏が同盟関係にあった縁で第一五代征夷大将軍に就任した足利義昭に仕候している。
 しかし、やがて武田は織田・徳川と対立し、信長を不遜に思う将軍・義昭が全国の諸大名に信長打倒の手紙を送ると、息子の信玄もこれに呼応して西上の途に就いた。
 元亀四(1573)年三月一〇日に義昭は信長に対して挙兵した頃、信虎は、義昭の命で甲賀に派遣され、反信長勢力の一角である六角氏の元にあった。
 しかし義昭の挙兵は、同年四月一二日に信玄が西上作戦の途上で病没し、武田勢が撤兵したことで失敗し、反信長勢力である朝倉義景・浅井長政も滅ぼされ、義昭は京から追放された。

 信玄没後の甲斐では孫の勝頼が家督を継ぎ、翌天正二(1574)年に信虎は三男・信廉を頼って、彼の居城である高遠城に身を寄せ、勝頼とも対面した。
 しかしそれから程無い三月五日、伊那の娘婿・禰津神平の庇護下に寄宿していた信虎は信濃高遠で病没。遂に甲斐への帰還は叶わなかった。武田信虎享年八一歳。
 葬儀は自らが創建した甲府の大泉寺で行われ、実に三三年の時を経ての、無言の帰還だった。


流浪の日々 背景はどうあれ、武田信虎の甲斐追放は配下・国人・民衆に歓迎された。
 天文一〇(1541)年六月一四日、信濃から凱旋した信虎は、前述した様に娘婿の今川義元と会う為に河内路を駿河に赴いたところで、嫡男・晴信の命を受けた配下に甲駿国境を封鎖され、帰国の術を失くし、隠居に追い遣られた。時に武田信虎四八歳の男盛りだった。

 この陰謀には信虎が信頼を寄せていた晴信養育係の板垣信方や、自らの名乗りの一字を与えていた飯富昌、原胤、諸角定、甘利泰等までが加担していた。
 名目上は「駿河にて病気療養」ということで、今川家の客人となり、晴信からは義元に対して年毎に謝礼金も支払われたが、今川家からの支出もあり、給地も存在していた。
 しかしながら「息子による父親の追放」であったことは誰の目にも明らかだった。
 「肉親同士で殺し合うことが珍しくなかった戦国時代。」とは云いつつも、儒教が倫理学として幅を利かしていたこの時代、「親→子」の危害よりも、「子→親」の危害の方が遥かに侮蔑対象となった。
 それゆえ、信玄は生涯「親不孝者」の汚名に苦しんだ。勿論、父を殺めた訳でもなく、身内も、家臣も、領民もこれを責めなかったが、信玄と対立した抵抗勢力が「親不孝」の名を喧伝して信玄を苦しめたのは想像に難くない。


 ともあれ、駿河における信虎は、後になって側室も送還され、駿河にて子供も作っていた。随分待遇のいい居候である(笑)
 何といっても、同盟国の隠居とは云え、武田信虎は「現当主・今川義元の正室の父」で、「次期当主・氏真の実の祖父」であった。今川家も粗略には出来なかった。

 天文一二(1543)年六月には上方遊歴に出、上洛し、京都遊覧後には高野山を訪れて武田家と師檀関係にあった高野山引導院を参詣(信玄は弟・信繁を通じて謝礼を行っている)し、次いで奈良を遊歴し、八月一五日には駿河へ戻っている、という長閑なものだった。


 天文一九(1550)年の娘・定恵院夭折、永禄三(1560)年五月一九日の婿・今川義元の戦死を経て、孫の氏真が後を継ぐと、嫡男の信玄(前年に出家して晴信から改名)は今川侵攻を考えるようになり、信虎に二度目の流浪が迫った。時に武田信虎五八歳。
 嫡孫である義信は、これまた孫娘である嶺松院を正室に迎えていた三国同盟への信義を重んじ、駿河侵攻に反対し、信玄に対して謀反を企む……とまさしく「歴史は繰り返す。」となった(ついでを云うと、信虎追放に加担した飯富虎昌が、この時は義信に加担し、切腹することになった)。
 しかし、結果までは繰り返されず、義信は謀反に失敗して東光寺に閉じ込められ(後に自害)、孫娘の嶺松院も甲斐から駿河に送り返され、遂に信玄は駿河に侵攻した。

 『甲陽軍鑑』『武田源氏一統系図』によると、信虎桶狭間の戦い以降に再上洛しており、公家の山科言継(やまなしときつぐ)は義元生前の永禄元年から例年に渡り信虎への年始挨拶などを行ったことを『言継卿記』に残しており、信虎は京に邸宅を持ち、継続的に在京奉公を行っていたと考えられている。
 信虎は在京前守護の立場で将軍・義輝に仕候し、儀礼的には高い席次で、この立場をもって、同じ甲斐源氏の一族でもある南部信長等、諸大名と交流し、山科都言継の他にも飛鳥井雅教や万里小路惟房といった公家とも文化的交流を行い、永禄三(1560)年には菊亭晴季に末女を嫁がせてもいた。

 この後、しばし武田信虎の動向は歴史に埋没するが、永禄一一(1568)年に美濃の織田信長が足利義昭を奉じて上洛すると、信虎は当時、武田氏と織田氏が同盟関係にあった縁で第一五代征夷大将軍に就任した義昭に仕候した。
 しかし前述した様に、駿河と遠江で睨み合う武田・徳川の対立と、将軍・義昭による信長打倒命令の手紙を送ると、武田と織田の対立は避けようがなくなった。

 甲斐追放後、各地の武田縁故を転々としていた信虎は、その立場ゆえに真には不詳だが、「足利将軍に仕える甲斐国前守護」として、息子・信玄の上洛を待ち焦がれていたと推測される。
 しかし、元亀四(1573)年三月一〇日に義昭が信長に対して挙兵した僅か一ヶ月後の四月一二日、信玄が西上作戦の途上にて信虎に先立って病没。甲州勢は撤兵し、これを皮切りに義昭は京を追われ、反織田勢力は次々と滅亡に追い遣られた。
 そしてこの時、義昭の命で甲賀の六角氏の元にあった信虎は故郷甲斐を目指し、最後の流浪の旅に出たのだった。


流浪の終焉 前述した様に、武田信虎流浪の後半生は信州高遠にて終焉を迎えた。
 天正二(1574)年、信州高遠城に城主・武田信廉の招きを受けてやって来た当年八〇歳の老人こそ、国主・武田勝頼の祖父にして、城主・信廉の父でもある武田信虎その人だった。

 高遠城にて信廉の引き合わせで孫の勝頼と初めて顔を合わせた信虎だったが、孫に会えたことよりも、故国の近くに帰り着けたことを喜んでいる風だった、と伝えられている。
 実際、信虎が甲斐を追放される前に為していた子供達の中でも嫡男・信玄は前年に病死し、最も愛していたと思われる次男・信繁は第四回川中島の戦いで討ち死にし、四男・信顕、五男・信是にも先立たれ、自らの名・「信虎」から「」の一字を与えた重臣達、原胤、小幡盛、飯富昌、甘利泰、三枝吉、金丸義(土屋昌続の父)、工藤豊(内藤昌豊の父)、諸角光等もその多くが既に討死、病死、刑死していて、眼前に並ぶのは見知らぬ顔が大半だった。
 また、信虎が処罰……早い話、誅殺したことで血筋が絶えた国人達の名跡を継いで改姓した家臣(勿論信玄の計らいによるものである)が多かったのも信虎には面白からざることだった。

 勝頼との対面の席で、信虎はやおら、伝家の宝刀・筑前左文字を抜き放つと、八一歳の老人と思えぬ動きで、袈裟懸けに二度、三度と空を切らせた。
 突如の剣舞の後、信虎はかつて己に諫言した家臣五〇余名を自ら手討ちにしたことを述べ、「じゃが、俺を呪うな。世を呪え。」と云いかけた所で隙を見つけた家臣によって刀を奪い取られた。

 如何にも戦乱と流浪に明け暮れ、乱世の猛将然とした武田信虎の言動だが、恐らくはこれが最後の撃剣だったのだろう。それから程無い三月五日、信虎は釜無山を挟んだ故国・甲斐に望郷しながら、伊那の娘婿・禰津神平宅にて八一年の生涯を終えた。

 それから間もなく、絵画を趣味としていた信廉によって武田信虎画像が描かれた。
 この画像は信虎が創建し、彼の葬儀が行われた甲府の大泉寺に納められており、長善寺に納められた大井夫人(信虎正室、信廉母)像とともに重要文化財となっている。
 その像だが、剃髪、墨衣、軍配持ちだけでも異様なのだが、頭部が妙に大きく、頭頂部で尖り、眼光は正しく「」を思わせ、とても息子が父を描いたものには見えない。
 三〇年以上前に追放された父をわざわざ迎えた信廉に父への悪意があったとは思えないので、本当にあんな面相だったのだろうか?それとも何か特別な意図があったのだろうか?

 ともあれ、追放の日より何人かの身内とは顔を合わせまくりながら遂に故国への帰還が叶わなかった信虎は葬儀の日に無言の帰宅を果たしたのだった。


流浪の意義 武田信玄の伝記を読むと、一度は「武田信虎暴君伝説」に接することになる。
 妊婦の腹を裂いて、胎児の性別を確認し、母子ともども惨死させた………という類のものだが、豊臣秀次にも似たような伝説があり、恐らくは『史記』における殷の紂王の伝説をパクったものだろう。
 とはいえ、信虎に暴君的な一面があったのは事実で、諫言する直臣を何人も手討ちにし、内藤資、馬場貞、山県清、工藤豊、といった自らの名乗りの一字を与えた重臣までも感情の赴くままに成敗していた(その為、信玄は信虎に殺されて絶えた名跡の多くを重臣達に継がせて、復活させている。例:馬場氏→馬場信春、山県氏→山県昌景)し、信虎追放の五年前には今井兵部を始めとする数人の重臣が甲斐を出奔していた。

 勿論、信虎にも云い分はあるだろう。
 一四歳で家督を継いだときから叔父との戦いを余儀なくされ、国人領主達は従っては逆らい、逆らっては従ったのだからいつ裏切るやら信用が置けず、今川家、諏訪家、禰津家に娘達を嫁がせながら時に戦い、時に手を結んだ日々は並大抵の手腕で為し得るものではなかった。
 そんな状況下で甲斐一国を統一にまでこぎつけた信虎の軍政家、策謀家としての手腕は卓越したものがあったが、結果として彼は内に対しては鬼とならざるを得ず、民に対しては重税を課さざるを得なかった。
 息子・信玄が金山開発や信玄堤で内政にも優れていたこともあって、余計に信虎は軍事家としては満点でも、政治家としては赤点、と見做されることとなった。


 そんな信虎の追放は民衆に喜ばれた。
 いわば政治的に厄介払いされた信虎だったが、彼の流浪には諸説ある。
 そもそも、甲斐追放にしたところで、茶番説があるぐらいで、そんな諸説まで立つぐらい、信虎の流浪は特異なものだった。

 信虎の流浪を特異なものにならしめたのは、彼の血筋が甲斐源氏の名門の嫡流ゆえであったことは想像に難くない。
 戦国時代、下剋上で守護や守護代から国主の地位を奪った国人出身の領主の中には「○○源氏の子孫」と嘘丸分かりのでっち上げ血筋を主張する例が多かったが、武田家が、源義家の弟・新羅三郎義光から始まる由緒正しい源氏の血筋であることは疑いの余地がなく、群雄割拠の世の中で、国人領主達に対して優位に立ったり、若狭武田氏、安芸武田氏、蝦夷松前氏、陸奥南部氏、出羽浅利氏、土佐香宗我部氏と交流を持てたり、三条氏を初めとする公家とのコネクションを持てたのも、血筋によるところが大きかった。

 勿論、追放先の駿河で子供を作るような男である信虎(笑)がこれらのコネクションを活かさない筈はなく、隠居・居候にして、表向きは「病気療養中の身」である筈の信虎は上洛したり、近畿一円の国々、高野山を遊歴したりして、時に「甲斐源氏前当主」として、時に「将軍御相伴衆」として、様々な公家・大名とのコネクションを広げたのも、「武田家による天下統一への布石打ち」と見られている。

 実際、信玄による信虎追放は「無血クーデター」で、誰一人死にもしていないし、怪我もしていない。
 信玄は「隠居料」として追放先の今川義元に多額の金品を送っており、側室まで送っている(それでも信玄は「親不孝者」の烙印に生涯苦しみ、王道思想を唱える彼は『孟子』を強く説くも、『論語』は終生手にしなかった)。
 今川家でも信虎を身内または客分として遇し、信虎はかなり自由な行動を許されていた(或る程度の監視はあっただろうけれど)。
 前述したように子供まで作っており、義元や定恵院の存命中こそは今川家の客分に納まっていたが、義元戦死後は孫の氏真と不仲だったこともあって、秘かに甲斐と通じて、信玄による駿河侵攻を助力したと云われている。

 そして今川家が崩壊し、上洛した後は、信玄の上洛を影から助力したと云われている。
 ここまで来ると、もう武田信虎は「猛将」というより「謀将」である。
 実際、信虎が戦場に立つことはなく……否、実際にはあったのだが、永禄三(1560)年に北畠具教軍に軍師として協力し、水軍として名高い九鬼軍を壊滅寸前にまで追いやる采配振りを見せている。つまりは馬上にて槍を振るって戦っていた時の信虎とは様相を異にしている。

 前述したが、信虎は信州高遠で天寿を全うした。死の直前、孫の勝頼と対面した折に、彼は抜刀して年齢を感じさせない暴れん坊振りを見せているが、これも故国を前にして若き日の血が滾ったのであろうか?

 武田信虎と云う男、決して「暴君」・「残忍な猛将」の一言で片付けられる男ではない。
 家督を巡って嫡男の信玄とこそ争ったものの、信玄以外の子供達との仲は至った良く、次男の信繁は信玄の名代として駿河を訪れた折には涙を流して親不孝を詫びており、大井夫人危篤の折には信虎の一時的な帰国が検討されており、最後の最後に頼ったのは三男の信廉であった。父子相克が信じられない程の父子交流の持ち主であった。
 暴君的な一面を持っていたのも間違いないが、様々な場所を流転した故に様々な一面を見せた武田信虎とは、ある意味において最も人間臭い男だったのかもしれない。




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令和三(2021)年五月二五日 最終更新