第肆頁 土岐頼芸…故国を奪った奴等は凄過ぎて

氏名土岐頼芸(ときよりなり)
生没年元亀元(1502)年〜天正一〇(1582)年一二月四日
追跡者斎藤道三?
主な流浪先尾張・近江・常陸・上総・甲斐
匿ってくれた恩人織田信秀・六角氏・土岐治頼・関東土岐氏・武田信玄
主な同行者土岐頼次
流浪の目的延命・故国への帰還
流浪の結末稲葉一鉄の計らいで旧領・美濃に戻って死去
略歴 土岐頼芸は清和源氏の流れを引く美濃源氏を出自とする美濃土岐氏の当主・土岐政房(ときまさふさ)の次男として元亀元(1502)年に生まれた。
 政房には嫡男・頼武(よりたけ)がいたが、頼武は戦国武将にしては真面目な常識人で、頼芸の華美を好み、遊芸に秀でていたことを愛でたのか、次男の方を溺愛して頼武の廃嫡を考えるようになった(皮肉なことに政房の父・成頼も次男の元頼の方を溺愛して、政房廃嫡を図り、内乱になったことがあった)。

 政房は頼芸に長井長弘、長井新左衛門尉(斎藤道三の父)を付けたが、頼武も負けてはおらず、守護代・斎藤利良の支持を受け、兄弟は家督を巡って対立し、永正一四(1517)年に合戦となった。
 この戦いで頼芸側は敗れたが、前守護代・斎藤彦四郎の助力も得て、翌永正一五(1518)年に再度合戦。頼芸はこれに勝利して頼武とその一派を越前に追放した。

 しかし、永正一六(1519)年、朝倉孝景の支援を得た頼武が美濃に侵攻し、頼芸方は敗れ、頼武が美濃守護に就くことになった(この年、父・政房は無責任に病没)。
 しかし、頼芸は諦めず、大永五(1525)年に再び挙兵し、美濃守護所の福光館を占拠した。享禄三(1530)年には頼武を再び越前に追放し、「濃州太守」と呼ばれて実質的な守護となった。


 その後、後ろ盾であった長井長弘、斎藤新左衛門尉等が相次いで死去し、新左衛門尉の子・規秀(後の斎藤道三)を重用し、勢力保持を図った。
 天文四(1535)年六月、父の一七回忌を執り行い、自らの正統性を国内に宣言したため、兄の跡を継いだ甥・頼純と対立し、朝倉氏、六角氏等が頼純に加担したことにより戦火は美濃全土へ広がった。
 同年七月一日、新たな守護所であった枝広館が長良川大洪水で流され、稲葉山の麓に移った。
 同年同月二二日、第一二代将軍・足利義晴の執奏により、修理大夫に任官。翌天文五(1536)年、勅許により正式に美濃国守護に就任した(ちなみに兄・頼武はこの年を最後に史書にその名を見せなくなった。詳細没年不明)。

 同じ頃、頼芸は近江源氏の末裔である六角定頼の娘を娶り、六角氏と和睦したことによって争乱はほとんど治まり、天文八(1539)年には頼純との間に和議が成立した。
 天文一〇(1541)年、重臣の斎藤道三が頼芸の弟・頼満を毒殺する事件が起こったため、これ以降道三との仲が険悪となり、次第に対立するようになった(当たり前か)。

 天文一一(1542)年、頼純の籠もる大桑城が落城し、鷺山城へ移った。またこの年、頼芸は子の頼次ともども道三により尾張へ追放された。
 追放された先の尾張で織田信秀の支援を得て、越前で朝倉孝景の庇護下にいた甥・頼純と連携し守護の座に復帰したが、まもなく天文一五(1546)年、道三と孝景が和睦し、その和睦の条件が頼芸の守護退任であったため、頼芸は守護の座を頼純に明け渡した。

 追い打ちを掛けるように天文一七(1548)年、信秀と道三が和睦したことによって後ろ盾を失い、天文二一(1552)年頃、再び道三に美濃を追放され、頼芸は妹の嫁ぎ先である近江の六角氏を頼った。
 その後、頼芸は全国各地の土岐氏の支族や源氏の末裔を頼って、近江→関東→甲斐を転々とし、この間に眼病によって失明する始末だった。

 美濃を追われて三〇年後、天正一〇(1582)年、旧臣であった稲葉一鉄の計らいで故国・美濃(←勿論、とっくに斎藤領から織田領になっていた)に戻り、同年一二月四日死去した。土岐頼芸享年八一歳。
 墓は岐阜県揖斐川町の法雲寺。戒名は「東春院殿文関宗藝大居士


流浪の日々 とかく美濃とは、国主の座を巡っての諍いが絶えない地であった。
 政房(土岐頼芸父)VS 成頼(頼芸祖父)&元頼(頼芸叔父)、
 頼芸&頼次(頼芸嫡男)VS 頼武(頼芸兄)&頼純(頼芸甥)、
 頼芸&頼次 VS 斎藤道三、
 斎藤道三 VS 斎藤義龍(頼芸落胤?)、
 とこれすべて内乱なのだから、美濃の民衆は堪ったものじゃなかっただろう。


 土岐氏自体が万事こんな調子だから、頼芸の流浪前半は美濃国内を転々としたものだった。
 勿論頼武・頼純父子との戦いにおける勝敗に左右されたのである。
 永正一四(1517)年に一六歳の頼芸は、当時二〇歳と推測される兄・頼武と合戦したのを皮切りに、まず敗れ、翌年の再戦勝利で兄を越前に追放した。
 そのまた翌永正一六(1519)年に越前で朝倉孝景(義景の父)の支援を得た頼武の逆襲に敗れ、美濃国守護の座を頼武が就くことを了承せざるを得なかった(頼武の妻は孝景の妹)。

 雌伏すること六年、頼芸は守護の座と政権の奪取を企て、大永五(1525)年に再び挙兵し、美濃守護所の福光館を占拠し、五年後の享禄三(1530)年には兄を再び越前に追放して事実上の守護となった。
 しかし有力な後ろ盾であった長井主従の相次ぐ死を受け、新左衛門尉の子規秀(斎藤道三)を重用し、天文四(1535)年六月、父の一七回忌を利して、自らの正統性を国内に宣言した。

 勿論これは兄の跡を継いでいた甥の頼純と対立を生み、頼武の縁で朝倉氏、六角氏が頼純に加担し、戦火は美濃全土へ広がった。
 同年七月一日、新たな守護所であった枝広館が長良川大洪水で流され、稲葉山の麓に移った。翌天文五(1536)年、勅許により正式に美濃守に就任したことで、頼芸の頼武・頼純父子との対立は頼芸の勝利に終わった。
 美濃守正式就任後、頼芸は六角定頼の娘を娶ってこれと和睦し、天文八(1539)年には頼純との間にも和議を成立させた。
 だが、頼芸が真の勝利者で無かったことは程なく歴史が証明することとなった。


 天文一〇(1541)年、斎藤道三が頼芸の弟・頼満を毒殺する事件が起き、これ以後道三との仲が険悪となり、次第に両者は対立した。
 ちなみに頼芸と対立したとはいえ、基本的に兄・頼武は真面目で、家族想いな人物で、頼芸に対して、「道三は腹黒い奴だから気を許すな。」と忠告していた。
 もっとも、そんな忠告に対しても頼芸は「お気に入りの家臣を侮辱された」と思って臍を曲げていたのだったが。


 天文一一(1542)年、道三によって敗れた頼芸は子の頼次ともども尾張へ追放された(この時点で追放されたのは頼次だけで、頼芸はその後もしばらく道三の傀儡として美濃に留まっていたという説もある)。
 当時の尾張の国主は織田信秀。云わずと知れた戦国の風雲児・織田信長の父である。
 信秀の支援を得た頼芸は越前で朝倉孝景の庇護下にいた頼純と連携し、一時は守護の座に復したが、武勇、策謀、政治力ともに道三の方が一枚も二枚も上手で、天文一五(1546)年、道三は孝景と和睦した。
 和睦の条件は頼芸の守護退任で、頼芸は孝景の甥で、自らの甥でもある頼純に美濃守護の座を明け渡した。
 だが、翌年の天文一六(1547)年一一月一七日、土岐頼純は二四歳の若さで急死した。
 死因の詳細は不明だが、斎藤道三が手に掛けた疑惑は限りなく黒に近い灰色であった。
 次いで道三は天文一七(1548)年、織田信秀とも和睦(この縁で道三の娘・濃姫と、信秀の嫡男・信長が婚姻)。頼芸は周辺国における後盾を完全になくし、四年後の天文二一(1552)年、再び道三に美濃を追放された。


 美濃を追われた頼芸が最初に頼ったのは妹の嫁ぎ先である南近江の六角氏だった。
 六角氏が北近江の浅井氏、新たに美濃を乗っ取った織田氏との対立に敗れると、頼芸は、遠く関東は常陸に向かった。
 常陸は土岐氏と同じ清和源氏を先祖に持つ土岐原氏が治めており、土岐原氏の当主は、同じ清和源氏の縁で養子となっていた土岐原治頼で、彼は頼芸の実弟だった。
 弟への感謝か、土岐氏の大名としての家格を保つ為か、頼芸は治頼に系図や家宝を譲り渡し、譲渡を受けた治頼は姓を土岐原から、元の土岐に改めた。
 しかし望郷の念だったのか、兄とも対立した性格が弟の保護を受けることを恥としたのか、頼芸は上総の分家・土岐為頼を、次いで武田信玄・勝頼を頼って甲斐に身を寄せたが、流浪に体を蝕まれたのか、流浪中に眼病を患い、失明した。

 流浪すること三〇年、天正一〇(1582)年三月一〇日に武田家が織田・徳川連合軍によって滅ぼされ、その三ヶ月足らず後の六月二日には本能寺の変にて信長が命を落とした。
 信長の死後、旧臣であり、正室・深芳野(みよしの)の兄でもあった稲葉一鉄の計らいで故国・美濃に戻り、それに安堵したように同年一二月四日死去した。


流浪の終焉 上述した様に、土岐頼芸は当時としては長寿と云える、現代でも「天寿を全うした。」と云ってもおかしくない八一歳で、故国の地にこの世を去った。
 旧臣の情けを受けてとは云え、頼芸は故国に帰ることには成功した。前述した様にその時の頼芸は失明し、永の流浪に疲弊し、年齢的にもいつ御迎えが来てもおかしくない状態だった。

 美濃の追放から約三〇年。
 その間に美濃の国主も斎藤道三→斎藤義龍→斎藤龍興→織田信長→織田信忠→織田秀信、と代替わりを含むにしても目まぐるしく変遷した。
 そして頼芸が寄宿した先である南近江、常陸、上総、甲斐も時代の荒波の中で浅井、織田、北条との戦いに巻き込まれ、決して安住の地ではなかった。
 流浪中における頼芸の行動詳細は薩摩守の不勉強により不鮮明だが、美濃の国主は変わっても家臣が殆ど変っていないことから、頼芸の同行者は少なかったと思われる。
 逆に多人数だと、近江(滋賀)から常陸(茨城)までの遠距離を簡単に逃れ得たとは思えない。

 そんな物騒な道中と乱れた世相における流浪の中、頼芸の命を永らえさせたのは「望郷の執念」だったと思われる。
 そして乱れる美濃国主座争奪戦で美濃を追われた中年は、美濃の安定によって老体の身を迎えられた。古くから美濃に居た家臣・稲葉一鉄によって…。

 現代社会でも、長年何かの目標を持って働き続けた人間が、定年退職等で目標を失ったとたんに急速に老け込むのはよくある話で、頼芸の命を永らえたのも宿願なら、それを終わらせたのも宿願の達成だったのではあるまいか?

 ちなみに頼芸没後の土岐氏だが、頼芸の子・頼次が豊臣秀吉の馬廻りとなり、天正一五(1587)年に河内古市郡内に五〇〇石を与えられた。
 その後、徳川家康に仕え、関ヶ原の合戦では東軍に属し、本領を安堵されて、旗本となった。
 大坂冬の陣を目前とした慶長一九(1614)年一一月一〇日、伏見において七〇歳で没し、残された三男一女は、嫡男・頼勝とその子孫が高家旗本として、三男・頼泰とその子孫が幕府旗本として、次男・頼高は御伽衆として徳川義直に仕えた。


流浪の意義 戦国時代、という歴史を見る目で土岐頼芸を見たとき、頼芸には悪いが何の意義も感じない。頼芸が歴史に為した影響が余りにも小さかったからである。
 しかし、血統の歴史で見ると非常に興味深い。

 兄の頼武、甥の頼純や斎藤道三と美濃国主の座を争っているときの頼芸が頼ったのは織田信秀であった。
 これは兄・頼武の生母が越前朝倉家の女性だったため、その縁を頼ったのに対抗する相手として織田氏を選んだのだろう。
 興味深いのは、朝倉氏も織田氏も守護代の出で、戦国時代特有の下剋上で国主の座を掴んだ、所謂「成り上がり者」だった。
 通常、清和源氏の流れを汲む根っからの守護大名は成り上がり者を嫌う傾向にあった。普通頼るなら、同じ源氏の流れを汲む若狭の武田氏か、近江の六角氏か、信濃に勢力を伸ばした甲斐の武田氏を頼りそうなものであった。
 しかし頼芸も頼武・頼純父子もそうはしなかった。少なくとも道三が美濃を奪うまでは。

 そして道三が力で美濃国主の座を奪った後になってから、頼芸が頼ったのは源氏一族だった。
 実弟の土岐治頼や、上総の土岐氏はまあ分かるとして、当初薩摩守が不思議に思ったのは、近江の六角氏を頼ったことであった。正室が六角氏の出であることを思えば、然程不思議ではないのだが、兄と争っているときは全く頼らなかったことを考えると些か不可解である。

 ここからは推測だが、恐らくは下手に源氏の流れを汲む近隣大名の力を借りることは、後々助力の恩義と血族を盾に、様々な介入や請求を受けることを恐れたからではなかろうか?
 特に六角氏は後に織田信長も上洛の折に争っている、油断のならない相手であった(強くはなかったが)。
 しかし、いざ国を奪われると本気で成り上がり者が嫌になったのだろう。諺に「遠くの親類より近くの他人」というものがあるが、頼芸は「近くの他人より遠くの親類」を頼ったのであった。

 例によって薩摩守の不勉強により頼芸が流浪した先々で、歓迎されたか厭われたかは不明である。
 だが、大兵力も連れず、血統は立派で、文化人然とした頼芸は、恐らくは毒も薬にもならず、「場合によっては大義名分としての手駒になるかも。」ぐらいに見られていたのだろう。
 余談だが、頼芸は幾つもの書画を―特に鷹の絵を得意として―書き残している。
 孫の頼高も鷹の絵を得意とし、頼芸の手による鷹の絵は、「土岐の鷹」として珍重されている。
 国主の座と、書画に耽る日々を天秤に掛けた場合、頼芸は国主の座に色気を見せず、兄・頼武を立てて部下を抑えていれば、故郷を失うことはなかったのではないだろうか?
 目の見えなくなった体で美濃に戻った頼芸は、故郷の川のせせらぎを耳にし、故郷の土の匂いを嗅ぎ、故郷の風を肌で感じながらも眼に映らぬ故郷にどんな思いをはせながらこの世を去ったのだろうか?
 それでも、戻れなかったよりは良かったのだろうけれど。


『土岐の鷹』


 余談だが、頼芸を美濃から追放した斎藤道三の嫡男・義龍は、自らを廃嫡しようとする父の動きを察知すると弟を謀殺して、「自分は道三の子ではない。道三が追放した頼芸の忘れ形見だ!」と称した。
 実際、頼芸の妻・深芳野は道三に下げ渡され(………うーん、どこぞの女性団体が見たら怒り来るそうな表現だなあ…)、この時、既に身籠っていた可能性があり、生まれた時期からも義龍が頼芸の胤であった可能性は充分にあった。
 それゆえに道三は義龍よりも、確実に自分の胤であると断言出来る次男・孫四郎龍重、喜平次龍定の方を可愛がったとも云われている。

 しかし薩摩守はこの説を支持しない。
 義龍が本当に頼芸の子なら、美濃を追放されていた「父・頼芸」を美濃に迎えていただろうし、それを行っていないことや、前後の道三に劣らぬ策謀家振りを見ると、義龍は道三の子供だったと薩摩守は思う。


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令和三(2021)年五月二五日 最終更新