第伍頁 今川氏真…貴公子然とした逃亡人生

氏名今川氏真
生没年天文七(1538)年〜慶長一九(1615)年一二月二八日
追跡者武田信玄
主な流浪先相模・浜松・京
匿ってくれた恩人北条氏康・徳川家康
流浪の目的家名存続、優雅な隠棲
流浪の結末大名としての御家再興に失敗するも、幕府公家としての家名存続に成功
略歴 正直、この戦国房を立ち上げたとき、「今川氏真は格好の材料だな…。」と思っていて、既に『菜根番名誉挽回してみませんか』で取り上げることを決めていたが、よもや『隠棲の楽しみ方』に続いて、三度目の登場があるとは思わなかった(笑)。

 天文七(1538)年、駿河・遠江・三河の三国を統べる今川義元と定恵院(武田信虎の娘)の間に今川家の嫡男として生まれた。
 天文二三(1544)年、氏真一七歳の時に、今川義元、武田信玄、北条氏康の三大名が善徳寺に会し、駿甲相三国同盟が成立し、氏真は氏康の娘(早川殿)を娶り、妹が信玄の嫡男・武田義信に嫁いだ。

 弘治二(1556)年から翌年にかけて、駿河を公家の山科言継(やましなときつぐ)が訪問した際には氏真もこれを饗応。弘治三(1557)年正月には自邸にて和歌始開いて、言継を出席させ、書や鞠を送った。

 永禄元(1558)年頃より父・義元から三国の内、本拠地である駿河の統治を任され、政務を執っていた(駿河内の命令書が氏真の名で発給されていた)。
 しかし、永禄三(1560)年の桶狭間の戦いにおける今川義元のまさかの討死で、今川家第一〇代当主に氏真は就任した。時に今川氏真二三歳。


 前々から国主としての統治において農政に尽力し、経済政策もこなしていた氏真だったが、父・義元の仇討ちを為す気は欠片も無く、平時はともかく、戦国の世にあって、戦に消極的な姿勢や人質を巡る処遇が松平元康(徳川家康)を始めとする勢力圏内の国人領主達の離反を招き、戦う前よりその勢力を半減させていた。
 それでも氏真は父・義元の死後、祖母・寿桂尼の後見を受けて、永禄三年後半から永禄五年にかけて活発な文書発給を行い、寺社、被官、国人の繋ぎ止めを図っていた。
 永禄四(1561)年三月に、長尾景虎(上杉謙信)の関東侵攻に対して北条家に援兵を送り、川越城での籠城戦に加わらせた。また、同年、室町幕府の御相伴衆の格式に列しており、幕府の権威によって領国の混乱に対処しようともした。

 しかし永禄一一(1568)年、遂に武田信玄と徳川家康の侵攻を招いた。
 さすがの氏真も最初から戦おうとしなかった訳ではなかったが、既に国人達の人心離反は抑え様が無く、薩捶峠(さったとげ)の戦いにおいて、有力国人である瀬名信輝、朝比奈政貞、三浦義鏡、葛山元氏等が戦わずして離反したとあっては、氏真に戦いようは無く、程無く、遠江掛川城へ逃れた。

 唯一、北条家だけが武田の盟約反故を怒り、今川家に同情したが、その後の氏真は掛川城主・朝比奈康朝とともに半年ほどの篭城での奮闘が精一杯だった。
 永禄一二(1569)年五月一七日、氏真は城兵一同の助命を条件に「和睦」という形で開城に応じた。
 和睦内容は今川氏真、北条氏康、徳川家康の名で為され、「武田氏を駿河より駆逐した後に氏真を再度駿河領主とする」と約したものだった(勿論履行されなかった)。
 形式や政治上はともかく、戦国大名としての今川家の事実上の滅亡がこの時だった。時に今川氏真三二歳。


 掛川城の開城後、氏真は正室の実家・北条氏を頼って相模に逃れた。
 一応は駿河守護にして、同盟相手でもある氏真は対して氏康は、永禄一二(1569)年五月二三日に北条氏政の嫡男・国王丸(氏直)を猶子とし、武田への対抗の為、今川、北条、上杉による三国同盟を結んだ。

 しかし上杉との同盟は北条に利無し、と見た氏康は自らの死に臨んで、自らの死を契機に上杉と縁を切り、武田と結び直すことを遺言した。
 元亀二(1571)年に氏康が没すると氏政は遺命に従い、これにより駿相越の三国同盟は瓦解し、氏真は相模を離れ、かつて人質として見下していた徳川家康の庇護下に入った。
 掛川城開城時の盟約を頼ったもので、家康は氏真を保護することで甲州勢迎撃に世論の支持を取り付ける為の大義名文とした。

 その後一時期、遠江牧野城主に任ぜられたり、長篠の戦いにも従軍したりする等して、徳川家の末将的な役割をこなしたりした様だったが、程なく上京し、剃髪して(そうぎん)と号し、京に定住した。
 客将としての地位を解任されたとも云われるが、その後も家康の保護は続き、旧知・姻戚の公家などの文化人と往来し、連歌の会などに参加(特に冷泉為満との親交が深く、山科言経の日記にもその名が見える)していたのだから家康によって駿河守護時代の人脈を活かした、朝廷・公家とのコネクション的役割を課せられた模様であった。

 その後、豊臣秀吉の手によってかつての同盟相手でもあった北条家が滅ぼされ、天下は統一された。
 更には慶長五(1600)年関ヶ原の戦いの後、氏真の嫡男・範以(この時既に早世)が相続した今川家の当主にして嫡孫・範英が今川家を、氏真次男・品川高久が品川家の当主として、二人が揃って徳川秀忠より旗本に列せられ、氏真も江戸に移住した。
 以後今川家・品川家は正式に幕閣に和歌を始めとする芸の道を教導する役職の家となった。

 大坂冬の陣の和睦が成立した直後の慶長一九(1615)年一二月二八日、次男・品川高久の江戸品川屋敷にて天寿を全う。今川氏真享年七八歳。
 萬昌院に葬られたが、後に妻・蔵春院早川殿の墓とともに、東京都杉並区今川町の宝珠山観泉寺に移された。法名は傳岩院殿量山泰栄大居士


流浪の日々 云うまでもなく、今川氏真の流浪は伯父・武田信玄に駿河を追われたことに始まったが、その元凶は永禄三(1560)年五月一九日、桶狭間の戦いにおける父・義元の討死にあった。

 父の死の直後、氏真は三河の国人衆に対しては多数の安堵状を発給し、動揺を防ぐことを試みていた。なまじ今川家の勢力が駿河、遠江、三河に及んだため、それだけ氏真が収めなければならない動揺もまた大きかった。
 チョット、下記に今川家勢力域各地の動向をまとめてみた。
地域動向氏真の見解・動向
西三河 桶狭間の合戦後、旧領岡崎城に入った松平元康(徳川家康)の勢力下に入った。
 永禄四(1561)年一月には足利義輝が氏真と元康との和解を促しており、北条氏康が仲介に入ったこともあったが、元康は今川家と断交。
 永禄五(1562)年正月に織田家との清洲同盟が成立した。
 元康にひたすら帰還を命じ続け、清洲同盟成立の翌月、氏真は自ら兵を率いて牛久保に出兵し一宮砦を攻撃したが、元康に敗れた。
 駿府に滞在していた外祖父・武田信虎の動きが不穏だったこともあり、氏真は途中で軍を返した。
東三河 国人領主達が新たな人質要求に不満を強め、今川家を離反して松平方につく国人と今川方に残る国人との間での抗争が広がった。
 永禄四(1561)年、今川家から離反した菅沼定盈の野田城攻めに先立って、小原鎮実は人質十数名を龍拈寺で処刑したが、この措置は多くの東三河勢の離反を決定的なものにした。
 永禄七(1564)年六月、東三河の拠点である吉田城が開城し、今川氏の勢力は三河から完全に駆逐された。
 国人領主達に新たな人質を要求。

 「三州錯乱」と呼んで嘆いた。
遠江 井伊谷・井伊直親、曳馬・飯尾連竜、見付・堀越氏延、犬居・天野景泰等が離反。
 永禄五(1562)年に井伊を朝比奈泰朝に誅殺させ、永禄七(1564)年には飯尾を三浦正俊に命じて討たせんとしたが、逆に正俊が戦死した。
 飯尾連竜自身は永禄八(1565)年一二月に偽の和議に誘い出して謀殺した(←せこい)が、飯尾氏家臣達が翌永禄九(1566)年四月に開城するまで抵抗した。
 朝比奈泰朝に井伊直親を誅殺させ、三浦正俊に飯尾連竜誅殺を命じ、失敗。
 その後飯尾を謀殺。

「遠州錯乱」と呼んで嘆いた。
駿河 武田信玄の調略を受けて、二一人が信玄に内通。
 薩 埵 峠(さったとうげ)で戦線離脱した四将が、駿府城に戻った時には再合流する奇妙さにうろたえるのみだった。
甲斐(親今川勢力)  永禄八(1565)年、甲斐にて氏真の妹・嶺松院を室とする武田家嫡男の武田義信が廃嫡され、同年一一月に嶺松院が今川家に送還された。
 有名な甲斐への塩止めは、氏真が妹婿である武田義信の閉門を解かせる為に行われたとの説あり。


 上表にある各国の動向の果てに、永禄一一(1568)年に武田信玄が駿河を攻めたことによって、駿甲相三国同盟は解消された。
 早川殿の父・北条氏康は救援軍を差し向け、薩埵峠に布陣。戦力で勝る北条軍が優勢に展開するものの、武田軍の撃破には至らず戦況は膠着した。
 徳川軍による掛川包囲戦が長期化する中で、信玄は約定を破って遠江への圧迫を強めたため、家康は氏真との和睦を模索した。

 掛川城の開城後、氏真は妻の実家である北条氏を頼り、蒲原を経て伊豆戸倉城に入った。
 その後、小田原に移り、早川に屋敷を与えられた(妻の「早川殿」の名はこの地名にちなむと云われている)。
 掛川開城の六日後、永禄一二年五月二三日、氏真は北条氏政の嫡男・国王丸(後の氏直)を猶子とし、国王丸の成長後に駿河を譲ることを約した(この時点で氏真の嫡男・範以はまだ生まれていなかった)。
 また、武田氏への共闘を目的に上杉謙信の元に使者を送り、今川、北条、上杉三国同盟を結んだ(実態は相越同盟)。

 駿河奪還は全くの絵空事として扱われた訳ではなく、重臣・岡部正綱は一時駿府を奪回し、花沢城の小原鎮実は武田氏への抗戦を継続していたし、北条氏による出兵も行われた。
 この間も氏真は駿河に対して多くの安堵状や感状を発給。どれだけの影響力を持ち得たかは不明だが、駿河に若干の直轄領を残し、北条国王丸に駿河を継がせることを目的とした協力の取り付けに若干の影響は為したようであった。
 しかし、蒲原城の戦いなどで北条軍は敗れ、今川家臣も順次武田氏の軍門に降り、元亀二(1571)年頃には大勢が決し、氏真の駿河奪還は絶望視された。


 同年一〇月三日に北条氏康が死ぬと、遺言に従って氏政は外交方針を変え、武田氏と和睦した。
 これを受け、一二月に氏真は相模国を離れ、徳川家康の庇護下に入った。
 家康はこれを受け入れ、元亀三(1572)年に入ると、氏真は興津清見寺に文書を下す等、大義名分上の役割である掛川領主としての若干の動きを見せた。
 尚、氏真は元亀元(1570)年に正室・早川殿との間に待望の嫡男(今川範以)を儲けた。時に今川氏真三三歳。
 早川殿との婚姻から一六年の歳月が流れていた(ある意味、ここまで翻弄された人生を送る夫に沿い遂げたこの妻も大したものだ…)。

 天正元(1573)年には浜松にいて、天正三(1575)年一月に吉田・岡崎を経て上洛の旅に出、京都到着後は三条西実澄ら旧知の公家を訪問した。
 二ヶ月後の三月一六日に父の仇である織田信長と京都の相国寺で会見。悪名高い「親の仇の前での蹴鞠」は同月二〇日に披露された。
 当然、この記録は織田方のもので、今川方の記録には存在しない(笑)。

 四月、武田勝頼が三河長篠に侵入したことを聞くと京を出立して三河に戻り、所謂長篠の戦いに参陣。五月一五日から牛久保で後詰を務めた。
 合戦後、氏真も残敵掃討に従事し、五月末からは数日間旧領駿河にも進入し、各地に放火した。
 七月中旬には遠江諏訪原城攻撃に従軍し、八月に落城せしめると、牧野城と改名した。
 翌天正四(1576)年三月一七日、家康から同城の城主に命ぜられたが、翌天正五(1577)年三月一日に解任され、氏真は浜松に召還された。
 剃髪し、と号したのはこの頃とされ、以後、氏真が今川家当主として文書を発給することはなかった。


 天正五(1577)年以降の氏真の詳細な動きは不明だが、徳川家家臣や公家の日記にその名が見え、浜松を訪れた公家の供応を家康とともに担っていた。

 豊臣秀吉が没した年である、慶長三(1598)年、氏真の次男・品川高久が徳川秀忠に出仕。
 慶長一二(1607)年に嫡男・範以が京都で没し、慶長一六(1611)年には、範以の遺児・範英が高久同様、徳川秀忠に出仕した。

 慶長一七(1612)年一月、冷泉為満邸で行われた連歌会に出席したのが公家との交流を記録した最後となった。
 四月に郷里である駿府で大御所徳川家康と面会し、家康より品川に屋敷が与えられ、氏真はそのまま子や孫のいる江戸に移住し、翌慶長一八(1613)年二月一五日、長年連れ添った早川殿と死別した。
 その後を追うように慶長一九(1615)年一二月二八日、江戸で逝去した。


流浪の終焉 駿府→掛川→伊豆→小田原→浜松→京→牛久保→牧野→浜松→京→駿府→品川の順に、関東−京都間の今川氏真の流浪は為され、最後は江戸品川にて終焉を迎えた。勿論病死で、充分に天寿を全うした、と云える年齢での往生であった。

 実に氏真の人生は三一歳〜七八歳までの四八年間、つまり六割以上は駿河守護の地位を失っていた。だが流浪を厳密に見ると、安定期もある。
 実際、氏真の流浪は二度終わった。
 一度目は追われた駿河守護の地位を取り戻す為に徳川家康の保護下に入った時で、元亀二(1571)年一二月、氏真三四歳のときのことであった。

 そして二度目は慶長一七(1612)年四月、郷里・駿府で大御所となっていた徳川家康から江戸今川に屋敷を与えられ、次男・品川高久のもとに身を寄せたときで、氏真七五歳のときのことであった。
 つまり一度目は家康に臣従したことで、二度目は息子の下での完全隠居に入ったときで、前者は家康から武将としてよりも、「武家伝奏(ぶけてんそう)」ならぬ「公家伝奏」の役割を担わされて京都に落ち着いたもの(勿論「公家伝奏」なんて言葉はありません)。
 後者は高家としての今川氏、旗本としての品川氏が確立した上で、新居たる品川に隠居したことで終わっている。
 ある意味、武将としては情けなくも、高家としての今川家確立がなったことが氏真の御役御免を意味したのかも知れない。

 余談だが、駿河・甲斐・相模の三国同盟は、当主である義元、信玄、氏康の娘達をトライアングルで氏真、義信、氏政が娶り、その関係を築き上げたが、次期当主トリオの中で、天寿を全うしたのも氏真だけなら、同盟時の婚姻相手と死別するまで夫婦関係を保ち続けたのも氏真だけだった(義信は廃嫡時に嶺松院と離縁。氏政は信玄の駿河侵攻を受けて黄梅院と離縁)。
 命とプライドのどちらが重いかは個々人の価値観にもよるだろうけれど、氏真と氏政・義信の人生の終わり方がこうも好対照なのを見るにつけ、武将としては情けなくも、氏真もまた生涯を掛けて自分の為すべきことを為した故に流浪と天寿を終えた様に思われてならない。


流浪の意義 かつて「人質」として見下した属国の小倅(勿論家康のこと)の保護を受け、親の仇(勿論信長のこと)の前で蹴鞠を披露した今川氏真は一般に愚主暗君と見られている。
 だが、それは過去に幾度となく拙房で取り上げたように、「武将」としての情けなさで、「半分大名・半分文化人」としての立場を活かし、父・義元譲りの教養で氏真が流浪しつつ築き上げた人脈は半端ではなかった。

 一つ一つを書けば、それだけで一作になりかねないので、まずは下表を参考にして欲しい。
今川氏真の交友関係
交友相手身分交友内容
山科言継公家 言綱の義母(山科言綱の正室)・黒木の方が寿桂尼(氏真の祖母・北条家出身)の姉。
 黒木の方が寿桂尼を頼って駿河に下向していた。『言継卿記』は、貴重な史料で、言継の子・山科言経との交友も深かった。
冷泉為満公家 和歌を通じて最も深い交流を持った。
里村紹巴連歌師 永禄一〇(1567)年(1567年)に駿河を訪問。『富士見道記』で、氏真が連歌を興行していたことを記録。
松平家忠深溝松平氏当主 『家忠日記』にて「氏真様」と敬称付きで呼んでいる。
沢庵宗彭臨済宗僧侶 『明暗双々記』氏真の死を悼む詩を残している。

 戦国時代は一般に、「親兄弟でも油断のならない時代」、「弱肉強食の時代」、「力がすべて。」、「下剋上の世」等と、少しでも油断したり、武力がなかったりすれば「死あるのみ」のイメージが漂っているが、実際には皇室、公家、将軍家、管領家、宗教勢力は、権力こそ本来の力を失っていたが、権威は馬鹿にならないものがあり、「親殺し」・「主殺し」を大悪行とする分別は失われてなかった(斎藤道三や松永久秀さえも自らの悪行を恥じずとも、正当化はしなかった)。
 そしてそんな形骸化した筈の倫理や権威や血縁が氏真の命を救った。

 戦国大名、取り分け、守護代や、国人領主から下剋上で一国を支配した大名の中には源平藤橘(源氏・平氏・藤原氏・橘氏)の末裔を捏造主張する胡散臭い家系も少なくなかったが、今川家は足利家に繋がる、れっきとした源氏の末裔で、下位ながら、足利家当主の継承権も保持していた。
 まして、桶狭間の戦いで頓死に近い、まさかの戦死を遂げたとはいえ、氏真の父・義元は戦国三大文化の一つ駿河文化(残りの二つは越前文化・山口文化)を築き、戦乱を逃れた公家達を保護してもいた。
 それゆえに駿相甲三国同盟が破れて尚、駿河守護としての正統が重んじられた為、武田・徳川によって国は奪われても人命は奪われず、建前上は家康も、氏康も、そして上杉謙信までもが、氏真を「駿河国主」と認めていた(あくまで建前だが)。

 薩摩守は、今川義元が自らの師・雪斎禅師を家康に師として宛がい、可愛い姪の瀬名姫(鶴姫・築山殿)を嫁がせた待遇から、今川家の松平家に対する遇し方は、巷間に囁かれていた程にはひどいものではなかったのではないか?と推測している。
 家康も義元に対して、「大きな屈辱」を感じつつも、一方で「幾ばくかの恩義」を感じていたから、氏真を敢えて殺さず、「武田に対抗する為の大義名分としての手駒」、「上洛時における公家への伝手」として利用する道を選んだと思われる。

 父の仇打ちを毛ほども考えず、平和と趣味に生きた、ある意味、戦国時代の幸せ者・今川氏真の流浪は時代に逆らったカッコ悪さの中に、自らの生き様に正直だった男の強かさを教えてくれるような気がする。
 流浪の果てに充分な長寿を全うした氏真を、あの世で父・義元、祖母・寿桂尼が何と云って迎えたかは定かではないが。



次頁へ
前頁へ戻る
冒頭へ戻る
戦国房へ戻る

令和三(2021)年五月二五日 最終更新