第七頁 島津義弘…戦国史上最もカッコ良い「逃げの一手」=「捨てがまり」

氏名島津義弘
生没年天文四(1535)年七月二三日〜元和五(1619)年閏七月二一日
追跡者本多忠勝・井伊直政・松平忠吉
主な流浪先伊勢路
庇ってくれた恩人島津豊久・長寿院盛淳・井伊直政
主な同行者川上忠兄
流浪の目的戦場離脱及び戦後に向けての武力示威
流浪の結末多大な犠牲を払いつつ薩摩へ逃亡成功。後、本領安堵を勝ち取る
略歴 天文四(1535)年七月二三日、島津家第一五代当主・島津貴久と雪窓夫人の間に次男として生まれる(長兄は義久、三弟は歳久、末弟は家久)。初め島津忠平(しまづただひら)と称したが、後に将軍・足利義昭から偏諱を賜って義珍(よしたか)と改め、更に義弘(よしひろ)と改めた。
 天文二三(1554)年、二〇歳で父と共に大隅西部の岩剣城にて初陣を飾った。
 弘治三(1557)年、大隅の蒲生氏を攻めた際には五本の矢を受け重傷を負うも、初めて敵の首級を挙げた。

 永禄三(1560)年三月一九日、日向の伊東義祐(いとうよしすけ)への対抗から飫肥(おび)の島津忠親を救う意味で、その養子となって飫肥城に入ったが、永禄五(1562)年、薩摩本家が肝付(きもつき)氏の激しい攻撃に曝されたため、薩摩への帰還を余儀なくされ、義弘撤収後、飫肥城は陥落し、養子縁組は白紙となった。

 義祐に奪われた北原氏の領地奪還に助勢したが、北原氏内部での離反者が相次いだため義弘が真幸院を任されることとなり、これ以降飯野城を居城とした。
 永禄九(1566)年、伊東が飯野城攻略の為に築城中だった三ツ山城を兄・義久、弟・歳久と共に攻めるも、落城に至らず、伊東の援軍と挟み撃ちに遭い、義弘も重傷を負って撤退を余儀なくされた。

 兄・義久が島津家第一六代当主として家督を継ぐと彼を補佐し、元亀三(1572)年、木崎原の戦いでは義祐が三〇〇〇の大軍を率いて攻めてきたのに対して三〇〇の寡兵で奇襲、これを打ち破って勇猛振りを発揮し、島津氏の勢力拡大に貢献。そして五年後の天正五(1577)年に義祐を日向から追放することに成功した。

 天正六(1578)年の耳川の戦いにも参加して豊後から遠征してきた大友氏を破る武功を挙げ、天正一三(1585)年、それ以前に帰順していた相良(さがら)氏に代わり、肥後の守護代として八代に入って阿蘇氏を攻めて降伏させ、兄に代わって島津軍の総大将として指揮を執り武功を挙げ続けた。

 天正一四(1586)年には豊後に大友領を侵攻し、天正一五(1587)年、大友氏の援軍要請を受けた豊臣秀吉の九州平定軍と日向根白坂で戦った。このとき義弘は自ら抜刀して敵軍に斬り込むほどの奮戦振りを示すも、衆寡敵せず、豊臣軍に敗北した。
 同年五月八日に兄・義久が降伏した後も義弘は徹底抗戦を主張したが、五月二二日に兄の説得を受け、息子・久保(ひさやす)を人質として差し出すことを決めて降伏。秀吉からは大隅の所領を安堵された。

 その後は豊臣政権下にて文禄の役(天正二〇(1592)年)、慶長の役(慶長二(1597)年)のいずれにも朝鮮へ渡海して参戦している。
 文禄の役では四番隊に所属し一万人の軍役を命ぜられたが、国元の体制や梅北一揆によって、軍役動員がはかどらず「日本一の遅陣」と面目を失い、四番隊を率いる毛利吉成の後を追って江原道(カンウォンド)に展開した。また、和平交渉中の文禄二(1593)年九月、朝鮮滞陣中に嫡男の久保を病気で失った。

 慶長の役では慶長二(1597)年七月、藤堂高虎らの水軍と連携して朝鮮水軍を挟み撃ちにし、敵将・元均(ウォンギュン)を討ち取り、八月には南原城の戦いにて忠清道(チュンチョンド)の扶余まで一旦北上してから井邑経由で全羅道(チョルラド)の海南まで南下した。その後、一〇月末より泗川の守備についた。

 朝鮮出兵の折、義弘は、日本側の記録によれば「鬼石曼子(グイシーマンズ)」として朝鮮・明軍から恐れられていたとされている。「鬼石曼子」すなわち「鬼島津」である(但し、あくまで日本側の記録である)。  慶長三(1598)年九月からの泗川の戦いでは、董一元率いる明・朝鮮の大軍を寡兵で打ち破り、徳川家康もこの戦果を「前代未聞の大勝利」と評した。

 慶長三(1598)年八月一八日に太閤・豊臣秀吉の薨去により朝鮮からの撤退が決定し、朝鮮出兵における最後の大規模な海戦となった一一月の露梁(ノリョン)海戦では、立花宗茂等ともに順天城に孤立した小西行長軍救出の為に出撃するが、明・朝鮮水軍の待ち伏せによって苦戦し後退した。
 しかしこの大苦戦の中、島津軍は明水軍の副将・搦q龍や朝鮮水軍の主将にして、戦中最も日本軍を苦しめた李舜臣(イスンシン)を戦死させるなどの戦果を挙げた。この結果、海上封鎖が解けて小西軍は退却に成功。これらの功により島津家は加増を受けた。


 慶長三(1598)年の秀吉死後、翌慶長四(1599)年には義弘の三男・島津忠恒(しまづただつね)が家老の伊集院忠棟(いじゅういんただむね)が殺害したため、忠棟の嫡男・伊集院忠真(いじゅういんただまさ)が反乱を起こし、御家騒動が起こった。
 この頃の島津家中は、薩摩本国の兄・義久は反豊臣的で、前述の内乱に際しても大坂に留まり、親豊臣或いは中立に立つ義弘の間で、家臣団には分裂の形が見られた。

 慶長四(1599)年、剃髪・入道し惟新斎と号したがこれは祖父忠良の号・日新斎にあやかったものである。

 慶長五(1600)年、徳川家康が上杉景勝を討つために軍を起こした時、薩摩本国の兄・義久に対する弟の立場からも、義弘には本国の島津軍を動かす決定権がなく、関ヶ原役前後で義弘が率いたのは大坂にあった約三〇〇という寡兵でしかなかった。
 国許へ出した援兵要請に対して、国許も厳しい事情があり、兵を送れず、義弘の元に駆け付けたのは、義弘を慕い、正式の命を受けず、独断で上洛した者達だった。

 最終的に義弘の手兵は一五〇〇足らずだった。義弘は家康から援軍要請をに従って、家康の家臣である鳥居元忠が籠城する伏見城の援軍に馳せ参じる。
 しかし元忠が家康から義弘に援軍要請したことを聞いていないとして入城を拒否。必然的に元忠に協力する術を失くし、義弘は、本人の意志はどうあれ、西軍への味方する決意をせざるを得なくなり、後には伏見城攻めにも参加した。
 しかし石田三成等西軍首脳は、僅かな手勢で合力した義弘の存在を軽視し、美濃墨俣での撤退において前線に展開していた島津隊を置き去りにする形となり、また九月一四日の作戦会議で義弘の夜襲策が採られないなど、義弘が戦意を失うようなことが続いた、とされる。

 結果、九月一五日早朝から始まった関ヶ原の戦いにおいて島津勢は積極的に動かなかった。
 三成の家臣・八十島助左衛門が三成の使者として義弘に援軍を要請したが、陪臣の八十島が下馬せず救援を依頼したため義弘や豊久(甥・末弟家久の子)は激怒して追い返し、もはや完全に戦う気を失った、ともされている。
 開戦から数時間、東軍と西軍は一進一退だったが、小早川秀秋の寝返りにより、それまで西軍の中で奮戦していた石田三成隊や小西行長隊、宇喜多秀家隊らが総崩れとなり敗走を始めた。その結果、島津隊は退路を遮断され敵中に孤立することになってしまった。


 意を決した島津勢は関ヶ原の戦いでも有名な敵中突破を敢行した。
 松平忠吉(家康四男)・井伊直政(忠吉岳父)・本多平八郎忠勝の追撃に甥・豊久、側近・長寿院盛淳(ちょうじゅいんもりあつ)を失いつつも家康の本陣に迫ったところで転進、伊勢街道をひたすら南下した。 
 伊勢に抜け、大坂に戻った義弘は摂津住吉に逃れていた妻を救出し、立花宗茂等と合流。共に海路から薩摩に逃れた。
 生きて薩摩に戻ったのは、僅か八十数名だったといわれる。また、その一方で川上忠兄(かわかみただえ)を家康の陣に、伊勢貞成を長束正家の陣に派遣し撤退の挨拶を行わせた。 
 この退却戦は「島津の退き口」と呼ばれ全国に名を轟かせた。

 薩摩に戻った義弘は、薩摩領全土を挙げて徳川からの討伐に対抗する武備を図って国境を固める一方で、家康との和平交渉に全力を注いだ。  義弘は、和平交渉の仲介を関ヶ原で自軍が重傷を負わせた井伊直政に依頼した。この選択は賭でもあったが、頼られた直政は誠心誠意、徳川・島津の講和のために奔走した。 
 また関ヶ原で島津勢の捨て身の攻撃を目のあたりにした福島正則の尽力もあったとも云われる。


 慶長五(1600)年九月三〇日、当主出頭要請を拒み軍備を増強し続ける島津家の態度に、怒った家康は九州諸大名に島津討伐軍を号令。黒田、加藤、鍋島勢を加えた三万の軍勢を島津討伐に向かわせるが、家康は攻撃を命令できず睨み合いが続いた。
 関ヶ原に主力を送らなかった島津家には一万を越す兵力が健在であり、戦上手の義弘も健在。もしここで長期戦になり苦戦するようなことがあれば家康に不満を持つ外様大名が再び反旗を翻す恐れがあったため、家康は態度を軟化せざるを得ず一一月一二日、島津討伐軍に撤退を命令した。
 そして、慶長七(1602)年に島津本領安堵を決定する。すなわち、「義弘の行動は個人行動であり、当主の義久および一族は承認していないから島津家そのものに処分はしない」とし、島津家は本領の安堵、島津忠恒(長男は夭折、次男・久保は文禄の役で陣没)への家督譲渡が無事承認された。

 その後、義弘は大隅の加治木に隠居。若者達の教育に力を注ぎ、晩年は老人性疾患のため食事や排泄も一人でままならなかったが、家臣が法螺貝を吹くと戦場での緊張が戻ったのか正気に戻ったという。
 元和五(1619)年七月二一日に死去。享年八五歳。このとき、殉死禁止令発令後であったにもかかわらず、義弘の後を追って一三名の家臣が殉死している。


流浪の日々 「流浪の日々」とは正直、適切な表現ではないだろう。島津義弘はその八五年の生涯において、豊臣秀吉に抗し得なかったことを除けば(一時的な劣勢や局地戦に敗れることはあっても)負け戦らしい負け戦をしておらず、戦国大名としての家格を失ったことも無かった(つまり表題の「没落者達の」にも厳密には該当しない)。
 正直、本作で取り上げることが躊躇われなかった訳でもなかったが、関ヶ原の戦いにおける敵中突破に見せた生き残りへの執念は戦国史を代表する一大活劇といえ、時間にして決し長いものではなかったが、島津家の武勇に対する敬意を込めて、敢えて関ヶ原の不覚を「没落」、見事な撤退を「流浪」として取り上げた。

 関ヶ原の戦いは小早川秀秋の寝返りによって、東西互角の戦況が大きく東軍優勢に傾いた。
 それまで奮戦していた石田三成隊・小西行長隊は逃亡し、宇喜多秀家隊は総崩れとなった。その結果、島津隊は退路を遮断され敵中に孤立することになってしまった。
 積極的に戦わなかったとはいえ、島津勢に敵が襲いかかってこなかった訳ではなく、多勢の攻撃を受け、元より一五〇〇しかいなかった島津勢は三〇〇にまで減っていた。
 この時、義弘は覚悟を決め、

 「後ろには伊吹の嶮(けん)があり、前には敵兵が充満している。士卒は既に減じて勝算とてない。
 この身は年老いて険阻を越えることもできない。かしこに見える一隊は家康の旗本であろう。
 かくなる上は一気に突入して戦い、潔く死のうぞ。」


 と云い放ったが、甥・豊久、長寿院盛淳の説得を受けて翻意し、戦場離脱を決意した。

 離脱を決意したとなると、問題は撤退の為の道筋である。
 通常に考えるなら伊吹山から北近江抜けるか、北国街道に逃れるのが定石である。しかし、義弘は、
 「さらば敵中を突破し、牧田から西南へ走ろう!」

 と配下に下知し、意表を突いた敵中強行突破によって死中に活を見出そうとした。
 島津軍は豊久を先陣、山田有栄(やまだありひで)を右備、義弘を本陣という陣立で突撃を開始した。

 てっきり伊吹山に敗走すると思われた島津勢の意表を突く突入に、東軍方の前衛部隊にして、勇猛を持ってなる福島正則勢が手を出せずに突破を許した。
 突破直後、正則は死兵と化した島津軍に逆らう愚を悟って無理な追走を家臣に禁じたが、福島正之(正則甥)は追撃して島津豊久と激戦を繰り広げた。
 その後、家康の本陣に迫ったところで転進、伊勢街道をひたすら南下した。

 南下する島津勢に対して、井伊直政・本多忠勝・松平忠吉等が追撃した。
 この追撃に対して、島津勢が取ったのが「捨て奸(すてがまり)」と云われる決死の殿軍(しんがり)作戦である(別名:「座禅陣」ともいう)。
 それは何人かずつが留まって死ぬまで敵の足止めをし、それが全滅するとまた新しい足止め隊を残すという壮絶な戦法だった。
 具体的には、

「兵を逃走する道筋に沿って、数人ずつ点々と銃を持った狙撃手として伏せさせ、追撃して来る敵軍の指揮官を狙撃し、槍で敵軍に突撃。」

 という戦法で、こうして時間稼ぎをする間に本隊が撤退する訳だが、勿論、ただでさえ生存率の低い殿軍の中でも、引き受け手が生還する可能性は皆無に近い、決死且つ壮絶な戦法である。
 これは銃の装備率が高く、一兵一兵の熟練度も高い勇猛果敢な島津勢だからこそ効果的だったと云えよう。

 しかしながら、徳川勢の追撃は苛烈且つ執拗で、島津勢にも多大な犠牲が出た。
 福島・本多・井伊・松平といった、名前を並べただけでも猛将揃いの追撃を受け、牧田烏頭坂(まきたうとうざか)では甥の島津豊久が壮絶な討ち死にを遂げた。
 更には松平忠吉・井伊直政の舅・婿コンビの猛追が迫ると義弘は死を覚悟して踵を返そうとしたが、家老・長寿院盛淳が義弘から拝領された陣羽織と三成から拝領された軍配を持ってが義弘の影武者を務め、

 「我こそは島津兵庫入道惟新なるぞ!!」

 と絶叫して敵中に駆け入り、獅子奮迅の激闘の後、豊久同様に見事な討ち死にを遂げた。

 この間に義弘自身は牧田川を越え、かろうじて敵中突破に成功した。従う者は僅か八〇余名にまで減っていたが、追撃した徳川方も痛手をこうむっており、直政は腕に被弾し、忠吉は槍傷を受けていた(直政がこのとき銃創で二年後に病死したのは有名)。これには徳川方の追撃も緩み、家康も追撃中止命令を出さざるを得なかった。

 後に義弘は下馬して踏み止まって戦い、尚且つ生き残った五名の薩摩隼人(川上忠兄・川上久智・川上久林・押川公近・久保之盛)を「小返しの五本鑓」として顕彰した。

 伊勢に抜け、大坂に戻った義弘は摂津住吉に逃れていた妻を救出し、立花宗茂等と合流。共に海路から薩摩に逃れたという。
 生きて薩摩に戻ったのは、僅か八十数名に過ぎなかったが、この退却戦は島津勢の勇猛さを天下に知らしめるには充分で、「島津の退き口」と呼ばれ全国にその名を轟かせた。


流浪の終焉 薩摩に戻った島津義弘は、敗戦の痛手にもめげず、薩摩領全土をあげて徳川からの討伐に対する武備を図る姿勢を取って国境を固める一方で、全身全霊を傾けて家康との和平交渉に当たった。

 ここで際立っているのは、義弘が和平交渉の仲介を依頼した相手が、関ヶ原にて自軍が重傷を負わせた井伊直政である、ということである。
 首級を挙げられなかったことを残念がり、手傷(しかも後遺症は致命傷となった)を負わさせられた相手にこの要請は賭でもあったが、賭けは成功だった。
 勇士は勇士を知り、頼られて悪い気のしない直政は誠心誠意、徳川・島津の講和のために奔走。また関ヶ原で島津勢の捨て身の攻撃を目の当りにした福島正則の尽力もあったとも云われる。

 慶長五(1600)年九月三〇日、当主出頭要請を拒み、軍備を増強し続ける島津家の態度に、怒った家康は九州諸大名に島津討伐軍を号令。黒田、加藤、鍋島勢を加えた三万の軍勢を島津討伐に向かわせるが、家康は攻撃を命令出来ず睨み合いが続いた。
 関ヶ原に主力を送らなかった島津家には一万を越す兵力が健在であり、戦上手の義弘も、兄の義久も健在。戦えば勝てる可能性が高いにしても、万が一にも長期戦になり苦戦するようなことがあれば家康に不満を持つ外様大名が再び反旗を翻す恐れがあったため、家康は態度を軟化せざるを得ず一一月一二日、島津討伐軍に撤退を命令した。

 そして、慶長七年に島津本領安堵を決定した。すなわち、「義弘の行動は個人行動であり、当主の義久及び一族は承認していないから島津家そのものに処分はしない」とした。
 まさに方便ともいうべき理由付けではあったが、島津氏に対する本領の安堵、島津忠恒への家督譲渡が無事承認され、義弘の関ヶ原に前後した数々の選択=賭は最終的な成功を得た。


流浪の意義 豊臣秀吉の死後、徳川家康が「手強し」と考えていた大名家は前田家、上杉家、毛利家そして島津家だっただろう、と薩摩守は考えている。
 勿論個人で油断ならない者まで挙げれば切りがないが、それでも関ヶ原の戦いまでに前田家は家康に異心無きを誓い、毛利家は内部工作済みで、残りは上杉景勝か島津義久・島津義弘兄弟、という状況だった。

 殊に家康が義弘を敵に回したくない、と思っていたのは様々な資料・言動からも明らかで、そこには薩摩兵の勇猛さ・結束の強さももあれば、京・江戸から薩摩が遠く離れた地にあることも無関係ではなかった。

 薩摩にて伊集院忠棟が反乱を起こした折には義久と忠恒が帰国して乱を鎮圧し、忠恒が急ぎ上洛しようとした際には、善後策を慌てないように、と寛大な言葉を掛けている。また朝鮮出兵から帰国後の島津家に対しては伏見の島津邸を訪ねたり、刀や馬を贈ったりして労を労い、自勢力に組み入れようと腐心していた。

 それを受けてか、義弘は家康に好意的で関ヶ原の戦いの前哨戦である伏見攻めに対しては最初は家康の要請を受けて、守将・鳥居元忠に加勢を申し入れたが、元忠は頑として城門を開かず、家康と話が付いていることを訴えても聞き入れず、終いには交渉役の新納旅庵(にいろりょあん)に銃弾を浴びせる始末だった。

 勿論面目を潰された義弘が怒らない筈がなかった。心ならずも西軍に属することになった義弘だったが、一応、義弘は(というか島津家は)石田三成にも恩義はあった。
 それは豊臣秀吉の九州征伐での事だった。

 当時薩摩・大隅・日向を支配していた島津家だったが、降伏後は本拠である薩摩一国以外の領土を全て奪われることを覚悟していた。しかし、秀吉方の使者として交渉にあたった三成の取りなしにより大隅一国と日向の一部が島津領として残った。
 この事から義弘は三成に対して深く感謝し、その後も深い交誼があったため関ヶ原の戦いにおいて島津家中において東軍参加を主張するものが主流派であったが義弘は自身の三成に対する恩義と親交を理由に西軍に積極的に参加したとも云われている。

 このことは良い方に見れば義弘は家康についても、三成についても義理は果たせることになる。しかし悪い方に見れば義弘の立場はどっちに味方をしても完全には信頼されない恐れが伴うことになる。
 となると、義弘関ヶ原の戦いにおいて完全勝利を掴み、周囲に異論を挟ませないだけの大手柄を立てるか、万一負けた際には敵方に「徹底殲滅まで戦うのは厄介だ。」と思わせる必要があった。しかも一五〇〇の寡兵でである。

 勿論勝利すれば何の問題も無かったが、結果は周知の通り、西軍は大敗北した。
 必然的に島津勢の敗走は、劣勢にあって生き延びるだけでは許されなかった。ただ逃げるだけでいいのなら、恐らくは島津豊久や長寿院盛淳も討ち死にせずに済んだだろう(そんじょそこらの落人狩りに遅れを取る島津勢とは思われないので)。だが、ただの負け犬として逃げかえっていたら、島津の武名は大きく失墜し、薩摩・大隅の本領安堵さえ難しかっただろう。
 「島津の退き口」は戦国史でも屈指の戦線離脱劇である。しかし、ただ戦場でのカッコ良さだけに目を奪われては島津義弘と云う男の本質を見失うだろう。


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令和三(2021)年五月二五日 最終更新