第六頁 足利義昭…「手紙魔」と云われようと、「家柄だけ」と云われようと

氏名足利義昭
生没年天文六(1537)年一一月一三日〜慶長二(1597)年八月二八日
追跡者松永久秀
主な流浪先越前・尾張・備後
匿ってくれた恩人朝倉義景・織田信長・毛利輝元
主な同行者和田惟政・細川藤孝
流浪の目的室町幕府再興
流浪の結末足利義栄を廃しての将軍就任のみ成功。幕府再興は最終的には失敗
略歴  当特撮房、二度目の登場で、『菜根版名誉挽回して見ませんか』以来のことであり、時の流れの早さを感じずにはいられない。

 個人的感傷は置いて、足利義昭の略歴だが、天文六(1537)年一一月一三日、第一二代将軍・足利義晴を父に、近衛尚通の娘・慶寿院を母に次男として生まれた。
 将軍位は長兄・義輝が継ぐのが決まっていたため、幼くして外祖父・近衛尚通の猶子となって仏門=興福寺の一乗院門跡に入り、法名覚慶(かくけい)と名乗った。
 後に興福寺で権少僧都にまで栄進しており、何事もなければ高僧として生涯を終えるはずであった。

 永禄八(1565)年に、第一三代将軍であった兄・義輝と母・慶寿院が松永久秀や三好三人衆らによって惨殺され、弟で鹿苑院院主であった周嵩も誘殺され、覚慶も松永久秀等によって捕縛され、興福寺に幽閉された。
 久秀等は覚慶も殺したかったが、興福寺が実質上の大和守護で、覚慶が将来は興福寺別当の職を約束されていたことから、殺すことで興福寺を敵に回すことを恐れて、幽閉に留めたと見られている。
 しかし、義輝の側近達及び大覚寺門跡義俊等に助けられて覚慶は脱出に成功した。

 奈良から伊賀へ脱出した覚慶とその一行は、更に近江国は甲賀郡の和田城(伊賀 - 近江の国境近くにあった和田惟政の居城)に一先ず身を置いた。
 正統な血筋による将軍家再興を志して、永禄九(1566)年二月一七日、矢島御所において還俗し足利義秋と名乗った。
 矢島御所において義秋は、三管領家の畠山高政、関東管領の上杉輝虎(謙信)、能登守護の畠山義綱(近江滋賀郡在国)等とも親密に連絡を取り、しきりに上洛の機会を窺った。
 特に河内の畠山高政は実弟の秋高を義秋に従えさせて積極的に支持。これに対して、三好三人衆が軍勢三〇〇〇騎で矢島御所を急襲したが、大草氏等の奉公衆が奮戦し、何とか撃退した。
 しかし南近江の領主である肝心の六角義治自体が三好三人衆と密かに内通したという情報を掴んだため、同年八月に妹の婿である武田義統(たけだよしむね)を頼り、若狭国へ下った。

 しかし、若狭武田氏も家督抗争や重臣の謀反等で国内が安定せず、上洛は叶わなかった(義統は出兵の代わりに実弟・武田信景を義秋に従えさせた)。
 九月には若狭から越前の朝倉義景の元へ移り、上洛への助力を要請した義秋は、その見返りへの約束として朝廷に朝倉義景の母を従二位にすることを奏上して、これを実現させた。
 しかし義景は、積極的な上洛の意思を表さなかったため、滞在は長期間となった。そして朝倉家滞在中の永禄一一(1568)年四月一五日、「」の字は不吉であるとし、正式に元服して義昭と改名した。加冠役は義景が務めた。この元服は当時として三二歳でのそれは余りに遅過ぎるものだった。
 やがて、朝倉家の重臣であった明智光秀の仲介により、三管領斯波氏の有力家臣であった織田信長を頼って尾張へ移った。

 永禄一一(1568)年九月、上洛への道筋に掛る北近江浅井氏・南近江六角氏などの支持も受けた上で、直接には織田信長軍と浅井長政軍に警護されて上洛を開始した。
 途中、箕作氏(六角氏の有力支族)の反乱もあったが退け、父・義晴が幕府を構えていた桑実寺に遷座、そして更に進軍を続け、無事京都に到着した。
 これを見て、三好三人衆の勢力は京都から後退。一〇月一八日、朝廷から将軍宣下を受けて第一五代将軍に就任した。同時に従四位下、参議、左近衛権中将にも昇叙・任官された。

 将軍に就任した義昭は義輝暗殺容疑及び足利義栄将軍職就任に便宜を働いた容疑のある近衛前久を追放し、二条晴良を朝廷の関白職に復職させた。また、幕府の管領家である細川昭元や畠山昭高、朝廷の関白家である二条昭実に偏諱を与え領地を安堵し政権の安定を計り、兄の義輝が持っていた山城国の御料所も掌握した。
 また山城国には守護を置かず、三淵藤英を伏見に配置するなどし治めた。幕府の治世の実務には、兄の義輝と同じく摂津晴門を政所執事に起用し、奉行衆である飯尾昭連・松田藤弘らを配下につけ幕府の機能を再興した。また伊勢氏の末裔である伊勢貞興も、義昭の許しを受けて仕えたとされる。

 義昭は当初、本圀寺を仮御所としていたが、永禄一二(1569)年一月、巻き返しを図る三好三人衆の襲撃を受けた。奉公衆及び浅井長政、池田勝正、和田惟政らの奮戦により、これを撃退し、烏丸中御門御第の再興・増強が急がれた。

 烏丸中御門御第とは、所謂、後の二条城で、義昭は信長に命じて整備した。この烏丸中御門第には、室町幕府に代々奉公衆として仕えていた者や旧守護家など高い家柄の者が参勤し、ここに足利義昭の念願であった室町幕府は完全に再興された。

 この時は義昭も信長に対して完全なる感謝と信用をしていて、将軍就任直後の一〇月二四日に信長に対して宛てた感状で、「御父織田弾正忠(信長)殿」と宛て名して以後の幕府への協力も求めた。
 信長は上洛の恩賞として尾張・美濃領有の公認と旧・三好領であった堺を含む和泉一国の支配を望み、義昭はこれを了承して、信長を和泉守護にも任じた。
 この時、信長には管領代または管領への推挙を述べ、信長がこれを断ると、朝廷への副将軍への推挙をも申し入れたが、信長はこれも受けず、上記の領地を直轄とすることを求めた。そこに鉄砲・火薬確保の狙いがあったのは有名である。

 しかし幕府再興を念願とする義昭と、武力による天下統一を狙っていた信長の思惑は違っていたために、両者の関係は次第に悪化。
 信長は将軍権力を制約するために、永禄一二(1569)年一月、殿中御掟という九箇条の掟書を義昭に承認させた。これにより、将軍の行動は大きく制限された。翌永禄一三(1570)年一月には五箇条が追加され、信長による幕府の権力への規制が一層進むことになった。

 これを怒った義昭はかつて頼った朝倉義景に書状を送って信長打倒を要請し、義景はこれを承知。怒った信長は越前を攻めたが、後一歩の所で義弟・長政が祖父以来の朝倉家との同盟を重んじて、信長との同盟を破棄した為、信長は義景を滅ぼし損ねた。
 更に義昭は元亀二(1571)年頃から上杉輝虎や毛利輝元、本願寺顕如や甲斐国の武田信玄、六角義賢等に御内書を下し始めた。信長の勢力範囲を囲むように位置する大名家・宗教勢力を味方につけた。これは一般に反信長包囲網と呼ばれている。
 この包囲網には朝倉義景・浅井長政や延暦寺の他にも兄の敵でもあった松永久秀、三好三人衆、三好義継らも加わった。
 但し、松永久秀追討に義昭の兵が参加するなど、表面上は義昭と信長は対立している素振りは見せていなかった(←なかなかに慎重かつ遠大である)。

 元亀三(1572)年一〇月、信長は義昭に対して一七条の意見状を送付。この意見書は義昭の様々な点を批判していた。
 しかし東では武田信玄が上洛を開始し、一二月二二日の三方ヶ原の戦いで信長の同盟者である徳川家康の軍勢を破るなど、信長は窮地に陥った。
 翌元亀四(1573)年正月、信長は子を人質として義昭に和睦を申し入れたが、義昭は信じずこれを一蹴。義昭は近江の今堅田城と石山城に幕府の軍勢を入れ、はっきりと反信長の旗を揚げた。
 しかし攻撃を受けると数日で両城は陥落。東でも信玄の病状が悪化したため、武田軍は四月に本国への撤退を始め、信玄は四月一二日に死去し、これを機に信長包囲網は大きく綻んだ。
 信長は京・知恩院に陣を張り、細川藤孝や荒木村重等は義昭を見限り、信長についた。しかし義昭は信玄の死を知らなかったため、烏丸中御門第に籠り、抵抗を続けた。
 信長は再度和睦を要請したが、義昭は再度拒否した。信長は威嚇の為に上京全域を焼き討ちし、焦土化させ、烏丸中御門第を包囲して義昭に圧力をかけた。更に信長は再び朝廷に工作し、四月五日に勅命による講和が成立した。

 しかし七月三日、義昭は講和を破棄。義昭は烏丸中御門第を三淵藤英・伊勢貞興や公家奉公衆に預けた上で、南山城の要害・槇島城に移り挙兵した。
 しかし烏丸中御門第の留守居は三日で降伏し、槇島城も七万の軍勢により包囲された。七月一八日に織田軍が攻撃を開始すると槇島城の施設はほとんど破壊され、義昭は息子の義尋を人質として差し出し降伏した。

 信長は義昭の京都から追放。足利将軍家の山城及び丹波・近江・若狭他の御料所を自領とした。一般的にはこの時点をもって室町幕府の滅亡と、現時点の歴史書では決めている。

 同年、七月二八日に改元して天正元(1573)年八月二〇日には朝倉氏、同月二七日には浅井氏も滅亡し、信長包囲網は完全に瓦解したが、京都から追放されたとは云っても義昭は朝廷から征夷大将軍に任命され続けたと公式記録(『公卿補任』)には記されている。足利義昭はその後も長らく正式な征夷大将軍で在り続けた。

 また義昭も将軍職としての政務は続け、伊勢氏、高氏、一色氏、上野氏、細川氏、大館氏、飯尾氏、松田氏、大草氏などの幕府の中枢を構成した奉公衆や奉行衆を伴い、近臣や大名を室町幕府の役職に任命するなどの活動を行っていた。
 そのため信長勢力圏以外(北陸、中国、九州)では、一応は追放前と同程度の権威を保ち続けた。また京都五山の住持任命権も足利将軍家に存在したため、その任命による礼金収入は存在していた。

 京都からの追放後、義昭はいったん枇杷庄(現・京都府城陽市)に退いたが、本願寺顕如らの仲介もあり、妹婿である河内の三好義継の拠る若江城へ移ったが、義継と信長の関係も悪化したため、一一月五日に和泉の堺に移った。
 堺に移ると信長の元から羽柴秀吉と朝山日乗が使者として訪れ、義昭の帰京を要請した。この説得には安国寺恵瓊(毛利輝元の外交僧)も当たっている。しかし義昭が信長からの人質提出を求めるなどしたため交渉は決裂している。

 翌天正二(1574)年には室町幕府管領畠山氏の勢力がまだまだ残る紀伊の興国寺に移り、ついで泊城に移った。
 天正四(1576)年、義昭は当時毛利輝元の勢力下であった備後の鞆(とも)に移った。この義昭の備後の亡命政府は鞆幕府とも呼ばれる。
 鞆での生活は、備中国の御料所からの年貢の他、前述の五山住持の任免権による礼金獲得が出来たこと、日明貿易を通して足利将軍家と関係の深かった宗氏や島津氏からの支援もあり財政的には困難な状態ではなかったと云われている。
 近畿、東海以外では足利将軍家支持の武家もまだまだ多かった。この地からも義昭は信長追討を目指し全国の大名に御内書を下しており、天正四年には甲斐の武田、相模の後北条、越後の上杉三者の和睦を持ち掛けている(実現しなかったが)。

 天正六(1578)年上杉謙信も死去し、天正八(1580)年には石山本願寺も信長に降伏し、天正一〇(1582)年三月には武田家も滅亡し、もはや信長包囲網壊滅は時間の問題かと思われた。  しかし、義昭がまだ備後鞆に滞在中であった天正一〇(1582)年六月二日に、信長と嫡男・信忠は本能寺の変で明智光秀に討たれた。
 これを好機と見た義昭は毛利輝元に上洛の支援を求めたが、親秀吉派であった小早川隆景等が反対したこともあり、秀吉に接近しつつあった毛利氏との関係は冷却したと思われた。
 しかし天正一一(1583)年二月には、毛利輝元、柴田勝家、徳川家康から上洛の支持を取り付けていたから、(その支持が本音かどうかはともかくとして)大したものだ。

 同年、長く頼りにしていた毛利輝元が羽柴秀吉に臣従し、天正一四(1586)年、羽柴秀吉が関白、太政大臣となった。その後、「関白秀吉・将軍義昭」という時代は二年間続いた。この二年間は、豊臣秀吉が天下を統一していく期間に該当する。
 天正一五(1587)年、九州征伐に向かう豊臣秀吉は途中の備後沼隈郡津之郷村にある田辺寺にて義昭の元を訪れ、両者は対面し、太刀を交換した。

 『公卿補任』によると、薩摩の島津氏が秀吉の軍門に下った後、義昭は一五年振りに京都に帰還し、関白・豊臣秀吉と共に御所へ参内した。
 天正一六(1588)年一月一三日、遂に正式に将軍職を辞して出家し、昌山と号し、朝廷からは准三后の待遇を受けた。

 秀吉からは打倒信長の挙兵を行った山城槇島において一万石の領地を認められた。一万石とはいえ前将軍であったので、殿中での待遇は大大名以上であった。
 文禄・慶長の役には、秀吉のたっての要請により、軍勢二〇〇人を引き連れ肥前名護屋まで参陣した。
 晩年は斯波義銀、山名豊国等とともに秀吉の御伽衆に加えられ、太閤の良き話し相手であったとされ、毛利輝元の上洛の際などに名前が見られた。
 慶長の役の最中、慶長二(1597)年八月二八日、大坂にて薨去。足利義昭享年六一歳。


流浪の日々 足利義昭の流浪の始まりは云うまでもなく永禄八(1565)年五月一九日の永禄の変にて、兄である第一三代将軍・義輝が松永久秀や三好三人衆らによって惨殺されたことに端を発する。

 この時の義昭は出家の身で、一条院覚慶の名だったが、覚慶は兄と、兄・義輝のみならず、母・慶寿院(義輝の死を見届けた後、火中に投身)、弟で鹿苑院院主だった周嵩も殺された。
 覚慶自身、松永久秀等によって捕縛され、興福寺に幽閉された。
 将軍を弑逆するような梟雄である久秀は覚慶抹殺を躊躇うような玉ではなかったが、覚慶が将来は興福寺別当(興福寺は大和の守護大名でもあった)の職を約束されていた身であったことから、覚慶を殺すことで興福寺を敵に回すことを恐れて、幽閉に留めたと見られている。
 しかし、幽閉された覚慶は義輝の側近であった一色藤長、和田惟政、仁木義政、三淵藤英、細川藤孝及び大覚寺門跡義俊等の助けを得て脱出に成功した。
 この助っ人の中でも管領家の出であり、後々豊臣、徳川の世にも大大名としての勢力を残す元となった細川藤孝(幽斎)と、近衛尚通の子(つまり覚慶の伯父)である大覚寺義俊の役割は大きかった。

 奈良から木津川をさかのぼり伊賀へ脱出した覚慶とその一行が最初に身を置いたのは甲賀郡和田城で、ここは興福寺脱出の手引きに加わった和田惟政の居城で、伊賀 - 近江の国境近くに位置していた。
 惟政は義輝の御供衆でもあり、六角氏とも深い関係でもあった伝手で、同じ御相伴衆にして六角氏一族でもあった仁木義政(伊賀住人)の斡旋により、近江の六角義賢・義治親子から、都にほど近い野洲郡矢島村(守山市矢島町)に進出する許可を得た。

 覚慶はそこを在所(二町四方の規模で二重の水堀で囲まれていたとの記録が残る)とし、正統な血筋による将軍家を再興する為、永禄九(1566)年二月一七日、矢島御所において還俗し、足利義秋と名乗った。
 矢島御所において義秋は、河内の畠山高政・関東管領の上杉輝虎(謙信)・能登守護の畠山義綱(近江滋賀郡在国)等とも親密に連絡をとり、しきりに上洛の機会を窺った。
 特に畠山高政は三管領家の内の一家として義秋を積極的に支持し、実弟の秋高を、義秋に従えさせた。この義秋の動きに対して、三好三人衆の軍勢三〇〇〇騎が突然矢島御所を襲撃してきたが、この時は大草氏などの奉公衆が奮戦し、何とか撃退することが出来た。
 しかし矢島御所の側近くに位置し、南近江領主でもある肝心の六角義治が三好三人衆と密かに内通したという情報を掴んだため、義秋は矢島御所の放棄を決断した。

 次に義秋が頼ったのは若狭である。同年八月に妹の婿である武田義統を頼ったが、若狭武田氏は家督抗争や重臣の謀反などから国内が安定しておらず、上洛出来る状況でなかった(武田義統は出兵の代わりに実弟の武田信景を義秋に従えさせた)。

 僅か二ヶ月の滞在後に義秋が移ったのは越前であった。
 同年九月には朝倉義景の元へ移り、義秋は朝廷に義景の母を従二位にすることを奏上して、これを実現させ、上洛への助力を要請した。
 しかしながら権威的な恩を受けても義景は積極的に上洛をする意思を表さなかった。
 その理由は隣国加賀の一向一揆勢力が油断ならず、国を空けられなかったとも、既に足利将軍家連枝の「鞍谷御所」・足利嗣知(足利義嗣の子孫)も抱えていたからとも、云われている。
 いずれにせよ、上洛が叶わないまま滞在は長期間に及んだが、悪いことばかりではなく、越前滞在中の義秋の元には上野清延・大館晴忠などのかつての幕府重臣が帰参した。
 永禄一一(1568)年四月一五日、「」の字は不吉であるとし、義秋義昭に改名するとともに義景を加冠役(つまり烏帽子親)として正式に元服した。
 やがて、朝倉家の重臣であった明智光秀の仲介により、織田信長を頼って尾張に移った。三管領の一つである斯波氏は越前と尾張の両守護を兼ねており、戦国の御約束で守護代にその実質的地位を奪われたが、越前の守護代は朝倉氏で、尾張の守護代は織田氏だった。光秀が信長正室であるお濃の方と伝手をもっていたのもあるだろうけれど、恐らくは義昭側近の中に斯波氏との伝手を持つ者もいたと思われる。

 四箇所目の流浪先である尾張に移ってから、僅か数ヶ月で信長は上洛を決行してくれた。永禄一一(1568)年九月、沿道の北近江浅井氏・南近江六角氏などの支持も受けた上で、直接には織田信長軍と浅井長政軍に警護されて上洛を開始した。
 途中、六角氏の有力支族である箕作氏の反乱もあったが退け、父・義晴が幕府を構えていた桑実寺に遷座、そして更に進軍し無事京都に到着した。
 これをみて、三好三人衆の勢力は京都から後退した。

 同年一〇月一八日、足利義昭は朝廷から将軍宣下を受けて第一五代将軍に就任した。同時に従四位下、参議・左近衛権中将にも昇叙・任官され、最初の流浪を終えた。恐らくはこの時の義昭はこの後も流浪することがある等、想像もしていなかっただろう。

 将軍に就任した義昭は義輝暗殺容疑及び足利義栄将軍職就任に便宜を働いた容疑のある近衛前久を追放。二条晴良を朝廷の関白職に復職させた。
 官位だけではなく、管領家の細川元・畠山高、関白家の二条実に自らの名乗りの一字である「」の一字を与え、領地を安堵して政権の安定を図り、兄・義輝が持っていた山城国の御料所も掌握して、財政の安定も図った。
 そして山城には敢えて守護を置かず、自らの脱出に尽力した三淵藤英を伏見に配置し、これを治めさせた。

 政治面でも兄の義輝と同じく摂津晴門を政所執事に起用し、奉行衆である飯尾昭連・松田藤弘らを配下につけ幕府の機能を再興した。また伊勢氏の末裔である伊勢貞興も、義昭の許しを受けて仕えたとされる。
 世間一般では暗愚視されている足利義昭だが、彼は彼なりに自らに残された僅かな権威と人脈をフルに活かして、精力的に生きていた、と薩摩守は見ている。

 だが、義昭の安全はまだ確立されていなかった。
 当初、本圀寺を仮御所としていたが、永禄一二(1569)年一月、織田信長の兵が領国である美濃・尾張に帰還した隙を突かんとして、三好三人衆の巻き返しを図って本圀寺を襲撃した。
 兄・義輝と同様の運命から救ってくれたのは、奉公衆及び浅井長政、池田勝正(摂津国人)、和田惟政らの奮戦だった。

 襲撃を受けた義昭は信長に命じて兄・義輝も本拠を置いた烏丸中御門第の整備を急がせた。そして義昭がこれに移ると、室町幕府に代々奉公衆として仕えていた者や旧守護家など高い家柄の者が参勤し、ここに足利義昭の念願であった室町幕府は完全に再興された。

 だが周知の様に、義昭と信長の蜜月状態は長続きしなかった。
 義昭は初めこそ信長を完全に信用していて、信長に対して、「御父」と宛て名したり、副将軍への推挙さえ考えたりして信長を喜ばせようと、その恩に報いようとした(他にも流浪中自分に尽くしてくれた池田勝正を摂津守護に、畠山高政、三好義継はそれぞれ河内半国守護に任じた)が、結局信長は義昭を擁することによる将軍権威の利用だけを狙っていた。
 実際、征夷大将軍の権力が衰退していたとはいえ、権威はまだまだ絶大で、守護大名に及ぼす影響力は決して小さくなかったから、利用価値も大きかったのであった。

 詳細は前述の「略歴」に譲るが、元亀四(1573)年七月三日に義昭は南山城の要害・槇島城に移り挙兵した。しかし槇島城は七万の軍勢により包囲され、同月一八日に織田軍の攻撃が開始されるとあっさり槇島城の施設は破壊され、義昭は息子の義尋を人質として差し出し降伏した。

 京を追われたことで、足利義昭の二度目の流浪が始まった。最初の流浪先は枇杷庄(現京都府城陽市)だった。その直後、七月二八日に改元が為され、天正元(1573)年八月二〇日には朝倉氏、同月二七日には浅井氏も滅亡し、信長包囲網は完全に瓦解した。

 その影響かどうかは定かではないが、義昭は程なく河内若江に移った。
 本願寺顕如等の仲介があり、妹婿である三好義継を頼ったもので、道中護衛には羽柴秀吉があたったという。
 しかし信長と義継の関係も悪化したため、同年一一月五日に和泉の堺に移った。

 堺に移ると信長の元から羽柴秀吉と朝山日乗が使者として訪れ、義昭の帰京を要請した。秀吉、日乗、更には安国寺恵瓊も説得に当たったが、義昭が信長からの人質提出を求めるなどしたため交渉は決裂した。

 慌ただしい流浪は続き、翌天正二(1574)年には紀伊の興国寺に移り、ついで泊城に移った。
 流浪において義昭は管領家の力を重んじているが、紀伊を守護した管領畠山氏の勢力がまだまだ残る国であった。
 特に畠山高政の重臣であった湯川直春の勢力は強大で、直春の父湯川直光は紀伊出身でありながら河内守護代をも勤めたことがある実力者であったことは義昭に心強いものがあった。

 しかし二年後の天正四(1576)年、義昭は当時毛利輝元の勢力下であった備後の鞆に移った。
 鞆はかつて初代将軍足利尊氏が光厳天皇より新田義貞追討の院宣を受けたという、足利家にとっての由緒がある場所であり、第一〇代将軍足利義稙が大内氏の支援のもと、京都復帰を果たしたという故事もある足利家にとって吉兆の地でもあった。
 一般に京都追放を持って室町幕府の滅亡、と史学の上では定義されているが、義昭は備後の亡命政府を「鞆幕府」とも呼んでいた。
 実際、流浪の身であるにもかかわらず、義昭は経済力を保持していた。
 鞆での生活は、備中国の御料所からの年貢の他、足利将軍の専権事項であった五山住持の任免権を行使して礼金を獲得できたこと、日明貿易を通して足利将軍家と関係の深かった宗氏(対馬)や島津氏(薩摩)からの支援もあり財政的には困難な状態ではなかったと云われている。
 近畿、東海以外では足利将軍家支持の武家もまだまだ多かった。この地から、義昭は信長追討を目指し全国の大名に御内書を下しており、天正四年には甲斐の武田、相模の後北条、越後の上杉三者の和睦をもちかけるなど、実現しなかったとは、必殺の(笑)御内書攻撃も健在だった。

 鞆滞在中の義昭の状況は簡単には変わらなかったが、流浪から九年後の天正一〇(1582)年に、怨敵である織田信長の運命が急転直下した。
 云うまでもなく六月二日に勃発した本能寺の変である。しかも信長を討ったのは旧臣・明智光秀だった。
 光秀自身のみならず、彼の家臣団には伊勢貞興や蜷川貞周といった、旧室町幕府幕臣が多くいた。これを好機と見た、義昭は毛利輝元に上洛の支援を求めた(一方、羽柴秀吉や柴田勝家にも同じような働きかけを盛んに行っていた)が、親秀吉派であった小早川隆景らが反対したこともあり、秀吉に接近しつつあった毛利氏との関係は冷却した。
 だが、義昭はめげず、天正一一(1583)年二月には、毛利輝元、柴田勝家、徳川家康から上洛の支持を取り付けている。

 だが、義昭の流浪も遂に終焉の時が来た。
 天正一五(1587)年、関白となった豊臣秀吉が九州征伐に向かう為、五年振りに中国道に足を踏み入れた。備後沼隈郡津之郷村にある田辺寺にて秀吉は義昭の元を訪れ二人は対面し、太刀を交換した。
 そして首尾よく島津義久を降伏させたその帰途、薩摩の島津氏が秀吉の軍門に下ると義昭は一五年振りに京都に帰還した。
 天正一六(1588)年一月一三日、秀吉とともに参内した義昭は後陽成天皇に謁見し、遂に正式に将軍職を辞して出家し、昌山と号し、朝廷からは准三后の待遇を受けた。


流浪の終焉 島津征伐に前後して備後にて豊臣秀吉と会見した足利義昭は、恐らくその地秀吉の説得を受け、帰洛を決めたのだろう。何が彼をそう決意させたかは薩摩守の研究不足にして詳らかではない。

 いずれにせよ島津征伐を終え、凱旋する秀吉と供に義昭は一五年振りに京の地を踏んだ。直後の天正一六(1588)年一月一三日、秀吉とともに参内した時点で義昭は正式に将軍職を辞し、秀吉からはかつて信長打倒の挙兵を行った山城槇島において一万石の領地を認められた。
 流浪に流浪を重ね、時には将軍のプライドで世の諸大名引っ張りつつも、時にはそのプライドを捨ててまでも生き延びることを考え、足利幕府再興への執念を燃やし続けた男の晩年としては、一万石で満足したとは思い難い。さしもの義昭も老いて、疲れ果てたのだろうか?

 正直、推測の域は出ないが、秀吉が上手く義昭のプライドをくすぐって、義昭の前将軍としての権威を保つことを約定したからではないか?と薩摩守は見ている。
 実際、義昭は一万石でありながら殿中での待遇は大大名以上の者を受け、後には他の室町幕府重鎮の出の者達と供に秀吉の御伽衆に加えられ、太閤の良き話し相手としての余生を送った。
 有名なエピソードとして、征夷大将軍就任を希望した秀吉から猶父となることを要請されたが、これを断ったことから、将軍復帰もしくは足利氏による将軍位継承の意志は生涯捨てなかったと思われるが、いずれにせよ義昭の流浪は完全に終結した。

 結局の所、義昭の流浪終焉の決意に謎は残るし、単に老いて疲れて生涯の望みを捨てたとは見たくないが、決して幸福とは云えない足利義昭の人生、最後ぐらいは権威をそれなりに保った中での安定に身を置く権利ぐらいあっても良かったと思う。


流浪の意義 鎌倉幕府の滅亡時より、南北朝の対立など、幾多の困難を経て成立した室町幕府は三管領家を始め、多くの有力守護大名の力を借りて成立した故に、その力を抑え切れず、将軍権威は一般に弱かったと見られている。

 勿論、江戸幕府における将軍権威と比べては可哀想だが、足利義昭の流浪の生涯を振り返った時、彼の流浪は、例え「利用価値」としてのものとはいえ、室町幕府における征夷大将軍の権威が決して小さいものではなかったことを表しているのが分かる。

 室町幕府始祖・足利尊氏、最盛期を築いた三代目・義満、暗殺されたと云え一時の将軍権威中興を為した六代目・義教、政治家としては大ボンクラだったが文化人としては優れていた八代目・義政、剣豪将軍の名に恥じない末期の大奮戦で逆賊を数多く道連れにした第一三代目・義輝等と比べられたら、義昭も立場は無いだろうけれど、彼は彼なりに揶揄材料である「手紙」、「家柄」も最大限利用し、最善を尽くしていたと薩摩守は見ている。

 実際、義輝暗殺後の興福寺脱出→矢島御所設立→若狭→越前→尾張の流浪においても、兄・義輝の側近や、管領斯波氏の人脈を巧みに頼っていた。
 そして征夷大将軍就任後も本圀寺→二条城→槙島城、と流浪とは無縁でいられず、恩人であり、飼い犬でもあった信長に利用されるだけ利用され、手を噛まれた訳だが、その際にも、前述したように諸大名への手紙攻勢は見事な反信長包囲網の形成に(一時的で綻びありとはいえ)成功していた。
 義昭の在り難くない二つ名である「手紙魔」とは信長にとっての「」であったのではあるまいか?

 また義昭は矢島でも、京都でも、備後鞆でも「御料所からの年貢」、「足利将軍の専権事項であった五山住持の任免権を行使による礼金獲得」、「日明貿易を通して足利将軍家と関係の深かった諸大名からの支援」といった経済力や命令系統を失わずに流浪し続けたのである。
 勿論これには一三代かけて、権威の中に権力を持たせた足利将軍代々の尽力による遺産としての面が色濃いが、それを流浪しながらも、保ち続けた義昭の人と文の使い様はもっと注目されてしかるべきと思うし、室町幕府自体を見直す格好の材料とも思うし、いずれにしても足利義昭の人生をただの逃亡者の人生と見るのは不当であると云えよう。


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令和三(2021)年五月二五日 最終更新