氏名 | 宇喜多秀家 |
生没年 | 天正元(1573)年〜明暦元(1655)年一一月二〇日 |
追跡者 | 江戸幕府 |
主な流浪先 | 北近江・堺・薩摩 |
匿ってくれた恩人 | 円融院・島津忠恒 |
主な同行者 | 進藤正次 |
流浪の目的 | 豊臣家再興の機会を図って |
流浪の結末 | 薩摩潜伏を嗅ぎ付けられ、島津忠恒の説得を受けて幕府に出頭(後、八丈島へ流刑) |
略歴 この人、取り上げるの三度目なんだよなあ……(一回目は「隠棲の楽しみ方」、二回目は「秀吉の子供達」)。拙サイトを立ち上げた時はこんなに何度も取り上げる人と思っていなかった(しみじみ)。
感傷は置いておいて、宇喜多秀家の幼名は八郎。天正元(1573)年、父・宇喜多直家、母・お福の間に生まれた。
天正九(1581)年、八郎が八歳の時に父が没し、叔父の浮田忠家が織田信長に降伏。その助力を得て、遺領安堵を勝ち取った事で若干九歳にして領主となった。
この時、降伏の仲介を行ったのが羽柴秀吉であった。
天正一〇(1582)年四月、備中高松城攻めを控えた秀吉に忠家は八郎の後見を依頼し、秀吉は快諾。直後に岡山勢一万をもって合流した八郎に秀吉は本能寺の変後に実父直家の旧領に毛利から割譲された領土を加え、五七万四〇〇〇石を与えた(一〇歳相手に破格である)。
天正一三(1585)年に公式に秀吉の猶子(相続権を持たない養子)となった八郎は猶父・秀吉の「秀」と実父・直家の「家」の偏諱を受けて、「宇喜多秀家」、公式の場では「豊臣秀家」、領内発給文書上は「羽柴秀家」と称した。
天正一五(1587)年に一五歳で従三位左近衛中将・参議、文禄三(1592)年に二一歳で権中納言に昇進。そして文禄六(1595)年には二四歳にして豊臣政権に筆頭である五大老の第三位に叙せられた(第一位は徳川家康、第二位は前田利家)。
軍事面では朝鮮出兵の文禄の役では元帥(渡海司令官)に任じられ、首都・漢城(ハンソン・現ソウル)陥落後に軍中で交わされた八道国割では王都のある京畿道(キョンギド)が担当になった。
天正一七(1589)年には秀吉幼女(実父は前田利家)・豪姫(ごうひめ)を正室に迎え、二人の男子にも恵まれた(嫡男・孫九郎秀高、次男・小平次秀継)。
だが慶長三(1598)年八月一八日に猶父秀吉が没すると慶長の役で財政難となった自国の政治対応を誤り、家臣の離反を招く等、秀家は初めて挫折を味わった。
この時は家康に助けられた秀家だったが、秀吉への恩を忘れず、遺命(大名間の私婚禁止等)に背いた家康を他の三大老(前田利家・毛利輝元・上杉景勝)とともに詰問した。
関ケ原の戦いでは副将(総大将・毛利輝元が大坂城に篭もっていたので実質大将)として、多くの西軍大名が日和見的な態度を決め込む中、東軍方の福島正則・井伊直政といった猛将達相手に遜色なく渡り合ったりした。
だが善戦空しく西軍は敗れ、自軍は総崩れとなり、秀家は名誉の討死を望むも、重臣明石全登(あかしてるずみ)の勧めで戦場を離脱し、近江、堺(母・円融院のもと)、果ては薩摩まで六年の長きに渡って逃亡・潜伏の日々を送った。
しかし徳川方の忍に嗅ぎ付けられ、もはや黙認し切れないと判断した島津忠恒の勧めを受けて、自首。忠恒と義兄・前田利長の助命嘆願が効を奏して辛うじて死を免ぜられ、八丈島へ島流しとなる。
二人の息子とともに流された八丈島では筵・菅笠を折りながら罪人として貧苦ながらも、妻の実家・前田家からの隔年の援助もあってそれなりにマイペースで健康的な日々を送る。
大坂の陣の直前には徳川家への忠誠を誓う事で大名に戻れる道もあったという説があるが、猶父秀吉、義弟秀頼への想いからか、秀家はこれを拒絶、流人のまま明暦元(1655)年一一月二〇日、宇喜多秀家は享年八三の長寿の果てに逝去した。法名は樹松院明室寿光または尊光院伝秀月久福大居士。
流浪の日々 宇喜多秀家と云う男の人生を、「豊臣家重臣」の一言で括るなら、彼の流浪は三回あることになる。
一回目は「実父・直家の死から猶父・秀吉に取り立てられるまで」の期間、二回目は「関ヶ原に敗れて戦場離脱してから、島津忠恒に伴われて江戸幕府に自首するまで」の期間、そして三回目が「重罪人として八丈島に流されてから没するまで」である。
本来の「流浪」と云う言葉からすれば三回目は八丈島にて、罪人とはいえ「定住」していたから、「流浪」と云う言葉は適さないかも知れないが、関ヶ原以降の歴史で豊臣家が江戸幕府を倒していたら秀家が大名として復帰した可能性が当時は皆無だった訳ではないので「流人生活」も敢えて「流浪」とした。
と、このように仮定しておきながらいきなり理論を撤回するようで恐縮だが、薩摩守は二回目の関ヶ原→薩摩→幕府出頭までだけを本項における「流浪」として取り上げたい。
理由は、一回目を「幼少で右も左も分からない少年期の流浪を母に連れられた、自らの意志に寄らないもの」として、三回目は「豊臣家重臣としての意志を遵守しつつも刑に服していたもの」として、自らの意志による「流浪」からは割愛した。
ではここで本題に戻り、関ヶ原で敗れた直後の宇喜多秀家からスポットを当てて彼の流浪を追いたい。
慶長五(1600)年九月一五日、早朝から始まった関ヶ原の戦いは、西軍参戦者の多くが日和見・傍観を決め込んだために、東軍を包囲した圧倒的に優勢な布陣を活かせずにいた。
その中で石田三成隊、大谷吉継隊、そして宇喜多秀家隊は奮闘し、一進一退の攻防が続いていたが、昼過ぎに小早川秀秋が裏切って大谷隊に突入したことで力の均衡が崩れた。
吉継が裏切りかねない小早川に備えて配置した脇坂安治、赤座直保、小川祐忠、朽木元網隊までが裏切りに加担し、大谷吉継は自刃し、石田・小西・宇喜多隊は壊乱した。
小西行長隊の敗走に浮足立つ自軍を叱咤し、自らと同じ秀吉の猶子に在りながら、豊臣方を裏切った秀秋と刺し違えて戦場に散らんとした秀家だったが、重臣・明石全登の説得により、戦線離脱を決意し、伊吹山中に逃亡した。
流浪に同行したのは家臣の進藤三衛門正次(しんどうさんえもんまさつぐ)ただ一人(見捨てられたり、はぐれたりしたのではなく、逃亡の都合と推測する)。
伊吹山中で一夜野宿した秀家・正次主従は翌朝、とある農家で朝食を受け、その御礼に家康も欲しがったという鳥飼国次の名刀を農夫に渡したと云われている(流石、秀吉猶子の金銭感覚は凄い−笑)。
朝食後、山中を北上した主従は夕方に辿り着いた北近江の農家の牛小屋に匿われた。その後の逃亡の為に金子が必要となった為、秀家は大坂の宇喜多屋敷に正次を派し、屋敷にて豪姫に会した正次は秀家の無事と窮状を訴え、黄金二五枚を与えられて北近江の秀家の元に戻った。
戻って来た正次から黄金を受け取った秀家は二五枚の内、二〇枚を例として農夫に与え(やはり世間ずれした金銭感覚だ…)、豪姫の命で駆け付けた難波助右衛門等五人の家臣と供にその後の逃亡について協議された。
協議の結果、秀家を死んだものとして偽装することになり、新道正次は大坂にて家康側近の本多正純に秀家の死を報告した。
事前の打ち合わせが入念だったのか、正純は報告に基づいて調査を行い(つまり正純は上手く誤魔化された訳である)、その結果を家康に報告し、秀家は、一度は死んだものとされた。
しかしいつまでも北近江に農家の牛小屋に潜んでいられない秀家(←何だかんだ云って半年もいた)は、慶長六(1601)年に大坂は堺に辿り着いた。
堺で秀家が頼ったのは実母・お福(秀吉死後、落飾して円融院と号して隠居していた)。円融院は秀家が無事であったことを大いに喜ぶ一方で、秀家の無事を願って、隠匿の機密が漏れるのを恐れる余り、目と鼻の先にいる豪姫にもこれを知らせなかった。
母の元に匿われた秀家だったが、一年二ヶ月後に円融院邸周辺を徳川方の忍びが嗅ぎまわっているのを察知し、慶長七(1602)年に船にて薩摩に潜入した。
薩摩に入って剃髪した秀家は休福と号して、仏門に入ってその身分を誤魔化して潜伏した。薩摩の領主・島津忠恒は、秀家が関ヶ原にて父・義弘と盟友であった縁をもってこれを黙認した。
しかし、三年後の慶長一〇(1605)年、秀家の薩摩潜伏は遂に徳川方隠密の知る所となった。
流浪の終焉 自領内に宇喜多秀家が潜伏しているのを黙認していた島津忠恒は、秀家潜伏が徳川方に嗅ぎ付けられたのを知るに及んで、御家と秀家の命との両方を守る為、秀家に自首を勧め、自らもその助命に奔走した。
関ヶ原の戦いから既に五年が経過し、供に戦った盟友達はある者は討ち死にし、ある者は刑死し、ある者は改易され、ある者は減封に遭っていた。
世の政治機構も江戸幕府が生まれ、開府者・徳川家康は健在ながら、形式上は隠居して、二代将軍・秀忠が就任していたが、西軍副将を務めた徳川方の秀家に対する怒りは大きく、秀家を死罪にせんとする意見が大勢だった。
その処分に対し、懸命に異を唱えて庇わんとしたのが島津忠恒(義弘の子)と前田利長(利家の子)である。忠恒は父が秀家の盟友で、利長は秀家の妻・豪姫の実兄である。
一度は死罪が下るも、「自首したこと」、「島津・前田の助命嘆願」、「それなりに時間が経過していたこと」等が功を奏し、宇喜多秀家は「死を一等減じる」として、二人の息子と供に八丈島への流刑が決定した。
ちなみにこれは公式記録に残る最初の流刑で、時代劇で流刑先の代名詞となっている八丈島への島送りはここから始まった。
重複するので詳細は記さないが、結果として秀家父子が八丈島から本土に戻ることは終生なくその流浪は終了した。
父子は八丈の土となるも、子孫は土着して増え続け、明治に入ってようやく赦免され、宇喜多一族の半数は八丈島に留まり、半数が東京板橋の前田屋敷を頼って本土に辿り着き、一族としての流浪もここに終了したのだった。
流浪の意義 残酷な現実を突き付けるなら、宇喜多秀家の流浪は大勢に何の影響も与えなかった。
関ヶ原敗走から八丈島への島送りまで、約六年が経過していたが、その間に豊臣家の権限は大きく衰退し、江戸幕府も家康から秀忠への将軍位委譲が行われたことで世襲体制も盤石化し、供に戦った盟友達も命を落とすか、徳川家に逆らえない骨抜きにされていた。
まだ関ヶ原にて秀家の斬り死にを押し留め、浪人した明石全登の方が後々の大坂の陣にて徳川方に痛手を与えているのである。
では秀家の流浪生活に意味は無かったのか?
薩摩守はそうは思わない。徳川政権への敵対という意味では秀家は些少の事も為せなかった。しかし、打倒豊臣家を睨む江戸幕府にとって、宇喜多秀家の所在を掴めず、いつ豊臣家に加担するか分からない不安は、一〇〇万石の前田家、七二万石の島津家、六二万石の伊達家のように石高は無くとも、豊臣家(あるいはそこに親しみを持つ勢力)にとっての精神的な意味において隠然たる影響力をもっていたと思われる。
そして長きに渡った流浪と、その後の秀家の処分を見た時、江戸幕府の盤石化と、親豊臣大名の行動及び彼等に対する処遇面から見ても興味深い。
恐らく、秀家が関ヶ原の戦い後、早い時期に捕えられていれば、その命は無かったと思われる。秀家の日頃の言動や、秀吉・秀頼に対する態度からも減封では済まされなかっただろう。
しかしながら長い時間の経過と、幕藩体制の盤石化がせっかく懐きかけた前田・島津の機嫌を損ねてまで、降伏を申し出た秀家抹殺を執行するメリットを感じさせなかったのだろう。
逃げはカッコ悪いかも知れないし、秀家の流浪は当初の目的を達するに至らなかったが、流浪に流れた時間と世の移り変わりの対比が歴史に残してくれた意義は大きい。
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令和三(2021)年五月二五日 最終更新