第拾頁 黒田清隆………酒乱による妻殺し疑惑

氏名黒田清隆(くろだきよたか)
家系薩摩藩士黒田氏
生没年天保一一(1840)年一一月九日〜明治三三(1900)年八月二三日
地位薩摩藩士・陸軍中将・第二代内閣総理大臣
飲酒傾向酒乱
酒の悪影響方々で酔って暴れた。病死した筈の妻を「殺した。」と取り沙汰された。
略歴 天保一一(1840)年一〇月一六日に薩摩鹿児島城下(現・鹿児島県鹿児島市新屋敷町)にて薩摩藩士・黒田仲佐衛門清行の長男として生まれた。幼名は仲太郎
 黒田家は家禄僅か四石で、同じ下級武士で後に明治維新の立役者となった西郷隆盛や大久保利通の家以上に軽輩の身だった。

 長じて砲手になったが、文久二(1862)年の生麦事件の際には抜刀しようとした者を取り押さえた力持ちで、「チェスト―!」の気合で有名な示現流有数の使い手でもあった。
 文久三(1863)年、薩英戦争に参戦。このときイギリス軍に苦戦した経験から、後に江戸で砲術を学び、皆伝を受けた。

 慶応二(1866)年に犬猿の仲だった薩摩藩と長州藩との薩長同盟が締結されたが、当初同盟に消極的だった長州に赴いて薩摩側の使者として説き、大坂で西郷吉之助(隆盛)と桂小五郎(木戸孝允)の対面を実現させ、あの坂本龍馬に負けず劣らずの尽力を果たした。

 薩長を初めとする倒幕派の勢いに抗し切れなくなったと判断したラスト・ジェネラル徳川慶喜は慶長三(1867)年一〇月一四日に大政奉還を行い、ここに江戸幕府は滅亡した。だが、慶喜が恭順の意を示したにもかかわらず、敵将の命を取らないと納得出来なかった歴史の性(さが)と云うべきか、倒幕派は幕府を武力で潰すことを止めず、慶応四(1868)年に鳥羽・伏見の戦いが勃発。この戦いで清隆は薩摩藩の小銃第一隊長として戦った。
 同年三月、北陸道鎮撫総督・高倉永?の参謀に、山縣有朋とともに任命され、鯨波戦争に勝利。北越戦争に際しては、清隆は長岡藩を降伏させて河井継之助を登用すべきと考え、河井に書簡を送ったが届かなかった。
 ともあれ、長岡・松ヶ崎・新発田と新潟各地を清隆は転戦し、新潟を降した後は庄内・米沢の両藩を西郷と共に降し、寛大策をもって臨み、同年九月二七日にこれらを帰順せしめた。

 その後、一時鹿児島に帰郷したが、翌明治二(1869)年一月に軍務官出仕に任命され、海を渡って、北海道にて旧幕府軍との最後の戦いにおける総指揮を執った。
 五月には旧幕府軍が箱館に追い詰められたのを見て勝利を確信し、同月一一日の箱館総攻撃では、自ら少数の兵を率いて背後の箱館山を占領し、敵を五稜郭に追い込んだ。
 同月一七日、敵将・榎本武揚に降伏を勧め、榎本もこれに応じた。
 戦後、清隆は剃髪してまで榎本助命を強く要求。長い時間がかかったが、明治五(1872)年一月六日に榎本を初めとする主要メンバーは謹慎、その他は釈放として決着した。

 戦後、五稜郭での戦功もあって、清隆は北海道にてロシアを警戒しつつ、北海道開拓に尽力することとなった。
 明治三(1870)年五月に樺太(現・サハリン)専任の開拓次官となった。七月から樺太に赴き、現地のロシア官吏との関係を調整し、北海道を視察して、帰京すると中央政府に対して、「現状では樺太は三年も保たない」とし、「北海道の開拓に本腰を入れなければならない。」と建議した。
 ちなみに当時の樺太は樺太・千島交換条約締結前で、日露混在の地となっていたので非常に難治の状態にあった(同条約の締結は明治八(1875)年)。

 北海道開拓の手段を求めて清隆は明治四(1871)年一月〜五月まで欧米を巡り、アメリカでは農務長官ホーレス・ケプロンから顧問となることの承諾を得た。
 帰国後、開拓使次官のまま清隆は開拓使の頂点に立ち、箱館で降伏させた榎本武揚を初めとする旧幕臣を開拓使に登用し、アメリカから連れて来たケプロンを顧問に基盤整備事業を起こしたが、やがて産業振興に重点を移した。

 明治六(1873)年、同郷の西郷隆盛と大久保利通が征韓論を巡って対立、清隆は内治重視の立場から反対の意を唱えた。清隆にはとにかくロシアの脅威に対することが先決で、同様の理由で翌明治七(1874)年の台湾出兵にも反対した。
 清隆の反対意見は通らず台湾出兵は強行されたが、その後清隆は清国との全面戦争突入を懸念し、速やかに外交交渉に入ることを唱えた。

 同年六月二三日、陸軍中将となって、北海道屯田憲兵事務総理を、同年八月二日に参議を兼任し、正式に開拓長官となった。同時に箱館で降伏させ、当時は朝敵・罪人となっていた榎本武揚等の登用を認められ、ロシアとの交渉に臨んだ。
 明治八(1875)年、清隆は榎本を特命全権公使としてロシアと交渉し、樺太・千島交換条約を締結。同じ年に起きた江華島事件に際しても翌明治九(876)年二月に全権弁理大臣として李氏朝鮮と交渉し、日朝修好条規を締結した。

 かように北海道を中心に、樺太・千島・朝鮮にて外交と開拓に尽力した清隆だったが、一方で樺太南部のアイヌ人達を北海道に強制移住させるといった強引なことも行っており、札幌本庁を預かっていた松本十郎が強制移住に反対して辞任するといったこともあった(※アイヌ人が居住していたのは北海道・千島列島・カムチャッカ半島・樺太に及んでいた。また樺太は北部にウィルタ、中部にニブフ、南部にアイヌと云った諸民族が居住していた。そういう意味では日本もロシアも侵略者と大差なかった)。

 明治一〇(1877)年、西南戦争が勃発。謂わば、不平士族による最後にして最大の反乱であると同時に、薩摩閥における最後の内部対立でもあった。
 これを受けて清隆は三月一四日に征討参軍に任命され、熊本城を包囲する西郷軍を北から攻撃していた山縣有朋軍を助けるべく八代付近に上陸して敵の背後を突いた。
 三月三〇日の上陸から戦い続け、四月一五日に熊本城に入り、翌一六日に山縣と合流した清隆は辞任を請い、二三日に辞令を受け、開拓使で清隆が育てた屯田兵が入れ替わりに戦場に到着し、戦争は九月二四日に西郷が自害して終結した。

 明治一一(1878)年三月二八日、妻を病で亡くしたが、当時の新聞に「酒に酔って帰った黒田が、出迎えが遅いと逆上し妻を殺した。」とのデマ記事が新聞に載り、清隆は辞表を提出した(詳細後述)。
 しかし大久保利通の説得を受けてこれを撤回した。大久保は清隆がそのようなことをする人物でないと保証すると述べ、同時に自分の腹心で大警視だった川路利良に検死させて妻の死が病死であると結論付けてくれた。
 ところが、その大久保は同年五月一四日に暗殺され(紀尾井坂の変)、清隆は期せずして薩摩藩閥の最有力者とみられるようになった。

 四年後の明治一四(1881)年、開拓使の廃止が決定した。これを受けて清隆は開拓使の官営事業の継続のため、官吏を退職させて企業を起こし、これに官営事業の設備を払い下げる計画を立てた。
 清隆は事業が赤字だったことを理由に、払い下げ額を非常な安値とし、私利で動かない官吏出身者を事業に充てるべきと主張したが、これは払い下げ規則を作った大隈重信との対立を生んだ。
 やがて清隆の払い下げ計画が新聞報道され、世論は「薩摩出身の政商・五代友厚の企みによるもの」と見做して激しく非難した(開拓使官有物払下げ事件)。このことが新聞に漏れたのは大隈の密告によるものと考えた清隆・伊藤博文を初めとする薩長閥は陰謀で大隈を失脚させた(明治十四年の政変)。しかし一度沸いた世論には勝てず、払い下げは中止になり、清隆は開拓長官を辞めて内閣顧問となった。

 以後、酒乱による醜聞と疑獄事件もあって閑職に甘んじていた清隆だったが、薩摩閥の重鎮だったことは変わらず、明治二〇(1887)年第一次伊藤内閣の農商務大臣となったのを皮切りに翌明治二一(1888)年四月には第二代内閣総理大臣となった。
 在任中の明治二二(1889)年二月一一日に大日本帝国憲法が発布されたが、清隆ではなく、伊藤博文の主導によるものだった。そして黒田内閣は不平等条約改正交渉の失敗への引責辞任の形で同年一〇月に倒れた。
 交渉失敗は治外法権領事裁判権撤廃の段階措置として外国人の裁判官を置くということが新聞に漏れ、外務大臣が爆弾を投げられるという事件に発展したことにあった。その外務大臣がかつて清隆の追った大隈重信だったのというも何とも皮肉な話である。
 そしてその年の暮れ、清隆は、条約改正案に反対した井上馨への鬱積から、泥酔して井上邸内に忍び込むという事件を起こし、政府内から非難を浴びて謹慎した

 だが薩摩閥の重鎮としての立場は大したもので、首相辞任後も枢密顧問官となり、明治二五(1892)年八月八日には第二次伊藤内閣の逓信大臣となり、明治二八(1895)年には枢密院議長となった。
 だが明治二六(1893)年から体調不良が目立ち出し、明治三三(1900)年八月二三日、脳出血で死去した。黒田清隆享年六一歳。



酒について 恐らく本作で採り上げた人物の中で、黒田清隆は酒に関しては最悪と云っていい人物だろう。北海道開拓を任されたころから大酒を飲み、その頃から数々のトラブルを起こしていた。

 何せ一度酒を飲むと必ず大暴れする酒乱であったと云われているから周囲の人間は堪ったものではなかっただろう。単に暴れるだけでも充分厄介だが、怒気を抜きにしても清隆の酒癖はかなり悪かったようで、開拓長官時代にも商船に乗船した際に、泥酔して船に設置されていた大砲で面白半分に岩礁を射撃しようとして誤射し、住民を死亡させたと云うとんでもない事件も起こしている(←示談金を払って解決したらしい)。
 酒に関しては万事そんな調子だったから、妻が死んだ折にも「酒に酔った黒田が殺した。」と新聞を初めとする世論に取り沙汰され、同郷の大久保利通は肩を持ってくれたものの、伊藤博文(長州出身)や大隈重信(肥前出身)は「法に則った処罰」を主張したと云うから、妻の死の件を抜きにしても清隆の酒乱は普段からとんでもないものだったのだろう

 これも前述したが、黒田内閣倒閣直後、清隆は泥酔して、条約改正を巡って対立していた井上馨邸に忍び込むという事件も起こした
 薩摩守は敵将となっていた榎本武揚にも誠意を尽くし、その助命の為に剃髪までした黒田清隆は人として嫌いだとは思わないが、彼と一緒に酒を飲みたいとは思わない(本作で採り上げている人達に対して薩摩守は概ね好意的で、可能なら一度一緒に飲みたいと思っている人物も多い)。

 そんな清隆だったが、彼の酒乱を止めた、止められた人物が一人だけいた。木戸孝允である。
 ある年の正月、年始あいさつに訪れた木戸家で例によって酔っ払って暴れ出した清隆を木戸は得意の柔術の大腰で投げ飛ばし、そのまま咽喉を締め上げた。
 さすがの清隆もこれにはギブアップし、木戸は清隆を毛布でくるんだ上に紐で縛り上げた状態で駕籠に乗せて自宅へ送り返した。かかる手酷い目に遭ったことも有って、以後、清隆の酒乱は「木戸が来た!」というと大人しくなったと云う



飲酒の影響 これほど酒で数々の問題を起こして何の影響もない筈はなかった。  最初の妻が病死だったにもかかわらず、「酔った黒田が逆上して殺した。」とまことしやかに人口に膾炙したのだから、普段からの酒乱振りも、そこから生まれた悪評もとんでもないレベルだったのだろう
 このとき清隆を庇ってくれた大久保は、清隆の潔白を証明するために自身の腹心で大警視だった川路利良に調査を命じ、川路は医師を伴って妻の墓を開け、棺桶に身を乗りだして中を確認し、病死であると結論付けた。正直、棺桶の中をちょっと見ただけのパフォーマンス的なものだったのだが、そういう体裁を取らないとデマを払拭出来ない程、清隆の酒乱振りは酷かったのだろう。勿論、完全に払拭出来たとは思えんし。

 北海道開拓の(一応の)成功を初め、国際法もろくに知らなかった時の明治新政府に在って対ロシア・対清・対朝鮮との数々の交渉・条約締結を成した黒田清隆は間違いなく一級の政治家だったのだが、それでも同郷の西郷隆盛や大久保利通、明治初期の憲政に重きを為した伊藤博文・大隈重信に比べて著名でないのも、酒乱による悪いイメージと無関係ではないだろう

 ともあれ、「組織に不可欠な程仕事は出来るが、酒乱」となると、その人物を待つ待遇は「敬遠」である。当然、薩摩閥の重鎮で、やり手の政治家でありながら酒乱だった清隆も、醜聞や疑獄事件もあってその晩年は浮いた存在となった
 興味深いのは同郷の人々が離れ、代わって旧幕臣との付き合いが濃密となったことだった。チョット考えれば納得のできる話だが、西郷や大久保が不慮の死を遂げ、清隆がドンとなると彼を立てつつも、近寄りたくないと考えたのが薩摩隼人達の本音だったことだろう。
 その一方で、旧幕府勢力に対する殺意が満ちていた時代に最後の幕府勢力助命に尽くし、政治にまで参画させてくれた清隆を、榎本武揚を初めとした者達が感謝しない筈が無かった。
 清隆の死因となった脳出血も、恐らくは長年の飲酒が少なからず影響していると思われるが、彼の死に際し、葬儀委員長を務めたのは同郷の薩摩人ではなく、榎本武揚だった。

 これほど対人関係を大きく変えた黒田清隆の酒乱振りはげに恐ろしきものと云えよう


次頁へ
前頁へ戻る
冒頭へ戻る
戦国房へ戻る

令和三(2021)年六月一〇日 最終更新