第玖頁 徳川家宣………好きだからこその厳格

氏名徳川家宣(とくがわいえのぶ)
家系甲府徳川家
生没年寛文二(1662)年四月二五日〜正徳二(1712)年一〇月一四日
地位甲府藩主・江戸幕府第六代征夷大将軍
飲酒傾向根っからの酒好き
酒の悪影響短期間の在位で薨去?
略歴 寛文二(1662)年四月二五日、時の征夷大将軍徳川家綱の弟で甲府藩主だった徳川綱重の長男として、江戸根津邸にて生まれた。幼名は虎松(とらまつ)。
 虎松の母は綱重が一九歳の時に手を付けた身分の低い女中・お保良(長昌院)で、当時・綱重はまだ正室を迎えていなかった。それゆえ綱重は世間を憚って虎松を家臣の新見正信に預けて養子としたので、当初は新見左近と名乗った。その左近がまだ三歳だった寛文四(1664)年にお保良も逝去し、左近の幼少は決して幸福とは云えなかった。

 寛文一〇(1670)年七月九日、他の男子に恵まれなかった綱重に世嗣として呼び戻され松平虎松と名乗りを改めた。
 延宝四(1677)年一二月一二日に一六歳で元服。同日、従三位・左近衛権中将兼左近衛将監となり、伯父で将軍でもあった徳川家綱から「」の偏諱を受けて徳川綱豊と名乗った。
 翌延宝六(1678)年一〇月二五日に父・綱重が死去し、甲府藩主を継承。そのまた翌年の延宝八(1680)年、家綱が嗣子なく危篤に陥ると上野館林藩主・徳川綱吉とともに第五代将軍候補となったが、光圀と堀田正俊が綱豊 (甥)よりも家光に血が近い綱吉(弟)推したため、綱豊の将軍就任はならなかった。

 だが、綱吉にも男子がおらず(いたが綱吉の将軍就任からほどなくして夭折した)、綱豊は早くから第六代将軍候補となった。
 だが、綱吉の生母・桂昌院は彼女と同じ家光側室だった順性院と極めて仲が悪かったため、その孫である綱豊を嫌い抜いていた。親孝行者だった綱吉は母の意向に逆らえず、将軍就任前から自分の対立候補でもあった綱豊を快く思っていなかった。
 それゆえ綱吉の娘・鶴姫の婿で、紀州藩主徳川光貞の世子だった徳川綱教が一時六代将軍候補と目されたが、鶴姫も綱教も子を成さずに早世し、甲府藩主としての綱豊の声望もあって、ついには綱吉も桂昌院の死後に綱豊を将軍世子とした。
 これにより綱豊徳川家宣と改名して江戸城西の丸(←将軍世子の居住地)に入った。時に宝永元(1704)年一二月五日、家宣四三歳だった。

 宝永六(1709)年一月一〇日、綱吉が薨去すると同年五月一日、正二位内大臣・右近衛大将・源氏長者となり、第六代征夷大将軍に任ぜられた。時に徳川家宣四八歳で、これは始祖家康を例外にすると歴代将軍の中でも最高齢での就任だった。
 将軍に就任した家宣は基本的に先代綱吉の政治(生類憐みの令元禄金銀の改鋳等)を否定する政治を行った(一部例外有り)。
 柳沢吉保を側用人から辞職させると自らの学問の師・新井白石や甲府時代からの側近・間部詮房を両腕に文治政治(←これ自体は綱吉の代に始まった)を推進し、琉球や李氏朝鮮との外交にも力を入れ、世に「正徳の治」と呼ばれる善政を行った。
 だが、在職僅か三年の正徳二(1712)年一〇月一四日、流行性感冒にて薨去。徳川家宣享年五一歳。家綱・綱吉と同様子宝に恵まれず(生まれたには生まれたが次々と夭折していた……)、僅か四歳の鍋松(徳川家継)が将軍職を継いだが、その家継も夭折し、将軍位が紀伊家の血筋に移ったのは周知の通りである。



酒について 普通に酒好きだったと伝わっている。詳細は不明だが、徳川家宣の実父・徳川綱重が享年三五歳の若さで兄・家綱、弟・綱吉に先立ったのも酒害によるものとのことなので、家宣の酒好きは遺伝によるものかも知れない。

 面白いのは、下戸だった徳川綱吉が酒に寛容な政治を取ったのに対し、酒好きだった家宣が酒に厳格な政治を取ったということである。政策を見れば正反対に見える家宣と綱吉だが、血の近い身内とあってか、学問好きで、(良し悪しは別として)信念の強いところは似ている。
 古来、酒好きな者は酒に寛容な政策を、酒嫌いは酒に厳しい政策を取りがちだが、この両名が自らの好みとは正反対の方針を取ったのは興味深い(笑)



飲酒の影響 直接的な話は聞かない。ただ、薩摩守は徳川家宣が比較的早くに亡くなったり、後継者に恵まれなかったりしたのは酒が遠因となっている気がする。

 まず前者だが、家宣の享年は五一歳で、死因は流行性感冒(インフルエンザ)という当時としては珍しくない話である。ただ、学問の講義中は師が部下であっても正座を崩さず、虫に刺されてもこれを追わない程生真面目に生きた家宣だから、日々武芸にも励み、食生活も規則正しく行っていたと思われる。
 また、流行性感冒は現代でも決して甘く見ていい病気ではないが、かつてにおいても必ず死んだという訳ではなく、優秀な典医を数多く抱えていたであろう家宣が正室・煕子(天英院)が奥の仕来りで見舞に手間取る間に亡くなったのはどうにも家宣らしくない。
 勿論これは薩摩守の一般論に基づいた推測で、「有り得ない話」とは思っていないが、薩摩守は長年の酒好きが祟ったのでは?と考えてしまう。

 確実な史実として、家宣は歴代将軍の中では最も長身で(勿論八歳で夭折した家継は例外と考えましょう)、遺骨から顔立ちも整っていたことが分かっているので、極端に太っていたか、極端に痩せていたのではなければ身体はそこそこに壮健で、環境的にも病気になればすぐに侍医に掛かれたと見られる。それでも五一歳で死んだのは酒が影響していたのだろうか?
 かつて「人生五〇年」と云われたとはいえ、それは幼少時の死亡率が高くて平均寿命が五〇歳前後とされた話で、遥か古代より生きる奴は七〇、八〇、九〇代まで生きたものだった。ま、下戸の綱吉も麻疹で呆気なく死んだから何とも云えんが………。

 もう一つの後継者に恵まれなかった話だが、家宣は小林一茶並みに次々と生まれた子供に幼くして先立たれ、可哀想な程である。
 最初の子・豊姫は甲府藩主時代、つまりまだ徳川綱豊だった時に正室煕子との間に生まれたが、二ヶ月持たずして亡くなった。次の子は同じく煕子との間に生まれた待望の男児だったが、その日の内に亡くなり、夢月院という戒名だけが伝わっている…………。

 後の子は側室の生まれで、将軍世子として家宣となって江戸城西の丸にいたときにお古牟の方が男児・家千代を生んだが、父の将軍就任を待たずに生後二ヶ月チョットで夭折した。
 三男の大五郎は徳川綱吉が薨去した三日後にお須免の方を生母に江戸城西の丸に生まれ、「未来の七代将軍」と目されたが、家宣将軍在任中に僅か三歳で夭折した。
 その大五郎が存命中にお喜世の方が生んだのが四男・鍋松で、彼が家宣薨去後も生き延び、七代将軍徳川家継となったが、結局幼くして亡くなったのは周知の通りである。
 大五郎が亡くなって間もなく、同じお須免の方が生んだのが末子・虎吉だったが、彼も生後三ヶ月を経ずして夭折した。

 悲惨ついでに話を加えると、家宣側室の一人・いつきは家継が二歳の時に家宣の子を懐妊したが、流産してしまい、彼女自身もそれが元で翌日にこの世を去った……………。

 キーを打っていて気が滅入る程の悲劇のオンパレードだ……何せ正室・側室合わせて妻が七回懐妊し、一人は流産、一人は生まれたその日に死亡、三人が二ヶ月前後で夭折、一人は三歳で夭折、と生まれた六人の内、五人が現代でいう幼稚園にも上がらない歳で家宣に先立って夭折しているのである。
 唯一人自分が死ぬまで生きていた鍋松(家継)も八歳で死んだのだから、綱重の家系が呪われていたとしか思えない悲惨さである。

 ただ、これが家宣の酒好きと関係しているかどうかは何とも云えない。「五人生まれた赤ん坊の内、二人しか育たない。」と云われた時代の話で、複数の子を成した当時の人物で、我が子に一人も先立たれていないものを見つける方が難しいぐらいである(徳川将軍一五人の内、一人でも子を成した者が一一人いるが、我が子に先立たれた経験を持たないのは九代家重だけである)。
 また、懐妊中の母親の飲酒が胎児の健康に悪影響を与えるのははっきりしているが、父親の深酒が子供の健康に悪影響を与えるか否かははっきりしていない。道場主の高校時代の恩師の知り合いの医者は毎晩ビールを一五本飲む大酒飲みで、五人の子を設けたが、全員泥酔状態で作ったので、作ったときの記憶が全くない有様だった(笑)が、五人の子は全員無事に成人し、且つ聡明に育ったとのことだった。

 徳川家宣が性格的に無茶飲みしたとは思えないし、家綱・綱重・綱吉兄弟の代から子宝には恵まれない傾向があった(ちなみに家宣の弟・松平清武も嫡男に早世され、徳川家光の男系は完全に途絶えた)が、何の原因もなしに家宣が比較的早期に亡くなったり、子供達に次々に夭折されたりしたとも思えない。
 それに関して唯一思い浮かぶのが「酒」なのだが、チョットこじつけが強いな、と自分でも思ってしまうのだった(苦笑)。


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令和三(2021)年六月一〇日 最終更新