第拾壱頁 横山大観………飯の代わりに酒を飲んだ男。アンタは戦前の志村けんか?!

氏名横山大観(よこやまたいかん)
家系水戸藩士・酒井家
生没年明治元(1868)年一一月二日〜昭和三三(1958)年二月二六日
地位日本画家
飲酒傾向師の影響で飲むようになり、加齢により減少
酒の悪影響特になし
略歴………の前に 予めお断りしておきますが、薩摩守は絵画を初めとする芸術には知識・技量・センス共に皆無に近い人間で、酒に関する話でもなければ横山大観を採り上げることはなかったでしょう。
 それゆえ、絵画に造詣の深い方々や横山大観を尊崇する方々の眼から見て、彼の芸術に関して(極力触れない様にしますが)トンチンカンな論を展開するかもしれないことを述べておきます。
 その事を御承知の上で、以下の文章をお読み下さい。



改めて略歴 明治元(1868)年一一月二日、常陸水戸(現・茨城県水戸市下市)にて水戸藩士・酒井捨彦の長男として生まれた。本名は秀麿 (ひでまろ←男塾マニアとしては聞き捨てに出来ない名前だ(笑))。
 当然物心がついた頃には武士の時代は終わっており、府立一中、および私立の東京英語学校の学齢時代から絵画に興味を抱き、洋画家・渡辺文三郎に鉛筆画を学んだ。

 明治二一(1888)年、母方の縁戚である横山家の養子となり、横山秀麿となった。
 その後、東京美術学校を受験することに決め、結城正明、狩野芳崖などに教えを受けた。たった二、三ヶ月程度の試験勉強期間だったが見事に合格を勝ち取り、明治二二(1889)年に第一期生として同校に入学した。
 美術学校を卒業後、京都に移って仏画の研究を始め、同時に京都市立美術工芸学校予備科教員となった(この頃より横山大観の雅号を使い始めた)。
 明治二九(1896)年(明治29年)、京都市立美術工芸学校を辞すと、母校・東京美術学校の助教授に就任。しかし二年後に師であり、当時校長でもあった岡倉天心への排斥運動が起こり、天心が失脚すると大観もこれに従って助教授職を辞し、日本美術院創設に参加した。

 美術院での活動において、大観は菱田春草とともに西洋画の画法を取り入れた新たな画風の研究を重ね、やがて没線描法(←具体的にどういうものなのかは全く分かりません(苦笑))の絵画を次々に発表。だが、その先進的な画風は当時の画壇の守旧派から猛烈な批判を浴びた(←いつの時代、どの分野の世界でもよくあることです)。
 大観が建てたこの画風は「朦朧体」と呼称されたが、それも当初は「勢いに欠ける、曖昧でぼんやりとした画風」と云う批判的な意味で使用された言葉であった。

 保守的風潮の強い国内での活動が行き詰まった大観は春草と共に海外に渡った。
 インドのカルカッタや、アメリカのニューヨーク、ボストン、その後ヨーロッパでもロンドン、ベルリン、パリで展覧会を開き、いずれの地でも高い評価を受けた。
 これらの欧米での大観に対する高評価を受けて、日本国内でも大観の画風が評価され始め(←日本って、昔からそんなところがあるよなぁ……)、明治四〇(1907)年に始まった文部省美術展覧会の審査員に就任し、大正二(1913)年には、日本美術院の再興に成功した。

 ここに至って大観の日本画壇における巨匠としての地位は確固たるものとなり、昭和一〇(1935)年に帝国美術院会員、昭和一二(1937)年帝国芸術院会員となった。

 昭和二六(1951)年、日本美術院会員を辞任して文化功労者となったが、昭和三三(1958)年二月二六日、東京都台東区の自宅にて逝去。横山大観享年九〇歳(数え年)。
 既に戦後で、戦前の爵位制度は消えていたが、それでも永年に渡る日本美術発展への貢献により正三位に叙せられ、勲一等旭日大綬章を贈られた。



酒について 横山大観は大変な酒好きとして知られ、人生の後半は飯をほとんど口にせず酒と肴(少量の野菜)だけで済ませていたと云う、志村けんの様な食生活だった(笑)
 だが、本作で採り上げた多くの人物が根っからの酒好きだったのとは異なり、元々は飲めない方で、お猪口二、三杯で顔を真っ赤になってしまう程の下戸だった。
 しかし大観の師の岡倉天心は日に二升飲んだと云われる酒豪で、その天心から「酒の一升くらい飲めずにどうする?」と叱咤され、大観は飲んでは吐く訓練を続けた結果、前述通りの酒豪となった。

 そんな大観も昭和三〇(1955)年頃までは毎日約一升飲んでいたのが、昭和三二(1957)年頃には一日四合(←缶ビールにして二本チョット分)に減り、最晩年の昭和三三(1958)年には一日に半合しか飲めなくなったと云う。しかしだ………八七歳まで毎晩一升飲んで、その後衰えたと云っても充分化け物級の酒豪だったと云えよう
 結局これだけ飲んでもアルコール中毒にもならず、大病もせずに九〇年の寿命を全うしただから凄いものである。

 ちなみに好んだ酒は広島の「醉心」で、醉心山根本店の社長・山根薫と知り合った大観が互いに意気投合し、一生の飲み分を約束した山根より無償で送られていたものだった。  だが大観が注文した量は「年に四斗樽で何本も注文が来る」といったもので、さすがの山根も腰を抜かしたが、大観も無償は悪いと思ったのか、代金の替わりとして毎年一枚ずつ自分の絵を送り続け、結果、醉心酒造に大観の記念館ができることとなった



飲酒の影響 特に横山大観が酒でトラブルを起こしたり、健康を害したりしたという話は聞かない。
 実に不思議である。正直、大観の飲みっぷりは様々な意味で健康を害してもおかしくないものである

 略歴でも触れたが、元々は下戸で、お猪口二、三口で顔を真っ赤にした。勿論、酒を飲み始めた時にはそんな弱さでも、次第に強くなり、水を飲むみたいにガブガブ飲める様になる例は珍しくない。
 だが、それは「酒に慣れる」のであって、厳密に「酒に強くなる」のとは異なることを注意して欲しい。
 そもそも飲酒で顔が赤くなるのは、アルコールという毒に対する一種の拒絶反応で、少量でそうなる人は元々酒に弱い体質である。そんな人が酒を飲み続けて、多飲が可能となったり、赤面するのが遅くなったりしたとしても、それは医学的に酒に強くなったのではなく、酒に麻痺して反応が鈍くなっているだけとされている。
 うちの道場主も根っからの酒好きだが、当初はコップ半分の酒で顔を真っ赤っかにしていたので、飲めるようになった今でも抑え気味にしている。実際、飲み過ぎてトラブルを起こした例も多いからなあ………うぎゃああああああああああ!!(←道場主のドラゴン・スリーパー炸裂中)。
 そうなると、岡倉天心に強要されて飲めるようになったとはいえ、元々酒に弱かった大観は多飲を慎むべきだった。まして、酒を健康的に飲む基本である「食べながら飲む」を大観は全く行っていなかった。実際、「食欲が無いんだ。飯は要らない、酒だけでいい。」と云っている志村けん氏の体は相当酒に蝕まれているらしい(←ケンちゃんファンの方々スミマセン。決して悪意はありません。幼少時の『8時だよ全員集合』以来のドリフターズ好きとして志村氏にいつまでも元気でいて欲しいからとの願いもありますので)。

 結局、前述した様に大観は酒で大きな失態を犯すことも、健康を害することもなく、九〇年の人生を全うした。晩年には僅かながら酒量が落ちていたことを考えると、元々酒が飲めなかった自分の限界は完璧に計算されていたのかも知れないし、飲むべき場所・酔っ払ってもいい場所は弁えていたのかも知れない。それならそれで酒に弱い酒好きである薩摩守としては大いに参考にしたいところである。

 ちなみに死後、大観の大脳はアルコール漬けにして保存されている。死して尚酒に囲まれているのを大観が草葉の陰で喜んでいるかどうかは定かではない (←確かめよう無いって)。


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令和三(2021)年六月一〇日 最終更新