第拾弐頁 野口英世………父親の遺伝?渡米費用三〇〇円を一晩で溶かした話は有名

氏名野口英世(のぐちひでよ)
家系猪苗代の農家
生没年明治九(1876)年一一月九日〜昭和三(1928)年五月二一日
地位医学博士
飲酒傾向不遇時に自棄酒
酒の悪影響経済的不安定、あわや留学中止
略歴 明治九(1876)年一一月九日、福島県耶麻郡三ッ和村三城潟(現・猪苗代町)に父・野口佐代助と母・シカの長男として生まれた。初名は清作(せいさく)。
明治一一(1878)年)四月、囲炉裏に落ち、左手に大火傷を負い、このことが彼の人生に大きく影響したのは有名で、伝記の世界でも一、二を争う有名エピソードとなっている。

 大火傷に際し、家が貧しく、医師にかかることも出来なかったため、置き薬による治療にしか頼れず、左手の五指がくっついた状態となった。そのことがいじめの対象となり、小学校に上がった当初の清作の成績は決して良好なものではなかった。
 だが母・シカから左手が不自由なら学問で世間を見直すよう諭され、忽ち猛勉強で成績を上昇させ、級長になるほどに至った。その優秀さを買われ、本来野口家の経済状態では小学校卒業と共に働き出すところを、猪苗代高等小学校教頭・小林栄の計らいで猪苗代高等小学校に入学した。
 同校在学中、左手の障害を嘆いた清作の作文が小林先生を初めとする教師・同級生一同の同情を誘い、清作の左手を治す為に手術費用の募金が行われた。手術費用は一〇円で、当時の小林先生の月給が一二円だったと云うから相当な高額だったが、忽ちそれだけの費用が集まった。
 そして清作は会津若松の医師で、アメリカ帰りの名医だった渡部鼎の下で左手の手術を受け、それまでくっついていた五指が離れ、簡単なものなら掴める様になったことと医学の偉大さに感激し、医師を目指すこととなった。

 明治二六(1893)年三月、猪苗代高等小学校を卒業した清作は、自分を手術してくれた渡部の経営する会陽医院に書生として住み込みで働きながら、約三年半に渡って医学の基礎を学んだ。この間に、渡部の友人であった歯科医で高山高等歯科医学院(現・東京歯科大学)の講師でもあった血脇守之助と知り合った。
 明治二九(1896)年九月、清作は血脇先生の協力で東京にて寄宿して勉学に励み、「天才でも三度は落ちる。」と云われた医術開業試験の前期試験(筆記試験)に一発合格。翌明治三〇(1897)年に後期試験(臨床試験)にも合格し、医師免許を取得した。
 だが資格的には完璧でも、清作には開業資金がなく、万全ではない左手で患者に治療を施すこともためらわれた。それゆえ医学研究者の道を歩むことを決心。血脇先生の計らいで高山高等歯科医学院の講師を務め、順天堂医院で助手として働き、明治三一(1898)年からは北里柴三郎が所長を務める伝染病研究所(現・東京大学医科学研究所)に勤め始めた。
 大学を出ていない故に研究には携われなかったが、語学に秀でていたことから外国図書係、通訳係、研究所外との渉外を担当した。
 しかし医学の研究に携われず、鬱々とし、酒に溺れていたところに坪内逍遥の『当世書生気質』を読み、それに出ていた自堕落な生活を送る登場人物・野々口精作の名を見て自堕落な日々を反省するとともに名を英世に改めた。

 明治三二(1899)年四月 - 伝染病研究所に訪れたアメリカ人博士・サイモン・フレクスナーと知遇を得て、渡米留学を志した。勿論ネックになったのは費用(当時の額で、最低でも二〇〇円は必要だった)で、所長・北里柴三郎の計らいで横浜港検疫所検疫官補となり、清からの帰国者がペストに感染しているのを発見し、防疫に活躍した。
 その後三〇〇円の融資を受け、念願の渡米が叶った。その直前、愚行で夢をフイに仕掛けたが(詳細後述)、何とか渡米に成功。だがその時には無一文に近い状態で、社交辞令で渡米を勧めていたフレクスナーは本当にやって来た英世に顎を落とした(笑)。
 何とかフレクスナーからペンシルベニア大学医学部で蛇毒の研究助手という職と研究テーマを与えられた。ようやく研究に携われた英世のボルテージはヒートアップ。三ヶ月後、電話帳の様な膨大な量の研究論文を提出し、今度は良い意味でフレクスナーの顎を落とさせた(笑)。
 この蛇毒の研究は、フレクスナーの上司で同大学の理事であったサイラス・ミッチェル博士からも絶賛され、英世はミッチェルの紹介で一躍アメリカの医学界に名を知られることとなった。

 こうなるとフレクスナーはすっかり協力的になり(笑)、ロックフェラー医学研究所にて組織構成を任されていたフレクスナーの尽力で、明治三六(1903)年一〇月デンマークのコペンハーゲンに血清研究所に留学。翌年帰国後、ロックフェラー医学研究所に移籍した。
 そして明治四四(1911)年八月、病原性梅毒スピロヘータの純粋培養に成功し、世界の医学界に名を知られることとなった。この時の純粋培養は現在では正しいものではなかったとされているが、それでも英世の前後の功績や研究の観点・実績・過程からも英世の名声は些かも衰えるものではなく、京都大学医学博士の学位を授与された。

 その後、小児麻痺や狂犬病の研究に尽力し、大正三(1914)年四月、東京大学からも理学博士の学位を授与され、同年七月、ロックフェラー医学研究所正員に昇進した。
 翌大正四(1915)年九月五日、一五年振りに日本に帰国。最初で最後となったこの帰国時に帝国学士院より恩賜賞を授けられ、日本各地を講演する旅行に母・シカを伴い、生涯最大の親孝行を為した。

 大正七(1918)年六月、黄熱病の病原体を発見するべく、ロックフェラー研究所の命で南米エクアドルへ派遣される。僅か九日で病原体を特定することに成功し、この結果をもとに開発された野口ワクチンにより、南米での黄熱病が収束。この功績に感謝したエクアドル政府は英世をエクアドル軍の名誉大佐に任命した。
 しかし黄熱病の病原体はウイルスで、ウイルスは電子顕微鏡でなければ見ることが出来ず、英世が光学顕微鏡で発見したものはワイル病と見られている。それゆえ南米では大きな効果を発揮したワクチンが大正一三(1924)年七月にアフリカ・セネガルにて発生した黄熱病には全く効果を見せなかった。
 昭和二(1927)年ロックフェラー医学研究所ラゴス本部で黄熱病研究を継続していたストークス博士が黄熱病で死亡するに及び、英世は妻・メアリーを初めとする周囲の反対を押し切って一〇月二三日にアメリカを発ち、一一月一六日に英領ゴールド・コースト(現・ガーナ)のアクラに到着した。
 アクラにて不眠不休で研究に没頭し、或る程度のめどをつけた英世だったが、昭和三(1928)年一月二日黄熱病を発症した(この時の体調不良は別の病気との説も強い。黄熱病は天然痘同様、一度罹患して治癒したら終生免疫を得る)。入院するも、回復して一月七日に退院、研究を再開した。
 同年三月末、フレクスナー宛に黄熱病病原体をほぼ特定出来た旨の電報を出し、四月にはアメリカで研究を継続したいため、五月一九日にアクラを発つと打電した。
 しかしアメリカへの帰国を目前にした五月一一日に体調が悪化し、翌々日の五月一三日には黄熱病であることに疑いの余地なしとなった。一六日に一時体調は回復したが、一八日に再度悪化。五月二一日昼頃に息を引き取った。野口英世享年五一歳。
 英世の死後、彼を解剖したヤング博士も五月二九日に黄熱病で死亡し、英世の遺体は周囲への感染を防ぐ為、鉄製の棺桶を溶接で密閉した状態でアメリカに送られ、六月一五日にニューヨークのウッドローン墓地に埋葬された。



酒について 野口英世の父・佐代助が大酒飲みで、酒乱だったのは有名な話である。拙作「偉人達の親」でも触れたが、佐代助は酒さえ飲まなければ無邪気で、子供達の人気者となり得る好々爺だった。また、学もあり、多芸で、その辺り、英世は良くも悪くも「佐代助の子」だった

 佐代助の様に酔って暴力を振るう事は無かった様だが、伝染病研究所勤めの時代、大学を出ていないがゆえに研究に携われず、良くて通訳、悪ければ雑用係の日々だった頃、英世は憂さを晴らすように毎晩飲み歩いた
 それ以前も、以後も、英世は実は酒と金銭には結構だらしない。発明王エジソンも数学や会計は丸で駄目だったと云うから、差し詰め「天は二物を与えず。」ということだろうか。



飲酒の影響 野口英世の酒にまつわる話で昨今有名なのはアメリカ留学を直前にフイにしようとした話であろう。

 当時の円の価値を詳細に把握している訳ではないが、英世の手の手術費用は一〇円で、当時の小林先生の月給が一二円だった時代に、渡米費用は前述した様に二〇〇円必要と見られていた。
 そこに三〇〇円の融資を得た英世だったが、有頂天になって渡米前祝いのどんちゃん騒ぎをして、一晩で三〇〇円を使い果たすという漫画みたいなドジをやらかした

 単純計算で、小林先生の月給が現在の三〇万円に相当するとするなら、英世が一晩で溶かした三〇〇円は五〇〇万円! 何人で、どんな場所で宴会したのか知らんが、とんでもない金遣いの荒さと鯨飲振りで、血脇先生が呆れ返ったのは云うまでもない。
 それでも英世に賭けた血脇としてはこのまま話を壊す訳にも行かず、何とか渡米費用を再調達した(←高利貸しから借りたらしい)が、さすがに今度は渡米当日まで英世には渡さず預かり続けた(笑)。
 殆ど無一文の、帰国費用のない英世を前にフレクスナーが顎を落としたのは前述の通りである(苦笑)。

 さすがにここまで世話になっては英世も血脇先生の恩は骨身に染みたようで……というか骨身に染みなかったら恩知らずである。ともあれ、自分を訪ねて渡米して来た血脇先生を英世は精一杯歓待し、アメリカ大統領・ハーディングとも会わせた。
 その歓待ぶりはフレクスナーが、「チワキを歓待漬けで殺すつもりか?!」と呆れながらも感心する程で、当の血脇先生も歓待ぶりに感謝し、別れに際して「既往の君への世話は帳消しだな。」と述べた。だがそれに対して英世は、「私は日本人です。恩義を忘れてはいません。それに恩義に帳消はありません。昔のように「清作」と呼び捨てにして下さい。」と云って涙を流したと云う。
 これは野口英世の性格もあっただろうし、酒にだらしない自分を見捨てず、おじゃんになりかけた渡米留学を何とか実現してくれたことへの恩義が余りにも大きかったということも無関係ではあるまい
 本当に、渡米費用を一晩で溶かしたドジは洒落になっていなかったのだから……。恐らく英世は黄熱病に倒れず、ノーベル賞を獲得し、今以上に高名な医学博士になっていたとしても、彼自身が云った様に生涯血脇先生には頭を下げ続けたことだろう。

 英世より七歳年上の血脇先生は英世よりも長生きし、日本歯科医学会の発展に大きく貢献した。そんな自分に先立って客死した英世の死を深く悲しんだのは云うまでもなく、英世の死の一ヶ月後に日本にて行われた追悼会にて英世を悼む演説を行っていた。


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令和三(2021)年六月一〇日 最終更新