第拾参頁 岡田啓介………酒を最優先するも清貧曲げず

氏名岡田啓介(おかだけいすけ)
家系福井藩士・岡田家
生没年慶応四(1868)年二月一四日〜昭和二七(1952)年一〇月七日
地位海軍大将・海軍大臣・第三一代内閣総理大臣
飲酒傾向根っからの酒好き
酒の悪影響特になし
略歴 閉店ガラガラガラ………いかん!いきなり外してしまった………勿論ここで採り上げるのは岡田啓介であって、圭右ではない(苦笑)。

 ウケないボケはさておき、岡田啓介は慶応四(1868)年二月一四日福井藩士・岡田喜藤太を父に、はるを母に長男として生まれた。
 明治一七(1884)年に旧制福井中学を卒業すると翌年上京し、上級学校進学の為に受験予備校に在籍したが、学資の問題から陸軍士官学校受験に志望を変更した。
 初めは当時の陸士の予備校であった陸軍有斐学校に入学したが、遠縁の海軍士官に勧められ海軍兵学校に入校した。

 明治二二(1889)年、海軍兵学校を卒業し、後の日清戦争では防護巡洋艦・浪速の分隊長、そのまた一〇年後の日露戦争では装甲巡洋艦・春日の副長として、第一次世界大戦では第二水雷戦隊司令官として歴戦した。

 その後、海軍次官、連合艦隊司令長官と昇進し続け、昭和二(1927)年には海軍大臣に就任した。海軍大臣時代、軍事参議官としてロンドン海軍軍縮会議に参加し、後々海軍にて主流となって行った米英との避戦を海軍内部にて取りまとめに奔走した。

 昭和九(1934)年、元老・西園寺公望の奏請により組閣の大命降下により内閣総理大臣となった。同時に拓務大臣、逓信大臣も兼務した。
 在任中、美濃部達吉による天皇機関説を巡る問題が起こり、岡田内閣は機関説支持と見られ、陸軍・皇道派を中心とする国粋主義達から目の敵とされた。
 更には古巣である海軍においても強硬派を押さえ切れず、ロンドン・ワシントン両海軍軍縮条約離脱に追い込まれる等、苦境に立たされた。

 前任の総理大臣だった斎藤実が粘り強い人物だったの対して、岡田はおとぼけが得意で、だった。天皇機関説を巡って右派から議会で「日本の国体をどう考えるか?!」と詰問された際も、「憲法第一条に明らかであります。」と繰り返してかわした。
「憲法第一条には何と書いてあるか?」と切り込まれても、「それは第一条に書いてある通りであります。」と云う人を食った答弁で切り抜けた。そのしたたかさは「狸」とあだ名された。

 昭和一一(1936)年一月二一日、野党の政友会が内閣不信任案を提出。これに対し岡田は解散総選挙を実施し、二月二〇日に第一九回総選挙が行われた。
 選挙は与党・民政党が逆転第一党となったが、この勝利が却って六日後の襲撃を生んだ・所謂、二・二六事件であった。

 昭和一一(1936)年二月二六日、陸軍将校は首相官邸を襲撃した。勿論、目的は岡田啓介の命である。襲撃に対し、岡田は女中部屋の押入れに隠れたことで難を免れたが、首相秘書官で義弟でもあった松尾伝蔵大佐が岡田と誤認されて殺害された。
 妹婿だった松尾は当然岡田と血の繋がりはなく、現存する写真を見る限り、それほど似ているとは薩摩守は思わないのだが、TVもネットもなく、新聞の荒い写真でしか有名人といえども容姿の伝わらない当時にあっては見間違うのに充分だった問うことだろうか?或いは義理の兄弟でも仲が良く、寝食を共にすれば雰囲気が似通ってくるからだろうか?


参考
岡田啓介(左)と松尾伝蔵(右)
う〜ん………それ程似ていると思えんが……。


 ともあれ、襲撃に際し、反乱軍から「総理か?」と問われた松尾は「如何にも私が岡田だ。」と応え、義兄の身代わりになったかのように射殺された(同時に警備兵四名が殉職した)。この流れを受け、反乱軍は首相殺害に成功した思い込み、巷間にも一時、岡田首相死亡説が流れた。
 だが、秘書官の福田耕・迫水久常は岡田の生死を不鮮明と考えた。二人は憲兵曹長の小坂慶助と提携し、反乱軍から弔問の為に首相官邸入邸が許可されると多人数の弔問客団を送り込み、女中の反応から岡田が押し入れに隠れている音を察知した。
 そして迫水達は、弔問客の一人が無惨な死体を前に気分を悪くしたと偽り、その者の体を大勢で支えて搬送する態でその中に岡田を紛れ込ませるという奇策で首相官邸脱出に成功した(その後、岡田は毎年二月二六日は必ず松尾と四人の警備兵の墓参りを欠かさなかった)。

 だが、命を長らえたとはいえ、岡田が失ったものは大きかった。
 前任の斎藤、片腕と頼む蔵相・高橋是清(←英語を習った師でもある)、義弟の松尾を失った岡田の精神的ショックは大きく、反乱そのものに責任が全く無かったにも関わらず、強い自責の念に駆られていた。
 その意気消沈振りは、事件後に岡田が昭和天皇に拝謁した際に、昭和天皇が「岡田が自決するのではないか?」危惧された程だったと云う。
 結果、反乱から二週間も経たない同年三月九日、岡田内閣は総辞職した。

 首相経験者として「重臣」の一人となり、海軍にあっても最長老となった岡田は、二・二六事件の痛手から立ち直るとアメリカとの戦争を避けるために尽力した。
 周知の通り、これは上手くいかず、日米開戦に至った訳だが、岡田は長男・貞外茂(さだとも・軍令部作戦課員)、娘婿・迫水久常(大蔵省総務局長)、松尾伝蔵の娘婿・瀬島龍三(参謀本部作戦課員)と連絡を保ち、他の重臣達よりも正確な戦況の推移の情報を得ていた。
 昭和一八(1943)年、ミッドウェーでの大敗ガダルカナル島での消耗戦を受け、太平洋戦争に勝ち目はないと見て、和平派の重臣達と連絡を取り、東条英機内閣打倒の運動を行った。これには同じ重臣(つまり首相経験者)で非戦派だった若槻禮次郎、海軍閥の米内光政のみならず、政治的に対立していた平沼騏一郎(←バリバリの右翼)や近衛文麿までもが反東条で岡田に同調した。

 その際、岡田は海軍大臣・嶋田繁太郎の責任を追及し、その辞任を要求、東條内閣の切り崩しを狙った。東条は岡田を首相官邸に呼び出し、逮捕拘禁をちらつかせてまで内閣批判を自重するように要求したが岡田は一歩も退かなかった。
 それどころか岡田は宮中や閣内にも倒閣工作を展開し、まもなくサイパンが陥落するとそれを引責する形で東条内閣は総辞職に追い込まれた。
 直後、岡田は現役を退いていた和平派の米内光政を現役に戻し、小磯内閣の海軍大臣として政治の表舞台に復活させ、終戦への地ならしを行った。

 昭和二〇(1945)年二月、昭和天皇は重臣を二人ずつ呼んで意見を聞いた。岡田は「終戦を考えねばならない段階。」であると明言し、同時に「ただ、きっかけがむつかしい。」とも述べた。
 程なく、小磯内閣が倒れると岡田は鈴木貫太郎を後任に、迫水を内閣書記官長に推挙し、和平に全力を尽くし、この鈴木内閣の下でポツダム宣言受諾が成立し、太平洋戦争は終結した。

 戦後、極東国際軍事裁判で開廷され、概ね陸軍関係者に厳しく、海軍関係者に寛容な運びとなった。主席検察官を務めたジョセフ・キーナンは岡田、米内光政、若槻禮次郎、宇垣一成の四人を「戦前日本を代表する平和主義者」と呼び、彼らをホームパーティーに招待して歓待した。

 その後、昭和二七(1952)年四月二八日に、サンフランシスコ平和条約が発効して日本国が主権を回復すると、それを見届けた様に、約半年後の同年一〇月一七日に岡田はこの世を去った。岡田啓介享年八五歳。



酒について 当時の大日本帝国海軍において、大物の酒好きは恒例だったらしい。その中で岡田啓介が際立っているのは、食生活との極端な対比が有る。
 まず、岡田の食生活が極めて質素だったということがある。岡田は最初の妻に先立たれ、後妻にも先立たれ、総理大臣となったときは独身で、その地位に見合わぬ貧しさにあった。
 それゆえか、岡田は松尾伝蔵と二人で首相官邸に住み込み、自分達の食事も女中の食事も弁当でまかない、炊事は一切やらなかった。
 総理大臣ともなると、確かに高給取りなのだが、同時に立場上の出費も莫大なのは世の常である。岡田は月給八三〇円の内四三〇円を生活費とし、残りを首相としての経費に回したと云う。

 昭和初期の金銭的価値を現在と単純比較するのは難しいのだが、Yahoo知恵袋によると昭和元(1926)年の物価は、

物品昭和元年の価格平成三〇年現在の価格
米一〇キログラム三円二〇銭四〇〇〇円
コーヒー一杯一〇銭三五〇円
ガソリン一リットル一八銭一三六円
映画館入場料三〇銭一八〇〇円
ビール大瓶一本四二銭三四〇円
公務員初任給七五円一八万円

 とのことで、ガソリンやビールに比べて当時のコーヒーや映画が高かったのに驚かされるのだが、大雑把に当時の一円が二〜三〇〇〇円に相当すると試算される。
 このことから「当時の一円=現在の二五〇〇円」として換算すると、岡田の月給八三〇円は二〇七万五〇〇〇円に相当することになる。現在の内閣総理大臣の月給も二〇〇万円ぐらいらしいので、高くも安くもないのだろうけれど、女中が数名と考えると、「岡田+松尾+女中五名の一ヶ月分の生活費」=一〇七万五〇〇〇円→一人当たり二一万一〇〇〇円は確かに(その社会的地位を考えれば)楽な生活ではなかっただろう(外に妾を囲って金銭的に苦しんでいる政治家の苦悩などは知らん(笑))。

 ちなみに岡田は帝国海軍時代、艦隊勤務では最も厳しいといわれる水雷艇乗りで、その首領ともいえる海軍水雷学校校長も務めていた。それゆえかかる官邸生活に耐えられたと目されている(親任式の洋装さえ知人からの借りものだった)。

 話を酒に戻すと、そんな(地位の割には)貧しい状態にあり、私腹を肥やすことも全くなく、清貧ともいえた岡田だったが、酒はずっと好きで、自宅を訪問する客に対して金が許す限り酒をふるまったと云うから根っからの酒好きだったのだろう。

 そんな岡田に関する酒を巡るエピソードに総理大臣就任時の逸話がある。
 当時、総理大臣就任時に官邸にて記者会見を行う際、官邸に集まった番記者達に酒を振る舞うのが恒例だったのだが、当時の岡田にはその金が無かった。そこで岡田は氷だけを配り、「これで君達の好きな酒を冷やしてくれ。」と云ったと云う。
 金が無くても、酒に関する精一杯の気遣いを行ったのも酒好きたる所以だろうか?



飲酒の影響 政治家としては極めて珍しいことに生涯を清貧で通し、政治家として一線を退いた後も和平に尽力した岡田啓介は生真面目だったのか、酒で何か失敗をしでかしたという話は聞かない。実際、時代の近い黒田清隆と比べても、略歴に酒に関するエピソードは出て来ない。

 八五歳は充分に天寿を全うしたと云える年齢で、二・二六事件で意気消沈した時期を除けば生涯を精力的に動いているので、酒で体を壊した風も見られない。逆に生真面目で職務熱心で、国際情勢・軍事情勢も正しく見られ、敵であったキーナン(←薩摩守は旧帝国陸軍の蛮行・愚策に否定的だが、それでも東京国際軍事裁判は勝者側による一方的且つ不当な裁判と思っている)にも認められていたというのだから、酒ぐらいしか人間臭さを見いだせなかったのかも知れない。

 まあ、薩摩守的にも完璧超人よりは(周囲に迷惑を掛けない程度に)飲兵衛な一面を持つ人物の方が親しみを持てるのだが(笑)。



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令和三(2021)年六月一〇日 最終更新