第参頁 上杉謙信………片時も酒を手放さず

氏名上杉謙信(うえすぎけんしん)
家系越後守護代長尾氏
生没年享禄三(1530)年一月二一日〜天正六(1578)年三月一三日
地位越後守護代・弾正少弼・関東管領
飲酒傾向根っからの酒好き(但し、一人酒を好んだ)
酒の悪影響脳卒中
略歴 意外なことに、大好きな武将の一人でありながら、上杉謙信を採り上げるのってこれが最初だったりするんだよなぁ〜(しみじみ)。
 ま、それはともかくとして、上杉謙信は享禄三(1530)年一月二一日、越後守護代・長尾為景の次男として春日山城に生まれた。幼名は・虎千代

虎千代が生まれた当時の越後は内乱が激しく、父・為景は越後平定を目指して戦い続けたが、存命中に平定は成らず、天文五(1536)年八月に隠居。兄の晴景が家督を継ぎ、虎千代は林泉寺に出家した(為景は天文一一(1542)年一二月二四日に病没)。
 だが、越後の国人達は晴景に越後をまとめる才覚はないと見做し、翌天文一二(1543)年八月一五日に一四歳で元服した虎千代改め長尾景虎に期待が寄せる様になり、四年後の天文一七(1548)年一二月三〇日、越後守護(←制度上は主君に当たる)・上杉定実の調停のもと、晴景は景虎を養子とした上で家督を譲って隠退し、景虎は春日山城に入り、一九歳で家督を相続し、越後守護代となった。

 二年後の天文一九(1550)年に、定実が後継者を遺さずに死去し、景虎は時の将軍・足利義輝から越後国主の地位を認められた。そして翌天文二〇(1551)年に長尾政景(姉の夫で、後に養子となった景勝の実父)の反乱を鎮圧したことで景虎は越後統一に成功した。

 天文二一(1552)年一月、関東管領・上杉憲政が北条氏康に領国・上野を追われ、景虎を頼って越後に逃れてくると景虎はこれを迎え、匿った。必然景虎は氏康と敵対することとなり、同年八月に家臣を関東に派兵し、北条軍を撤退せしめた。
 そんな景虎の武勇と義理堅さを頼って 同年、武田晴信(信玄)に信濃を追われた信濃守護・小笠原長時が、翌年には北信の村上義清が越後に逃れて来た。
 これにより景虎は後に上杉憲政の養子となって山内上杉家の家督と関東管領職を譲り受け、関東では北条やその麾下の諸豪族と、北信濃では武田と激戦を繰り広げることになった。殊に、北信では戦に勝っても景虎が兵を退くとすぐに信玄が攻め寄せる状態で、このことが五度に及ぶ川中島の戦いに繋がった。

 一方で景虎は天文二二(1553)年九月、初めて上洛し、後奈良天皇・将軍・足利義輝に拝謁。更に堺・高野山・大徳寺も巡り、勤皇と信心深さを世間に示した。
 また弘治二(1556)年三月には、家臣間の領土争いや国衆の紛争調停に疲れ果てて突如出家・隠居を宣し、六月に春日山城を出奔して高野山に向かったが、幼少の頃からの師・天室光育、義兄・長尾政景等の説得で帰国した。

 翌弘治三年四月に第三回川中島の戦いが勃発。小競り合いや睨み合いに終始したが、越後の西方となる越中で一向一揆が勃発し、景虎は兵を退かざるを得なかった。
 このことで北信・関東に加えて越中においても転戦し続けることとなった景虎はそれでも永禄二(1559)年五月、二度目の上洛を行い、正親町天皇や足利義輝に拝謁し、義輝との関係は親密化した(このことが後に義輝の偏諱を受けて上杉輝虎と名乗る契機になった)。

 永禄三(1560)年同年閏三月一六日、小田原城攻めの帰りに上杉憲政から山内上杉家の家督と関東管領職を譲られ、その養子となって名を上杉政虎と改めた。この関東管領就任は足利義輝から直々に許可された、名分の揃ったものでもあった。
 同年八月に武田信玄との第四回川中島の戦いに臨んだ。後世、一般に「川中島の戦い」と云えばこの第四回を指すほどの激戦となり、北信からは退くこととなった政虎だったが、信玄もまた弟・武田信繁、軍師・山本官助、重臣・諸角虎定と云った多くの将を失う大痛手を被った(肝心の勝敗に関しては戦後双方が「我が軍の大勝利!」と喧伝(笑))。

 その後も、武田・北条・加賀一向一揆と戦い続け、同年一二月、将軍義輝の一字を賜り、上杉輝虎(うえすぎてるとら)と再々度名を改めた。
 戦には強い輝虎だったが、武田信玄は輝虎に勝るとも劣らぬ強敵で、北条も守りには強く、その勢力圏内にあった関東の諸豪族は向背定かならぬ存在だった。また、越中・加賀を「百姓の持ち足る国」とした一向一揆は輝虎のみならず、朝倉義景・織田信長・徳川家康も散々手を焼いた存在で、そんな強敵達に対して正面切っての戦いでは無敵だった輝虎も完全服従させるには至らず、そこまでの野心もなかった。
 故に、輝虎勢力下の内外に存在した利に釣られる輩は集合離散を繰り返し、輝虎は戦に強い割にはその勢力は然程拡大しなかった(それ故に利を重視する家臣が離反したりもした)。

 その後、輝虎の戦地も、戦国大名達の勢力地図も大きく変遷し、翌永禄八(1565)年五月一九日に足利義輝が三好三人衆・松永久秀の謀反により殺害され(永禄の変)、京都も天下も騒然としていたが、輝虎は関東管領の職務上、関東を離れられなかった。
 翌永禄九(1566)年に、わざわざ下総臼井で滞陣中だった輝虎の元に義輝の弟・足利義昭の使者がやって来てまで、北条氏との和睦・幕府再興の為の上洛を要請された。時間と地理の問題ですぐにはこれに応じかねている間に織田信長が義昭を奉じて上洛し、義昭は第一五代征夷大将軍に就任し、輝虎は新将軍からも関東管領に任命された。

 この影響を受けてか、輝虎は北条とは和し、徳川との対立に入った武田とは争わず、将軍を通じて信長との友好関係を持ち、戦いの場は越中にシフトした。永禄一二(1569)年三月、輝虎と氏康との間に正式に越相同盟が成立し、輝虎は北条氏に関東管領職を認めさせた上、上野における勢力を確保出来たことで、後には氏康の七男・氏秀を養子に迎えた。
 輝虎は、彼のことが大いに気に入って自分の初名でもあった景虎の名を与え、同年一二月に出家して不識庵謙信と号した。北条との同盟は上辺だけのものに終始し、氏康が元亀二(1571)年一〇月三日に世を去るに際して残した遺言で破棄されたが、謙信は養子景虎を引き続き可愛がり続け、景虎も養父・謙信を慕った。

 その後も越中一向一揆と激戦を繰り広げる中、元亀四(1573)年四月一二日に最大の宿敵だった武田信玄が病没。その遺言に従って、遺児・武田勝頼は謙信と和すこととなった。  だが同年将軍義昭は京都を追放されて室町幕府は滅亡。八月に越中の過半を制圧するに至っていた謙信は足利義昭から足利家再興への助力を依頼された。
 翌天正二(1574)年、関東に出陣して一応の勝利を収め、翌天正三(1575)年に姉の子で養子だった喜平次顕景の名を景勝と改めさせ、弾正少弼の官途を譲る等して国の内外を固めた謙信はいよいよ上洛に本腰を入れ、天正五(1577)年九月一五日に能登七尾城を陥落せしめ、能登をも平定。その八日後に(直前まで七尾城落城を知らず)七尾城救援に駆け付けた信長軍が駆け付けた。ここに上杉謙信対織田信長の最初で最後の正面切っての戦闘が勃発し、謙信はこれに大勝した(手取川の戦い)。

同年一二月一八日、春日山城に帰還した謙信は五日後には次なる遠征に向けての大動員令を発した。だが遠征開始予定日の六日前だった天正六(1578)年三月九日、謙信は城内の厠で突然倒れ、翌三月一三日に息を引き取った。上杉不識庵謙信享年四九歳。



酒について 上杉謙信の酒豪振りは薩摩守が取り上げるまでもなく有名である。  殊に毘沙門天への信仰上、生涯不犯を貫いて妻帯しなかった謙信が見せる数少ない俗っぽさということも有って、その意外さが謙信人気を高めている一因でもある。

 とにかく根っからの酒好きで、当時の酒が現代のそれよりも薄くて昼夜を問わず飲まれたり、少年でも頻繁に飲まれたりしていたことを考慮に入れても頻繁に飲み、行軍中の馬上でも飲めるように「三合は入る」と云われる「馬上杯」を所有していたし、謙信を祭る神社に収められている盃は一二pもある大きさで飲む量もごっつかったと思われる。

 当然伝記漫画や大河ドラマでも飲酒に関するシーンが出てくる。
 新田次郎原作・横山光輝画の『武田勝頼』では食事中に中風発作を起こした謙信が侍医に「また深酒されましたな?」と呆れられるシーンがあり(程なく謙信は急死した)、大河ドラマ『武田信玄』では柴田恭兵氏演じる上杉謙信「酒は良い。確実に酔わせてくれる……。」と上機嫌にしていたシーンがあった。
 略歴でも触れたが、謙信は義理堅過ぎたために実利の薄い戦働きが多かったことが原因で家臣が離反したり、家中がまとまらなかったりした。そのことも謙信を多飲に走らせ、前述シーンの台詞を吐かせていたのだろう。
 件のシーンの直後に、直江実綱(演・宇津井健)が何かを話そうとしたときに謙信「酒が不味くなる様なことは云うなよ。」と釘を刺していた。

 そんな謙信の飲酒は一人酒を好み、肴は梅干しや味噌と云った塩気の多いもので、これ等の塩分と酒の過剰摂取が五十路前の急死に繋がったと見る向きは強い。



飲酒の影響 とにかく影響が出なければ異常と云える酒量だった。
そんな上杉謙信の急死は厠で倒れて意識を失い、そのまま昏睡状態から覚めずに息を引き取ったと云う、彼にしては些か格好の悪いものだった。そしてその病状から謙信の死因は脳溢血によるものとされ、これに異を唱える声は少ない。

 深酒が祟った謙信の死は格別珍しいものではない。また「人生五〇年」と云われた当時の平均寿命からするとさほど短命・若死にとも云えない。ただ、深酒がもたらした急死がその後の上杉家に与えた影響は小さくない。
 急死した謙信正式な遺言が為せず(←その割には辞世の句が残っているのは激しく謎だが(苦笑))、直後の上杉家において後継者争いが起こった。所謂、御館の乱である。

 歴史好きには説明不要な有名な事件だが、一応解説すると生涯妻帯しなかった謙信には当然実子が無かった。故に三人の養子を迎えていて、内一人は分家を継いだので、実の甥である喜平次景勝と、北条家から来ていた景虎が血で血を洗う死闘を展開した。
 景勝は謙信の姉の子で、景虎は景勝の姉を娶っていたので、両者は二重の意味で義兄弟だった訳だが、戦国の跡目争いにそんな絆は通用しない。戦は景勝の勝利に終わり、景虎も、景勝の姉も自害し、上杉憲政(←景勝にとっては義理の祖父になる)も命を落とした。

 御館の乱自体は戦国の世にあって然程珍しい話ではない。ただ、この乱が武田勝頼や北条氏政を巡る上杉家との関係に微妙な影響を与え、ゴタゴタ続きが織田信長(及びその後を継いだ者達)に力を蓄える充分な時間を与えた。
 幸い、謙信の後を継いだ景勝は君主としては優秀な方で、豊臣秀吉に臣従して五大老となり、関ヶ原の戦いでは大減封を食らったものの、上杉家を中大名として幕末まで存続させる基を築けたが、謙信が逸早く健全な内に景勝を後継者としてその立場を盤石にしていればもっと強い上杉家を保てていたのではなかろうか?
 勿論歴史に「if」は禁物だが、興味の尽きない命題ではある。


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令和三(2021)年六月一〇日 最終更新