第肆頁 毛利家の人々………累代の酒毒夭折。家訓に影響

氏名毛利弘元(もうりひろもと)毛利興元(もうりおきもと)
家系安芸国人毛利氏
生没年文正元(1466)年〜永正三(1506)年二月一三日明応元(1492)年〜永正一三(1516)年八月二五日
地位安芸領主
飲酒傾向自棄酒
酒の悪影響酒毒による夭折
略歴 毛利弘元は文正元(1466)年に安芸国人領主毛利豊元の嫡男に生まれた。幼名は千代寿丸(ちよじゅまる)。
 文明八(1476)年に父・豊元の死により僅か一一歳で家督を相続した。

 安芸国人領主の一人に過ぎなかった毛利家は弱小勢力で、周防・長門の守護大名・大内氏と出雲の守護大名・尼子氏の二大勢力の狭間で生き残りに汲々としていた。
 そんな中で毛利氏は親大内の立場を取り、千代寿丸は大内政弘の偏諱を受けて毛利弘元と名乗った。

 明応二(1493)年、中央では室町幕府第一一代将軍足利義稙が失脚、京都を追われた(明応の政変)。その後、義稙が有力大名だった大内義興(政弘の子)を頼ったため、嫡男・興元が義興に従って義稙復位の為に上洛して転戦した。
 だがこのことで毛利家は有力大名である細川氏を敵に回し、地理的にも矢面に立つこととなった。
 この危機を回避する為、明応八(1499)年、まだ三四歳だった弘元は敢えて隠居し、次男の松寿丸(後の毛利元就)とともに猿掛城に移り、まだ九歳の興元が当主となり、大内・尼子どちらの勢力が優勢になっても毛利家の血筋だけは確実に残せるように図った(←勢力の弱い一族が良く取った手段である)。
 だが、その間の心労と、それを晴らす為の多飲による酒毒により永正三(1506)年二月一三日に急死した。毛利弘元享年四一歳。


 その後を継いだ毛利興元は、コロンブスがアメリカ大陸を発見した明応元(1492)年に弘元の嫡男に生まれた。幼名は幸千代丸(こうちよまる)。
 前述した様に、父・弘元が明応八(1499)年に大内・尼子間の板挟み状態から御家を存続させる為に隠居したことで、僅か八歳で毛利氏の当主となった。

 名目上、興元は親大内派に立ち、永正四(1507)年に大内義興を烏帽子親として二三歳で元服。義興の偏諱を受けて毛利興元と名乗った。
 同年、大内義興が明応の政変で失脚して頼って来た足利義稙を奉じて京都に上洛。興元はこれに従い、四年間在京し、各地に転戦した。
 だが、この間、出雲の尼子経久の勢力が盛んになり、大内と尼子が芸備の各地で激突し出した。そんな中、興元は、安芸や備後での国人領主間の争いを国人調停して回り、後に謀将として世に名を成した弟・元就に負けない手腕を発揮したが、父同様に心労で酒に走るようになり、永正一三(1516)年八月二五日に急死した。毛利興元享年二五歳。

 興元の没後、毛利家は二歳の嫡男・幸松丸が継ぎ、弟の元就が後見人となったが、九歳で夭折。毛利家が中国一の大勢力になるには元就の人生も後半に入るまで待たなければならなかった。



酒について 詳細は不明。弘元興元父子が元々酒好きだったのか?酒に強い方だったのか?同時の基準に並外れた飲み方をしていたのか?正直、薩摩守の研究不足により不明である。
 ただ、後に毛利家の当主となった弘元次男、興元弟である元就が下戸で、毛利家の当主を「代々酒毒に侵され易い」としていたので、余り弘元興元ともに酒に強い方ではなかったようである。

 となると、両名の痛飲は明らかに自棄酒で、大内と尼子の狭間で心身をすり減らして戦い続けていた両名のストレスは並大抵のものではなかったのだろう(だからといって身を亡ぼすほど飲んで良い事にはならないが……)。



飲酒の影響 毛利弘元興元二代に渡って酒毒で若死にし、毛利家が雌伏する期間を長いものとしたのがその影響と云えよう。

 少し前述したが、弘元興元・幸松丸(興元嫡男)と若い当主が続き、大内や尼子に抗するどころか、国人同士の間にあっても決して優位な立場に立てていなかった。元就は(一応は毛利家を立てていた)国人を傘下に収めるだけでも相当苦労し、族滅させた氏族も多かった。
 一方で、引き続き親大内の立場に立って嫡男隆元を大内家の人質とし、尼子に対しても数々の死闘を展開した(そのため、元就が窮地に陥ったとき、隆元は父が尼子に降伏出来るように自害しようとさえした)。
 周知の様に、後々大内家は義隆の代に惰弱化して陶晴賢の裏切りを招き、陶を討った元就が大内を初めとする中国地方の各名家を乗っ取り、尼子をも滅ぼして中国地方に覇を唱えたが、その為に元就は数々の謀略を必要とし、かなり汚い手段や、冷酷な手段を取らざるを得ないときもあった。
 ために、元就は息子達(隆元、元春、隆景、娘婿の宍戸隆家)に一族の団結を説いた『三子教訓状』にて「当家のことをよかれ思うものは、他国はもとより、当国にもいない」と書き残した程だった。
 些か論理が飛躍しているかも知れないが、弘元興元が夭折せず、存命中にそこそこ勢力有る毛利家を盤石化していれば元就はここまでの謀将になる必要もなかったであろうし、逆に中国に覇を唱える程の成長を為さなかったかも知れない。

 まあ、上記の推測は薩摩守の推測に過ぎないが、元就が父と兄の酒毒による夭折で深く心を傷付け、それを繰り返すまいとしていたのは史実で、息子達にも、家臣達にも過剰なまでに節酒を説いていた

 隆元に対しては、「酒は分をわきまえて飲み、酒によって気を紛らわすことなどあってはならない。」と説き、隆元急死後、孫・輝元が元服した際に母の尾崎の局に「小椀の冷汁椀に一杯か二杯ほど以外は飲ませないよう。」に忠告した。
 家臣や来客に対しても、酒が飲めるか否かを尋ね、「飲める」と答えれば、「寒い中で川を渡るような行軍の時の酒の効能は云うべきでもないが、普段から酒ほど気晴らしになることはない」とまずは一杯と酒を差し出し、「飲めない」と答えれば、「私も下戸だ。酒を飲むと皆気が短くなり、あることないこと云ってよくない。酒ほど悪いものはない。餅を食べてくれ」と饗応したと伝わっている。
 弘元興元の例から酒について元就が常日頃からかなり真剣に考えていた証左だろう……何か、弘元興元ではなく、元就の話になってしまったな(苦笑)。


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令和三(2021)年六月一〇日 最終更新