第伍頁 福島正則………割と有名な酒を巡るエピソード

氏名福島正則(ふくしままさのり)
家系尾張の桶職人・福島氏
生没年永禄四(1561)年〜寛永元(1624)年七月一三日
地位広島城主
飲酒傾向根っからの酒好き
酒の悪影響酒癖悪し。家宝喪失
略歴 豊臣秀吉子飼いの猛将として加藤清正と共に双璧を為した福島正則は永禄四(1561)年に桶屋を営んだ福島正信の長男として尾張海東郡(現・愛知県あま市)に生まれた。幼名は市松

 母が羽柴秀吉(豊臣秀吉)の叔母(大政所なかの姉妹)だった縁で、幼少時から小姓として秀吉に仕え、天正六(1578)年に播磨三木城の攻撃で初陣を飾った。
 それを皮切りに天正一〇(1582)年山崎の戦い、天正一一(1583)年の賤ケ岳の戦いで活躍。特に賤ケ岳の戦いでは一番槍・一番首として大功を立て、「賤ヶ岳の七本槍」の筆頭として加藤清正等(他は加藤嘉明・脇坂安治・平野長康・糟屋武則・片桐且元)と共に賞され、他の六人が三〇〇〇石を与えられる中、正則だけは五〇〇〇石を賜った。

 その後も秀吉子飼いの猛将として戦働きを続け、秀吉の勢力拡大に伴って正則も出世し、天正一五(1587)年に秀吉が九州を平定すると伊予今治一一万三〇〇〇石の大名的領主となった。
 秀吉が天下を統一すると朝鮮出兵(文禄の役)での尽力し、勝利の暁には朝鮮の王都があった京畿道を治める予定だった。

 戦の途中で帰国し、文禄四(1595)年七月一五日に豊臣秀次が切腹させられた際にその検死役を命じられた(ちなみに秀次妻子の処刑は石田三成が担当)。皮肉にも事件後、秀次の旧領にして、秀吉の旧主・織田信長最初の本拠地・尾張清洲に二四万石の所領を与えられた。
 だが慶長三(1598)年八月一八日に秀吉が薨去すると正則の命運は裏側で徐々に暗転し出した。

 秀吉が世を去ったことで、豊臣家中で内部抗争が起きた。秀吉生前から不仲だった武断派と文治派の対立が激化し、慶長四(1599)年閏三月三日に前田利家が逝去すると歯止めが効かなくなり、正則は六人の仲間(加藤清正・加藤嘉明・黒田長政・浅野幸長・細川忠興・池田輝政)とともに石田三成襲撃事件(未遂)を起こし、翌年の関ヶ原の戦いに至った。
 三成が家康討伐の挙兵に及ぶと下野小山での軍議にて正則は事前に黒田長政に勧められていた様に諸大名の中で逸早く親家康の旗色を鮮明にし、前哨戦でも西軍の織田秀信が守る岐阜城攻めの先頭に立ち、同城を陥落せしめた(その際に、秀吉の主筋だった信長の孫・秀信が切腹するのを止めるという情の厚さを見せた)。

 そして慶長五(1600)年九月一五日、関ヶ原の戦い正則は東軍中央部にて敵方副将・宇喜多秀家勢と死闘を繰り広げた。西軍は石田三成の人望の無さから日和見を決め込んだり、東軍に寝返ったりした者達が少なくなかったが、宇喜多勢は終始奮戦し、一時は退却を余儀なくされたが、何とかその進撃を防ぎ切り、小早川秀秋が寝返ると宇喜多勢を総崩れに追いやった。
 正則はこの戦働きに加え、大坂城にいた西軍総大将・毛利輝元を説得して退城させた手柄もあって戦後安芸広島四九万八〇〇〇石の大大名となった。

 だが、情に厚く、秀吉・秀頼父子への忠勤にも励んでいた正則は加藤清正を初めとする豊臣恩顧の大名の一人として徳川幕府から警戒され続けた。
 家康が江戸に幕府を開き、徳川と豊臣の力関係が逆転すると多くの大名が秀頼を蔑ろにし出したが、正則は慶長一三(1608)年に豊臣秀頼が病んだ際には見舞いに駆け付け、慶長一六(1611)年三月に家康・秀頼の二条城会見の成立に尽力した。
 この会見に際して、力の逆転を認めない淀殿が強硬に反対するのを清正・浅野幸長とともに説得し、秀頼上洛を実現させた。このとき、清正と幸長は懐剣を忍ばせて秀頼護衛を務め、正則は病と称して敢えて会見に同席せず、枚方から京の街道筋を一万の軍勢で固めて変事に備えた。

 だが、正則が豊臣のために動けたのもここまでが限界だった。会見直後に清正・浅野長政・幸長父子、池田輝政等朋友の豊臣恩顧大名が相次いで死去し、正則も慶長一七(1612)年に病を理由に隠居を願い出たが許されず、大坂の陣にて秀頼から加勢を求められたが、正則はこれを拒否した。但し、大坂の蔵屋敷にあった蔵米八万石の接収を黙認し、一族の福島正守が豊臣軍に加わったので、全く気持ちを失っていた訳ではなかった。
そのせいかやはり幕府には警戒され、大坂冬の陣に際しては細川忠興・黒田長政と共に江戸城留守居(実は人質)を命じられた。翌年の夏の陣には忠興・長政が従軍を許される中、正則だけは引き続き江戸留守居役を命じられ、従軍を許されなかった(嫡男・忠勝は従軍した)。

 夏の陣正則はいの一番に的とされた。
 元和五(1619)年、台風で壊れた広島城の石垣を無断で修繕したことで正則武家諸法度違反に問われた。実際には正則は修繕工事着工の二ヶ月前に本多正純に届けを出していたのだが、握り潰され、正式な許可は出ていないことにされたのだから、元から福島家を潰す意図があったとしか思えないものだった。
 江戸芝愛宕下の福島屋敷にて将軍上使を迎えた正則は安芸・備後五〇万石の没収、信濃川中島四万五〇〇〇石に減転封を命じられた(←よく「改易された」と云われるが、厳密には正則生前に福島家は改易されていない)。

 移封後、正則は嫡男・忠勝に家督を譲り、隠居・出家した。だが、翌元和六(1620)年に忠勝が早世したため、正則は二万五〇〇〇石を幕府に返上し、四年後の寛永元(1624)年逝去した。福島正則享年六四歳。
 正則の死は自害とも云われており、幕府の検死役の堀田正吉が到着する前に、家臣・津田四郎兵衛が遺体を火葬したため、これに心証を悪くした幕府に残り二万石も没収され、ここに福島家は取り潰された(結局福島家は旗本として存続した)。



酒について とにかく福島正則大酒飲みで酒癖が悪かったらしい。
 薩摩守は個人的に酒を「感情増幅剤でもある」と捉えている(それゆえ、酒の席で機嫌を害したときはそれ以上飲まないようにしている。それで悪酔いして大失敗したことも有るので(苦笑))。
 良くも悪くも武骨で激情家だった正則酒で機嫌良く人に接したことも有れば、悪酔いして周囲の肝を冷やしたことも有ったことだろう。

 ちなみに酒は広島の酒を好み、参勤交代で江戸屋敷にあった際も広島から取り寄せた酒を喫していたらしい。



飲酒の影響 酒を飲まなくても福島正則は激情家だった。
 石田三成を初めとする文治派との対立から、豊臣秀吉死後は逸早く徳川家康に味方しつつも、ぎりぎりまで遺児・秀頼にも尽くし、関ヶ原の戦い直後には部下同士の諍いから命を落とした家臣のために家康に対して重臣・伊奈昭綱の首級を要求し、これを実現している(そのために徳川家からは終生警戒された訳だが)。

 そんな正則だから、泥酔した折に家臣に切腹を命じ、翌朝になってその間違いに気付き、家臣の首に泣いて詫びたという逸話もある。勿論現代だったらとんでもない話だし、戦国の世のこととしてもひどい話である。ま、正則家臣に限らず、悪酔いした主君に斬られて泣き寝入りせざるを得なかった名も無き人々は無数に存在するのだろうけれど………。

 ともあれ、そんな福島正則の酒にまつわるエピソードを二つほど紹介したい。
 一つは有名な話で、黒田節の元となった名槍・日本号を巡る話である。ある時、正則は酒席で黒田家家臣・母里太兵衛友信に酒を大杯で勧めたが、断られた。
 悪酔いしていた上に、収まりが着かない正則は、「飲み干せたならば好きな褒美を取らす。」と云い、(止せば良いのに)、「黒田武士は酒に弱く、酔えば何の役にも立たない。」との罵倒まで加えた
 こう云われては太兵衛も引っ込んでいる訳にはいかなかったのだが、そもそも太兵衛は正則に負けない程勝気な性格で、酒豪でもあった。太兵衛は見事に大杯を一気で飲み干し、正則の前言を言質に秀吉拝領の名槍・日本号を譲渡せしめた。
 正則が思い切り後悔しつつも、応ぜざるを得なかったのは云うまでもない。

 もう一つは逆に心温まるエピソード。
 前述した様に、正則は広島の酒を好み、江戸在住中も広島から酒を取り寄せていた。そんなある日、正則から酒の運搬を命じられた家臣がその道中船が難破し、八丈島に避難・上陸したことがあった。
 その折、家臣は一人の島民に懐かしい広島の酒を飲みたいので、一樽譲って欲しいと求められ、これに応じた。というのも、島民の正体は宇喜多秀家で、関ヶ原の戦いに敗れて流刑となっていたその身に同情したものだった。

 江戸に到着した家臣は何故一樽足りないのか?と正則に詰問された。
 家臣は当初暴風雨に遭った際に海中に落としたと虚偽の報告をしようと考えたが、結局は正直に話した。怒られるかと思ったが意外にも正則家臣を褒め、以後も八丈島に立ち寄った際には秀家に酒を譲ってやって欲しいと託した
 正則と秀家は関ヶ原で最も激しくぶつかり合った者同士だった(←両者とも血の気多し)。そんな二人は激しく戦い合った者同士だから生まれた情があったのか、元より豊臣秀頼に近しいものとしての親近感があったのかは定かではないが、正則らしい一面と云える話ではある。


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令和三(2021)年六月一〇日 最終更新