第陸頁 母里太兵衛………飲み比べに勝利して名槍奪取!

氏名母里太兵衛(もりたへえ)
家系母里氏
生没年弘治二(1556)年〜慶長二〇(1615)年六月六日
地位黒田家重臣
飲酒傾向根っからの酒好き
酒の悪影響特になし
略歴 弘治二(1556)年に播磨飾磨郡妻鹿の国人・曽我一信の子として誕生した。太兵衛は通称で、諱は友信(とものぶ)。  父・一信は小寺氏に仕え、黒田職隆の与力的な立場にあったらしく、太兵衛も永禄一二(1569)年から職隆の子・黒田官兵衛孝高(如水)に出仕した。その後、赤松氏との戦いで母里家の者達が多数戦死し、名跡が絶えるのを惜しんだ孝高が太兵衛に母方・母里氏の姓を名乗らせたことで母里太兵衛となった。

 天正元(1573)年に初陣して以来、得意の槍術を駆使して常に先鋒にて活躍した。
 天正六(1578)年、主君・孝高が織田信長に叛旗を翻した荒木村重に捕らえられると栗山善助(利安)・井上九郎右衛門(之房)と共に有岡城に潜入し、孝高の安否を確かめ、その救出に尽力した。
 その後、本能寺の変を経て主君・孝高、そのまた主君・秀吉が各地を転戦・出世するのに太兵衛も追随し、天正一五(1587)年に秀吉軍が九州を平定すると孝高は豊後を与えられ、太兵衛も同地にて五〇〇〇石を与えられた。

 天下統一後も、文禄・慶長の役に黒田長政(孝高の子)に従って従軍。秀吉没後に関ヶ原の戦いが起きると今度は如水に従って九州切り取りに尽力したが、皮肉にも長政の活躍で関ヶ原の戦いは一日で徳川方の大勝利となり、如水の天下取りの夢は潰えた。
 戦後、徳川の勝利に大いに貢献した黒田家は豊前中津一八万石から筑前名島五二万石への大加増・移封となり、太兵衛は筑前鷹取城一万八〇〇〇石を拝領した。以後、黒田家は外様ながら徳川政権下での大大名としての地位を確保する方向で動き、太兵衛も槍働きよりも城主・普請奉行等の官吏としての働きにシフトした。
 大坂夏の陣が終わって一ヶ月後となる慶長二〇(1615)年六月六日に逝去。母里太兵衛友信享年六〇歳。



酒について 母里太兵衛は酒豪だった。それも「 (フカ)」と呼ばれるほどのものだった(巨躯を持つ鮫並みに飲んだということだろうか?)。

 とにかく、「母里太兵衛&酒」とくればもう『黒田節』の一言で充分と云っていい。

 「酒は呑め呑め 呑むならば 日本一(ひのもといち)のこの槍を 呑み取るほどに呑むならば これぞ真の黒田武士」

 の歌詞はつとに有名であろう。
 一応背景を解説すると、朝鮮出兵文禄の役慶長の役の間、つまりは休戦中の時の出来事が由来で、当時伏見城に滞留中の福島正則の元へ、太兵衛が黒田長政の使者として遣わされた際に起きた。
 正則が太兵衛に対して酒を勧められたが、酒好きにして酒豪でもあった彼が使者としての任務中だったことも有って固辞した。だが自身も酒好きにして酒豪でもあった正則は執拗に酒を勧めた。
 剛直さと意固地が併存する正則は「飲み干せたならば好きな褒美を取らす。」との好餌で釣ろうとし、それでも太兵衛が固辞すると「黒田武士は酒に弱い、酔えば何の役にも立たないからだ。」との侮蔑まで口にした。

 勿論そこまで云われて黙っていられる太兵衛ではない。そもそも粗暴さを如水に咎められ、栗山善助(利安)を兄貴分としてその言に従うように云われたような男だった太兵衛は挑発に応じ、大盃になみなみと注がれた数杯の酒を一気に呑み干し、褒美に正則がかつて豊臣秀吉から拝領した名槍・日本号を所望した
 思い切り後悔した正則だったが、武士としての在り様を重んじ、「武士に二言は無い」として(内心泣く泣く)日本号を太兵衛への褒美に差し出した。

 これによって太兵衛「呑取り日本号」という異名を取り、『黒田節』が生まれ、黒田武士の男意気を示す逸話として広く知られるようになった。勿論この逸話は太兵衛を代表するものとなり、太兵衛の博多人形は槍と盃を手にした姿で造型される。
 また博多駅前や西公園に立つ母里太兵衛の銅像も盃を手にしている。



飲酒の影響 取り立てて悪い影響は聞かない。黒田家中に在って粗暴な面の強かった母里太兵衛が酒について悪い話を聞かないということは、大酒を飲んでも酒に飲まれない酒豪だったか、素面でも充分酒乱以上の粗暴だったかであろう(苦笑)


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令和三(2021)年六月一〇日 最終更新