第漆頁 塙団右衛門………正に「酒乱の奇傑」(笑)!

氏名塙直之(はなわなおゆき)
家系遠江の地侍(尾張出身説もあり)
生没年永禄一〇(1567)年〜慶長二〇(1615)四月二九日
地位鉄砲大将、生臭坊主、浪人、雇われ兵
飲酒傾向根っからの酒好き
酒の悪影響酒乱による主家追放
略歴 本気で語るととても「略歴」じゃすまないな………(苦笑)。
 永禄一〇(1567)年の生まれで、出自や若い頃の詳細は不明。出身地は尾張説と遠江説がある。幼名は長八(ちょうはち)。
 根っからの武士だった訳ではなかったが、半農半兵の時代ゆえ、生まれつき巨躯に恵まれたことから士分に取り立てられたが、最初の奉公にも織田家説・北条家説・小早川家説等諸説紛々である。

 史上に確かな歴が見えるのは豊臣秀吉による天下統一から朝鮮出兵の間のことで、秀吉麾下で賤ケ岳の七本槍の一人で、伊予松山の大名となっていた加藤嘉明に召し抱えられたものである。
 朝鮮の役に従軍し、青絹四尺半の真ん中に日の丸を描いた極めて目立つ旗印を背負って戦い、水戦で苦戦が続く中、巨済島や漆川梁海戦で、敵の番船三艘を拿捕する手柄も上げた。
 これらの功績により、戦後、鉄砲大将として一〇〇〇石の知行を得て、この頃に塙団右衛門直之と名乗り出した。

 慶長五(1600)年、関ヶ原の戦いに、鉄砲大将として従軍したが、鉄砲隊を率いる身でありながら自ら槍を振るって前線に出て戦ったことが主君・嘉明の怒りを買い、「お前は一生大将として戦働きの出来ない男。」と叱責された。
 だが、団右衛門はこれに憤慨。
 「遂不留江南野水 高飛天地一閑鴎(=小さな水に留まることなく、カモメは天高く飛ぶ)」

 と云う漢詩を、書院の大床に張りつけて出奔した。
 勿論嘉明の嫌味に揶揄し返したものだが、嘉明はこれに激怒。浪人した団右衛門が他家に召し抱えられない様、「奉公構い」を行った。つまりは団右衛門を「加藤家で不祥事をしでかした不届き者」として、「召し抱えない様に。」との通達を諸大名に行ったのであった。
 とはいえ、戦国の気風がまだまだ残り、関ヶ原の戦いでの論功行賞で俄かに大身となった大名達にとっては、名の有る武士を召し抱えたいもので、団右衛門も嘉明より格上の小早川秀秋(←秀吉養子)や松平忠吉(←家康四男)等が嘉明の圧力を物ともせず召し抱えてくれたが、両名とも若くして嗣子なく世を去ったため、団右衛門の士官も長続きしなかった。

 その次に召し抱えてくれたのが福島正則。共に酒好きで豪傑然としていたことで団右衛門は正則と馬が合った様だったが、嘉明は同格の正則が団右衛門を召し抱えているのが相当気に食わなかった様で、名古屋城築城で顔を合わせた際に、猛烈な抗議を行って奉公構いを強い、正則も不本意ながら旧交を重んじ、団右衛門は四度浪人した。

 その後、団右衛門は、妙心寺の大竜和尚の元で剃髪して鉄牛(てつぎゅう)と号し(←はっきり云って生臭坊主)、托鉢の日々を送ったとも云われ、水戸にて肥田志摩なる人物の元に寄宿していたとも云われている。
 そして慶長一九(1614)年、方広寺鐘銘事件が起こり、豊臣家と徳川家の間がきな臭くなると諸国の浪人達がこれを好機と見て大坂城に入城したが、勿論その中に塙団右衛門もいた。  勿論、無勢の豊臣方に着いた方が、戦働きが目立つと計算してのものであった。さすがに元大名だった真田幸村・長宗我部盛親、重臣の位にあった後藤又兵衛の様に主要メンバーとなることは叶わなかったが、大坂方の事実上の大将・大野治長の舎弟・大野治房の麾下で一一月一七日に蜂須賀至鎮の陣へ夜襲を敢行し、中村右近重勝を討ち取った。
 このとき、団右衛門は本町橋の上にて床几腰かけ、自らは動かず、配下に大暴れさせた。これはかつて自分に大将の才が無い、と決めつけた旧主・加藤嘉明を見返す為で、夜襲の成功を見極めると「夜討ちの大将 塙団右衛門直之と書いた木札を大量にばら撒かせて撤退した。

 だが、団右衛門の働きでは大勢は動かず、戦は騙しに近い講和で大坂城の外堀が埋められ、その後徳川家の挑発によって半年持たずに和睦は瓦解し、大坂夏の陣が勃発した。
 四月二九日、団右衛門は念願叶って先鋒として紀州の浅野長晟を攻めることとなったが、樫井にて仲が悪かった岡部大学則綱と先陣争いとなり、隊から突出したところを浅野家臣の多胡助左衛門、亀田大隅、八木新左衛門等との組打ち・乱戦となった。
 その最中、膝に強弓の矢を受け、鬼神の様な働きも叶わず彼らしい、壮絶且つ呆気ない討ち死にを遂げた。塙団右衛門直之享年四九歳。

 あれ?意外に短くまとまった………伊達に二〇年以上も団右衛門を考察していないからかな?(笑)



酒について 何せ素面でも充分気の荒い男で、僧籍にあったときも酒を手放さなかったというから根っからの酒好きだったのだろう。塙団右衛門が加藤嘉明に仕えるまでの経歴が詳らかでないのも、歴史に確実な記録が残る程の出来事や身分と縁が薄かった故だろうけれど、それも酒乱故に大事と絡む前に免官となったと云う点もあるのだろう。

 道場主が塙団右衛門の名を最初に知ったのは平成元(1989)年の大河ドラマ『春日局』だった。その後、大学時代に朝鮮出兵大坂冬の陣でのエピソードを知り、強烈に惹き付けられ、ハンドルネームの一つに「ダンエモン」を使うほどになった(余談だが、「ダンエモン」を最初に使ったのは大黒摩季さんのプライベートHPのBBSでのことで、菜根道場開設よりも先である)。
 爾来、二〇年以上塙団右衛門のことを調べ、考察しており、その都度「酒好き」・「酒豪」・「酒乱」という単語を嫌というほど目にするが、実のところ、酒による事件・過失に関しては具体的なエピソードを一切目にしていない。
 意外と云えば、意外だが、塙団右衛門と云う人物の個性からすると実は余り不思議ではない。賛否は別にして、団右衛門は自分に正直過ぎる程正直に、意固地に生きた漢(おとこ)で、それゆえに大酒を飲んでも、隠れた物が出てくるということが無かったのかも知れない。元々隠していなかった故に(笑)



飲酒の影響 塙団右衛門は直情径行の人物で、酒乱の気があり、飲まなくても粗暴だった。また、名前からしてごっつく(笑)、大河ドラマで団右衛門を演じた俳優諸氏も「見るからに」という方々が多かった(←失礼!)。
 だが、塙団右衛門の生き様に共感し、分身名の一つに使っているほど贔屓にしている身として一言云わせてもらうと、団右衛門は好きでこういう生き方をした。」ということになる。

 経歴に謎の多い団右衛門だが、当時の身分の低い出自にしては文に明るかった。
 略歴に記した様に、加藤家出奔時には皮肉の効いた漢詩を残し、妙心寺時代に師・大竜和尚から遅刻を咎められた際には「一鞭遅到勿肯怒 君駕大竜鉄牛と詠み、「鞭を少し打つか打たないかの遅れに怒らないで下さい あなたはきなに乗り(早いけれど)、私は (だから遅いの)ですから」との意を返すなど、文才も機知も持っていた。
 大坂冬の陣における本町橋での夜襲もそうだが、団右衛門は決して武勇一辺倒ではなく、頭を使うことも充分に出来た。そして戦に利あらずと見ると、息子・直胤を戦線離脱させ、後年直胤は広島で商人として成功し、「可部屋」の屋号で現代に至っている。
 推測だが、直胤が広島に入ったのも、団右衛門が旧主達の中で、福島正則と最も馬が合っていたことと無縁でない気がする。

 かように、質的にも特技的にも様々な面を持ち、実に興味深い生涯を貫いた塙団右衛門だが、それでも「酒乱」のイメージがいの一番にやって来る。
 詰まる所、イメージ的に群を抜いてそれが強かったのだろう。となると「酒乱の第一印象確定」による他の個性の埋没こそが一番の酒による悪影響かも知れない(苦笑)


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令和三(2021)年六月一〇日 最終更新