第捌頁 徳川光圀………隠居しても、酒飲みは止めず

氏名徳川光圀(とくがわみつくに)
家系水戸徳川家
生没年寛永五(1628)年六月一〇日〜元禄一三(1700)年一二月六日
地位水戸藩第二代藩主、権中納言
飲酒傾向根っからの酒好き
酒の悪影響特になし。強いて云えば少年期の悪行?
略歴 寛永五(1628)年六月一〇日、水戸徳川家初代藩主・徳川頼房の三男として家臣・三木仁兵衛之次屋敷で生まれた。幼名・鶴千代
 鶴千代の母・久子(谷重則の娘)が懐妊中、頼房は将軍家光にも、従兄の尾張義直・紀伊頼宣にもまだ子がなかったことを憚って、三木仁兵衛に久子の堕胎を命じたが、仁兵衛は密かに久子を匿って鶴千代を出産させた。
 同様にして鶴千代の兄・頼重も胎児のときに堕胎を命じられながらも、家臣に匿われてこの世に生を受けていた。

 当然、鶴千代はその出自を隠して三木家で養われたが、寛永九(1632)年に頼房に実子として認知され、水戸城に入城した。
 翌寛永一〇(1633)年一一月に頼房は鶴千代を世子と決め、翌月に鶴千代は江戸小石川邸に入った。
 そのまた翌年の寛永一一(1634)年、鶴千代は、祖父・家康の側室で、頼房の養母となっていた英勝院に伴われて初めて将軍家光に拝謁し、水戸藩第二代藩主としての地位を盤石のものとしたが、このことは後々光圀を著しく苦悩させることとなった。

 寛永一三(1636)年、元服し、家光からの「」の偏諱を与えられて徳川光国と改めた(←まだ「光圀」ではない)。このとき光国は九歳だったが、実の父に堕胎を命じられた精神的衝撃がトラウマになったものか、所謂不良少年としての少年期を過ごし、光国が一六、一七歳のときには、傅役の小野言員が自省を求める書面を残した程だった。
 だが、光国が一八歳の時、司馬遷の『史記』にあった伯夷・叔斉伝を読んで、その兄弟愛に感銘を受けとことで行いを改め、認知のタイミング差で水戸藩主になれなかった兄・頼重のことも真剣に考えるようになった。

 承応元(1652)年、手を付けた侍女・玉井弥智が懐妊。水戸藩主の座を兄に返すつもりだった光国は生涯子を成さないつもりでいた(←それでもやることはやっていたのね(笑))ので、皮肉にも家臣に弥智の堕胎を命じた。
 だが、このときも家臣が密かに弥智を匿っては男児(後の松平頼常)が生まれた。男児は出生の翌年に高松に送られた。
 高松は光国に遅れて頼房に認知された頼重の領国で、このことが縁で、後年光国は兄の子・綱方・綱条を自分の養子に迎え、兄には自分の子・頼常を養子に送り、藩主になり損ねた兄の血筋が水戸藩主の座を継承出来る様に取り計らった。

 明暦三(1657)年、駒込邸に史局を設置し、紀伝体の歴史書である『大日本史』の編纂作業に着手し出した。この『大日本史』編纂は光国のライフワークとなり、編纂史料を求めて水戸藩の学者達が全国を巡ったことが後世の『水戸黄門漫遊記』の基となる一方で、『大日本史』編纂の為の費用は水戸藩の財政を洒落にならない程圧迫しもした。

 寛文元(1661)年七月二九日、父・頼房が逝去し、頼房に殉死しかねない噂された家臣宅を廻り、「殉死は頼房公には忠義だが私には不忠義」と説いて殉死を止めさせた。これは幕府の殉死禁止令に二年先駆けたもので、日本史上最初の殉死禁止と云われている(但し、同じ頃に紀州・彦根・会津でも殉死を禁じた記録がある)。
 翌月の八月一九日、幕府の上使を受け水戸藩第二代藩主となった。光国は藩主の座を兄・頼重に譲りたいと考えていたが、御三家に限らず藩主就任は幕命によるもので、一個人の意志で簡単にどうこう出来るものではなかったし、頼重も固辞した。
 それゆえ、光国は藩主就任の前日に頼重を水戸藩邸に招き、頼重の子を養子に請うた。頼重も、光国の弟達も、光国の血統が継ぐべきと諭したが、光国の意志は固く、「断るなら水戸藩を潰す!」と半ば恫喝してまで実子トレードを成立させた。
 かくして寛文三(1663)年一二月に頼重嫡男・綱方が光国の養子に、翌寛文四(1664)年二月、光国の子・頼常が頼重の養子に、寛文五(1665)年に頼重の次男・綱条が水戸家に移り、寛文一一(1671)年に綱方が早世すると正式に光国の養子となった。

 藩主就任後、水道設置、寺社改革、蝦夷探険等に尽力。寛文五(1665)年、明の遺臣・朱舜水を招いて彼に師事し、学問・文化を学び、後に水戸学となった学問一派の基を築いた。
 中国文化への造詣を深めた影響か、延宝七(1679)年に五二歳で光国の「」の地を則天文字の「」に改め、水戸光圀と名乗った(つまり「水戸光圀」よりも「水戸光国」と名乗っていた期間の方が遥かに長い)。

 かように精力的に藩政に尽力していた光圀は幕府内においても直言居士として良い意味でも悪い意味でも注目されていた。
 四代将軍徳川家綱が嗣子なく逝去した際、幕閣で実力を持っていた大老酒井忠清が朝廷より宮将軍を迎えての将軍傀儡化を目論んだが、光国は堀田正俊と共に血統の重要性を説いて家綱の実弟・綱吉を五代将軍とするのに尽力した。
 その功もあって、将軍に就任した綱吉は酒井忠清を免職として堀田正俊を新大老とし、御三家当主の中でも光国を重んじた。
 だが、光国は血統重視を微塵も動かさず、綱吉の実子・徳松が存命していた時点で、六代将軍に甲府綱豊を推していた(綱豊は綱吉の亡兄・綱重の子で、綱重は家綱に先立っていたので将軍になれなかった)。
 このことで当初は正俊と光国を厚遇していた綱吉だったが、次第に両名を疎んじる様になり、正俊が暗殺されると光圀への敵意はエスカレートした。

 綱吉は光圀に対して暗に隠居を勧めたが、光圀の従兄で同格の尾張光友も、紀伊光貞も隠居しておらず、光圀はまだ権中納言(←歴代水戸藩主が就任した官位の極冠で、唐名は「黄門」)に就任していないことを理由にやんわりと拒絶した。
 だが対朝廷関係では綱吉の方が一枚上手で、元禄三(1690)年一〇月一五日に光圀は従三位権中納言に任ぜられた。そのことを事前に察知した光圀は前日の一〇月一四日に幕府より隠居の許可を得て、綱条に水戸藩主の座を譲った。

 翌月には水戸城に戻り、翌元禄四(1691)年五月に久慈郡新宿村西山に建てた隠居所・西山荘に隠棲した。
 幕府の制度上、無冠の一庶民となった光圀は晴耕雨読の日々を送り、自らが耕作・収穫した農作物から年貢も納め続けたが、『大日本史』編纂を初めとするライフワークには積極的に取り組み、藩主時代にはなかなか出来なかった領内視察も行った(←水戸藩主は「江戸定府」とされ、参勤交代を免ぜられていた代わりに、水戸に帰るのにいちいち幕府の許可を必要としていた)。
 元禄五(1693)年、佐々宗淳を摂津湊川に派し、『大日本史』にて大忠臣として絶賛する楠木正成が自刃した地に正成を讃える墓(湊川神社)を建造さ、墓石には、光圀の筆をもとに「嗚呼忠臣楠氏之墓」と刻ませた。

 他にも、医者に掛かれない貧民の為に周辺の薬草を利用出来るようにした『救民妙薬』なる書を、藩医・穂積甫庵に編集させる等、藩主時代よりも領民よりの活動を行っていた。
 一方で、元禄七(1694)年、綱吉の命で隠居後初めて江戸に上った際に、同年一一月二三日に小石川藩邸に老中・諸大名・旗本を招いて行われた能舞興行の場で重臣・藤井紋太夫を刺殺すると云う物騒な事件を起こしもした。

 元禄一三(1700)年一二月六日、食道癌により死去。徳川光圀享年七三歳。



酒について 薩摩守が「日本史上における酒好き」と聞いて即座に名前を思い浮かべる人物が三人いる。上杉謙信と塙団右衛門と徳川光圀である。
 光圀が隠居所とした西山荘の有った茨城県常陸太田市の跡地には西山荘が資料館として再建されており、そこでは光圀のロボットが来客を迎える音声テープを流しているが、その中でロボット光圀は晴耕雨読の日々を送りつつも、毎夜の晩酌は欠かさないことも口にしている。不良少年だった時代を含め、根っからの酒好きだったのだろう。
 臨終に際しても見舞いに訪れた一族・家臣を前に酒を勧め、養嗣子で藩主だった徳川綱条も光圀に返杯したと云う。もはや助からない命なら光圀らしく振る舞わせようと考えたのであろうか?

 とにかく当時の酒質を考慮に入れてもとんでもない酒量だったらしい。朱舜水に師事したことで、日本人で最初に拉麺を食べた人物として有名な光圀はそのエピソードを除いても食通でもあり、餃子、チーズ、牛乳酒、黒豆納豆、葡萄酒、牛肉、豚肉、羊肉(←勿論「生類憐みの令」施行中のことである)も好んだ。
 勿論これらの喫食には大量の酒が共にあったであろうことは想像に難くない。古今東西、酒好きの多くが「美味い物が共にあってこその酒」と思っており、何も食べずに酒だけ飲むことが常態化している人は一度医者に掛かった方がいい(真剣)

 ちなみに光圀が「日本で最初に拉麺を食べた人」というのには異論もある。確かに記録に残らない身分の人が先に食べていたことも充分にあるだろうし、身分ある人が拉麺を食べても記録に残すとは限らない。
 ただ、光圀が無類の麺類好きで、拉麺を相当好んだのは史実で、麺の作り方や味付けを朱舜水に学ぶと自分の特技としていたうどん作りにも活かしたし、出汁には朱舜水を介して長崎経由で中国から輸入した乾燥豚肉で取ったというこだわり振りだった。
 光圀が無類の麺類マニアになったことには彼の不幸な生い立ちも無関係ではなかった。当時の大名やその家族は毒見を終えてから食事を採ったので、口にするときには食事は冷めており、彼等の多くが猫舌だった。だが光圀は三木家に匿われて育ったので、幼少時から熱い物を普通に口にしていた。
 となると、酒に対しても熱燗・冷酒の双方を嗜んだのだろうか?



飲酒の影響 余り無い。これは前頁の塙団右衛門同様、徳川光圀と云う人物が表裏無く生きて来たから、酔うことによって内面に伏せているものが露わになるということが余りなかったからだろう(酒量からして、酒に強かったというのもあるだろう)。
 勿論これには御三家当主の一人として、諸大名の反感を気にすることなく自分の思うところを堂々と述べられたからいうこともあっただろうし、将軍綱吉に対しても遠慮がなかったから、直言居士振りは生まれ持っての性格もあったことだろう。

 だが、徳川光圀とて完璧超人や完全無欠人間だった訳ではない。多くの人々に畏れられた光圀は同時に疎まれもした。そして最終的に最高権力者だった徳川綱吉の悪意を受けて隠居に追い込まれ、水戸藩は御三家の一つでありながら、同格である筈の尾張家・紀伊家よりも格下の待遇となった。
 詰まる所、酒が云々より、素の影響が大きい。ま、光圀に限らず、何でもかんでも自己をおっぴろげて生きていればトラブルを生んで当たり前なのだが

 取り敢えず光圀が酒に酔って何かをしでかしたと云う具体的な話は聞かない。強いて云えば、不良少年だった時期に酒に酔って馬鹿をしでかした可能性は大きい
 何せ、不良期の光圀辻斬りすら行っている。これはとんでもない悪行で、フィクションとはいえ『水戸黄門漫遊記』『水戸黄門』における光圀を愛でたり、領民の為に薬草学を広めた光圀の人となりに敬意を抱いたりする人には信じたくない話である。
 人間は多かれ少なかれ多重人格者で、どんな人格者にも邪心は存在する(同時にどんな極悪人にも良心が存在すると信じたいが)。民を想う名君で、大学者で、朱舜水や諸大名への仁義に厚かった光圀(←自分の堕胎を命じた父・頼房が逝去した際は三日も食事を採らなかった)にも、股肱の臣を手討ちにし、吉原通いに放蕩し、我意を通さんとする余り、水戸藩を潰しかねないという悪しき面もあった。それが辻斬りという大悪行でクローズアップされたのが酒による一番の悪影響ではなかろうか?


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令和三(2021)年六月一〇日 最終更新