第参章 源義経…元祖・判官贔屓の男、有名過ぎる成吉思汗伝説

逃亡疑惑者名源義経(みなもとのよしつね)
通称九郎判官
生年月日平治元(1159)年
公式死亡日文治五(1189)年閏四月三〇日
公式死亡場所奥州平泉衣川
死因自害(攻めたのは藤原泰衡)
推定逃亡先蝦夷地及びモンゴル高原
疑惑変名チンギス・ハーン
生存伝説要因まさに判官贔屓
略歴 日本史上超有名人物につき、本当に略歴のみ記します。
 平治元(1159)年に清和源氏直系の源義朝の九男に生まれた(それ故に後に「九郎判官」とあだ名された)。母は常磐御前で幼名は牛若丸
 生まれたその年に平治の乱が勃発し、父・義朝は敗れて逃亡途中に謀殺され、兄達も捕らえられたり、殺されたりした。
 三兄・頼朝以降の兄弟は助命され、流刑になったり、寺に入れられたりした。

 牛若丸は母に連れられて二人の兄(今若・乙若)とともに逃亡するも、母の母(つまり祖母)が平清盛の手に囚われたため、常磐御前は出頭した。
 そして自らの身に代えて母と三人の子の助命を図り、許され、牛若は鞍馬寺に入れられた。
 長じる内に父の無念を想い、平家への復讐を誓った牛若は一五歳の時に鞍馬寺を出奔し、金売り吉次の手引きで奥州藤原家第三代当主・藤原秀衡を頼り、更なる成長を遂げた。
 その折に父・義朝の「」と清和源氏の祖・経基王の「」を取って源義経として元服した。

 治承四(1180)年四月に後白河法皇の第二皇子・以仁王が全国の源氏に平家追討の令旨を出すと、同年八月に伊豆にて兄・頼朝が挙兵。
 義経は富士川にて勝利(?)を収めた頼朝の下に馳せ参じ、兄弟は黄瀬川の陣(現:静岡県駿東郡清水町)にて二一年目にして涙の対面を果たした。
 義経はもう一人の兄・源範頼(義朝六男)の指揮下に入り、東国経営に専念する頼朝の命で寿永三(1184)年一月に宇治川の戦いで源義仲を破り、二月七日に一ノ谷の戦いで有名な鵯坂の奇襲で大勝利を収めた。
 一時、論功行賞問題で平家追討軍から外された義経だったが、範頼を大将とした追討軍は船戦を得意とする平家軍に苦戦を続け、頼朝は渋々義経を追討軍に再投入した。
 義経は元暦二(1185)年二月一九日に屋島の戦いに勝利し、三月二四日の壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼし、父・義朝の仇打ちという悲願を達成した。

 しかし京都凱旋後、頼朝の許可を得ずに後白河法皇から官位を得たことや、梶原景時の讒言等によって義経は頼朝の不興を買い、鎌倉を目前にした腰越で足止めされた。
 大江広元の取り成しで兄に叛意の無いことを記した書状(有名な『腰越城』)を差し出すも鎌倉入りは許されずに京に戻った。
 京に戻った義経を待っていたのは院と兄との板挟みで、頼朝はかつて義仲に従った叔父の行家を討つ事を命じ、後白河法皇は自らの権威復活の為に義経と頼朝を戦わすことを画策した。
。  頼朝が義経に刺客を放った頃合いを見計らって頼朝追討の院宣を出した(ちなみに刺客は義経と行家の返り討ちに遭う)。
 頼朝・義経兄弟不和には「頼朝の理想を解さない」、「独断による朝廷との接近」と云った義経の落ち度はあったが、それを差し引いても薩摩守はあの頼朝あの後白河法皇の間に立たされた義経に普通に同情する。

 刺客を放たれ、院宣を出されては義経も頼朝と戦わざるを得なかったが、政治力に優れる頼朝の手配によって義経の元には思うように兵は集まらず、結局義経『勧進帳』で有名な安宅の関を通過して北陸経由で、藤原秀衡が君臨する奥州平泉に落ち延びた。
 この間、頼朝は北条時政を京都に派し、義経に頼朝追討の院宣を出したことを突け入るようにして後白河法皇に全国の国・荘園に守護・地頭を置くことを認めさせ、義経追討の院宣まで出させた(かつて『認めたくない英雄達』でも触れたが、本当に何とかしてくれ、この二人……)。



最期 藤原秀衡は義経の帰還を歓迎し、頼朝を通じて後白河法皇からの義経引き渡しの院宣にも動じることはなかった。
 しかし文治三(1187)年一〇月二九日に藤原秀衡が没したことで義経の運命は急転直下した。秀衡は臨終に際して息子達に義経を大将として鎌倉に対抗することを遺言したが、長男泰衡が兄弟不和に突け込んだ頼朝からの後白河法皇経由の恫喝交じりの院宣に屈し、義経の首を取ることを決意した。
 泰衡は衣川の館に住まう主従十数名を五〇〇の兵で急襲させた。僅かな手勢が時間を稼ぐ中、義経は自害して果てた。時に文治5(1189)年閏四月三〇日、源九郎義経享年三一歳。



生存伝説 恐らく本作で取り上げたどの人物よりも有名な生存伝説だろう。
 概略だけで云えば、源義経は衣川で死なずに脱出し、北方に逃れ、蝦夷(北海道)に渡り、アイヌの王になったというものもあるが、一番有名なのは更に大陸に渡って成吉思汗チンギス・ハーンになったというものだろう。
 しかしながら、これだけ有名故にさぞや昔から囁かれたであろうと思われがちなこの生存伝説、実際に本格的に巷間に流布し出したのは近世に入ってからであった。


 この頁では義経チンギス・ハーンが同一人物であるという説の真偽に関する検証は行いません(薩摩守個人は伝説に過ぎないと思っています)。
 本作の主旨とは直接的には関係ありませんし、本腰入れて検証すればそれこそ一つのサイトになりかねませんし、本職の史家ではない(なりたかったけど)薩摩守の力量では不可能ですので(苦笑)。
 ただ、多くの人々が「判官贔屓」の果てに「義経は衣川で死ななかった。」と云い伝えたことと、「義経が大陸に渡ってチンギス・ハーンになった。」との伝説を本気で追いかけて研究し、真実と主張した人達が多数いたのは事実である。


 結論から云えば伝説の基は、悲劇のヒーローである義経に死んで欲しくなかった、との「同情」と「期待」である。
 乳飲み子の内に父を失い、母や兄とも生き別れとなり、父の敵討ちに成功するも「狡兎死して良狗煮られ、高鳥尽きて良弓しまわれ、敵国破れて謀臣滅ぶ。」(素早い兎がいなくなると良い犬は無用として殺され、高く飛ぶ鳥がいなくなると良い弓は用無しとしてしまわれ、敵対する国がなくなると忠臣が滅ぼされる)の例え通り、滅亡へと追いやられたのが義経の人生であった。
 上記の「狡兎死して…」の言葉は中国の『史記』にて国士無双といわれた韓信の最期に発せられた言葉で、軍略の才能とは戦時には必要とされるが、平時においては危険分子とみなされる、の例を端的に語ったもので、古今東西似た例は無数にある(徳川家でも関ヶ原の戦い以降、武断派は冷遇され始めた)。
 まして義経の兄は猜疑心の塊男・頼朝である(薩摩守は些か頼朝のことをボロクソに書く傾向にあるが、劉邦、ヒトラー、スターリン、朱元璋、その他諸々の、成り上がった後に猜疑心に苦しんだ数々の人物と比較した上で述べていることだけはご理解願いたい)。
 梶原景時の讒言や、鎌倉手前の腰越まで来ながら兄と会って弁明する機会さえ与えられなかったことも相俟って、義経が義朝九男=「九郎」にして、最初の官位が検非違使=判官であったために「九郎判官」とあだ名された事実に絡めて、義経は元祖・「判官贔屓」の男となった。


 それでは判官贔屓から生まれた義経生存伝説の背景と経過を見てみよう。

 史実では文治五(1189)年閏四月三〇日に衣川にて義経を討ち取った藤原泰衡は五月二二日にその旨を頼朝に報告し、美酒に漬けられた義経の首は六月一三日に到着した。
 これは当時の交通事情を考えても遅い方で、当然、アルコール漬けとはいえ、首は生前とは異なる容貌となった訳だが、見方を変えれば義経の生存を隠す為の偽首と見られなくもない。
 まあ、生首を塩漬けやアルコール漬けにしてどのように変化していくか試したことも、為した写真も見たことがないので何とも云えないが、はっきりしているのは首の真偽に関係なく頼朝に奥州藤原氏を許す気が全くなかったことぐらいである(笑)。

 ちなみに到着した首はその日の内に梶原景時と和田義盛が首実検を行っており、頼朝に義経のことを讒訴した張本人、つまり最も義経に生きていて欲しくない男である景時が首を義経本人と認めたのであれば義経の死は確実、と周囲には見えただろう。
 勿論、当時写真もビデオも新聞もなく、頼朝が義経の死を疑った可能性は充分にあった。実際、僅か三ヶ月後に奥州藤原氏を滅ぼしたにも関わらず、その八ヶ月後に義経逆襲の噂に鎌倉は色めき立ったのである(どこにそんな勢力が残存していたというのだ……?)。


 やがて時が流れ、室町時代に入り、室町〜江戸時代を通じて蝦夷地への進出(=侵略)が行われると、北方への関心の高まった。
 それに連れて、最初は「衣川で死なずに逃れた。」程度だった義経伝説は、いつしか、「蝦夷に渡って王になった。」から「大陸に渡って蒙古の王となって、金・宋と覇を競った。」と肥大した。
 これにはアイヌ民族の実態が知れると同時に義経との共通点が見られなくなったことにある、と薩摩守は見ている。


 やがて明治に入り、大陸進出が叫ばれると、日本を飛び出て朝鮮半島に攻め入ったことのある神功皇后や豊臣秀吉が大陸進出のシンボルとしてもてはやされ、そこに義経大陸渡来伝説も追随して語られる頻度が増した。

 明治以降は真剣にこれらの伝説を研究し、同一人物説を声高に主張する者も現れたが、学会では一笑に付され続け、モンゴル史との比較からも現在ではほぼ完璧に否定されている。
 ちなみに下記の表は義経が衣川襲撃以降も生きていた、とする噂・伝説・学説に触れたものの一例である。

義経生存について触れた噂・文献・人物一例
時代提唱者著書内容きっかけ・根拠
鎌倉北条得宗家『吾妻鏡』 文治六(1190)年五月鎌倉に義経軍襲来との情報が流れ、緊張が走ったと記述がある。 頼朝の猜疑心が一番考えられ易い(笑)。
室町不詳説話『御曹子島渡』 頼朝挙兵以前に義経が、当時「渡島」と呼ばれていた北海道に渡って様々な怪異を体験する。 不詳。
江戸徳川光圀『大日本史』 頼朝の元に届けられた義経の首は偽首で、本人は蝦夷に逃れた。 水戸藩独自調査と光圀流の朱子学と皇国史観に基づく。
江戸不詳偽書『金史別本』 清の乾隆帝の御文の中に「朕の先祖の姓は、名は義経という。その祖は清和から出たので国号を清としたのだ」と書いてあった。 巷間の噂。女真族国家・金の将軍に源義経と云う者がいたと云うものもある。
明治末松謙澄(妻は伊藤博文の長女)『義経再興記』(明治史学会雑誌。ケンブリッジ大学での卒業論文「大征服者成吉思汗は日本の英雄源義経と同一人物なり」を和訳したもの) 源義経チンギス・ハーンを同一人物と訴えるもの。 留学先のロンドンでシーボルト著『日本』を読み、当時の日本が中国の属国としか見られていなかったことに反発して。
大正小谷部全一郎(牧師)『成吉思汗ハ源義經也』 タイトル通り、義経が衣川から北海道経由でモンゴルに渡ってチンギス・ハーンになったというもの。 アイヌの人々が信仰するオキクルミが義経であるという伝説を聞いて満州・蒙古を調査。


 さて、当のチンギス・ハーンを生んだモンゴルではどうだろう?
 日本の学界で「源義経チンギス・ハーン同一人物説」を相手にしていないのに対して、モンゴルでは伝説自体が存在していない
 恐らく、モンゴルに行って「源義経チンギス・ハーン同一人物説」を声高に主張してきたら、頭のおかしい奴か、度の過ぎた右翼が日本の満蒙侵略を正当化する為にやって来た、と見られかねないだろう(苦笑)。


 世界史で見るとチンギス・ハーンはモンゴル族の頭領である父・イエスゲイと母・ホエルンの間に1162年頃に生まれた、とされている(幼名・テムジン)。1162年が正しいとすれば義経誕生の三年後になる。
 チンギス・ハーンの時代、モンゴル族に文字は存在せず、歴史は口伝にて子々孫々に伝えられていた。それ故にテムジンの父は文献によっては「イエスゲイ」とも、「エスゲイ」とも記され、彼の妻は一般にボルテと呼ばれるが、これまた「ボルテ」とも「ブルテ」とも記載されることがある。
 そしてその口伝によるとモンゴル族の始祖は天の命令を受けてバイカル湖のほとりに降り立ったボルテ・チノ(「灰色斑模様の狼」の意)とその妻なるコアイ・マラル(「白い鹿」の意)であるとされ、彼自身、その生涯において何度も自分達を「蒼き狼の末裔」と称して、一族と将兵を叱咤激励し続けた。

 そこに、時代が近いことや、「守」と「汗(ハーン)」の韻や、九本の白旗を「九郎」や「源氏の旗印」に見立てて、日本人研究者が両者を重ね合せ、「源義経チンギス・ハーン同一人物説」は時代と共に生まれてきた(←苦しくないかい?)。
 勿論この伝説が和製のものであり、モンゴル人達が自らの古代英雄と日本からの逃亡者が同一人物であることをに耳を傾ける可能性が皆無に近いことは想像に難くない。


 結局の所、「源義経チンギス・ハーン同一人物説」は時の流れと共に生まれ、伝説の域の中に埋没した。
 しかし源九郎義経が日本人の心に生んだ判官贔屓の精神は永く、そして恐らくはこれからも日本の歴史において綴られていくだろう。

 

次頁へ
前頁へ戻る
冒頭へ戻る
戦国房へ戻る

令和三(2021)年五月二〇日 最終更新