第伍章 豊臣秀頼と真田幸村…「華」と「鬼」、逃亡先に撒いた思わぬ大乱

逃亡疑惑者名豊臣秀頼(とよとみひでより)
通称お拾い、右大臣
生年月日文禄二(1593)年八月三日
公式死亡日慶長二〇(1615)年五月八日
公式死亡場所大坂城山里郭
死因自害(攻めたのは徳川家康。介錯は毛利勝永)
推定逃亡先薩摩及び肥後
生存伝説要因豊臣秀吉・真田幸村に対する敬意。

逃亡疑惑者名真田信繁(さなだのぶしげ)
通称幸村、左衛門佐
生年月日永禄一〇(1567)年
公式死亡日慶長二〇(1615)年五月七日
公式死亡場所摂津国天王寺
死因討死(討ち取ったのは越前松平軍兵士西尾仁左衛門)
推定逃亡先薩摩及び肥後
生存伝説要因夏の陣での武勇に対する敬意。
略歴 月日までははっきりしないが、真田信繁、通称・真田幸村は永禄一〇(1567)年に信濃国上田にて真田昌幸の次男に生まれた。余談だが塙団右衛門と同年である(笑)。
 本名の信繁よりも、幸村の方が有名なので、本作でも後者で通すが、父・昌幸は「表裏比興の者」と呼ばれる程、知謀策謀に長けた男であった。
 天正一〇(1582)年三月一一日の武田家滅亡から、天正一三(1585)年の小牧・長久手の戦い終結を経て豊臣秀吉の傘下に入るまで、織田、徳川、北条、上杉と云った名立たる勢力に囲まれた地で、生き残りをかけて他勢力とある時は結び、ある時は離れ、動乱の時代に決して大きな勢力とは云えない真田家中の生き残りを見事に図り抜いた。
 その間、時として幸村は人質となることも珍しくなかった。


 秀吉の傘下に入って、真田家が幾ばくかの安定を得ると、幸村は秀吉には大層可愛がられ、秀吉の重臣・大谷吉継の娘を妻に迎え、文禄三(1594)年一一月には従五位下左衛門佐の官位と、豊臣の姓を賜ったのだから、養子並に可愛がられていた(余談だが、幸村と同い年でも遠隔地の曲者である伊達政宗は秀吉に気に入られると共に警戒もされ、「羽柴」の姓は許されたが、「豊臣」の姓には及ばない)。

 幸村が官位を賜った年の前年、文禄二(1593)年八月三日、豊臣秀吉は奇跡とも云える第二子を授かった。
 「捨て子は育つ」の言葉に従って「棄(すて)」と名付けた鶴松は夭折したので、この次男には「捨てた子を拾った後」として、「お拾い」と命名された。勿論後の豊臣秀頼である。
 老境に差し掛かってから授かった子を溺愛する一方で、自らが天寿を全うする際に六歳にしか達していない秀頼の身を案じまくって、慶長三(1598)年八月一八日、豊臣秀吉は伏見城に病没した。


 秀吉の遺言により、五大老筆頭の徳川家康が秀頼の後見人として政務を執り、翌慶長4(1599)年閏三月三日に五大老次席の前田利家が没すると武断派と文治派の対立が激化し、慶長五(1600)年の関ヶ原の戦いに発展した。

 関ヶ原の戦いは家康が同じ五奉行の一人・上杉景勝が領内の城・砦・道路を改修していることに反逆の意あり、として軍隊を率いて石田三成の挙兵を誘発した。
 下野国小山で三成の挙兵を知った家康は東西去就は自由であると告げたが、家康の内意を受けていた福島正則が三成を「君側の奸(主君の側にあって奸物者)」として家康への協力を叫ぶと、豊臣武断派諸将は次々に同意した。

 しかし、その中で真田昌幸は次男の幸村と共に陣営を去り、上田城に籠って中山道の押えに務めて西軍であることを明らかにした。
 昌幸は一方で、徳川四天王の一人・本多平八郎忠勝の娘−形の上では家康養女−小松姫をめとっていた嫡男・信幸は東軍に随身させ、東西いずれが勝利しても真田の血が残るよう図った。

 昌幸・幸村父子は上田城に篭って、西上する徳川秀忠率いる三万八〇〇〇の徳川軍主力(本多正信、榊原康政、大久保忠隣等が従軍)を二〇〇〇足らずの兵で翻弄して関ヶ原に遅参せしめる活躍を遂げた。
 周知の通り、関ヶ原の戦いは東軍の大勝利となった。元より真田父子・兄弟が東西に分かれたのは身内同士で敵対した訳ではなく、家名存続が第一目的で、信幸は家康に「徳川家に対する絶対の忠誠」と「褒賞の辞退」を申し出て、父と弟の助命を必死に懇願した。
 結果、昌幸、幸村父子は命だけは助けられ、高野山九度山に配流となった。
 松代に一〇万石を与えられた信幸は名を「信之」と改めて父・弟との決別と徳川家への忠誠を新たにして松代藩の藩祖となったが、徳川秀忠は上田城の攻防がすっかりトラウマとなり、終生、信幸と眼を合わそうとしなかったと云う。


 幸村が罪人として九度山に流されている一方で、家康の主君であった筈の豊臣秀頼関ヶ原の戦いの論功行賞により、最終的には右大臣になりながらも、その領地は摂津・和泉・河内六五万石の一大名に貶められ、三年後の慶長八(1603)年に家康が征夷大将軍に就任して江戸に幕府を開くと主従の力関係及び立場は完全に逆転した。

 完全に力の上では優位に立ちつつも、家康は故秀吉との生前の約束を守って秀頼に孫娘千姫(秀忠長女)を娶わせたり、秀頼の官位昇進を朝廷に働きかけたり、と友好的な態度を示していた。
 家康が豊臣家を滅ぼしたことが本意だったのかどうかははっきりせず、歴史小説などでは家康に好意的な作品では最後の最後まで秀頼を殺すまいとしていた、と書かれ、家康に嫌悪的な作品では端から豊臣家を滅ぼそうとしていた、と書かれる。
 いずれにしても薩摩守は、慶長一六(1611)年三月二八日の二条城会談以降には、少なくとも大名家としての豊臣家を潰すことを家康は決意していた、と見ている。
 また、このその二条城会談直後から加藤清正、浅野長政・幸長父子、池田輝政、といった豊臣家に好意的な大名が次々と世を去ったことに対して暗殺説が実しやかに囁かれたのと、豊臣家との開戦にこぎつける手法は強引を通り越してえげつなかったのは厳然たる事実である。

 家康は秀頼が自分の勧めに従って再建した方広寺の大仏開眼供養に際して、寺の鐘に自らを呪った部分がある、との云い掛かりをつけて大坂の陣開戦にこじつけた。
 大名勢力の召集にはことごとく失敗した豊臣方だったが、秀吉の残した金銀で持って諸国の浪人を集め、そこには徳川家の監視を上手くすり抜けて高野山を抜け出し、大坂城に入城した真田幸村・大介父子幸昌の姿も見られた(幸村の父・昌幸は既に慶長一六(1611)年六月四日に九度山に没していた)。
 かくして大坂冬の陣は勃発し、幸村は大坂城にあって唯一防備の薄い南部に出城(真田丸)を築き、井伊、前田、越前松平の兵を食い止めて武威を挙げ、敵味方関係なく、幸村の武勇は鳴り響いた。



最期 大坂冬の陣は大坂城の堀を破却することで講和が成立した。これが狸親父の姦計であるのは周知で、工事を行っていた東軍人夫は大坂方が埋める取り決めになっていた二の丸、三の丸まで埋め出した。
 そこに抗議し、破却された防塁の修復に務め出したところ、「幕府への逆意あり」と見做され、慶長二〇(1615)年四月二七日大坂夏の陣は始まった。

 元より城内に立て篭もれない豊臣方は打って出た。
 兵力の差は歴然としており、豊臣方の勝算は行き場のない浪人衆の背水の陣から来る死力が如何にして家康、秀忠の大将首を挙げられるか、だった。
 しかし四月二九日には塙団右衛門、淡輪重政が討ち死に、五月六日には薄田兼相、木村重成、後藤又兵衛といった大坂方の名立たる武将達も衆寡敵せずに次々と討死を遂げた。

 五月七日、後世に講談、小説、漫画等で語りに語り継がれることとなる真田幸村の大奮闘が始まった。
 家康の首だけを狙って突撃を繰り返す真田勢は、後藤又兵衛をも討ち取った伊達軍(片倉重綱率いる騎馬鉄砲隊)をも撃破し、ついには家康の身辺を守る旗本達まで出撃する程に家康を追い詰めた。
 実に家康の側に小姓一人になる事態が三度も置き、さしもの家康も一時は死を覚悟したが、突撃の中、茶臼山の幸村本陣は越前・松平忠直(家康孫・結城秀康嫡男)隊に落とされ、最後の最後まで徳川勢の心胆を寒からしめた幸村も武運尽きて天王寺にて越前軍の西尾仁左衛門に討ち取られた。真田幸村、享年四九歳。

 幸村の戦死によって豊臣方は完全に反撃の力を失った。
 ある者は城外へ脱出(その多くは後々の落人狩りで捕らえられて処刑された)し、ある者は最後の最後まで徹底抗戦し、炎上する大坂城と運命を供にした。
 五月八日、秀頼、淀殿等は山里郭に潜み、秀頼正室・千姫による家康への助命嘆願も行われたが、降伏を呼び掛ける井伊直孝勢が銃撃を持って促したところ、「最早これまで。」とみた豊臣秀頼は自害した。享年二三歳。
 秀頼の介錯を行った毛利勝永も殉死し、淀殿、大野治長、速水守久、大蔵卿局(治長の母・淀殿乳母)を始め、近臣二七名も自害して果てた。
 そしてその中には真田幸村の嫡男・大介もいた。時に真田大介幸昌一三歳。


 秀頼達の自害と共に郭内の火薬に火が投じられ、井伊直孝が硝煙に気付いたときには郭内は業火に包まれており、二七名の遺体は判別不能なまでに焼き尽くされていた。



生存伝説 前述した様に、豊臣秀頼の遺体(と見られる物)は丸焦げで発見された。勿論秀頼の顔を知る者達にも判別不能な状態だった。
 となると必然の結果として、遺体が本当に秀頼母子とその郎党のものかを疑問視する声も上がった。

 明らかな史実として、落人探索は執拗を極めた。
 当然、万が一にも秀頼母子が生きているようならこれを逃す訳にはいかず、今度こそ戦をなくし、徳川幕府を盤石たらしめる為にも、火種は徹底的に排除する必要があった。
 同年五月一二日には幕令として大坂方残党の追捕が命ぜられ、同月一五日に山城八幡で長宗我部盛親が捕らえられて六条河原で斬罪となり、同月二三日には秀頼が侍女に産ませた一子・国松(八歳)が六条河原で斬られた(同時に捕らえられた秀頼一女・奈阿姫は千姫の嘆願と出家を条件に助命された)。
 秀頼の子供達を連れて脱出した大野治房(治長弟)も捕らえられて殺され(異説有り)、大野兄弟の末弟・道犬斎治胤は京都法広寺近辺で捕らえられ、六月二七日に自らが焼き打ちした堺町民の手で火焙りにされた。
 大坂、京の街は密告の嵐と化し、ひどい例では只の町人が近所の仲の悪い奴に「豊臣軍残党を匿っている」との濡れ衣を被せられるというものもあった。

 例外的に明石全登と仙石秀範が逃亡に成功したが、秀範の息子と乳母を後に捕らえられて処刑する程、落人狩りは徹底して行われた。


 しかし、これだけ落人狩りを徹底的に行っても秀頼本人の遺体が確認出来なくては完全な安心が出来ない(当時は指紋鑑定もDNA鑑定も歯形による身元確認もなかった。当然だが)。そこから様々な憶測が流布した。
 『日本西教史』(ジャン・クラッセ著)では、辺境の大名領地に落ち延びたとも記されており、平戸に居たイギリス商館長リチャード・コックスは日記に城内での焼死説と薩摩、琉球への逃亡説の両方を記載している。
 何より、秀吉存命中から豊臣家に好意的だった京、大坂では住民達が豊臣家滅亡を信じたがらなかった(一説によると、徳川家が後に大坂城を再建したのは秀吉築城の大坂城の石垣が残ることでそれを見る人々が豊臣時代を懐かしむことがないようにする為で、残された石垣を土で覆って、その上に再建したらしい。それほど豊臣人気は大きかった)。
 上方では「花のようなる秀頼様を、鬼のようなる真田が連れて、退きも退いたよ鹿児島へ」という童歌がはやった。

 実際、誰も江戸幕府に逆らえなくなっていた為に大坂の陣では秀頼は秀吉恩顧の大名の助力を得ることが出来なかったが、だからと云って秀頼に人望がなかった訳では無かった。
 福島正則、加藤忠広(清正の子)は秀頼を助けたい気持ちがあり、炎上する大坂城を前にして細川忠興も秀頼を偲んで涙を流したと伝えられている。
 そんな親秀頼状況と、秀吉恩顧の大名が西国に集中していることもあってか、秀頼は西国に逃げた、との説が唱えられた。

 第一候補は熊本である。
 この時点での熊本領主は加藤忠広で、彼の父・清正の豊臣家への忠誠は余人の言を待たないところである。
 実際、熊本城は清正が生前に、いざという時は秀頼を招いて籠城することを想定して築かれたと云われており、城内には「昭君の間」という部屋があり、ここに秀頼が匿われたとの伝承がある。

 第二候補は上記の童歌にも歌われた薩摩である。
 戦前、淀殿は島津の救援を期待していたらしく、秀吉への恩義だけではなく、いざというときに徳川家に反旗を翻す手駒として秀頼を島津家が秘かに匿う、ということは充分に考えられた。
 『左衞門佐君傳記稿』によると、鹿児島県鹿児島市谷山に二〇〇人の落人があったがそれが秀頼と噂されたとあり、秀頼公の墳あると記す。
 また鹿児島県鹿児島市上福元町木之下には「伝秀頼公由緒地」の碑のある石塔の墓がある。  「木之下」の地名は秀頼の父・秀吉の旧姓に因むものだろうか?

 更に伝承を幕末に追えば、松浦静山(1760〜1841)は真田幸貫(1791〜1852)から島津家が密かに秀頼の存在を届け出たところ、幕府からは「世間では死んだことになっている人物だから、天下の大勢に影響はない。だが、薩摩から外へ出してはならない」と返された、との話を聞いている。
 実はこれには裏話があって、薩摩に落ち延びた秀頼は過去の栄光に戻れないことに自棄になったのか、酒浸りの日々を送り、その泥酔し続ける生活態度に周辺住民は彼を嫌い、秀頼潜伏の報を受けた幕府もそんな秀頼を危険視せず、命を奪うことより戦場から逃げられたことで面子が潰れることの方を避けた、とも云われている。
 多くの生存伝説は落ち延びた人を地元の英雄、伝説の英雄、静かなる遁世の隠者として扱うことが多いのだが、地元に嫌われた例とは珍しいものである。

 第三候補は……地理的にははっきりしない。しかし九州の何処かの地で男児を成した、とされている。
 そしてその男児が長じて天草四郎(益田時貞)となって、島原の乱を指揮した、との伝承が存在するのである。
 ちなみに伝承が伝わるのは鹿児島で、その伝承によると天草四郎となった秀頼の子の真の名は豊臣秀綱とのことである。
 天草四郎が秀頼の落胤であるという説の論拠は、瓢箪型の馬印が千成瓢箪で有名な豊臣秀吉と同じであることが挙げられている。
 また、島原の乱がキリシタンによる一揆とされながらも、この乱で戦死した一揆参加者達が現在においてもローマ教会から殉教者に列せられないのは、実は乱が豊臣家再興を賭けた徳川対豊臣の第二次戦争で、幕府側がそれを隠蔽する為にキリシタン一揆に偽装したが、海外にはそれが伝わらなかったため、との見方があり、これも天草四郎=秀頼落胤との論拠となっている。
 つまり秀頼は大坂で死んでいなかったと云うのである。


 生存伝説が如何なるものであったとしても、史上において豊臣秀頼の血筋は正保二(1645)年二月七日の奈阿姫=天秀尼の逝去により完全に途絶えた、とされている。
 そこから徳川の天下は二二〇年間続き、豊臣の名が歴史に返り咲くことはなかった。
 それでも豊臣秀頼真田幸村に生存伝説が生まれたのは以下の要因によるもの、と薩摩守は見ている。


 第一要因は秀頼への同情である。
 何度も触れてきたが、自分の命のある内に豊臣家を無力化させんとして、戦にこじつけた家康のやり方はあざと過ぎ、敵意もないのに滅亡に追い込まれた秀頼に同情する声は多い
。  そのせいか、大坂城内でも主戦派となっていた淀殿、大野治長は後世において散々な酷評に晒され、生存伝説の中にも淀殿が生きていた、とするものは少ない(←皆無ではない)。
 人望も才知も有りながら、充分に発揮することも出来ないまま、偉父・秀吉と狸親父・家康に翻弄されて滅亡に追いやられた秀頼に対する完璧なまでの判官贔屓と云えよう。

 第二要因は秀吉人気の余光であろう。
 徳川の天下にあっても秀吉の人気は上方では絶大で、前述した様に、幕府は後に燃え残った大坂城の石垣を土で覆って、豊臣時代の痕跡を地上から消してから大坂城を再建している。
 秀吉人気が「秀頼様に生きていて欲しかった。」→「秀頼様は生きていたんだ。」との噂の流れを作ってもおかしくはない。

 第三要因はカッコ良過ぎるまでの真田幸村の奮闘であろう。
 幸村には何人もの影武者がいた、との説があり、最終決戦ではこの影武者を八方に放って徳川勢を撹乱した、とも云われている。
 必然的に天王寺で戦死したのは影武者の方で、幸村は生きて紀州に逃れた、とされた。
 紀州の浅野家は徳川方とはいえ、先々代当主・浅野長政は高台院(おね・北政所)の兄で、秀吉にとっては義兄で、当主・長晟(ながあきら)は義理の従弟とも云える秀頼に心情の上では同情的でもあった。
 長晟の兄にして先代当主の幸長(よしなが)は大坂冬の陣の前年に三八の若さで没している。幸長は秀頼と家康の二条城での対面の折に加藤清正と共に秀頼護衛を務めており、その若死にには清正同様、暗殺説が囁かれてもいる。
 となると、立場上、力関係上、表立って徳川家に逆らえずとも長晟が裏で秀頼や流人時代の幸村 (←高野山、つまり紀州にいた)と通じていても全くおかしくない。

 結局のところ、「完全に滅ぼした!」と云い切るにはかなりの困難が伴う程、豊臣秀吉・秀頼父子並びに真田幸村の存在は大き過ぎたのであろう。

 

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令和三(2021)年五月二〇日 最終更新