第肆章 明智光秀…裏切り者の代名詞、怪僧の正体なりや

逃亡疑惑者名明智光秀(あけちみつひで)
通称日向守、惟任光秀
生年月日 享禄元(1528)年
公式死亡日天正一〇(1582)年六月一三日
公式死亡場所山城国小栗栖竹藪内
死因戦死(討ち取ったのは落武者狩りの土民)
推定逃亡先駿河国
疑惑変名南光坊天海
生存伝説要因信長からのいじめに対する同情と天海僧正の謎の多さ
略歴 明智光秀を取り上げるのは本作で三度目(最初は『菜根版名誉挽回してみませんか』、二度目は『本能寺の変』)だが、「織田信長を裏切った男」として、裏切り者の代名詞のように云われ、戦国史上の超有名人といっても過言ではないが、その割には謎の多い男である。

 生年からして詳らかではないのだが、光秀が生まれた明智氏(美濃国可児郡明智庄発祥)は美濃国守護土岐氏の傍流で、れっきとした清和源氏の血筋である。
 少なくとも織田氏平家説や徳川氏新田源氏説よりよっぽど信憑性は高い(というか間違いない)。
 祖父・明智光継が明智光綱と娘を成し、光綱は光秀の父となり、娘は斎藤道三に嫁して濃姫を産み、この濃姫が織田信長の正室となったことが後々に織田家家臣としての縁故となる。

 謎の多い青年期だが、通説では斎藤道三に仕えるも、道三が息子・義龍に殺され、道三方についていた光秀は母方の縁を頼って若狭武田氏を頼り、越前守護朝倉義景に仕えるようになった。
 その義景の元へ、第一三代室町将軍足利義輝の実弟・足利義昭が逃れてきたことで光秀の人生が更に変遷した。


 三好長慶・松永久秀の謀反で兄である義輝を殺された義昭は興福寺の僧だったが、松永から刺客を向けられ、興福寺と細川藤孝(幽斎)の助けで奈良を脱出すると、姉婿である武田義統(たけだよしむね)を頼って若狭に、そして若狭武田氏の娘を母に持つ朝倉義景を頼って越前に来た。
 光秀の母は義統と姉妹だった縁故から義昭の世話役を命じられた訳だが、義昭の懇願空しく、義景は義昭を報じての上洛が出来なかった(隣国加賀の守護を倒した加賀一向一揆の前に越前を動けなかったため)。
 それ故に何としても兄の敵を討ち、将軍家の正統を取り戻したい義昭の懇願を受け、光秀は従姉妹である濃姫の縁を頼って、義昭と共に美濃を奪取したばかりの織田信長の元を訪れ、彼に仕えることとなった。時に永禄一一(1568)年のことであった。

 その年の内に義昭を奉じて織田軍は上洛し、晴れて義昭は第一五代室町将軍となったが、信長が彼を傀儡とした為に両者が対立するようになったのは周知の事実。
 そしてその対立に際して、光秀は信長に就いた。
 元亀二(1571)年には自らが猛反対した比叡山焼き討ちの戦功で近江坂本に築城を許され、信長は以下で最初の城持ち身分となった(←柴田勝家より先である。
 天正三(1576)年には朝廷より「惟任 (これとう)」の姓と従五位下日向守の官職を与えられ、以後彼の正式名は「明智光秀」ではなく、「惟任日向守光秀」で、「明智光秀」の記述に終始する書籍・漫画でも本能寺の変において森蘭丸が信長に光秀の謀反を告げるシーンだけは「惟任日向守、謀反!」と正確に記述されるのをお気付きの方も多いだろう。
 しかし本作ではややこしくなるので(苦笑)明智光秀」で統一する。


 その後、光秀は対荒木村重、対石山本願寺、対松永久秀、と主に近畿圏で奮戦を続け、細川幽斎や筒井順慶等と親交を深め、娘の珠は幽斎の嫡男・忠興に嫁いだ(勿論、後の細川ガラシャのことを云っている)。
 そして武田家を滅ぼした後に中国地方で対毛利戦線に立つ羽柴秀吉の後詰を命じられるが、それまでの徳川家康接待事件(叱責・解任の果てに森蘭丸にまで小突かれた)、虐待(武田滅亡の苦労を偲んだら信長に殴られた)、丹波八上城攻め(降伏信頼の証として光秀の母を人質に出したが、信長が相手を殺したために母は殺された……と云われるが『絵本太功記』の創作)、と様々な出来事があり、光秀の胸中に様々な想いが駆け巡る最中、信長は僅かな供回りのみで京都の本能寺に宿泊した。
 光秀「時は今 天が下たる 五月哉」(「時」は「土岐」、「天が下たる」は「天下」を示していると云われている)という有名な句を詠んで、信長への叛意を重臣である斎藤利光・溝尾庄兵衛に告げた。

 そして天正一〇(1582)年六月二日未明、日本史上最大の裏切りにして大事件=本能寺の変が勃発。
 惟任光秀は一万六〇〇〇の軍勢で本能寺を急襲し、織田信長、嫡男・信忠、五男・勝長、村井貞勝(京都所司代)等を死に至らしめた。



最期 織田信長自身、本能寺において、明智光秀が布陣したとあっては脱出は不可能、と断じたと云われている。
 それだけ周到な人物だった訳だが、しかしながら変後、信長の子弟や重臣達が仕掛けてくるであろう弔い合戦に対抗する為に光秀が行った呼び掛けに娘婿の細川忠興も、筒井順慶も応えず、その後の展開に用意周到さが見られなかったのがかなり謎ではある。
 ともあれ、徳川家康を討ち損ねている間に四万の軍勢を率いて驚異的な速さで羽柴秀吉が来襲(中国大返し)し、山崎の合戦に及んだ。

 天王山奪取戦ともなったこの戦いに明智軍は羽柴軍に山頂を奪われ、地の利を活かせなかったために兵力差の前に敗れ、光秀は本拠地である近江坂本を目指して落ちていく途中で小栗栖(現:京都市伏見区)の竹薮内で落ち武者狩りの土民達の竹槍にかかって落命した。
 本能寺の変から僅か一一日後の死に後世の人々は「三日天下」と囁くが、一説には重傷を負った光秀が切腹した後に重臣・溝尾庄兵衛に介錯させた、との説もあり、六月の暑さで腐敗が進んだ状態で、光秀の首です!と主張されて届けられた首は三つに及んだ

 かくして明智光秀はその名を歴史上から消し、一大事件本能寺の変はその動機や背景とともに多大な謎を後世に残したが、当の本人もまたその死に際して後世に多大な謎を残した。



生存伝説 前述した様に、明智光秀の首は三つも届けられ、当然のことながら二つが偽物であることは明らかだった。
 だが、旧暦六月は夏で、盆地である京の猛暑の中、生首の腐敗は著しく、本能寺に斃れた織田信長同様、光秀の死もまた確実に眼で見て確認出来るものではなかった。
 しかしながら光秀軍は完全に駆逐され、仮に光秀が生き永らえていたとしても秀吉に対抗する術はなかった。
 秀吉は翌年には柴田勝家・織田信孝(信長三男)と賤ヶ岳の戦いに勝利し、更に翌年には小牧・長久手の戦いにて徳川家康・織田信雄(信長次男)と戦い、関白への道を歩んだ。


 織田信長、明智光秀の死から八年が経過し、小田原に北条氏を滅ぼしたことで豊臣秀吉の天下統一が完成したのだが、この頃から徳川家康に一人の僧侶が近侍する姿が見られるようになった。
 天台宗の僧で、後々、金地院崇伝と並んで徳川家のブレーンを務めた陣僧・南光坊天海であったが、この天海こそが明智光秀その人である、と今尚囁かれている。


 南光坊天海は前半生が詳らかでないことに加えて、寛永二〇(1643)年一一月一三日に没した時の享年が一〇八歳、という現代から見ても相当な、そして当時としては驚異的な長寿を保ったことからもかなり謎の多い人物として見られている(中には享年一三五歳説まである)。
 単純に考えれば、家康が没するまでに家康に謁見し、近侍する天海とも同時に顔を合わせる諸大名の中には明智光秀と面識のある者も相当数いた筈で、細川忠興が家康・天海と謁見しているシーンを想像するだけで「光秀天海同一人物説」は瓦解するのでは?と思いたくなる。
 だが、徳川一族と明智家所縁の者達との奇妙な関係を考えれば、「ひょっとして?」と思われてくるものがある。
 薩摩守自身は本作で取り上げている数々の生存伝説の信憑性には概して懐疑的なのだが、その中ではこの「光秀天海同一人物説」は比較的信憑性がある方と見ている(まあ、あくまで「比較的」で、確率的には一割あるかどうかと見ている)。


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 一応、その前に南光坊天海について簡単に触れておきたいが、天海は通説では天文五(1536)年の生まれとされている。
 天文五年と云えば織田信長がまだ三歳の時で、家康は生まれていない。
 謎の多い前半生において、最初は出家後に「随風」と名乗り、下野国宇都宮粉河寺にて天台宗の修行を積み、三井寺、興福寺、比叡山延暦寺にも訪れ、延暦寺が信長の焼き討ちを受けると武田信玄の招聘に応じて甲斐に赴いた。
 武田家滅亡後は上野国長楽寺へ、天正一六(1588)年に武蔵国無量寿寺北院(現:埼玉県川越市。後の喜多院)に移り、この時から天海を号し、家康に仕え始めたとされ、史料にも確実な存在として記載され出した。


 天正一六(1588)年と云えば、明智光秀の死から六年が経過しており、北条家の滅亡は二年後のことである。天文五年出生説が正しいならこの時の天海は五二歳。
 生涯、学を愛し、多くの人物を師と仰いだ徳川家康は天海もブレーンとし、崇伝が対豊臣家、対処大名政策が主だったのに対し、天海は対朝廷、対寺社勢力政策を主に担った。
 つまり陣僧としては崇伝の方が、圧倒的に汚れ役が多いのだが、大坂の陣を始める為の云い掛かり材料となった方向寺鐘銘事件では天海も一枚噛んでいた。

 やがて家康が死に臨むと、家康に対する神号に関して、崇伝達が推した「明神」を退けて、「権現」を推し、これが元となって家康は死後に東照大権現の神号で尊ばれることとなった。
 家康死後も秀忠、家光に仕え、江戸城にとって鬼門の方角に当たる上野の地に東叡山寛永寺を建立し、陰陽道や風水に基づく江戸城下町開発計画を推し進め、紫衣事件で処罰された僧侶や改易大名の赦免にも勤めた。
 寛永二〇(1643)年一一月一三日に没すると朝廷より「慈眼大師 (じげんだいし)」との大師号を追贈された。

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 さて、この天海の生涯に、本能寺の変後に前後した徳川家と明智家の関係を重ね合わせたい。

 本能寺の変に先立つこと三年前、徳川家康は嫡男・信康に切腹を命じ、正室・築山殿の命を奪った。
 一説に信康の正室にして信長の娘である徳姫の通報で、今川家の血を引く築山殿・信康母子が武田勝頼に内通した故に信長が家康に二人の処分を命じ、家康が庇い切れなかった、とされているが、いくら同盟国とはいえ、他家の嫡男を切腹させろとの命令が発せられること自体大きな謎を孕んでいる。
 この事件は自分の跡取り・信忠が信康に劣るので、信康の将来性を危険視した信長の陰謀、とも云われ、この事件もまた謎が多い(さっきからこんなのばかりだな……)。
 謂わば、表面は同盟者でも、家康にとって信長は「息子の敵」でもあり、本能寺の変において実行犯・明智光秀を裏で糸引いていた黒幕として大勢の人間の名前が挙がっているが、その一人に徳川家康もいる訳だが、動機的に考えれば、全くの荒唐無稽な話ではない。

 その本能寺の変に際して、光秀は僅かな人数で京・堺見物に来ていた家康主従を討ち取らんとして畿内各地に非常線(?)を張った。
 その為に家康は生涯三大危機の一つに陥り(後の二つは三方ヶ原の戦い大坂夏の陣での真田幸村突撃)、一時は死も覚悟したが、伊賀忍者の助けを得た伊賀越えで辛くも虎口を脱した。
 この時、家康と別ルートで畿内を脱出しようとした穴山梅雪(武田信玄甥)は落ち武者狩りに遭って斬り死にした。
 このことから、家康―光秀間に何がしかの密約があったから家康が命を落とすことはなく、家康の対抗馬となり得た織田信長・穴山梅雪は討たれ、密約の疑いを見せない為に家康最大の危機は演じられた、との見方が出来なくもない(←結構無理矢理だが)。


 そして時が流れ、豊臣秀吉の手で天下が統一され、その秀吉も慶長三(1598)年八月一八日に薨じ、翌々年の関ヶ原の戦いで徳川の天下が七割方固まった。
 更に家康が征夷大将軍に就任した翌年である慶長六(1604)年に徳川幕府三大将軍候補である竹千代(勿論後の徳川家光)が生まれると、明智に所縁を持つある人物がクローズアップされた。

 その人物は、明智光秀重臣、斎藤利光の娘・お福。
 彼女が竹千代の乳母に選ばれ、後年「春日局」と呼ばれた人物でなのだが、お福が家光の乳母に選ばれたことに天海が介在している根拠はないが、徳川秀忠の妻にして、竹千代の生母であるお江の方は信長の姪で、伯父・信長の仇である明智家所縁の者であるお福が乳母となることに不快感を示したのは有名である。
 お江を慮るならこの人選には疑問が残る(薩摩守に云わせれば、その信長こそがお江にとっての父の仇なのだが…)が、お福が乳母に採用され、後には浪人していたお福の夫・稲葉正成が一万石の大名として取り立てられたのも、家康−光秀の表に見えざる繋がりは考えられないだろうか?

 つまり家康が光秀を利用して信長を倒し、秀吉とも面従腹背で付き合った故に名前を世に出せなくなった光秀を僧体にして、天海と云う名のブレーンとして近侍させた、との憶測である。
 そう考えると、普段、陰謀などに知恵を巡らすのが金地院崇伝の役割であるところに、方向寺鐘銘事件だけは云い掛かりに、普段は穏健派である天海が加わったのにも納得できるものがある。
 天海 =光秀なら、豊臣軍の手で、大切な身内や部下が何人もあの世に送られているのだから……。

 すべては「家康が密かに光秀と通じていた」との過程に立脚したもので、光秀を知る者が天海と会うことが充分考えられることからも天海 =光秀説も然程強固なものではないが、家康が光秀を利用した理由は充分にある。
 最後に背景ではなく、南光坊天海を巡る言動や物証に関して明智光秀生存伝説の論拠となるものを下表に列記した。

物証内容疑惑性薩摩守のコメント
地名 日光に「明智平」と呼ばれる区域があり、天海が命名したもので、その理由を問われた際に「明智の名前を残すのさ」と呟いたと日光の諸寺神社に伝承がある。 何故にその地が選ばれたのか、全く不明。 特になし。
子孫の名前 「秀忠」の「」、「家光」の「」が光秀に因み、四代将軍家綱の「綱」は光秀の父・「光綱」に、七代将軍家継の「継」は光秀の祖父・「光継」に因む。 天海光秀であることが正確且つ納得のいくように伝えられないと互いの先祖・子孫までは因まないと思われる。 いくらなんでも苦しくないか?
 綱吉と家宣は?
石碑 比叡山に光秀の死(天正一〇年六月一三日)以後に「光秀」の名で寄贈された石碑が残っている。 同姓同名はともかく、同名ぐらいなら一人はいてもおかしくなさそう。 特に無し。
助命 光秀の外孫である織田昌澄が大坂の陣で豊臣方として戦ったが、戦後助命された。 昌澄助命に天海が関係した証拠は無い。 外孫と云えど、孫なら戦前に助けてないか?
筆跡 テレビ東京の特番で天海光秀の筆跡鑑定が行われ、「極めて本人か、それに近い人物」との結果が出た。 代筆や筆跡を真似た偽手紙は陰謀が横行した戦国時代では多数書かれてそう(伊達政宗は一度偽手紙の真贋を設定していた、と云い張って、豊臣秀吉からの葛西・大崎一揆扇動疑惑の追及を煙に巻いている)。 光秀天海それぞれ書き手に間違いが無いならかなり信憑性は高い筈。


 裏切り者の代名詞・明智光秀は裏切り者に相応しい最期を遂げた方が絵になったのでしょうか?それとも同盟者の息子にして娘婿を自害に追い込み、膨大な数の信徒を虐殺し、股肱の重臣への虐待・追放を繰り返した暴君を誅殺して天下人の陣僧に身を隠す方が絵になったのでしょうか?
 かつて『菜根版名誉挽回してみませんか』でも取り上げたが、織田信長にとって明智光秀は紛れもなく「恩知らずの裏切り者」だが、戦国武将として稀有なほど愛妻家にして、家族想いにして、部下想いにして、征夷大将軍への義理も通した人物であったことも間違いない。
 もし、明智光秀南光坊天海が同一人物だったとしたら、どちらが本来の人物像だったのだろうか?前者の不遇と後者の謎が魅せた妙なマッチングが解ける日が来るかどうかは誰にも分からない。

 

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令和三(2021)年五月二〇日 最終更新