第漆章 西郷隆盛…最後の不平士族、意外な帰国の噂に列島震撼

逃亡疑惑者名西郷隆盛(さいごうたかもり)
通称西郷吉之助、西郷どん、南州翁
生年月日文政一〇(1828)年一二月七日
公式死亡日明治一〇(1877)年九月二四日
公式死亡場所鹿児島県鹿児島市城山
死因自害(攻めたのは明治新政府軍)
推定逃亡先清国・ロシア
生存伝説要因用済みにされ、冷遇された士族への同情。本人の絶大なる人望。明治天皇の寵愛。
略歴 超有名人物につき、本当は略歴だけで済ませまたいが、一応は(意外にも)拙房で初めて採り上げる人物でもあるので、それなりの長さを覚悟して頂きたい(苦笑)。
 文政一〇(1828)年一二月七日、西郷吉兵衛隆盛の嫡男に生まれた。父親と同名なのは、本来の名前が「西郷隆永(さいごうたかなが)」だったのが、王政復古の位階授与の際に親友の吉井友実が誤って提出した父親の名を、本人がそれ以降名乗り続けたためであった。
 つまり「西郷隆盛」は本名ではないのだが、世間一般の通りを考慮し、本作は通例の「西郷隆盛」で通します。
 惟任光秀や真田信繁も明智光秀や真田幸村の方が、通りがいいでしょ?(苦笑)


 幼名は小吉、ついで吉之助。御家は薩摩藩の下級藩士の家に生まれた。
 刃傷沙汰に巻き込まれて腕を負傷したために武術で身を立てることを諦め、学問で身を立てることを志す中で、大久保正助(勿論、利通のこと)等と親交を持ち、嘉永五(1852)年に最初の結婚をした。
 だが、同年に祖父・父母を相次いで亡くす不幸に見舞われ、翌嘉永六(1853)年に西郷家の家督を継いだ。時に西郷隆盛二六歳で、この年は黒船来航の年でもあった。


 家柄が低かったとはいえ、その二年前に薩摩藩主に就任した島津斉彬(しまづなりあきら)の覚えは目出度く、安政元(1854)年、上書が認められ、斉彬の江戸参勤に際し、中御小姓・定御供・江戸詰に任ぜられて、初めて江戸に赴いた。
  四月に江戸にて御庭番に抜擢されて斉彬に近侍、一〇月、徒目付・鳥預の兼務を命ぜられた、同時に親友・大久保も徒目付になった。
 だが一一月、西郷家の貧窮を見かねた妻の実家が妻を引き取ったため、最初の離婚をすることとなった。
 一二月、江戸に着き、将軍継嗣に関する斉彬の密書を越前藩主松平慶永(春嶽)に持って行き、この月内、橋本左内らと一橋慶喜擁立について協議を重ねた。

 安政五(1858)年三月、篤姫(第一三代将軍徳川家定見台所。島津斉彬養女)から近衛忠煕(篤姫は家定に嫁す前に近衛の養女になっていた)への書簡を携えて京都に赴き、僧・月照らの協力で慶喜継嗣のための内勅降下を図ったが失敗した。

 同年五月、彦根藩主・井伊直弼が大老となると、六月に日米修好通商条約が調印され、同時に紀伊藩主徳川慶福(後の家茂)が将軍継嗣に決定した。
 すると直弼は七月に不時登城を理由に徳川斉昭に謹慎、松平慶永に謹慎・隠居、徳川慶喜に登城禁止を命じ、まず一橋派への弾圧から強権を振るい始めた(所謂、安政の大獄)。
 そんな中、西郷も斉彬と慶永の間で越前藩士と交流を深めたり、様々な連絡役をこなしたりしていたが、斉彬が七月一六日に急逝。三日後に斉彬の弟・久光の子忠義が家督相続し、久光が後見人となると西郷の運勢に翳りが差した。


 七月二七日に京都で斉彬の訃報を聞いた西郷は殉死を考える程衝撃を受けた(実際に後に入水自殺未遂を起こしている)が、僧・月照らに説得されて、斉彬の遺志を継ぐことを決意。
 一二月、薩摩藩は幕府の目から隠すために西郷の職を免じ、奄美大島に潜居させることにした。
 安政六(1859)年一月四日、西郷は伊地知正治、大久保利通、堀仲左衛門等に後事を託して潜居先の奄美大島龍郷村阿丹崎に着いた。ここで龍家の一族、佐栄志の娘・とま(のち愛加那と改める)を島妻とした(二度目の結婚)。

 文久元(1861)年一〇月、久光は小納戸役の大久保・堀次郎らの進言で西郷に召還状を出した。
 西郷は一一月二一日に召還状を受け取ると、当時の法令で、薩摩本土に連れ帰れなかった島妻・愛加那の生活が立つようにした後、薩摩に帰還したが、久光に召喚された折に久光が無官で、斉彬程の人望が無いことを理由に上京すべきでないと主張し、久光の不興を買った。
 一旦は同行を断ったが、大久保の説得で上京を承諾し、旧役に復した。
 だがこの時の不興は後々も尾を引き、同年四月二三日の寺田屋騒動を経て西郷は、今度は徳之島への遠島となった。
 徳之島では奄美大島での島妻・愛加那が大島から子供二人を連れて西郷の元を訪れ、しばしの親子対面を喜んだ。
 しかし数日後、追い打ちをかけるように沖永良部島へ遠島する命令が届き、西郷の弟達も知行・家財が没収され、西郷家全体が最悪の状態に追い込まれていた。

 文久三年(1863)年七月、前年の生麦事件を契機に起きた薩英戦争の情報が入ると、西郷は処罰覚悟で鹿児島へ帰り、参戦しようとした。
 やがて赦免召還の噂が流れて来たが、実際、その頃の中央では安政の大獄による雄藩への風当たりも弱まって、徳川慶喜は将軍後見職に、松平慶永は政事総裁職に就任し、薩英戦争を経た薩摩でも久光は京・大坂での薩摩藩の世評の悪化と公武周旋に動く人材の不足に頭を痛め、苦境打開の為に大久保・小松帯刀清廉等の勧めに従って西郷を赦免召還することにした(この三人が後の「薩摩の三傑」と称される)。
 元治元年(1864)二月二一日、吉井友実、弟・西郷従道等の迎えを受けて西郷は薩摩に帰還した。

 二八日に鹿児島に帰った西郷は翌月京都にて軍賦役(軍司令官)に任命された。
 その任務は、佐幕・攘夷派双方から非難され、世間の評判が地に落ちた薩摩藩の名誉回復で、藩の行動原則を勤皇とし、攘夷派と悪評への緩和策に従事した。
 そのために西郷は同年六月に大坂留守居木場伝内に上坂中の薩摩商人の取締りを命じ、往来手形を持参していない商人らにも帰国するよう命じ、併せて藩内での取締りも強化し、藩命を以て大商人らを上坂させぬように処置した(密貿易も薩摩藩悪評の元だった。実際にやっていたし)。

 池田屋事件後の朝議で七卿赦免の請願を名目とする長州兵の入京が許可されていたのに対し、西郷は、「薩摩は中立して皇居守護に専念すべし」とし、七月八日の徳川慶喜の出兵命令を小松と相談の上で拒絶した。
 しかし、一八日に長州勢が伏見、嵯峨、山崎の三方から京都に押し寄せ、皇居諸門で幕府軍と衝突すると、西郷、伊地知正治らは乾御門で長州勢を撃退したばかりでなく、諸所の救援に薩摩兵を派遣して、長州勢を撃退した(禁門の変)。
 西郷は銃弾を受けて軽傷を負ったが、彼の奮闘の前に長州勢からは来島又兵衛、久坂玄瑞、真木和泉等多く犠牲者が出て、これが薩長不和の遠因となっていた。


 同年七月二三日に長州藩追討の朝命(第一次長州征伐)が出され、翌日徳川慶喜が西国二一藩に出兵を命じると、薩摩藩もこれに応じ、長州藩は同年八月の四国連合艦隊下関砲撃事件もあって、四国連合艦隊と講和条約が結び、幕府と四国代表との間にも賠償約定調印が交わされた。
 この間の九月中旬、西郷は大坂で勝海舟と会い、勝の意見を参考にして、長州に対して強硬策を採るのを止め、緩和策で臨むことにした。
 そこで征長総督徳川慶勝(尾張徳川家藩主)と会し、長州処分を委任されると吉井友実、税所篤を伴い、岩国で長州方代表吉川監物と会い、長州藩三家老の処分を申し入れ、慶勝に経過報告した。
 その後、小倉で副総督松平茂昭にも経過を述べ、薩摩藩総督島津久明にも経過を報告した。

 結果、西郷の妥協案に沿って収拾が図られ、一二月二七日、征長総督が出兵諸軍に撤兵を命じ、この度の征討行動は終わった。


 慶応元(1865)一月中旬に鹿児島へ帰った西郷は藩主父子に報告を済ますと、人の勧めもあって、一月二八日に家老座書役岩山八太郎直温の二女イト(絲子)と結婚(三度目)。
 同年五月一日に西郷は坂本龍馬と同行して京都情勢を藩首脳に報告。その後、幕府の征長出兵命令を拒否すべしと説いて藩論をまとめた。

 この頃、将軍徳川家茂は、勅書を無視して、総督紀州藩主・徳川茂承以下一六藩の兵約六万を率いて西下を開始した。
 兵を大坂に駐屯させた後、入京・参内して武力を背景に長州再征を奏上した。在京中の幕府幹部は兵六万の武力を背景に一層強気になり、これをたてに長州再征討のことを朝廷へ迫ったのである。
 それに対し、京にいた西郷は幕府の脅しに屈せず、六月一一日、幕府の長州再征に協力しないように大久保に伝え、そのための朝廷工作を進めさせた。

 それに加え、二四日には西郷は龍馬と会い、長州が欲している武器・艦船の購入を薩摩名義で行うこと承諾し、薩長和親の実績を作った。
 また、幕府の兵力に対抗する必要を感じ、一〇月初旬に鹿児島へ帰り、一五日に小松とともに兵を率いて上京した。この頃長州から兵糧米を購入することを龍馬に依頼したが、そういったやり取りの中で黒田清隆を長州へ往還させ薩長同盟の工作も重ねさせた。

 九月二一日、幕府の、将軍職を辞し、朝廷への武力行使も辞さない、という圧力に耐えかねた朝廷は、「条約は勅許するが、兵庫開港は不許可」という内容の勅書を下して長州再征を許可した。

 一方の西郷は、慶応二(1866)年一月八日、村田新八、大山成美(後の陸軍大将・大山巌の兄)を伴い、上京してきた桂小五郎を伏見に出迎え、翌九日、京都に帰って二本松藩邸に入った。
 二一日、西郷は小松帯刀邸で桂小五郎と六ヶ条の提携を密約し、坂本龍馬がその提携書に裏書きをした(薩長同盟成立)。
 その直後、龍馬が京都の寺田屋で幕吏に襲撃されると、西郷の指示で、薩摩藩邸が龍馬を保護した。その後、小松清廉、桂久武、吉井友実、坂本龍馬夫妻(←西郷が仲人をした)等と大坂を出航し、鹿児島へ帰還した。


 第二次長州征伐は、高杉晋作率いる奇兵隊と、後に徴兵制の祖となった大村益次郎の指揮で幕府軍は連戦連敗した。
 西郷は鹿児島にて朝廷に藩主命で長州再征反対の建白を提出した。
 一方、幕府側では、七月三〇日に将軍徳川家茂が大坂城中で病死したため、喪を秘して朝廷に願い出て、休戦の御沙汰書を請願。第二次征長は失敗に終わった。


 慶応三年(1867)年三月二五日、西郷は久光を奉じ、薩摩の精鋭七〇〇を率いて上京し、薩長土肥の四侯会議の下準備をしつつ、六月一五日に山縣有朋を訪問し、初めて倒幕の決意を告げた。
 一六日に西郷、小松帯刀、大久保利通、伊地知正治、山縣有朋、品川弥二郎等が会する元、改めて薩長同盟の誓約をした。

 同年九月九日、土佐藩士・後藤象二郎が来訪して坂本龍馬案に基づく大政奉還建白書を提出するので、挙兵を延期するように求めたが、西郷は拒否した(後日了承した)。
 前土佐藩主山内容堂から提出された建白書を見た将軍徳川慶喜は、一〇月一四日に大政奉還を朝廷に上奏し、一五日、朝廷からこれを勅許する旨の御沙汰書が出された。
 ところが、慶喜が大政奉還を上奏した同日、討幕と会津・桑名誅伐の密勅が、請書を出していた西郷、小松、大久保、品川等に下された(この辺り、七〇〇年振りに政権を取り戻す為とはいえ、朝廷もおかしなことをしている)。
 薩摩守は、徳川慶喜が身を退いたことで犠牲者を出すことなく大政奉還が行われたことは、イギリスの名誉革命に匹敵する程、日本人が世界に誇っていい無血革命と見ているが、大きな変革においては敗北方の責任者の首を取らずにはおられないような悲しい歴史の差がと人類の多くは無縁でいられないようである。

 密勅を持ち帰った西郷は、同年一一月一三日、藩主・島津忠義を奉じ、兵約三〇〇〇名を率いて鹿児島を発し、一一月下旬頃から有志に王政復古の大号令発布のための工作を始めさせた。
 一二月九日、薩摩、安芸、尾張、越前に宮中警護の為の出兵命令が出され、会津・桑名兵とこれら四藩兵が宮中警護を交替すると、王政復古の大号令が発布された。これにより戊辰戦争が始まった。

 周知の通り、西郷隆盛戊辰戦争においては実質的な総大将を務めた。
 慶応四年(1868)年一月三日、大坂の旧幕軍が上京を開始し、鳥羽・伏見の戦いで新式の銃火器を装備した西郷軍が三倍に及ぶ旧幕府軍を撃破したのを皮切りに、六日、徳川慶喜は松平容保・松平定敬以下、老中・大目付・外国奉行ら少数を伴い、大坂城を脱出して、軍艦開陽に搭乗して江戸へ退去した。
 翌七日に新政府は慶喜追討令を出し(←やはり、大政を奉還し、争うことを避けた相手に馬鹿な話である)、九日に有栖川宮熾仁親王を東征大総督に任じ、東国経略に乗り出した。

 その指揮下で西郷は独断で先鋒軍を率いて先発し、二月二八日には東海道の要衝箱根を占領。三島を本陣として、静岡に引き返した。
 三月九日、静岡で徳川慶喜の使者山岡鉄舟と会見し、徳川家処分案・七ヶ条を示した。その後、大総督府からの三月一五日江戸総攻撃の命令を受け取ると、静岡を発し、一一日に江戸に着き、池上本門寺の本陣に入った。

 三月一三日・一四日の両日、西郷は江戸幕府旗本・勝海舟と会談し、江戸城明け渡しについての交渉。
 会談の結果、徳川慶喜が江戸城を出て水戸に謹慎して朝廷への恭順の意を示したことで四月一一日に江戸城無血開城が行なわれた。

 倒幕の使命を果たした西郷は、東北戦線を他藩に任せて、配下の薩摩兵を率いて上野にて彰義隊攻撃を優先することとし、五月一五日これを打ち破り、六月九日京都に、一四日に鹿児島に帰還した。
 この功績で同年九月二六日、正三位に叙せられた西郷は一二月に藩主名で位階返上の案文を書き(ここで初めて「隆盛」を名乗った)、明治三年(1870)一月一八日に参政を辞め、相談役となった。
 七月三日に相談役を辞め、執務役となっていたが、太政官から鹿児島藩大参事に任命された。


 同年一二月、勅使岩倉具視・副使大久保利通が西郷の出仕を促すために鹿児島へ派遣され、西郷と交渉したが難航し、欧州視察から帰国した弟・従道の説得でようやく政治改革のために上京することを承諾した。
 明治四年(1871)年二月八日に東京に着くと参議として明治新政府に復職し、同年の廃藩置県に伴って士族に代わって編成された陸軍の大将となり、宮内都督も兼務した。
 再び正三位に叙せられた西郷は御親兵の創設を決め、鹿児島藩・山口藩・高知藩の兵を徴し、御親兵編成の命令を受けて東京市ヶ谷旧尾張藩邸に駐屯した(今も防衛省は東京都千代田区市ヶ谷にある)。
 二年前に全国の藩主は版籍奉還を行って、知藩事となっていたが、完全に藩を廃止し、新たな県を中央から派遣する知事に治めさせよう(所謂、廃藩置県を)と考えた大久保・木戸等と西郷は公私に渡って議論し、朝議を経て、廃藩置県を成立させた。
 しかしこのやり方は各藩主に御親兵として兵力を供出させ、手足をもいだ状態で、廃藩置県をいきなり断行するという、云わば騙し討ちに近い形であった。
 後々、華族という身分を与えられて東京に住み、禄を与えられた元藩主達はいいとしても、御親兵に軍務の職を奪われて職も特権も失うこととなった士族が不平不満を抱き、廃藩置県断行者―取り分け、政府に残った大久保達を恨むのも無理のない話だった。


 同年一一月一二日、岩倉具視が副使木戸孝允、大久保利通、伊藤博文、山口尚芳ら外交使節団と条約改正のために横浜から欧米各国への視察に出た際には西郷は国内の留守を任された。
 西郷等は官制・軍制の改革および警察制度の整備を続け、兵部省を陸軍省・海軍省に、御親兵を近衛兵に編成し直し、陸軍元帥兼参議を経て、明治六(1873)年五月の徴兵令実施に伴い、元帥が廃止されたので、西郷は陸軍大将兼参議となった。

 薩摩藩士時代より、欧米に対抗するため、日本、清、朝鮮のアジア連合を構想していた西郷は朝鮮に鎖国を止めさせることを考え、板垣退助・副島種臣等と協議し、調査の為に、池上四郎、武市正幹、彭城中平を清国、ロシア、朝鮮探偵として満洲に、派遣していた。

 明治六年(1873)年六月に外務少記・森山茂は、李朝政府が日本の国書を拒絶した上、使節を侮辱し、居留民の安全が脅かされているので、朝鮮から撤退するか、武力で修好条約を締結させるかの裁決が必要であると報告した。
 それを外務少輔・上野景範が内閣に議案として提出したことに始まったこの議案は、六月一二日から七参議により審議された。
 議案は当初、板垣が武力による修好条約締結(征韓論)を主張したのに対し、西郷は武力を不可として、自分が旧例の服装で全権大使になる(遣韓大使論)と主張して対立したが、板垣と副島が八月初めに西郷案に同意し、西郷派遣については、一六日に三条実美の同意を得て、一七日の閣議で決定された。
 しかし、明治天皇が「岩倉具視の帰朝を待って、岩倉と熟議して奏上せよ」との勅を下したため、発表は岩倉帰国まで待つことになった。

 確かに、一歩間違えれば戦争になりかねない話、正式な政府首脳部を欠いた状態で重大な決定を為そうとした明治天皇の指摘は的確と思う。


 九月に欧州から岩倉が帰国すると、先に外遊から帰国していた木戸孝允・大久保利通等の内治優先論から九月一四日の閣議では大使派遣問題は議決できず、一五日の再議で西郷派遣が一度は決定するが、木戸・大久保・大隈重信等の参議及び岩倉の右大臣辞職を表明する三条への圧力を、三条をして「急病」にかからしめ、太政大臣代行となった岩倉は三条を欠く状態で先の決定は為せない、とする殆ど反則のような手で西郷派遣を審議未了の形で、無期限延期に持ち込んだ。
 明治新政府に失望した西郷は辞職した。
 尚、この時、西郷の参議・近衛都督辞職は許可されたが、陸軍大将辞職と位階の返上は許されなかった。
 翌二五日、板垣、副島、後藤、江藤らの参議も辞職。最終的に征韓論遣韓大使派に関連した政治家、軍人、官僚六〇〇名余が次々に大量に辞任した。
 この後も辞職が続き、遅れて帰国した村田新八、池上四郎らもまた辞任した(明治六年政変)。


 下野した西郷は、鹿児島に帰着し、以来、大半を武村の自宅で猟(猟犬を連れてのウサギ狩り)に行き、山川の鰻温泉で休養していた。
 明治七年(1874)年三月一日、佐賀の乱で敗れた江藤新平が来訪する等、あからさまに士族を冷遇する新政府に不満を抱く士族は西郷への期待を高めていた。
 というのも、明治九年(1876)年三月に廃刀令、八月に金禄公債証書条例が制定されると、士族とその子弟で構成される私学校党の多くは、徴兵令で代々の武人であることを奪われたことに続き、帯刀と知行地という士族最後の特権をも奪われたことに憤慨した。  これらが佐賀の乱萩の乱といった不平士族の乱を勃発させたのだが、西郷はそう云った反乱に眉を顰める方だった。


 しかし西郷の想いとは裏腹に、彼の下野に同調した軍人・警吏が相次いで帰県した明治六(1873)年末以来、鹿児島県下は無職の血気多き壮年者がのさばり、それに影響された若者に溢れる状態になった。
 それを憂えた有志達が西郷に諮り、県令・大山綱良の協力を得て、明治七(1874)年六月頃に旧厩跡に私学校がつくられた。

 一方、政府は、鹿児島県士族の反乱がおきるのではと警戒し、年末から一月にかけて鹿児島県下の火薬庫から火薬・弾薬を順次船で運び出させた。
 これに対し、私学校は、既に陸海軍省設置の際に武器や火薬・弾薬の所管が陸海軍に移っていて、陸海軍がそれを運び出す権利を持っていたにもかかわらず、本来、これらは旧藩士の供出金で購入したり、作ったりしたものであるから、鹿児島県士族がいざというときに使用するものであるという意識を強く持っていた。

 やがてそういった背景から士族の奪われた権利を巡る火種は確実に薩摩の中で燻り続け、不平士族達の西郷への期待はますます高まっていった。



最期 吉良邸討ち入り事件における大石内蔵助よろしく、西郷隆盛は弟子達の蜂起を抑えきることが出来ず、彼を総大将として明治一〇(1877)年、西南戦争は勃発した。

 同年一月二〇日頃、大隅半島の小根占で狩猟をしていた西郷の元に私学校の学生達が陸軍の草牟田火薬庫の火薬・弾薬が夜中に公示も標識もなしに運び出され、赤龍丸に移されたのに触発されて火薬庫を襲ったことをしり、愕然とした。
 火薬庫襲撃を聞いた西郷が鹿児島へ帰ると、身辺警護に駆けつける人数が時とともに増え続けた。
 二月六日に私学校本校で大評議が開かれ、政府問罪のために大軍を率いて上京することに決し、翌七日に県令・大山綱良に上京の決意を告げた。
 こうして、不本意ながら西郷の挙兵が断行されることとなった。

 西南戦争を詳しく書くとそれだけで一つのサイトになるのでここでも大幅な省略をおこなせて頂く (以下、下表は西南戦争の流れ)。
明治一〇(1877)年二月一三日 募兵、新兵教練が終わって、大隊編制が行われる。
一四日 私学校本校横の練兵場で西郷による正規大隊の閲兵式が行われた。
一五日 薩軍の一番大隊が鹿児島から先発(事実上の開戦)。
一七日 西郷、鹿児島を出発し、加治木、人吉を経て熊本へ向う。
二〇日 別府晋介隊、川尻にて熊本鎮台偵察隊と衝突。熊本に向かって追撃。
二一日 順次、到着した薩軍大隊、熊本鎮台を包囲して戦う。
二二日 早朝から熊本城を総攻撃。
 昼過ぎ、西郷が世継宮に到着。政府軍一部の植木進出に対し、村田三介・伊東直二小隊を植木に派兵。
 夕刻、伊東隊の岩切正九郎が乃木希典率いる第一四連隊の軍旗を分捕る。
 夜、本荘に本営を移し、軍議で熊本城長囲と一部小倉電撃を決す。
二三日 池上四郎が政府軍と田原・高瀬・植木などで衝突し、電撃作戦は失敗。
三月一日 田原坂をめぐる激戦で、篠原国幹ら勇猛の士が次々と戦死。
二〇日 兵の交替の隙を衝かれ、政府軍に奪われる。政府背面軍に敗れた永山が御船で自焚・自刃。
四月八日 池上が安政橋口の戦いで敗れ、政府背面軍と鎮台の連絡が可能に。以後、薩軍は腹背に敵を受ける形になった。
一四日 熊本城の包囲を解いて木山に退却。
二七日 桐野利秋が江代に到着。
二八日 軍議が開かれ、各隊の部署を定め、日を追って順次、各地に配備した。
五月三一日 桐野利秋が新たな根拠地としていた軍務所(元宮崎支庁舎)に着き、人吉から宮崎に本営が移る。ここでは、桐野の指示により大量の軍票(西郷札)が造られる。
七月一〇日 加久藤・飯野、政府軍の全面攻撃に支え切れず、高原麓・野尻方面へ退却。
一一日 小林、政府軍の手に落ちる。
二一日 堀与八郎、延岡方面の薩兵約一〇〇〇を率い、高原麓奪還の為にを政府軍と激戦をするも勝てず、庄内、谷頭へ退却した。
二四日 村田、都城で政府軍六箇旅団に大敗、宮崎へ退く。
三一日 桐野・村田等、宮崎で敗れ、広瀬・佐土原へ退く。
八月一日 薩軍が佐土原で敗れ、政府軍は宮崎を占領。
二日 宮崎から退却した西郷は、延岡大貫村に着き、ここに九日まで滞在した。
七日 池上の指示で火薬製作所・病院を熊田に移し、ここを本営とする。
一〇日 西郷、本小路・無鹿・長井村笹首と移動。
一二日 参軍・山縣有朋は政府軍の延岡攻撃を部署。薩軍、敗れて延岡を総退却。
一四日 西郷、長井村可愛に到着し、以後、ここに滞在した。
一五日 和田峠を中心に布陣。西南戦争最後の大戦に挑む。
 同日、早朝より西郷が初めて陣頭に立ち、和田峠頂上で指揮したが、大敗して長井村へ退き、政府軍はこれを追って長井包囲網を作る。
一六日 西郷は解軍の令を出し、書類・陸軍大将の軍服を焼く。以後、負傷者・諸隊の降伏が相次ぐ。西郷は残兵とともに、三田井まで脱出してから今後の方針を定めると決した。
一七日 夜、長井村を発し、可愛嶽(えのたけ)に登り、包囲網からの突破を試み、これに成功し、宮崎・鹿児島の山岳部を踏破すること一〇余日、鹿児島への帰還に成功した。
九月一日 鹿児島に入った薩摩軍は城山を占拠。
三日 政府軍が城下の大半を制圧。
六日 城山包囲態勢を完成。
一九日 山野田一輔・河野主一郎、西郷の救命の為であることを隠し、挙兵の意を説く為と称して、軍使となって参軍川村純義のもとに出向き、捕らえられる。
二二日 西郷、城山決死の檄を飛ばす。
二三日 西郷、解放された山野田から川村の返事を聞き、参軍山縣からの自決を勧める書簡を読んだが、返事を出さず。
二四日 午前四時、政府軍は城山を総攻撃。西郷・桐野・桂久武・村田・池上・別府・辺見十郎太ら将士四〇余名は洞前に整列し、岩崎口に進撃。
 国分寿介が剣に伏して自刃、桂久武が被弾して斃れ、他にも弾丸に斃れる者が続き、西郷も股と腹に被弾、別府晋介を顧みて「晋どん、もう、ここらでよか」と云い、将士が跪いて見守る中、襟を正し、跪座し遙かに東に向かって拝礼した。
 拝礼後、切腹する西郷を、別府は「許しゃったもんせ(お許し下さい)」と云って介錯したのは有名。西郷隆盛享年五〇歳。


 西郷の死を受け、敗残の将士達は岩崎口に進撃を続け、私学校の一角にあった防塁に籠った後、自刃、刺し違え、あるいは戦死し、ここに西南戦争は終結した。
 不平士族による反乱及び、軍隊が出動する程の反乱は平成二一(2009)年現在、これが最後なった(二・二六事件を反乱と取るかどうかは個々の判断に委ねます)。


 西郷の首は折田正助邸門前に埋められたとされるが、『西南記伝』には九説もあり、詳細は不明。
 いずれにしても後に発見されて山縣有朋の手によって手厚く葬られた(戦後のことである)。

 西南戦争に先立って、西郷は明治一〇(1877)年二月二五日に官位を剥奪され、死後、「賊軍の将」として遇された。
 しかし飾らない西郷の人柄を愛した明治天皇の意向や黒田清隆らの努力があって、明治二二(1889)年二月一一日、大日本帝国憲法発布に伴う大赦で赦され、正三位を追贈された。
 明治天皇は西郷の死を聞いた際にも「西郷を殺せとは云わなかった…。」と洩らしていた、と云われている。



生存伝説 西郷隆盛の遺体は間違いなく政府軍の元にもたらされた。
 だが、生前より絶大だった西郷の人気は士族反乱の最後を飾った事から、地元・薩摩を中心に元士族達の間で増大こそすれ、決して衰える事はなかった。
 役後、西郷が「中国大陸に逃れて生存している。」と云う風聞が広まっていた。


 西郷の死後も西郷を慕い、懐かしむ世間の言動は後を絶たなかった。今でも、
 「鹿児島県人の前で西郷どん黒豚の悪口を云えば、生麦事件のイギリス人と同じ目に遭う。」

 と書かれた県民性の本まであるらしい。
 まあ、当然のことながら、実際に西郷の悪口を云って斬られた人間の話なんて聞いたことはないから、誇張を交えた例え話にしても、西郷を慕う者達の中から、早くも翌明治一一(1878)年五月一四日に紀尾井坂にて、西郷下野以来、明治六年の政変に憤慨していた石川士族等の手で、大久保利通が暗殺された。

 西郷の死は明治天皇も悼むところであったが、同時に後ろ暗いところのある維新以来の政争の勝者の中には西郷の生存に怯える者もいた。
 つまり、西郷に、例え逃亡者となっても生きていて欲しいと思う者達の西郷生存への願望が生存の噂を生み、一方で西郷の生存を望まない者の疑心暗鬼まで生み出した。
 それが実際の事件を生むことになったのが、ロシア皇太子ニコライの来日だった。


 明治二四(1891)年四月二七日にロマノフ朝ロシア帝国より皇太子・ニコライ(後のロシア帝国ラストエンペラー・ニコライ2世)が来日した。
 まだ大日本帝国憲法の発布(明治二二年)から二年しか経ていない日本にとって、ロシアは超大国で、相手の機嫌を損ねまい、と日本は国を挙げて皇太子を歓迎した。
 そしてその想いが高じたのか、ニコライに来日に西南戦争を生き延びた西郷隆盛が同行する、との噂が実しやかに囁かれた。

 ニコライの公式上陸日は五月四日だが、実際には長崎沖に停泊中に何度もお忍びで上陸しており、鹿児島の土も踏んでいた。
 それは同時に西郷の極秘帰郷を噂させるものでもあった。
 そして同月一一日にニコライが琵琶湖遊覧から京都に戻る際に滋賀県大津市に差し掛かった時、警備を務めていた巡査の津田三蔵が突如人力車に乗るニコライに斬り付け、ニコライを負傷させるという事件が起きた!!

 所謂、大津事件で、ニコライは右側頭部に9cmに及ぶ切り傷を負ったが、人力車夫である向畑治三郎と北賀市市太郎に取り押さえられ、幸いにして軽傷で済み、津田は同じ警備担当の巡査に逮捕された。
 外国要人、しかも皇族がよりによって警備を務める筈の巡査に襲われる、という不祥事を通り越した、モロ外交問題となる一大事に国家も国民も上を下にの大騒ぎとなった。
 明治天皇がロシア艦まで謝罪と見舞いに行き、京都では一人の女性が皇太子への詫び状を書いて自決し、と様々な手が打たれ、津田を極刑に処するかどうかを含めて司法問題にも発展した。

 幸い、ニコライは明治天皇の訪問を感謝し、その父であるロシア皇帝も暗に津田を極刑にして欲しい旨をほのめかしもしたが、日本に対して悪意のない旨を伝えて来た。
 ニコライを助けた向畑と北賀市はロシア艦に招待され、水兵達から胴上げとサヨナラホームランを放ったバッターばりのもみくちゃ歓迎を受けた(←ロシア人のこういうところ、大好きだ……(笑))。
 こうして大津事件は外交上の問題としては比較的早期に解決した。だが、国内的には司法上の問題が残り、様々な論議や経て津田三蔵の刑は明治二四(1891)年五月二七日に無期徒刑と決まった。


 当の津田は同年九月二九日に獄死したため、事件の動機には今も謎が残る。精神病だったとの説(←そういう奴に要人警護を命じるか?)もあれば、「殺すつもりはなかった、刀を献上しようとしただけ。」という取り調べ中の津田の証言もある。
 そして津田が凶行に及んだ理由の一つとして、西郷の帰国が関与していた、との説もあるのだ。

 津田は西南戦争に下士官として従軍したという戦歴があり、戦功により勲七等を授与されていた。
 つまりは西郷を倒す為の戦争に勝利して授与された名誉故に、もし西郷が日本政界に復帰するようなことがあれば西南戦争での戦功は無効となり、勲章は剥奪される、と思い詰めて凶行に及んだといわれているのである。
 だが、これはどうも薩摩守的に眉唾だ(津田がその様なことを本当に証言したのかを含めて)。

 津田が収監から半年も経ない内に病死したのでなければもう少しはっきりした証言も出たと思われるが、ニコライを斬ったとからと云って、西郷の処遇が変わるとは思えない。
 正常な判断力を失っていたとすればどのような考えも成り立つが、これは一大事件に絡んでいてもおかしくない程、西郷が世界に一目置かれる人物であることを人々は願った故に派生した都市伝説だろう。
 本当に津田が西郷に関連してニコライを襲った、と証言したのだとしたら、官憲は全力でそれを封じるのが妥当だと薩摩守は思うが、如何なものだろう?
 ともあれ、確かに云えるのは西郷隆盛に生きて欲しい、と考える人々の想いはそれほど大きかった、ということである。

 

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令和三(2021)年五月二〇日 最終更新