菜根版戦闘員VOW

その他の番組


1. 雑魚と雑魚のぶつかり合い(秘密戦隊ゴレンジャー)
 世に云う戦隊シリーズの先駆けとなった番組である。描かれている戦いはゴレンジャーの所属する正義の組織・イーグルと悪の組織・黒十字軍の戦いである。勿論メインはゴレンジャー対怪人の対決である。が、組織対組織である以上、将の下に兵卒がいる、双方に。

 ゴレンジャーの5人とて、元は日本各地にあるイーグルの支部に何十人といる隊員の一人に過ぎなかったのである。
 アカレンジャー・海城剛(誠直也)は関東支部、アオレンジャー・新命明(宮内洋)は東北支部、キレンジャー大岩大太(畠山麦)は九州支部、モモレンジャー・ペギー松山(小牧りさ)は北海道支部、ミドレンジャー・明日香健二(伊藤幸雄)は関西支部に所属していたところを黒十字軍の襲撃を受け、彼等だけが運良く生き延びたことからゴレンジャーに選ばれた。
 そう、ゴレンジャーはその誕生の発端に余りにもあっけなく散った隊員たちの犠牲があったのである。その中には海城剛の兄も含まれている。

 このプロローグ部に限らず、イーグルの隊員達は物の見事に雑魚である。悲しいほど雑魚である。後述するが、黒十字軍も大量の雑魚がいるのだが、その雑魚同士の戦いでも一方的にやられることの方が多いのだ。
 戦隊物を意識してか、イーグルも黒十字軍も銃器・火器を当然のように装備している。ドンパチはしょっちゅうである。それは取りも直さず、黒十字軍の攻撃の前に多くの隊員達が為す術もなく倒れてゆく事に直結している。南無三……。

 只の兵卒相手にこのザマなのだから大将格の怪人なんて相手にも……あれれれ、怪人との接敵が皆無に近いぞ?!
 勿論全ての話を参照したわけではないのだが、シルバータイタンが見た限り、只の隊員と怪人の接触はあったかもしれないが、多勢で掛かっていって蹴散らされるシーンはなかったと思うがなぁ…あっそうか!只でさえ五人がかりで「卑怯!」の声の絶えない戦隊シリーズ、他の隊員達が多勢でかかっていった後で五人がかりじゃカッコよさもへったくれもない。
 しかも肉弾戦で一度にかかれるのはせいぜい三人、同じ様なことをしていてはゴレンジャーの立場がない。成る程、そういう事か、ふ〜ん(←勝手に納得している)。

 さて、イーグルの戦闘員達が「量」的に雑魚の悲哀を味わっている一方で、黒十字軍戦闘員達は「質」的に雑魚の悲哀を味わっている。黒十字軍の戦闘員達は組織名通りに黒ずくめの戦闘服にゴーグルをかけ、通常は機関銃、乱戦中は広刃の剣でもって戦う。
 掛け声は「ホイ〜!」でショッカーの戦闘員よりも緊張感に欠ける連中だ。しかし、イーグルの通常の戦闘員同士の戦いでは機関銃を乱射しつつ結構善戦している。問題はゴレンジャーが出てきてからである。

 何人がかりで掛かっていっても一人のレンジャーにも勝てず蹴散らされるのは今更説明の必要のないことで、その原則は仮面ライダーシリーズと変わらないのだが、なんせ相手は五人五色の攻撃を仕掛けてくるのである。
 肉弾戦でも打撃系と投げ技系がいる上に武器まで使われるのである。哀れ黒十字軍、ある者は鞭打たれ、ある者は射られ、ある者は投げ飛ばされ、ある者は爆風に吹き飛ばされ、ある者は切り裂かれるのである。

 シルバータイタンが黒十字軍の戦闘員だとして、個人的に相手にしたくないのがキレンジャーとモモレンジャーである。
 キレンジャーは戦闘中だというのに何故かなぞなぞを問い掛けてくるのである。何故?番組中に説明はない。そしてそれに答える黒十字軍も黒十字軍である。
 で、結局は投げ飛ばされたり、叩きのめされたりするのである。戦闘中にわけのわからん展開になって、結局やられるんじゃあ戦士の誇りもあったものではない。
 一方のモモレンジャーはイヤリング型爆弾を投げて数人の戦闘員をふっ飛ばすのだが、その時の台詞が「いいわね、いくわよ。」である。「いいわね…。」って云われてもねぇ…。

 黒十字軍戦闘員にラッキーなことが一つあるとすれば、それは怪人とゴレンジャーの戦闘の巻き添えを食わないと云うことだろうか?そもそも仮面ライダーシリーズと違って、怪人と戦闘員は共闘しない。大抵。怪人が動き出したときには戦闘員達はもう全員叩きのめされた後である。
 まぁ、飛び道具まで与えられておきながら雑魚を抜け切れず、様々な形で痛い目に遭う可能性を背負っている彼らのせめてもの救いといえよう。
 結局、イーグルも黒十字軍も組織で動いている。一番下っ端が一番数が多いのは当然で、あっけなく蹴散らされる役が彼等に回ってくるのはこれまた当然の成り行きである。

 後にゴレンジャーとなった面々も一隊員として動いているときには黒十字軍の攻撃の前に為す術がなかったのである。修羅場を生き残り、名のある立場になって初めて雑魚を脱却できるのである。
 人の上に立つ人は、自らの才を誇ってもいいが、時により多くの人々の犠牲の下にその地位が成り立っていないかを考えてみるのもいいのではないだろうか?


2. そいつ等に罪はない(水戸黄門)
 偉大なるマンネリ・ワールド・「水戸黄門」には三通りの雑魚が存在する。第一は20時5分頃に主に町娘にからんで佐々木助三郎(杉良太郎・里見浩太郎・あおい輝彦・岸本裕二・原田龍二)、渥美格之進(横内正・大和田伸也・伊吹吾郎・山田純大・合田雅吏)にとっちめられる、地元のゴロツキ・やくざ物の手下の類、いわゆる「野郎ども」である。
 第二は20時40分頃に悪代官、悪奉行の「出合え、出合え〜!!」の叫びに応じて集結し、助さん、格さん、水戸光圀公(東野英次郎・西村晃・佐野浅夫・石坂浩二・里見浩太朗)、風車の弥七(中谷一郎)、かげろうお銀・疾風のお娟(由美かおる)、柘植の飛び猿(野村将稀)、風の鬼若(照英)等に叩きのめされ、印籠の前に平伏する、いわゆる「ものども」である。
 第三はシリーズを通じて光圀一行の共の者(ストーリーの発端となる地方大名家の重臣の娘が主)を付け狙う悪の組織の配下達で、いわゆる「手の者」である。

 さて、何故こうも雑魚が多いのか?あ、否、元々数が多くても戦力にならないのを「雑魚」と評するのだが、そういう意味ではなく、一行の前に立ち塞がるのがどうしてこうも雑魚ばかりなのか?という意味で云っているのである。
 その答えは、取りも直さず一行が反則なまでに強者揃いだからである。
 助さんは殺陣において、峰討ちで戦っているが、これで多勢を相手にするのではとんでもない技量が要求される。まして格さんは徒手空拳である。「水戸黄門」の世界に剣道三倍段という言葉は存在しないのだろうか?
 勿論、両人とも改造人間でもなければ、巨大宇宙人が憑依しているわけでもない。変身も蒸着も赤熱も焼結もしない生身の体で戦っている。そしてべらぼうに強いのはこの二人だけではない。

 剣技に忍術の弥七の風車は外れた試しがなく、飛び猿の腕力は壁を砕き、大岩を持ち上げ、錠前をねじ切り、鬼若もそれに劣らぬ怪力振りを見せる。
 お銀は飛び道具を使いこなし、剣術に優れるのは勿論、体術にも秀で、首4の字は巨漢の南蛮忍術使い・呑竜(大前均)を悶絶させた(なんか羨ましかった…)。
 光圀の杖は刀を相手にしても決して折れず、簡単に群がる敵をあしらう。殆ど反則といっていい。「水戸黄門」の長い歴史にあって彼等は負けたことがないのである(謀略や取引のためにつかまることはあったが)。

 第六部の鉄羅漢玄竜(天津敏)や第二十八部の阿修羅の玄亀(沢竜二)等は助さんと格さんの二人を同時に渡り合ったこともあったが、正面切って彼等を打ち負かした者は皆無である。
 完全に創作上の人物である弥七、お銀、飛び猿はともかく、実在の人物である光圀が老人でありながらあそこまで強かったとは思えない(弱くないのは認める。事実、光圀は隠居後に藤井紋太夫という侍を自らの手で刺殺している)。
 まして、助さん・格さんのモデルとなった佐々介三郎と安攪覚兵衛は武士とはいえ、剣士というより学者である。薩摩示限流に匹敵する水戸示限流の心得があったにはあったろうが、あそこまでの達人にしてしまうのは「反則」を通り越して「犯罪」である。

 さて、何故にああも雑魚が多いかは彼等の度を越した強さの設定であることが一目瞭然であるとして、シルバータイタンが問いたいのは雑魚にして胸のすく奴とすかない奴等がいるということである。
 主人公達にはかっこのいい殺陣の為にも多くの雑魚が必要である。まして、ヒーロー番組で叩きのめされる戦闘員達は、洗脳や改造を施された哀れむべき存在だったり、彼等なりの理想の為に戦う誇り高い戦士だったりするのだが、時代劇の雑魚の大半はチンピラである。やくざやゴロツキの手下として、利権と金の為に弱い者苛めを繰り返す唾棄すべき連中である。ぶっ飛ばされるのは見ていて爽快である。

 つまりヒーロー番組の戦闘員がぶっ飛ばされるときに感じる哀れみがチンピラどもには微塵もない。が、しかし例外があるのである。それは20時40分頃にわらわらと登場する、「ものども」である。

 「水戸黄門」において、黄門様一行は世直しの旅をしているわけだが、罰せられるのは悪い事をしている奴等である、当然のことながら。で、悪い奴等というのが、地元のゴロツキ、チンピラ、そしてそのチンピラに十手を与えた悪代官、悪奉行、場合によってはわが子を世継ぎに狙う佞臣・外戚の類である。
 当然のことながら、20時40分頃に一行が乗りこむ悪人のいるところは大抵悪代官、悪奉行のところだから「出会え!出会え!」と呼ばれて出てくるのは侍である。現代一般企業で云えば社員だ。上司に緊急事態として呼ばれれば、即座に駆けつけることになる。
 そこで「ひっ捕えい!」だの「斬り捨てい!」だの云われれば部下として当然従うことになり、、「はっ!」と同意の声を挙げる。
 そこで光圀は「仕方ありませんな…助さん、格さん、懲らしめてやりなさい!!」と御決まりのフレーズが出て視聴者御待ちかねの活劇が始まる。一行は悪人どもを散々に打ちのめし、「助さん、格さん、もう良いでしょう!」となって、偉大なるマンネリ・印籠の登場となって、悪人達は畏れ入る・……ちょって待って欲しい。

 悪代官、悪奉行、ゴロツキ、「野郎ども」が叩きのめされるのは当然として、「ものども」には叩きのめされなきゃならん罪はあるのだろうか?そりゃ、上司の命令に従っているだけとはいえ、相手は抜刀して襲い掛かってくるのだからこちらも手向かわない訳には行かないだろうし、その為に素手で立ち向かったり、峰打ちで戦うのはわかる。
 光圀の「懲らしめてやりなさい!」の一言にも集まってくる「ものども」は含まれてはいないと考えたいところだが、結局懲らしめられる連中と十把ひとかげらにされるのには納得がいかない。
 偶には罪なく叩きのめされる「ものども」の立場を考えてほしいと思うのはシルバータイタンだけだろうか?


3. 無駄な死はない(動物奇想天外)
 ヒーロー番組以上に動物の世界は弱肉強食である。だが、ヒーロー番組の悪の組織と違って全滅するわけにはいかないのは弱肉強食以上の大自然の掟である。
 その為に、ありとあらゆる生き物は食べることと寝ることと子孫を残すことをメインの本能としている。勿論、強い者と弱い者では弱い者ほど命を落しやすいわけだから、絶滅を防ぐ為にも弱い動物は必然的に「多産」という手段を採る。

 多産で生まれる動物は年間に産む回数も、一度に産む量も多い。一生に一度しか産まない生物では尚更である。魚類の世界に目を転じると文字通り「雑魚」だらけである。
 一つの仮定として、あなたが密林なり大平原なりをさまよって飢餓に苦しんだとする。当然、他の生物の命を奪ってでも生き延びなければならない場合が想定される。
 今、あなたの目の前に二種類の親子連れの動物がいて、あなたは刀を一振り持っているとする。二種類の動物のうち、片方がシママングースの親子連れで片方がマウンテンゴリラの親子連れの場合、あなたはどちらを襲うだろうか?
 シママングースという動物に余程思い入れがない限り、生き残ることを考えるなら、ゴリラに襲いかかったりはしないと思う。当然、ゴリラはそんなに子供を産まず、シママングースは数頭の子を一度に産む。

 話が生物学的なことに逸れまくっているが、もう少しお付き合い願いたい。
 つまり防衛してくれる者が多いほど、生存率は高くなり、多く産まれてくる必要がなくなる。逆に多く産まれ過ぎると自然界のバランスが崩れ、全てが生き残れなくなる。
 母親が直接子を産み、授乳し、生体になるまで養育する哺乳類よりは、卵生の鳥類の方が、同じ卵生でも産みっぱなしの爬虫類のほうが、更にその卵が卵殻を持たず,乾燥に弱い寒天質で保護されているのみの両生類の方が、保護物質を持たない卵の魚類は更にそれよりも多くの子を産む。

 勿論成長過程での犠牲を考慮してのことである。特に魚類は数が凄まじい、一生に一度しか産まない鮭・鱒は2000〜3000、同じ一度の出産でも広い外洋から河川への遡上を求められるウナギは500万、最多産で有名なマンボウは2、3億は産む。
 逆に卵胎生で殆ど敵のいない白鮫は一匹だが、何と母体内で、同時に受精した兄弟達で食い殺しあって最強の者が出てくるのだから生存率は抜群である。アー動物の世界は面白い(笑)。

 「動物奇想天外」は動物の生態を面白おかしく、時に感動的に実験やクイズを交えて紹介してくれる番組なのだが、生態を追う以上、当然上記のような動物達の生き残りをかけた戦いが主題になることも多い。
 そこで我々視聴者は実に多くの生物の死を目の当たりにすることになる。話の構成によって、ある動物の死は何とも思わないのに、別の動物の死に心を痛めるという変な状況にもよく陥る。

 例えば、ライオンがヌーを襲って食べるのはごく日常的なことだが、ライオンが主役だと、狩の成功を祝し、ヌーが主役だと、その死に心を痛める、といった具合である。
 また、頻繁に死が描かれる動物や、哺乳類より下等な動物ほど余りその死に心を痛めない。あたかも強く生きてきた大幹部の死には何かを感じながらも戦闘員の毎度毎度の敗北には笑っているかのように。
 同じ阿呆な死に様でも、幹部だと心底楽しんだり、痛烈に馬鹿にしたりするが、これが戦闘員だとジョーク程度にしかみなさないことも多い。
 数が多ければ多いほど死が軽んじられる、あたかも1課の刑事が新米時代は熱血漢でもベテランになるにつれて人の死に慣れ過ぎてひどく冷淡に映るかのように。
 生きる為に必要最低限に他の生き物の命を奪うことを悪とはしない。それを悪とするならシルバータイタンの焼き鳥・フライドチキン好きは忽ち鶏に顔向けが出来なくなるだろう(苦笑)。しかし、命というものが多くの命の犠牲のもとに成り立っていることは認識しておくべきである。

 確かに動物の世界を見ていれば目を覆いたくなるような残酷なシーンも少なくない。だが、ある日トミーズ雅がいいことを云ってくれた。「無駄な死がないですよね。」の一言である。
 云うまでもなく全ての死を迎えた動物が他の生物の糧として新たな命を繋いでいることを云うのである。また、この番組のナレーションではしばしば「無駄な殺戮は行われない。」ということが語られる。補足すると「殺生」はあっても「殺戮」はないと云ったところだろうか?

 シルバータイタンがヒーロー番組でも現実の世界でも一番その死に心を痛めるのが意味のない無駄な殺戮による死である。この房のテーマからはいささか外れた番組を例に持ってきたが、命と死というものから、是非この観点を紹介したかったので、敢えて引用したことをここにお断りしよう。


4. 精鋭タマネギ部隊(パタリロ!)
 常春の国マリネラの国王パタリロ=ド=マリネール8世の誕生と同時に、彼の護衛を主に養育・政治補佐に勤める精鋭部隊にして、マリネラの若者の憧れの的とも云える国王親衛隊である。
 全員同じタマネギ頭のかつらをかぶり同じ特殊メイクで同じ顔で雁首を揃えているのは阿呆らしいタマネギ頭に身をやつしているからこそ、警戒されることなく国王の身辺警護が可能になるという理屈である。
 そのメイクの下は全員が容姿端麗の若者で(1号から3号の初期メンバーはパタリロとほぼ同い年の子を持つ年であるが)知力・体力に秀でた軍人の中から選ばれた正真正銘のエリートである。

 タマネギ部隊の成立はパタリロの誕生後まもなくのことであり、彼のあまりの異常ぶり(天才と何とやらは紙一重状態)に成長を心配した母のエトランジュが自身の体の弱さと夫であり国王であるヒギンズ3世が高齢であることを考慮し、マリネラ軍人(陸軍、海軍、戦略研究室など)の中から優れた人材6名を選抜し、パタリロの身辺警護・養育を命じたことに始まる。
 その後、メンバーは約400名にまで増員され、パタリロに近侍する者もいれば、世界各国のマリネラ大使館に勤めるものなど、政治家・軍人として精鋭に恥じない働きをしている。

 その為にも彼等の採用条件は厳しく、文武に秀でているのは当然のことで、家柄、容姿、身長と云った個人の力ではどうしようもないことまで求められるのである(もっとも、気候と経済状態が良好なこの国では大抵の若者は人相が良い)。
 そしてそれ以上に求められるのが奇才ながらも破天荒な国王パタリロについていくだけの肉体的・精神的なタフネスである(殊にパタリロの主治医は医学を無視したパタリロの特異体質に一週間で発狂するほどである)。
 さて、ここで振りかえってみるとタマネギ部隊の精鋭性を疑うものはいないだろう。シルバータイタン自身、ショッカーの戦闘員や「水戸黄門」の「ものども・やろうども・手のもの」など及びもつかないのではと思わされる。
 だが、何度もこの項に書いているように、戦闘員の幸不幸は個々の強弱で決まるのではない。また、同じ戦闘能力でも名があるのかないのかで随分扱いが違ってくる。そしてこの「名」の持つ重みを端的に表しているのがこの精鋭タマネギ部隊なのである。

 タマネギ部隊は皆同じメイクで見た目には同じ顔を衆人にさらしているわけだが、当然仕事を終え、メイクを落すと十人十色、百人百色の美顔がある。少数ながら素顔がはっきりしているものもいる。21号、77号、への9号、333号(欠番)、444号といった一回切りの者が主だが、1号、44号といった何度も素顔が出ているものもいる。

 実際にタマネギ部隊で本名が明らかになったものは極々稀で、後は素顔と番号が一致するものがアイデンティティのある存在となる。では、素顔が出るのと出ないのとでどう待遇が違っているのかを検証しよう。

 エリート部隊であるタマネギ達も、決して「エリート」という名の上に胡座をかける気楽な身分ではない。破天荒な国王パタリロの常識外れな活動のお供と後始末を想像するだけで体と精神を削る重労働であることが覗える。
 パタリロによる殴る蹴るの暴行は愚か、斧で頭を勝ち割られたり,矢で射られたり、爆発に巻き込まれることも日常茶飯事なのだ(パタリロがタマネギによって同じ目に逢う事も日常茶飯事である)。まあ、ギャグ漫画なので滅多な事では死にはしないが…。

 また、「パタリロ!」に出てくるのキャラクターでトンでもない人物はパタリロだけではない。ダイヤモンドを唯一の産業としながらも裕福なマリネラは商売敵も多く、そんな富国の国王である立場から、パタリロの命を狙う者は多い。
 更にパタリロと腐れ縁にある英国MI6(国軍情報局第6課)のパンコラン少佐、その同性の愛人(オェッ)にして元国際ダイヤモンド輸出機構の殺し屋マライヒ、CIAのヒューイット(ロリコン)といった面々も職業柄、KGBや中央販売機構(ダイヤの輸出組織で商売敵の暗殺も厭わない)にS国情報部といった裏の組織とのいざこざが絶えず、パタリロやタマネギ達もよく巻き込まれる(実際には大半がパタリロの方でしゃしゃり出るのだが…)。

 そして精鋭タマネギ部隊の面々もこのバンコランやマライヒ、KGBの殺し屋、S国情報部の大立者・氷のミハイル等といった連中にかかれば忽ち仮面ライダーとショッカーの戦闘員の関係にされてしまうのだ。勿論タマネギがショッカーである。
 人海戦術やパタリロの陣頭指揮下ではそこそこの善戦をすることもあるのだが、一対一では形無しである。
 確かにパタリロの世界は知力・科学力・戦闘力・財力の全てがトンでもないレベルで動いている。名前が出る人間の大半が超人レベルである。
 これで多くの面子を揃えているタマネギ部隊にまで超人レベルのアイデンティティをもたせるとなるといかに鬼才の魔夜峰央氏といえども書きこなすことは至難である(実際に長い長い「パタリロ!」の歴史にあって多くの貴重なキャラクターが埋没してしまっているし、同一番号のタマネギ間の矛盾の存在を作者は認めている)。
 タマネギ部隊に限らず、名前を持たない集団があの漫画の中で雑魚にならないのは初めから至難だったといえる。

 さて、名前がないことによって雑魚化するのなら名前があるとそこそこの活躍ができる、ということを立証してくれるのが霊感青年として名高いタマネギ44号である。
 除霊術や霊界交信のみならず、生身の人間を霊界に送ることすら出来る彼は何度も素顔で登場している。
 普段は高慢なパタリロも彼に霊障から救われた直後しばしの間は敬意を払っていた(あくまで「しばし」だが)。多くの貴重キャラが連載の時の流れで忘れられ,出番をなくしていく中で彼の活躍している期間は長い(その為非番も無視されるのが彼の悲劇だ)。
 勿論彼の優れた霊能力は彼のアイデンティティを確立している。素顔での出番が多いのもその為で、肉弾戦に携わることも殆どなく、かっこ悪さは皆無である。名前の持つ重みがわかるというものである。

 集団として幸福になれるか不幸になるかは個々の強弱で決まるのではないことは何度も書いてきた。となると集団が強さを発揮できるか、幸福になれるかは指揮官の采配に関わってくる。これは現実の歴史における事実でもある。
 無能な指揮官に率いられた精鋭が、優秀な指揮官に率いられた雑魚に破れた例は枚挙に暇がない(勿論必ずそうなると断言できる単純なものではないが)。タマネギ部隊のリーダーは1号でも、それを越える指揮権を持つのは勿論パタリロである。タマネギ部隊は強いか?弱いか?、幸福か?不幸か?答えは簡単には出ないが、云えるのはどうなる時も両極端ということであろう。

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令和三(2021)年六月一一日 最終更新