第玖頁 大石良雄……許された切腹

名前大石良雄(おおいし・よしお)
血統大石氏(平将門討伐で有名な押領使・藤原秀郷の末裔)
地位赤穂藩筆頭家老
通称内蔵助
生年万治二(1659)年
切腹年月日元禄一六(1703)年二月四日
切腹場所本藩主細川綱利江戸屋敷
介錯人安場一平(細川家家臣)
見届け人荒木政羽(幕府目付)
辞世極楽の 道はひとすぢ 君ともに 阿弥陀をそへて 四十八人
略歴 万治二(1659)年、父・大石良昭と母・くま(池田由成の娘)の嫡男として赤穂藩に生まれた。幼名は松之丞(まつのじょう)。

 延宝元(1673)年九月六日、父・良昭が若くして亡くなったため、祖父・良欽の養子となった。同年、元服して大石喜内(きない)と称した。
 延宝五(1677)年一月二六日、祖父・良欽が世を去り、遺領一五〇〇石と大石家代々に受け継がれる「内蔵助(くらのすけ)」の通称を受け継いだ。同時に赤穂藩の家老見習いになった。時に大石内蔵助良雄一九歳。
 延宝七(1679)年、二一歳で筆頭家老就任。

 貞享四(1686)年、但馬豊岡藩京極家筆頭家老・石束毎公(いしづかつねよし)の娘・りくと結婚。元禄元(1688)年、嫡男・松之丞(四十七士の一人として有名な大石主税)が生まれ、その後も長女くう、次男吉之進、次女るり、と子宝にも恵まれた。

 元禄七(1694)年二月、備中松山藩水谷家が改易となった際、主君・浅野内匠頭長矩が松山城の収公役に任じられ、内蔵助はそれに先発して松山城に入った。
 城内では藩士達が改易を不服として抗戦せんとしていたが、家老・鶴見内蔵助を説得して城を明け渡させた。偶然同じ「内蔵助」の通称を持つ者同士が話し合った訳だが、後々の大石内蔵助の運命を思えば何とも皮肉な話である。
 松山城明け渡し後、長矩は赤穂へ帰国したが、内蔵助は在番として留まり、翌年の新城主着任まで一年半余り、松山城を管理した。

 元禄八(1695)年八月に赤穂へ帰国。
 元禄一三(1700)年六月、浅野長矩が参勤交代の為、江戸に向けて赤穂を発ったが、これが今生の別れとなったのを浅野長矩も内蔵助も知る由は無かった。

 元禄一四(1701)年二月四日、長矩は東山天皇の使者として江戸へ下向する勅使饗応役を幕府より命じられ、三月一四日に松の廊下刃傷事件が起きた。
 説明するまでもないと思うが、長矩が接待指南役である高家肝煎・吉良上野介義央に斬り掛ったのである。
 この日、江戸城では勅使が持ってきた勅旨に対して将軍が奉答するという勅答の儀が執り行われる筈であった。その大切な儀式を前に刃傷沙汰を起こした長矩に将軍・徳川綱吉は激怒。長矩は即日切腹を命ぜられ、赤穂浅野家は御家断絶と決定した。卑しくも一藩主に対して即日の切腹は極めて異例で、綱吉の怒りが尋常ではなかったことが窺える。
 一方、吉良には何の咎めもなく、負傷の見舞いに高麗人参が下賜された程だった。

 事件と長矩の切腹は国許赤穂へ急報された(当時の飛脚・早馬制度においてこの時の最速記録はついに破られなかったらしい)。急報が届いたのは三月二七日。翌二八日にはすべての情報が届き、翌二九日まで三日間に掛けて赤穂藩士が総登城し、後々に向けての善後策で紛糾した。
 つまりは改易を受け入れるか否かである。受け入れれば全員浪人、拒否すれば幕命に反する者として討伐対象になるのである。
 特に赤穂城内では吉良上野介に何の御咎めもなかったことへの不満が爆発し、城明け渡しを拒否して籠城すべし!との声が多々上がった。
 というのも、藩士達は『喧嘩両成敗』に基づいて上野介にも何らかの罰があって然るべき、と思っていたからだった。しかし斬り付けられた際に上野介は刀の鯉口を切っておらず(つまり抜いていない)、幕府は喧嘩と認めなかった。確かに動きだけを見れば上野介は一方的な被害者であった。

 結局は「開城すべき」とする恭順派・大野知房(末席家老。『忠臣蔵』等では大野黒兵衛の名で有名)の意見が通り、開城となった。
 そんな中、内蔵助は籠城殉死希望の藩士達と連盟血判書を作り、城を明渡し後、浅野長矩の弟・浅野大学長広を立てて浅野家再興を嘆願。同時に吉良上野介にも処分が下されることを幕府に求める、として藩士の動揺を防ぐのに務めた。
 他にも改易によって紙屑になる赤穂藩藩札の交換に応じ、藩士に対しても分配金を下に厚く上に軽くするなどの配分を行った。
 内蔵助の有名なあだ名に「昼行燈」があるが、それはあくまで、平時の姿であった。

 内蔵助は月岡治右衛門・多川九左衛門を江戸に派遣して、幕府収城目付・荒木政羽(あらきまさはね)に上記の嘆願する書面を届けさせた。
 四月一八日、荒木が赤穂に到着すると内蔵助からも三度の同じ嘆願を行った(荒木は江戸帰還後に老中にその旨を伝えてくれた)。
 翌四月一九日、赤穂城明け渡し成立。退去後、内蔵助は遠林寺にて藩政残務処理にあたり、それを終えた後の六月二五日、主君の仇打ちを胸に秘めて故郷赤穂を後にした。

 赤穂を去ると内蔵助は後、家族とともに親戚・進藤長之(近衛家家臣)が管理していた京都山科に隠棲。ここを拠点として旧赤穂藩士=浪士達と連絡を取り合った。
 一方で内蔵助は、大津・錦織にいた伯父(母の兄)・池田山城守玄寅(阿波蜂須賀藩家老)の子・官兵衛正長と行き来し、浅野家再興工作を行いもした。

 この頃から赤穂浪士達は「御家再興を優先する派」と、「吉良上野介への仇討ちを優先する派」に別れた。内蔵助自身は、どっちつかずに見せながら内心では御家再興に力を入れ、仇討は「時節到来を待て」として先送りを図った。
 実際、この時点では御家再興は見込みのない話でもなかった。赤穂城明け渡し後に残務処理を行った遠林寺住職祐海が神田護持院の大僧正・隆光に浅野家再興を働きかけていた。隆光は悪名高き「生類憐みの令」を将軍徳川綱吉とその生母桂昌院に助言したと云われる僧で、その影響力は充分期待出来た。
 赤穂城明け渡し時に嘆願を聞いてくれた荒木政羽からも「浅野家お家再興の望みあり」という書状が届いていた。

 だが、仇討優先派による決起要請の声は抑え難く、この間も内蔵助に江戸下向を促す書状を再三にわたり送り付けた。内蔵助は仇討優先派を宥める為に部下達を江戸へ派遣したが、説得の使者達はミイラ取りがミイラになってしまった。
 一〇月、内蔵助自身で江戸へ下向した。急進派の筆頭とも云える堀部安兵衛武庸と会談し、長矩の一周忌になる明年三月の決行を約束した。
 その後、長矩生前に赤穂藩を追われていた不破正種を仲間として迎え入れ、長矩の眠る泉岳寺へ参詣し、荒木や瑤泉院(長矩未亡人)とも会った。

 一二月、京都へ戻り、嫡男を大石主税良金として元服させた。主税も盟約に加わることを望み、内蔵助はこれを了承。そして後難を避ける為に妻・りくを離縁して実家の豊岡へ帰し、長女・くう、次男・吉之進、次女・るりを伴わせた。その後翌年元禄一五(1702)年七月にりくは三男・大三郎を出産した。

 この帰京後から、内蔵助は廓などで放蕩し出すが、これは赤穂浪士の報復を警戒する吉良家・上杉家(藩主・綱憲が上野介の実子)の目を欺く為の演技というのは有名だが、本当に楽しんでいたとの声もある(元々そういう遊びは好きだった)。
 そしてこの頃から、進展しない状況に業を煮やし、脱盟者も出始めていた。それを見計らって内蔵助は元禄一五(1702)年二月、山科で「大学(長広)様の処分が決まるまで決起するな。」と急進派を押し留め、翌月に迫っていた決起を先延ばしした。
 だが、急進派は納得せず、六月には堀部安兵衛が京都へ乗り込んでくる始末だったが、七月一八日、幕府が浅野長広の広島藩お預かりを云い渡し、浅野家再興は絶望的となった。

 これを受けて内蔵助は七月二八日に安兵衛等を円山に呼んで会議を行い、吉良上野介討伐を決定。安兵衛が江戸の同志達に伝えるべく江戸へ戻ると八月に貝賀友信、大高忠雄等に神文(盟約の誓紙)を返し、死にたくない者の脱盟を暗に促した。これによって望みを絶たれた御家再興優先派が続々と脱盟した。

 連盟に残った者達は次々に江戸へ下向。
 九月一九日大石良金が山科を発ち、一〇月七日には内蔵助も江戸へ下向した。
 一〇月二六日、川崎平間村にて同志達に第一訓令を発し、一一月五日に内蔵助父子は江戸に入った。日本橋近くの小山屋に潜伏して吉良邸を探索。吉良邸絵図面を入手した。
 旧知の国学者・荷田春満(かだのあずままろ)や同士・大高忠雄(脇屋新兵衛の変名で入門)が知己のある茶人・山田宗偏(やまだそうへん)から一二月一四日に吉良邸で茶会があるとの情報を入手した。
 この情報を得て内蔵助は一二月一四日夜を討ち入り決行日とした。討ち入りの大義名分を記した口上書を作成し、一二月二日、深川八幡の茶屋で全同志達を集め、最終会議を行い、討ち入り時の綱領「人々心覚」を定め、武器・装束・合言葉、吉良の首の処置を事細かに定め、「吉良の首を取った者も庭の見張りの者も亡君の御奉公では同一。よって自分の役割に異議を唱えない。」と定めた。

 そして一二月一四日夜(正確には一五日未明)、大石内蔵助良雄率いる四十七士は本所の吉良邸に討ち入った。内蔵助は表門の大将を務め、息子の主税に裏門の大将を務めさせた。
 二時間後、激闘の果てに浪士達は遂に炭小屋に潜む吉良上野介義央を探し出し、その首級を挙げた。
 四十七士は仲間内に一人の死者・重傷者も出さず、本懐を果たした。内蔵助達は江戸町民の喝采を浴びながら行進し、長矩の墓がある泉岳寺にて墓前に上野介の首級を供えて仇討ちを報告した。

 勿論、こんなことしてただで済む筈なく、罪人となるのは全員が覚悟していた。内蔵助は、吉田兼亮・富森正因を大目付・仙石久尚の元へ送り、口上書を提出して幕府の裁定を仰いだ。
 翌一五日夕刻には幕府から徒目付の石川弥一右衛門、市野新八郎、松永小八郎が泉岳寺に到着。内蔵助達は徒目付三人の指示に従って仙石久尚の屋敷へ移動。幕府は赤穂浪士達を四つの大名家(肥後熊本藩細川家・伊予松山藩松平家・長門長府藩毛利家・三河岡崎藩水野家)に分けてお預けとし、内蔵助は細川綱利屋敷預けとなった。
 一方で長男主税良金は松平定直の屋敷に預けられ、これが父子今生の別れとなった。

 幕閣では浪士達の処分に関して賛否両論が飛び交った。世論は「主君の仇に報じた武士らしい忠義による義挙」と仇討ちに喝采の声を送る中、助命か死罪かで揺れに揺れた。
 将軍綱吉自身、学問好きでコテコテの儒学の徒だった。儒学に従えば赤穂浪士達の忠義は大いに褒めるところであり、実際に事件から三〇〇年以上経た現代でも討ち入りは美談とされている(昨今は一方的さに歯止めが掛っているが)。だが結局「大勢で武器を持って人を襲撃したことは大いに天下の法に背いている。」とした荻生徂徠等の意見が容れられ、四十七士全員の切腹が決定した。

 年が明けた元禄一六(1703)年二月四日、浪士を預かる四大名家に切腹命令が伝えられ、内蔵助は切腹して果てた。大石内蔵助良雄享年四五歳。その遺骸は主君・浅野内匠頭長矩と同じく高輪泉岳寺に葬られた。法名は忠誠院刃空浄剣居士


漢の最期 紛糾の果てに徳川綱吉達が赤穂浪士全員の切腹を決定し、その伝達と執行が行われたのは元禄一六(1703)年二月四日のことだった。

 この時、大石内蔵助良雄は肥後国熊本藩主細川綱利邸に一六名の同士と供に預けられていて、細川家では彼等を罪人というよりは客分同様の扱いで手厚くもてなしていた。
 そこに切腹命令を伝えに細川邸にやって来た使者は、赤穂城明け渡し時の担当者で、浅野家再興にも尽力してくれた幕府目付・荒木政羽であった。最期を迎える時に面識ある者を寄こし、見届け役をさせたのは内心では浪士達に同情していた幕府からのせめてもの温情だろうか?いずれにせよ元赤穂藩家老でも幕府にとって陪臣に過ぎない内蔵助切腹に上使を遣わされたのは極めて異例のことだった

 荒木から、

 「浅野内匠頭、殿中にて刃傷に及び、死を賜りたるを、臣下の者ども仇を酬いんとして徒党を組み、上野介邸に乱れ入り、暴行を加えたる段不届き至極、これによりて切腹を申しつけるものなり」

 の判決が伝えられると、内蔵助は細川家家臣安場一平の介錯で切腹した。息子・主税良金や堀部安兵衛等も勿論それぞれに預けられている大名屋敷で、当該藩士の介錯を受けて切腹した。
 余談だが、当時切腹はかなり儀式化されており、殆ど打ち首と変わらなかった。まあ同じ死ぬにしてもそれに際して最後の名誉が与えられるだけでも意義はあったのだろう。切腹する者が短刀に手を掛けたところで介錯人が首を斬り落とした訳で、実際には腹は切らなかった。
 だが、長門長府藩毛利屋敷に預けられていた二四歳の若侍・間新六光風(はざましんろくみつかぜ)は短刀を手に取るや即座に腹に突き刺し、横一文字に切り裂いていた。
 驚いた介錯人・江良清吉が急ぎ首を落とし。検視役の斎藤治左衛門を初め見届けた者達は「見事」と褒め称えたと云う。
 内蔵助の切腹の詳細はというと………申し訳ないが、上記以外のことは不詳である(苦笑)。

 四十七士は義兄に遺骸を引き取られた間新六と、泉岳寺墓前報告前に隊を抜けた寺坂吉右衛門信行の二名を例外として全員が泉岳寺に葬られ、同寺には今も香華が絶えることがないと云う。


切腹の影響 いきなり話が逸れるが、かつて日本テレビの特番に『時空警察』という番組があった。洋や時代を問わず、歴史上の謎を時空警察捜査一課という架空の部署が調査するのだが、その中には『忠臣蔵』を巡るものもあった。
 事件を担当した伊能恭介警部(陣内孝則)は吉良上野介義央の首級を掲げて高輪泉岳寺に向かう途上の大石内蔵助良雄にインタビューし、その際に切腹になることを知った内蔵助「我々は切腹になるのか。名誉なことだ。」と云っていた。

 ここは薩摩守の推測なのだが、吉良邸討ち入りは「主君の仇討ち」という武士らしい動機(「大義名分」とも云う)が無ければ単なる集団殺人で、吉良邸では標的であった吉良上野介以外にも一六名が斬り死にし、二五名が深手を負い、その内九名が後日息を引き取った。戦でもないのに二六名もの死者が出たとあっては、現代なら「大惨事」と呼ばれる。まして吉良家や上杉家から見れば赤穂浪士のやっていることは「逆恨み」である。
 実際、この重大事件に浪士達を「夜盗」と呼ぶ者も幕閣にはいた。もしそう断じられたら良くて斬首、場合によっては磔や獄門、最悪は妻子・一族郎党の連座もあり得た。

 勿論四十七士達もそのことを考えていない訳ではなかった。罪人になるのは間違いないことで、彼等は事前に内蔵助がそうしたように妻子を離縁したり、親戚の家に養子に出したり、出家させたりしていた(勿論、万一の連座を恐れてである)。

 果せるかな、討ち入りは世間の同情・共感を大いに集め、処分を巡って幕閣を悩ませまくったのは周知の通りだった。そして切腹により「主君に殉じた。」という目で見られるようになった彼等には更なる同情とそれに伴う手厚い申し出が陰に日向に相次いだ。

 浅野内匠頭を即日切腹させ、赤穂浪士に切腹を命じた幕府にしてから、内蔵助切腹の同日に吉良家当主吉良義周(上野介の子・上杉綱憲次男で、上野介の養子になっていた)を領地没収・信州配流とした。自邸への襲撃を防げず、武士として不届きとされたのである。
 奇しくも討ち入り前に内蔵助達が切望した「吉良家処分」が叶ったのである。前述の『時空警察』では徳川綱吉に、「内蔵助よ、もう仇は居ないぞ。」と呟かせていた。

 四十七士は前述した様に浅野長矩が眠る泉岳寺に葬られ、各々が預けられた大名家の手によって遺髪が遺族に送られたが、各大名家は浪士が足軽身分の者であっても、家老格の者が遺髪を届けに行ったという破格待遇だった。
 そして残された遺族にも四十七士の美名によって再仕官が叶った者も数多くいた。

 他にも四十七士に対する厚遇は語り出せば切りがなく、個人的に気に入ったエピソードを一例に挙げさせて頂くと、内蔵助の介錯を務めた安場一平の例がある。
 安場は内蔵助を介錯した刀を子々孫々に伝承した。それを受けた子孫達は元禄赤穂事件への造詣を深め、代々義士会に携わり、現在の安場当主の安場保雅氏は全国義士会連合会会長を務めている。

 一方で見落とせないのは、内蔵助の内入りと切腹は多くの人間の名誉を貶めもしたことである。
 吉良上野介並びに吉良家関係者がその後三〇〇年に渡って悪者とされた。事件を純粋に見れば訳の分からない通り魔に遭った被害者に過ぎなかった訳だが。まあそれでも昨今は治水工事や地元の評判による名君振りがかなり見直されているからまだマシである。

 悲惨なのは同じ赤穂藩関係者で討ち入りに加わらなかった者達である。
 特に改易時の開城に尽力した大野黒兵衛は『忠臣蔵』で代表的な悪役に振られている。大野家の柳の樹は「不忠の柳」などと呼ばれるとばっちりを受けたのだから笑えない。大野自身は財務に長けた有能者で、穏健派なだけだったのだが。まして樹に何の罪があると云うのか?
 同時に、仇討連盟に加わりながら、途中で脱盟した二百数十名も後ろ指を指されまくった。士道以前に家族を食わせる為にやむなく再仕官を優先した者も多かったのは云うまでもない。

 また少し変わった見方をすると過去の人物にも被害は及んだ。
 赤穂浪士を讃えたい人々はこの事件を歌舞伎や浄瑠璃で演じたが、史実を馬鹿正直に演じると将軍・綱吉を批判することになり、もしそうしたとなると作者と出演者の死を意味した。そこで『仮名手本忠臣蔵』では吉良上野介を高師直に置き換えて、時代を元禄から建武に替え、ちなみにタイトルの『仮名〜』は仮名である「いろは四十七文字」のことで、同数の四十七士を暗喩している。
 ある意味、高師直は死後四〇〇年近く経って悪名がクローズアップされると云う被害を被った。

 大石内蔵助達の主君への想いは確かに純粋で高潔であった。その純粋さと高潔さゆえにそれに殉じ、美名を残せたものはそれで良かったかも知れないが、とばっちり的に命や名誉を失った者達のことを忘れてはならないだろう。


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令和三(2021)年五月二六日 最終更新