第肆頁 清水宗治……五ヶ国・五〇〇〇名を守って

名前清水宗治(しみず・むねはる)
血統備中国国人
地位備中高松城主
通称長左衛門
生年天文六(1537)年
切腹年月日天正一〇(1582)年六月四日
切腹場所備中高松城堀の小船上
介錯人国府市正
見届け人羽柴秀吉
辞世浮世をば 今こそ渡れ 武士(もののふ)の 名を高松の 苔に残して
略歴 天文六(1537)年、備中国賀陽郡清水村(現:岡山県総社市井手)にて父・清水宗則(しみずむねのり)と母・不知の次男に生まれる。幼名は才太郎(さいたろう)。

 長じて清水長左衛門宗治(しみずちょうざえもんむねはる)と名乗り、三村氏譜代・石川久智の娘を娶った。三村家重臣の婿という立場でありながら後に毛利氏に加担した訳で、三村家にしてみれば宗治は裏切者ということになるが、「備中兵乱」という備中一円を舞台とした三村氏対毛利氏の一大戦(これに宇喜多氏も加わる)のごたごたの中、この頃の宗治の言動は諸説あり、不鮮明である。また、三村氏や譜代家臣の中にも毛利についた者が少なくなかった。

 何せ、当時の中国地方情勢は複雑極まりない。毛利家が元々周防の大内・出雲の尼子という二大勢力に挟まれた小豪族に過ぎない家格だった事や、国人領主との提携にとんでもない苦労をしたことは有名だが、吉川・小早川・赤松・武田・浦上・三村・別所・山名・宇喜多……と管領家に繋がる名家から地侍まで様々な氏族がひしめいており、その中でも縁戚が結ばれたり、同族間で争ったり、同盟・離反を繰り返したり、で生き残りの為にも江戸時代以降の単純な武士道・忠義論では語れない面が多かった。
 まあ、後々の毛利家・小早川家への忠勤を見れば、好餌や保身に走った姑息な裏切りとは思えないのだが。

 いずれにせよ、毛利氏の家臣となって以後は小早川隆景の配下として毛利氏の中国地方の平定に従軍し、忠勤に励み、隆景は勿論、毛利一族からも深く信頼された。
 多分説明の必要はないと思うが、高松城と云っても現在の香川県の県庁所在地である高松市のことではない。

 天正五(1577)年一〇月二三日、織田信長より中国征伐の命を受けた羽柴筑前守秀吉(勿論後の豊臣秀吉)が竹中半兵衛・黒田官兵衛の二軍使に、織田方についた播磨の国人勢力と供に侵攻を開始した。

 天正六(1578)年、宗治は播磨上月城攻めに参戦。上月城には御家再興を目指す尼子勝久・山中鹿助主従が籠り、織田と毛利との争奪戦並びに国人領主去就の要となっていた。
 その時、羽柴軍と通じた家臣が、嫡子・源三郎を誘拐しようとしている、との知らせが宗治のもとにもたらされた。
 急を知らせて来た家臣によると、源三郎を拉致せんとする裏切り者は高松城内に追い込んで留め置かれているが、源三郎を人質として戦から手を引くことを要求している、とのことで、至急帰城するよう宗治に求めた。

 だが宗治は、慌てず、

 「武士の子として生まれたからには分かっている筈、今ここを離れる訳にはいかない。主君に後々迷惑をかけてはいけないので、もし裏切者が逃げ出すようなことがあれば、その時は源三郎もろとも殺しても構わぬ。」

 と家臣に命じ、持ち場を離れなかった。またこのことを主君に知らせることもなかった。
 だが、人伝にその話を聞いた小早川隆景は、宗治を呼び「急ぎ城へ戻って連れ戻すがよい。」と宗治の帰還を許した。備中に戻った宗治は、裏切った家臣と交渉し、罪には問わぬ事を条件に源三郎を取り戻すや、即座に上月城へ向かい、持ち場に戻った。


 天正一〇(1582)年に入ると、形勢は毛利不利に転じた。
 前述したように毛利家中の国人領主は様々な立場があり、個々の忠誠心はともかく、御家を滅ぼさない為にも迷いが多かった。
 まして二年前の天正八(1580)年一月一七日には播磨三木城が「三木の干殺し」と呼ばれる悲劇の果てに落城していた。「干殺し」は秀吉の完全な包囲による徹底した兵糧攻めで、その秀吉来襲に震え上がった国人領主は少なかっただろう。

 しかも秀吉の攻め方は苛烈なだけではない。この人たらし男は好餌で人を釣るのも上手いのだ。当然、備中でも秀吉は各支城に次々と調略の手を伸ばした。

 日幡城では上原元祐が戸川秀康(宇喜多家家臣)の密書を受けて秀吉に寝返った。上原は毛利元就の娘婿でありながら寝返っただけでなく、城主・日幡景親にも寝返りを勧めた。
 景親は、毛利縁者の裏切り許すまじ、とし上原を斬らんとしたが、弟・大森蔵人までもが上原に内通していた為、返り討ちにあって落命した。
 上原は羽柴軍を城内に導き入れたが、義弟の背信に激怒した小早川隆景が送り込んだ楢崎忠正によって城はすぐに奪い返された(上原の妻は救助された)。

 また鴨庄城では城主・生石中務(おいし・なかつかさ)は宇喜多家家臣・戸川平右衛門が持ちかけた甘言に乗って開城した。生石は羽柴軍に寝返った訳で、実に寝相の悪い奴である…………………誰か、ツッコんでくれぇえええ!

 コホン……調略だけではなく、力攻めも容赦なく行われ、四月二五日、宇喜多忠家・加藤清正連合軍の猛攻を受けた冠山城が落城。冠山城主は宗治の娘婿の林重真で、林は落城寸前に自刃した。尚、宗治娘のその後は不明だが、真備町に代々の墓があり、落ち延びたものと思われる。
 五月二日、宮地山城主・乃美元信が宇喜多家家臣・信原内蔵充の説得に応じて開城。

 かくして備中七城の内、四城が落ち、高松城も風前の灯となった。ちなみに七城の内、庭瀬城は、高松城に似た天険を利して城主・井上豊後守有景が和睦成立時まで守り通した。
 そして松島城は羽柴軍から見て最も遠い位置に在ったため攻められなかった。


 秀吉率いる羽柴軍三万(織田勢二万、宇喜多勢一万)は高松城をとり囲んだ。
 宇喜多勢が幾度となく攻めこむが敗退するなどし、そのうち毛利本隊が高松に近づいてきた。その間、秀吉は「寝返れば備中一国を与える。」という好餌でもって宗治に投降を呼びかけたが、勿論応じる宗治ではなかった。
 黒田官兵衛は秀吉に水攻めを提案。地元の住民達に褒美の大盤振る舞いで突貫工事に就かせ、全長二八町(約3km)、高さ四間(7.2m)、底辺幅一三間半(約24m)の長堤は、一二日間で完成した。
 足守川の水を引き入れた高松城は数日で水に浸かり、湖上の孤城となった。これには援軍である毛利四万の大軍も手が出せず、秀吉と毛利の和議が進む事となった。

 毛利家中では清水宗治の命を救わんとして、何度も話し合いが行われた。秀吉に対して「備中・備後・美作・因幡・伯耆の五ヶ国を割譲するゆえ、高松城の包囲を解いて欲しい。」と打診したが、秀吉はこの大譲歩を「備後以外は毛利の土地とは云えない。」として、大譲歩と認めずに蹴った。単純比較ではあるが、清水宗治という男、毛利家中において五ヶ国以上に大切な男と見られていたのである。毛利家からの信任はすこぶる厚かった。

 主君にして、援軍の参謀でもある小早川隆景は水連達者な者を密使として高松城に送り、宗治に対しては城中に兵糧も乏しく、早期に高松城を救援出来る確証を持てない事からも降参してもいい、と伝えたが、宗治は「「情けなき御意に存じる」と伝えてくれ。」と告げ、再度泳いで戻る使者を丁寧に見送ると籠城を続けた。
 だが毛利方では宗治救命を諦めず、陣僧・安国寺恵瓊(あんこくじえけい)に秀吉と交渉させたが、難航した。

 だが、その直後である六月二日に京都では本能寺の変が起こり、織田信長・信忠父子が明智光秀の謀反の前に命を落としていた。
 光秀はこのことを毛利方に知らせて羽柴軍を挟撃せんとしたが、この使者が羽柴軍に捕まった為、信長の横死は秀吉の知る所となり、同時にこの知らせが宗治の元に届く事はなかった。
 信長の仇、明智光秀を討つ為、急遽引き返す為にも秀吉はその報を隠したまま安国寺恵瓊との会談し、宗治の切腹を条件に城兵を助命する講和を呼び掛けた。
 自らの命一つで城内五〇〇〇名の命を救うことが出来るとなった宗治に迷いはなかった。六月四日、兄の月清入道、家臣二人を伴って水上に小船を出し、両軍が見守る中、清水宗治は切腹して果てた。享年四六歳。


漢の最期 自らの命一つで大勢の命が救われるのであれば、主家や国の名誉が保たれるのであれば喜んで我が命の犠牲を厭わない硬骨漢は決して少なくないだろう。ましてそれが戦国の世となれば。清水宗治もそんなの一人である。

 自刃の前日、宗治は小早川隆景の元にいる息子・源三郎に「身持ちの事」という遺言状を残した。

 内容は

 身持ちの事
 恩を知り 慈悲正直にねがいなく 辛労気尽し 天に任せよ
 朝起きや上意算用武具普請 人を遣ひてことをつゝしめ
 談合や公事と書状と意義法度 酒と女房に心みたすな
 六月三日                清鏡宗心

 とあった。

 切腹することになった我が身や悔やまず、味方の毛利家・小早川家は勿論、敵方の秀吉を恨まず、別れも惜しまず、ただただ武将としての心構えを説いた遺言状を後々源三郎は肌身はなさず持ち続けた。

 そして運命の六月四日、水上に舟を漕ぎ出した清水宗治は高松城兵・味方の援軍・敵方の大軍が見守る中、切腹の前にひとさし静かに舞った後、腹を切り、国府市正に介錯させた。
 見守っていた武士達は敵も味方も「清水宗治の作法は見事である。」として、これを賞賛した。

 切腹に際しては宗治の兄・月清入道、弟・難波伝兵衛も運命を共にし、月清は
「世の中の 惜しまるる時 散りてこそ 花も楓も 色も色なれ」
という辞世を詠んだ。
 また娘婿の中島元行が供に腹を切ることを申し出たが、宗治は自分の妻子を託すためにもこれを拒んだ。
 同様に、与十郎(月清入道の轡取り)と七郎次郎(宗治の草履取り)が船への同乗を申し出たが、宗治に生き残るよう諭され、同乗を拒まれた。だが二人は刺し違えて宗治兄弟に殉じた。

 逆のケースとして、宗治から供に切腹することを求められた者もいた。毛利家から加勢に来ていた末近信賀(せちかのぶよし)である。宗治は自身が高松城主及び小早川家家臣として死ぬので、毛利家の代表として供に最後を飾ることを求めた。末近はこれに応じ、
 「敵とみえしは群れてる鴎 鬨の声と聞こえしは 浦風なりけり 高松の朝の露ぞ消えにける」  という辞世を残して宗治と供にこの世を去った。

 秀吉は信長の仇討ちの為に一刻も早く京へと戻りたいところであったが、「名将・清水宗治の最期を見届けるまでは」と陣から一歩も動かなかったといわれている。
 宗治の首が検視役の堀尾茂助によって陣に運ばれてくると秀吉は石井山の持宝院に宗治の供養塔を建てるよう命じると、今度こそ高松を後にした。

 直後に本能寺の変を知った吉川元春は怒り、和睦を反故にして羽柴軍を追撃せんとして、隆景と恵瓊に止められたが、この怒りには宗治に報いんとする意図もあったことだろう。

 高松城址では毎年六月の第一日曜日に『宗治祭』が執り行われている。「祭」と云っても、本来の先祖供養の意味での祭で、清水家子孫・菩提寺・地元関係者・高松城保興会の方々が参列し、毛利家からも花が贈られる中、厳かに執り行われるという。
 如何に清水宗治が尊敬されているかが窺えよう。


切腹の影響 切腹の作法が変化する転機となったのは、この清水宗治の切腹から、と云われることがある。まあ切腹自体はこの当時日常茶飯事だったから、宗治切腹が真の転機と云い切るには慎重になりたいところだが、それでもそのように云われるのは、取りも直さず宗治の切腹が作法においても、覚悟においても、潔さにおいても、敵味方関係なく賞賛される見事なものだったからだろう。

 勿論宗治の死は敵味方に惜しまれ、小早川隆景は自分の下にいた宗治の子・源三郎が元服した際に、宗治の「治」と、隆景の「景」を取って、清水景治と名乗らせた。
 そして宗治切腹を求めた羽柴秀吉もまた感銘を受けており、後に隆景に会った秀吉は「宗治は武士の鑑であった」と絶賛し、子の景治を大名に取り立てることを申し出た。
 隆景はその旨を景治に伝えたが、当の景治は小早川家への奉公にこだわってこれを辞退。これを隆景から知らされた秀吉は感心し、後に景治とまみえた際にも父・宗治を褒め称えたという。

 秀吉は関白就任後、豊臣政権下では毛利家は輝元と隆景を五大老に列しており、秀吉がかなり毛利家に好意的に接していた例は数多く存在するのだが、宗治が秀吉に植付けた強烈な印象も少なからず影響している、と薩摩守は見ているのだが、穿った物の見方だろうか?

 ともあれ、この宗治の切腹以降、武士にとって切腹は名誉ある死という認識が広まり、また刑罰としても切腹を命じる習慣が広まった。それまでは戦勝時に敵将に対して、味方の士気を盛り上げたり、残存する敵勢力に威を示したり、戦死した仲間の恨みとしたりして磔や斬首にすることも少なくなかった。決して褒めていい話ではないのだが、戦争にも礼儀が出て来たのだろう。特に勢力が大きくなればなるほど。
 後に秀吉は、武士でない千利休(元武士ではあったが)に切腹を命じたのも、思う所は在ったのかもしれない。

 本能寺の変中国大返しという日本史上における二つの大事件のターニングポイントとして清水宗治の切腹はさほど日本史や戦国武将に詳しくない人でもその名を知っていることが多い。
 もう今(平成二六年)を去ること八年前になるが、平成一八(2006)年初夏、薩摩守は戯れのドライブで高松城址を訪れたことがあった。現在、備中高松城の本丸は本丸跡として保存されている。
 本丸の南側は公園となっており、蔵を改造した資料館が建っており、清水宗治の木像もある(鎧武者スタイルではなく、白装束スタイル)。
 二の丸や三の丸は宅地開発が進んでいるが、周囲には畑や田んぼがあり、穏やかな田園風景を残し、何と云っても蓮池が印象的だった。確かにこの泥池を駆け抜けて高松城を攻略するのは容易ではないことが見て取れた。
 季節的にはチョットずれていたが、七、八月頃には水面は蓮で埋め尽くされるとのことで、地元の人々はこの蓮を「宗治蓮」と呼ぶ。


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令和三(2021)年五月二六日 最終更新