第伍頁 柴田勝家……漢(おとこ)の死に様、とくと見よ!

名前柴田勝家(しばた・かついえ)
血統柴田氏
地位織田家重臣、従六位下・左京大進、従五位下・修理亮、越前北ノ庄城主
通称権六、鬼柴田、かかれ柴田、瓶割り柴田
生年大永二(1522)年
切腹年月日天正一一(1583)年四月二四日
切腹場所越前北ノ庄城内
介錯人自分
見届け人中村文荷斎
辞世夏の夜の 夢路はかなき 後の名を 雲井にあげよ 山ほととぎす
略歴 織田信長家臣の中でも屈指の有名人物でありながら、前半生は不祥な所が多いのがこの柴田勝家である。
 「権六」というミドルネームや、「修理」という官位まで有名で、歴史漫画や大河ドラマでも戦国の日常そのままに、「柴田権六」、「柴田修理」と記載されたり、呼ばれたりすることも多いメジャーな武将でありながら、親の名前や生年月日すら確実なことが分かっていない。
 一応史学上の多数決にそって書き進めると、大永二(1522)年、尾張国愛知郡上社村(現:愛知県名古屋市名東区)にて柴田勝義の子に生まれたといわれる。

 最初は尾張の織田信秀に仕え、信長が家督を継ぐ頃には織田家において重鎮の地位にあった。山岡荘八の小説では岩室殿という女性に惚れた若き日の信長が「そなたに他に意中の男がいるのなら誰であろうと斬る!それが権六であってもだ!父なら合戦じゃ!」と岩室殿を脅すシーンがあるのだが、信長の気性の激しさと供に、この時点での勝家の立場も窺える台詞である。

 天文二〇(1551)年三月三日、信秀が死去すると、信長の同母弟・織田信行に家老として仕えた。
 周知の通り、この時点での信長は奇行から「うつけ者」と呼ばれ、織田家中には行く末を案じ、型破りな信長よりも、真面目な信行を推すべし、との声が高まりつつあった。

 信行擁立の中心には有力所として、勝家と織田家筆頭家老林佐渡守秀貞(通勝)もいた。
 信行の下で軍功も挙げていた勝家は弘治二(1556)年八月に信行を織田家当主にせんとして、林秀貞と共に信長に反旗を翻した。
 だが稲生の戦いに敗れ、勝家は剃髪して信長に降伏。土田御前(信長・信行の母)の哀訴もあって、信長は信行も、彼と行動を共にした勝家や林佐渡といった諸将も許した。
 この一件で両者の器の違いを感じ取った勝家は以後信長に心を寄せ、弘治三(1557)年に信行が懲りずに再度の謀反を企んだときにはこれに味方しなかった。
 二度も刃向かったとあってはもはや信行に助命の道はなかった。信行は斬られ、辛うじて遺児の津田信澄の助命は認められ、勝家が信澄を養育することになった。

 改めて信長の家臣に列した柴田勝家だったが、すぐに猛将としての活躍が出来た訳ではなかった。美濃斎藤攻めでは墨俣築城に失敗し、これに成功した木下藤吉郎が名を上げることとなった。
 しかし足利義昭を奉じて上洛する頃になると前線に立つことが増え、畿内平定戦では常に先鋒の一人として活躍。織田家重臣としての武功を挙げ続けた。
 永禄一二(1569)年一月、信長と供に岐阜に戻っていたが、この隙を狙って三好三人衆が本國寺に残っていた将軍・足利義昭を襲撃。即座に信長と共に再上洛し、これを退けると四月上旬まで京都・畿内の防衛と行政に当たった。

 元亀元(1570)年五月、上洛時にも信長に刃向った南近江の六角義賢が琵琶湖南岸に再進出し、岐阜への道を絶ったため、南岸確保の為に長光寺城に配属。下旬の戦闘で佐久間信盛と共にこれを撃退した。
 元亀二(1571)年、対長島一向一揆戦に参戦。殿を務めた際に内股を鉄砲で撃たれて後退。勝家と交代した氏家卜全も討ち死にする有様だった。

 天正元(1573)年二月、足利義昭が石山と今堅田の砦に兵を入れると、勝家は攻撃を加えてこれらを陥落させ、四月には反信長色の濃い上京地区を放火し、槙島城に立て籠る義昭を攻め、降伏させた。
 降った義昭は京を追放され、室町幕府は滅びたが、義昭は毛利を頼ってその保護下にて反信長包囲網の形成を続けた。ために勝家もまた近江・摂津等を転戦した。

 同年九月、越前の朝倉討伐戦に参戦し、これを滅ぼした。北近江の浅井長政攻めにも参戦。直後に二度目の長島攻めに参加した。
 翌天正二(1574)年七月、三度の長島攻めに従軍し、佐久間信盛と共に奮戦した。
 更に翌年の天正三(1575)年長篠の戦いにも参加。その後の勝家奮戦の舞台は主に北陸となり、朝倉滅亡後に信長が越前統治の為に置いた守将が加賀一向一揆に討たれると信長とともに出陣し、一向一揆平定後、越前四九万石、北ノ庄城(現:福井市)の主となった。
 勿論これは対上杉謙信線の司令官を任ぜられたことを意味し、その指揮下には前田利家・佐々成政・不破光治といった猛者が揃い、九〇年に渡って加賀を支配していた一向一揆と対峙することとなった。

 加賀一向一揆は手強かったが、もっと手強かったのが上杉謙信だった。
 天正五(1577)年勝家は、謙信が加賀に進出し、能登七尾城を襲撃したのを迎え撃たんとして救援に向かったが、それより早く七尾城は陥落。直後に信長と供に手取川にて戦った際もボロ負けした。信長・勝家が弱いのではなく、謙信が強過ぎた訳だが。

 だが天正六(1578)年三月一三日、上杉謙信は急死。斎藤利治(信忠部将)が越中中部から上杉軍を逐った。
 天正八(1580)年三月、信長と本願寺の和睦が成立したことで、北陸攻略が本格化。勝家は一向一揆の司令塔となっていた金沢御堂を攻め滅ぼし、一一月、加賀一向一揆を制圧。
 だが、名将・上杉謙信を失ったとはいえ、後を継いだ養子・景勝も精強だった。武田討滅を目前にした信長は中国地方を羽柴秀吉、関東を滝川一益、四国を丹羽長秀、畿内要所を明智光秀に攻略させていたが、単純な戦闘だけを見れば恐らく勝家が対峙した上杉がその時点では最強だっただろう。如何に勝家が指揮官として重宝されていたかが分かる。
 尚、この時点で数多く行動をともにした佐久間信盛が失脚しており、勝家は信長配下の五大名将(明智光秀、丹羽長秀、羽柴秀吉、滝川一益、そして柴田勝家)の筆頭と目されていた。

 だが越中魚津城・松倉城を包囲していた最中の天正一〇(1582)年、本能寺の変により主君・織田信長が横死。全国各地に散っていた信長の家臣達は急ぎ帰洛して主君の仇・明智光秀を討たんとした。
 勿論勝家も同じ考えで、変を知った六月三日に魚津城を陥落させた所で、急ぎ戻らんとしたが上杉景勝が反撃に駆け付けて来たため、越中東部制圧に手間取り、すぐには京都に向かえず、その間に秀吉が光秀を討ち果たした。

 六月二七日、清州城内にて信長の後継者と遺領分配を決める話し合いが持たれた。所謂清州会議である。
 信長の嫡男・織田信忠もまた妙覚寺にて自害していたことが後継者問題を難しくしており、会議において勝家は自らが烏帽子親を務めたこともある信長三男の織田信孝を推したが、明智光秀討伐により発言力を高めていた秀吉が信忠嫡男(つまり信長嫡孫)の三法師(後の織田秀信)を推し、丹羽長秀もこれに賛同。織田氏家督は三法師が継ぐこととなった。
 勿論当時三歳の三法師に織田家中をまとめられる訳がなく、三法師を推戴した秀吉が信長後継者然として振る舞ったのは周知の通り。

 同会議における遺領配分では勝家は越前・北近江三郡・長浜と広範囲を継承したが、秀吉は養子・秀勝(信長四男)に明智光秀の旧領・丹波を相続させ、自身も山城を領有することとなり、京近辺の要衝を奪われる形となった。

 この清州会議にて秀吉との間柄は抜き差しならぬ物となった。直後、勝家は信孝の仲介で信長の妹で、浅井長政未亡人でもあったお市の方と結婚し、反秀吉提携を強めた(一方で、この婚姻を仲介したのは他ならぬ秀吉で、勝家を懐柔せんとしたとの説もある)。

 光秀誅伐と清州会議主導で信長の後継者の如く振る舞った秀吉は九月一二日に秀勝を喪主として信長の百箇日法要を行い、一〇月一五日に大徳寺にて信長の葬儀も行ったが、秀吉主導に納得出来ない勝家はお市の方共々列席しなかった。この間、勝家は堀秀政に送った書面で秀吉の清州会議違背を責めており、葬儀三日後の一〇月一八日に秀吉は書面で陳弁した。
 一一月二日には前田利家を使者として和解が成立したが、一時的なものでしかなく、一二月には秀吉はかつて自らが治めた長浜城城主・柴田勝豊(勝家姉の子)を攻め、これを降した。

 そして年が明けた天正一一(1583)年三月三日、雪解けを待って勝家は近江に出兵。翌四日には毛利氏と組んで秀吉を挟撃することを図って、毛利保護下にいた前将軍・足利義昭の老臣・真木島昭光に親書を送った。四月一六日には岐阜城主だった織田信孝も挙兵。ついに秀吉との全面対決となった。
 しかし信孝と対峙していたと見せた秀吉は有名な集団マラソンでもって勝家の予測を遥かに上回る速さで賤ヶ岳に着陣。四月二一日の賤ヶ岳の戦い勝家方の佐久間盛政が大敗し、勝家は北ノ庄に引き揚げた。
 程なく、秀吉軍は北ノ庄に迫り、四月二四日勝家は自害。その際に自分に再嫁したばかり再度落城の目に遭った妻・お市と三人の娘(茶々・初・お江)を憐れみ、城から脱出することを勧めたが、お市は娘達だけ脱出させ、夫・勝家とともに自害した。柴田勝家享年六二歳。


漢の最期 本作制作にあたって薩摩守が(独断と偏見で)選んだ一〇人の中でも柴田勝家は一番の猛将といっても過言ではない。実際、勝家の名前を聞いた途端に髭面のごつい強面親父を想像する人は多い。

 勿論、見掛けだけではなく、本当に猛将で、武骨の性格と秀でた武勇から「鬼柴田」・「かかれ柴田」と評された。それを反映してか、大河ドラマなどで勝家を演じた俳優も宍戸錠(『国盗り物語』)・中尾彬(『秀吉』)・松平健(『利家と松』)・菅田俊(『天地人』) ・大地康雄(『江』)諸氏に見られるように、強面俳優が少なくない。
 勿論正面切っての戦に強いだけではなく、朝倉攻めで長光寺城に籠城し、朝倉の同盟相手である六角承禎によって水を絶たれた際には、馬の体を水で洗ったり、水瓶を割ってみせるなどして余裕を示し、城内に潜入している六角氏の間者の目を欺きもした。世に云う「瓶割り柴田」のエピソードである。
 国内だけではなく、宣教師・ルイス・フロイスに至っては勝家を「信長の主立ちたる将軍二人中の一人」、「甚だ勇猛な武将であり、一生を軍事に費やした人」、「信長の時代の日本でもっとも勇猛な武将であり果敢な人」、「彼は禅宗であるが、他の宗旨を憎まず」とべた褒めしている。

 戦闘に強いだけではなく、信長に対しても云うべきは云い切った。
 こんな話がある。
 ある時、勝家は信長からの先陣任命を辞退したことがあった。結局信長に強いられて先陣大将になったが、直後に隊列と衝突した信長旗本を無礼打ちにした。
 旗本を斬られて激怒する信長に勝家は、「だから私は先に辞退したのです。先陣の大将たる者にはそれほどの権威を持たせて下さらねば務まるものではございませぬ。」と答え、この正論には信長も言葉を返せなかった。

 これほど武勇と男気に溢れた勝家だったが、秀吉と対立してからの破滅は早かった。勿論勝家がその膂力で持って徹底抗戦していれば早期に滅亡することはなかったが、そうするには勝家は潔過ぎた。
 賤ヶ岳の戦いでの敗北直後、前田利長の居城府中城で前田利家と対面し、勝家は先に撤退した利家を責めず、数年来の協力と交誼を謝し、利家に「秀吉と仲が良いのだから降れ。私のことを思って再び道を誤ってはならない。」と語ったと云われる。既に覚悟は出来ていたのだろう。

 自害を前にして勝家は離反した家臣に対して恨み言は云わず、また最後まで付き添ってきた家臣達には、生き延びることを許し、これまでの忠義に報いる術がないことを嘆いた。
 そして家老の中村文荷斎に鉄砲を撃たせて一応の抵抗を示した後に最期の時を迎えた。天守閣の九段目に登り「修理が腹の切り様見申して後学に仕候へ」(俺の腹の切り方を後々の見本とするがいい)と叫び、老女一人を残してお市や侍女達を一突きにしたあと、腹を十文字に割き、腸を引き摺り出して、羽柴軍に投げ付け、一笑するや咽喉を掻き切って果てた
 事前に勝家は家臣達に生き残るよう下知していたが、内一五〇余名の家臣が頑として受け入れず、勝家と運命を共にした。彼等は勝家の壮絶な死に羽柴軍が呆然としている隙に城内に積み重ねた柴束・火薬に火を放って個々に追い腹を切った。


切腹の影響 切腹の影響、というか柴田勝家自害の影響として、羽柴秀吉の天下人としての地位が確立したことが挙げられる。
 いくら信長の仇・明智光秀を討ち取った功労者とはいえ、秀吉は勝家同様織田家重臣に過ぎなかったが、勝家死後、織田家の者にも遠慮しなくなった。
 勝家死の三日後、秀吉は織田信雄に命じて、織田信孝を切腹させた。まさか前主君の子、現当主の叔父を害すまいと思っていた信孝は驚き、その切腹は憤死に近かったという。
 前田利家は秀吉に随身し、瀧川一益は降伏して出家、丹羽長秀は逆らいこそしなかったものの三年後に失意の内に病死し、佐々成政も一時は家康と組んで抵抗せんとしたが、結局は降伏した。
 弟・信孝と仲が悪かったゆえに秀吉に合力した信雄も、その後の待遇に我慢ならず、徳川家康と組んで秀吉に対抗するも、その時点で秀吉は一二万の軍勢を率いる大勢力となっていた。
 老獪な家康と組んだことで小牧・長久手の戦いで局地戦的には勝利を収めるも、政治力の前に信雄も家康も秀吉と和解し、最終的には関白権威の前に膝を屈することとなった。
 そしてそれ以降、天正一八(1590)年の北条家滅亡による天下統一まで、秀吉の戦いは全く危な気無いものの内に終結した。その過程においては上杉景勝・伊達政宗・佐竹義宣・長宗我部元親といった強勢を誇った大大名達がほぼ戦わずして降ったケースも少なくなかった。
 偏に柴田勝家を滅ぼしたことで秀吉の強盛が誰の目にも明らかになっていたと云い切るのは過言だろうか?

 後世に残した影響として、薩摩守にはもう一つ引っ掛かっていることがある。それは余りに潔く、結果としてあっさり滅びたことで勝家と秀吉の不仲が後世極端に強調されるようになったのではないか?という薩摩守の憶測である。
 秀吉が木下藤吉郎だった頃、新参の成り上がり者である秀吉に対して「猿め!」と口汚く罵る勝家を大河ドラマなどで観たことある方も多いと思う。
 勿論ドラマの演出として表現が誇張されるのはままあることだが、それを差っ引いたとしても勝家ほど男気があり、滅亡に際してサバサバしていた漢が、いじめっ子のようにネチネチと秀吉を嘲笑しながら小突いている様は見苦しいとともに「あそこまで露骨だったのか?」と思ってしまう。
 逆に勝家の最期のイメージが鮮烈過ぎたからこそ、それと対立した秀吉を主役かそれに近い立場に置いたドラマでは勝家をいじめっ子にしてしまう傾向が生まれたのではないだろうか、と考える次第である。いずれにしてもそろそろ「勝家ジャイアン演出」は終わりにして欲しいものである。


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令和三(2021)年五月二六日 最終更新