第参頁 徳川信康……謎多き切腹命令

名前徳川信康(とくがわ・のぶやす)
血統三河松平氏次期当主→徳川家次期当主
地位三河岡崎城主
通称岡崎三郎
生年永禄二(1559)年三月六日
切腹年月日天正七(1579)年九月一五日
切腹場所遠江二俣城内
介錯人服部半蔵正成
見届け人天方道綱
辞世無し
略歴 拙サイトでは『嫡男はつらいよ』に続く二度目の登場となる徳川信康である。
 徳川家康がまだ松平元康の名で今川家の人質状態だった永禄二(1559)年三月六日に、今川義元の妹婿・関口親永の娘・瀬名を母に駿府で生まれたのが徳川信康である。幼名は父祖以来松平家(及び徳川家)嫡男に名付けられた竹千代(たけちよ)。

 永禄三(1560)年五月一二日に上洛する今川軍の先鋒として父・元康が駿府を発つと、当然の様に母・瀬名、妹・亀姫とともに人質としての立場に立たされた。
 そして一週間後の五月一九日に大伯父(母方の祖母の兄にあたる)・今川義元が桶狭間の戦いにてまさかの戦死を遂げると、「三河の守りを固める」と称して帰らぬ父のために今川氏真の手によって殺される危機に曝された。

 だが、元康は今川家家臣・鵜殿氏長・氏次兄弟を捕え、彼等との人質交換により岡崎城に移った(外祖父・関口親永は後に切腹を命ぜられた)。
 人質を奪還した元康は名を徳川家康と改めて今川家との縁切りを決意し、永禄五(1562)年には織田信長と清洲同盟が成立した。そしてこの同盟を確かなものとするため、永禄一〇(1567)年五月に九歳の竹千代は同い年である信長の娘・徳姫と結婚した。

 西の不安をなくした家康が同年六月に浜松城に移ると、岡崎城を譲られ、翌七月に元服して岳父・信長の「」、実父・家康の「」の字を与えられて徳川信康と名乗る。
 そして三年後の元亀元(1570)年、正式に岡崎城主となり、更に三年後の天正元(1573)年に初陣。二年後の天正三(1575)年五月の長篠の戦いにも岳父信長・実父家康と共に参戦し、武田軍に壊滅的打撃を与えて妹・亀姫の婿である長篠城主・奥平貞昌を救援した。
 その後も信濃から三河に侵入する武田軍や親武田派の国人領主相手に戦い、数々の軍功を挙げ、勇猛さを示した。
 殊に天正五(1577)年八月、遠江横須賀の戦いでは殿軍を務め、武田軍に大井川を越させず、徳川家中は家康の良き後継者として成長する信康に大きな期待を寄せていた。

 ところが、その裏では織田を恨み、今川を懐かしむ母・築山殿(瀬名が築山御殿に住むようになってからそう呼ばれた)と嫁である徳姫との仲が悪く、岡崎城内に暗雲が立ち込めていた。その内実には様々な出来事が囁かれている(詳細後述)が、確かな史実として天正七(1579)年八月三日に岡崎城にやって来た父・家康より岡崎城からの追放を命じられ、翌日信康は城を出て、大浜城に移された。
 その後、遠江堀江城、更に二俣城に移され、九月一五日に家康より切腹命令が下った。徳川信康享年二一満。母の築山殿もそれに先んじて八月二九日に二俣城への護送中に佐鳴湖の畔で、家臣の岡本時仲、野中重政により殺害されていた。


漢の最期 徳川信康の切腹には謎が多い。
 一般には武田勝頼との内通を疑った織田信長が信康の様々な不行状を詰って、築山殿ともども斬るように命じ、父・家康が散々苦悩した果てに御家の将来の為に涙を呑んで信康に切腹を命じ、信康自身も我が身一人の犠牲で家中の安泰を図れる事を望んで、従容として腹を掻き切ったと云われている。
 以前に『嫡男はつらいよ』徳川信康を採り上げたも、信康切腹の謎は疑い出せば切りがなく、関係者すべてが疑わしく見えることに辟易している旨を述べたことがある。
 正直、薩摩守の歴史知識や洞察力如きでこの謎が解けるとは思わないが、信康切腹の前後における周囲の人間の命運変化で見えるものも多い。そこでまずは信康切腹時に際しての諸人の動きを見てみたい。

 前述したように天正七(1579)年九月一五日、徳川家康は遠江二俣城に蟄居中の徳川信康に切腹命令を下した。切腹命令伝達及び見届け人を命じられたのは服部半蔵正成と山方山城守道綱(やまかたやましろのかみみちつな)。
 二俣城主・大久保忠世に伴われた両名から家康の命が伝えられ、信康は謹慎開始時より身辺警護していた大久保忠隣(おおくぼただちか。忠世の子)への礼と自らの潔白を忠世に述べ、切腹に及んだ。
 腹を掻き切り、苦しむ信康に対して、一般にはその介錯を服部半蔵が泣く泣く務めたと云われる。だが異説もあり、それによると半蔵は主命といえども、主君の嫡男である信康に刃を向けることが出来ず、見届け役の天方山城が替わって介錯したと云われる(この後天方は出家した)。


切腹の影響 云うまでもなく徳川信康は徳川家康と正室・築山殿の間に生まれた正真正銘の嫡男だった。理由はどうあれ、『嫡男の切腹』はとんでもない異常事態である。
 故に信康の切腹は多くの人間の運命を左右した。

 前述したが信康切腹の前に母・築山殿が殺されている。巷間に囁かれる信康切腹理由の一つには「武田家との内通」があり、その背景には今川の血を引く母・築山殿の存在が囁かれ、武田家間者の唐人医師源敬(げんけい)との不義密通すら囁かれた。このことの真偽はここでは触れないが、築山殿が父の切腹や、岡崎移住直後の入城禁止等、踏んだり蹴ったりの後半生を送っていたのは間違いない。
 信康と共に築山殿も落命したことが完全な今川時代との手切れと見られることも多い。

 正室・徳姫は天正八年二月二〇日に信康との間に生まれた二人の娘を残して岡崎を発ち、実家の織田家に帰ることになったが、信康切腹を恨んだものか、徳姫は信長の元に行かず、長兄・信忠の元に向かった。
 信康切腹の背景には岳父・織田信長の存在が語られない事はなく、一般に徳姫が信長に信康の不行状(僧侶殺害・亡国踊りにうつつを抜かした)、姑・築山殿への愚痴、夫婦仲の険悪さ(男児を産めなかった徳姫への信康の暴言、これを庇った小侍従を手打ちにした)等を一二箇条も手紙にしたためたため、信長が家康に信康切腹を強要する材料にしたとされるが、その割に徳姫は周囲から責められておらず、築山殿の方がよっぽど評判が悪い。
 件の手紙にしても、信長に送った時と切腹命令時ではかなりのタイムラグがあり、不自然で、徳姫が信康の死を望んでいたとは考え難い。
 勿論夫婦仲が悪いからと云って、「嫁の父が旦那の父に旦那を殺せと命ずる」のも、「旦那の父が嫁の父の要求に従って殺す」のも、極めておかしな話である。

 逆に信康の切腹=世子がそれを命ぜられるほどの大罪にして大事件にもかかわらず、家中に連座した者が皆無なところに注目して欲しい。
 信康の傅役だった平岩親吉は、自らが責任を被り、首を信長に差し出すことで信康を助命せんとしたが、家康はこれを認めず、親吉を責めることもなかった。似たような事件が武田家で起きた時には武田義信の傅役・飯富虎昌は切腹に追い遣られている。
 また服部半蔵が信康を介錯出来なかった説に関しては、主筋に刃を向けられなかったことを家康が褒めたとされている。
 つまり誰も咎められていないのである。本来これだけの事件なら、事件の核となる人物の処罰だけでは家中が納得せず、核となる人物の周辺の者が最低でも数名は大した責任がなくても厳罰に処さなければ済まされない空気となる。だが自らの意思で信康に殉死した者はいても、家康から罰せられた者はいないのである。かなり異例な話である。
 もっとも、罰とは異なるが、報復人事っぽい者は存在した。酒井忠次である。

 通説では、信長が信康切腹を要請する前に、安土城に来ていた徳川四天王の中でも筆頭とも云える酒井忠次に信康不行状を詰問した所、あろうことか忠次は殆どを認め、これによって信康の運命が極まったとされている。
 この直後、忠次は信濃制圧の最高責任者に任ぜられたことから事件の影響はないかに見られたが、家康の関東移封に際して重臣達が大幅加増を受ける中、忠次の子・家次は三万石しか与えられず、これに抗議した忠次に家康は「御前も我が子が可愛いか?」と恨みがましく云い放ったと云う有名な話がある。狸親父・徳川家康の現行の中でもここまでえげつない皮肉は珍しく、事件の影響が決して短いものでなかったことが窺える。

 そして当の家康自身、自らが切腹を命じた、謀反人として処罰した筈の信康の名を人前で口にすることが度々あった。
 関ヶ原の戦いで三男・秀忠が遅参し、徳川軍の中核を欠いた状態で戦闘を開始するにあたって「倅(信康)がいればこんな苦労をせずに済んだのに…。」とぼやいたのは有名だが、関ヶ原の戦いが行われた慶長五(1600)年九月一五日は信康の命日だった。それも信康の死から信康が生きた時間と同じ二一年が流れていた。
 他にも、家康が気性の激しい六男・松平忠輝を冷遇した際に、信康の面影を見たことも伝えられている。仮に信康が本当に武田と内通して家康に謀反を企んだ果てに切腹させられていたとしても、こんな想いを抱くのが親心なのだろうか。

 最後に触れておきたいのは信康の同母妹・亀姫である。
 亀姫の夫は奥平貞昌で、三河北方で徳川と武田の間にて向背に苦慮していた山家三方衆の一人で、奥平家が武田から離反する際に武田方に人質となっていた妻を失い、徳川家に忠誠を誓う代償に亀姫を正室に貰い受けていた。
 もはや武田に戻れぬ夫・貞昌は武田家の猛攻を長篠城にて寡兵をよく用いて耐えしのぎ、長篠の戦いの勝利に大きく貢献し、戦後、信長から「信」の字を与えられて「奥平信昌」と改名する程絶賛された。
 そして子供の代には松平姓を名乗り、徳川一門に連なっており、そこには兄と母が死を賜った過酷な運命や大罪の影響は欠片もなく、後年加納御前と称された亀姫は異母弟・秀忠、甥・家光に対しても隠然たる影響力を有したと云われる。
 巷間にある様な「武田家との繋がりを断つ為、今川家の残滓は除かれた」と云う説に無理があるのを証明するのがこの亀姫である。

 結局の所、徳川信康切腹の謎はとても解明出来たものじゃなく、謎が謎を呼んでいるが、逆に切腹にまで追いやられた所に様々な人間関係が複雑に絡み合った中心にいた信康の悲劇が見え隠れしているように薩摩守には思えてならなかった。
 いっそ無能か、単純な立場にあれば切腹までは命ぜられなかったのではないか、と。


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令和三(2021)年五月二六日 最終更新