第陸頁 千利休……武士以上に武士らしい切腹

名前千利休(せんの・りきゅう)
血統堺納屋衆田中氏
地位茶道家元・千家始祖
通称宗易
生年大永二(1522)年
切腹年月日天正一九(1591)年二月二八日
切腹場所京都聚楽屋敷
介錯人蒔田淡路守
見届け人尼子三郎左衛門
略歴 云わずと知れた、侘び茶(草庵の茶)の完成者にして茶聖とも称せられた。茶湯の天下三宗匠の一人(後の二人は今井宗久・津田宗及)でもあり、茶の湯において史上確固たる知名度と品格を持つ男、それが千利休である。
 だた、俗に云われる「利休」の名は、天正一三(1585)年に正親町天皇から与えられた居士号である。というのも、禁中茶会に町人の身分では参内できないために、法体となった訳である。
 「法体」とは僧侶のことで、世俗を離れた僧ならば身分の上下に関わりなく高貴な人と接しても差し支えが無かった。後の江戸幕府にて奥医師が法体だったのも同じ理由である。
 従って、通常は法名の宗易(そうえき)の名を名乗り、周囲からもそう呼ばれており、雅号は抛筌斎(ほうせんさい)と号した。
 つまり「利休」と呼ばれるより、「宗易」と呼ばれたことの方が時間的にも長く、頻度的にも高かったのだが、本作では面倒臭いから分かり易くする為一般的に通りの良い「利休」で統一する。

 和泉国・堺の商家で納屋衆(倉庫業)であった田中与兵衛を父に、月岑(げっしん)妙珎を母に生まれた。幼名は与四郎(よしろう)。
 経済力で自治権すら持っていた堺商人の中にあって、田中家は中堅所だったが、与四郎は若年より茶の湯に親しみ、一七歳で北向道陳、ついで武野紹鴎に師事し、師とともに茶の湯の改革に取り組むことで着実に茶人として力を持ったことで時の権力者達と接触することとなった。


 堺の南宗寺に参禅し、本山である京都・大徳寺とも親しく交わっていた利休は、織田信長が足利義昭を第一五代征夷大将軍に就任させた手柄によって堺を直轄地とした際に、早くも茶頭として雇われた。

 本能寺の変で信長が斃れると羽柴秀吉に仕え、天正一三(1585)年一〇月の秀吉の正親町天皇への禁中献茶に随行し、前述通り、「利休」の居士号を勅賜された。
 天正一五年(1587年)の北野大茶会を主宰し、秀吉の重い信任を受けた。
 また黄金の茶室の設計などを行う一方、草庵茶室の創出・楽茶碗の製作・竹の花入の使用を始めるなど、わび茶の完成へと向かっていくが、薩摩守に茶道など分かる筈も無いのでこの辺りは割愛する(苦笑)。
 秀吉から三〇〇〇石を賜わり、茶人として名声と権威を誇った利休は秀吉の政治にも大きく関わっており、秀吉の弟・豊臣秀長は大坂城を訪れた大友宗麟に対して「公儀のことは私に、内々のことは宗易(利休)に」(関白秀吉に関する公のことは私に、私事は利休に相談しなさい、という意)という助言を送った程である。

 天正一九(1591)年、突然秀吉の逆鱗に触れ、堺に蟄居を命じられた。
 前田利家や、利休七哲』(蒲生氏郷・古田織部・細川忠興・芝山宗綱・瀬田正忠・高山右近・牧村利貞)と呼ばれた弟子達(特に古田織部と細川忠興)が助命に奔走したが、京都に呼び戻されて程なくしてから聚楽屋敷内で切腹を命じられた。時に天正一九(1591)年二月二八日、千利休享年七〇歳。


漢の最期 千利休の切腹に際しては、弟子達による奪還の恐れが懸念された。「弟子」といっても中には一端の大名もいたのである。それゆえ、利休が謹慎する屋敷を上杉景勝の軍勢が取り囲んだと伝えられる。
 (余談だが、平成24(2012)年の大河ドラマ『江』で、利休切腹直前に豊臣秀勝(AKIRA)と江(上野樹里)が炭運搬人に身をやつして利休(石坂浩二)に会いに行くシーンがあったのだが、このとき警護役責任者は「愛」の字の前立てをした兜だけが映されていた。たったワンシーンしか出ない直江兼続役の俳優を選定できなかったに違いない(笑)。)

 利休が切腹を命ぜられた理由は諸説ある。とても一つ一つ検証出来たものではないが、「利休の切腹」を扱うのが本作の命題なので、これを避けて通る訳にもいかない。
 そこで、巷間、囁かれている説の内、主だったものを下記の表にまとめた。信憑性の有無や高低は敢えて簡単にしか触れないのを御了承頂きたい。

 千利休切腹の原因とされる諸説
簡単な内容信憑性
大徳寺三門不敬説 大徳寺三門(金毛閣)に利休の雪駄履きの木像を楼門の二階に設置したが、その下は豊臣秀吉も通る所なので、天下人を踏み付けにしていて、不敬である、とされたもの。 最も有名で、有力視されている説。
 但し、これは口実と思われる。利休は一切の弁明を行っていないが、木像だけなら撤去すればいいし、木像を置いたのは多額の寄付を感謝した大徳寺で、秀吉の激怒は木造設置から一年二ヶ月も経過してからのこと。
売僧容疑説 安価の茶器類を高額で売り私腹を肥やした疑いを持たれたというもの。←この頃の利休がそこまでして金を求めたかなあ?
 事実としてもこれで殺すとは思えん。
天皇陵墓石無断持出利用説 天皇陵の石を勝手に持ち出し手水鉢や庭石などに使ったというもの。←それが事実ならもっとはっきり史上に残っていそうなもんだが。
茶道概念対立説 秀吉は元々質素な侘び茶を嫌い、黄金の茶室で「大名茶」と呼ばれる茶を点てさせた程だったが、利休は密かに不満を募らせ、信楽焼の茶碗を嫌う秀吉から茶碗処分を命じられたが、無視して逆鱗に触れたというもの。 一因としてはあり得そう。これだけで切腹まで命じたかは疑問だが。
娘差出拒否説 秀吉が利休の娘を側室に望んだが、「娘のおかげで出世していると思われたくない」と拒否して恨まれたというもの。 好色の秀吉と硬骨の利休の間でありそうな話だが、利休を切腹に追い込んだら余計娘に嫌われんか?
政治闘争に巻き込まれた説 豊臣秀長死後の豊臣家後継者の不安定さから来る政治闘争に巻き込まれたというもの。←確かに秀頼誕生後はそうなったが、利休切腹時は秀頼は影も形も存在せず。
朝鮮出兵批判説 名前のまんま。 後年、利休が反対した事よりも、反対した事を詫びなかった事で切腹を命じざるを得なかった、と秀吉が悔やむ姿が様々な書籍に見られる。
 ただ、朝鮮出兵に反対した者は数多く存在している。
自負心対決説 権力の絶頂に登りつめた秀吉が芸術でもでかい面し出して利休の自負心と対立したという説。←それで殺すとは思えん。それなら狂言師や華道家元や連歌師は何人も死ぬことになる。
秀吉の交易独占説 交易の利を好む秀吉が独占を図り、堺衆の既得権益と対立して利休も疎まれた。←豊臣家滅亡時まで堺は繁栄していますが?
秀吉暗殺容疑説 利休の修行した南宗寺が徳川家康と縁が深く、家康に通じて茶に毒を入れて、茶室で秀吉を毒殺しようとして誅せられたというもの。←せやったら、家康、ただで済んどらんがな(笑)。

 何か揚げ足取り的な意見を連発してしまい、結局は謎でしかないのだが(苦笑)、いずれが原因にしても、豊臣秀吉の怒りは尋常じゃなく、同時に利休は一切の弁明をしなかった。既に秀吉の暴走を止め得た豊臣秀長も亡く、止められるとしたら、大政所(秀吉母:なか)か北政所(秀吉正室:お禰)ぐらいだった。
 前田利家は利休の元へ使者を送り、前述の二人を通じて詫びれば今回の件は許されるだろうと助言したが、利休は応じなかった。
 秀吉への謝罪を断ったことで「利休の死は確定した。」とも、「謝罪していても一緒だった。」とも云われるが、謝罪拒否は茶人として、権力に頭を下げることで茶の湯の名誉を傷つけまいとした、と見られている。
 切腹前に一度京から堺に移された利休だったが、堺に向かう利休を淀の船着場で見送ったのは、古田織部と細川忠興の二人だけだった。それほど周囲は秀吉の怒り様を恐れていた。

 堺に戻った利休に謝罪の意思なしと見た秀吉は天正一九(1591)年二月二五日に大徳寺の利休像を山門から引き摺り下ろさせ、木像を京都一条戻橋のたもとで磔にした(←大人気ない……)。
 そして翌二六日、利休を堺から京都に呼び戻し、古田・細川の奔走も空しく、二八日、秀吉からの切腹命令を持って、介錯人として蒔田淡路守が、見届け人として尼子三郎左衛門がやって来た。
 この日は朝から雷が鳴り天候が荒れていた。その天候とは裏腹に利休は静かに、動じることなく、「茶室にて茶の支度が出来ております。」と述べた。蒔田と尼子に最後の茶を点てた後、千利休は一呼吸ついて切腹。その最期は武士以上に武士らしかったと伝えられている。

 その前日に利休は遺偈を残していた。

 人生七十 力囲希咄
 吾這寶剣 祖佛共殺
 提ル我得具足の一ッ太刀
 今此時ぞ天に抛


 と。

 後、尼子三郎衛門の届けた利休の首を、秀吉は首実検もせず、一条戻橋に晒させ、大徳寺三門上の件の木像に踏ませるという嫌がらせまでした。
 謎多き千利休の死だが、「切腹」にも謎が残る。茶人や法体ではあっても武士ではない利休が切腹を命じられるのは本来あり得ない話である。
 同じ死を命じるにしても、蜜月状態にあった頃の友情に想いを馳せて、利休を『武士』として死なせたかった為だろうか?

 秀吉の利休切腹に迷いはなかったが、後悔と悲しみは確かに存在した。
 「せめて詫びていれば…。」との呟きを残し、利休と同じ作法で食事を取ったり、利休が好む枯れた茶室を建てさせたりしたという。


切腹の影響 千利休の死は一人の茶人の死で済まされなかった。利休切腹時の豊臣秀吉の怒りは凄まじく、切腹後、聚楽城内にあった利休聚楽屋敷は、破却された。
利休七哲の一人であった細川忠興はこれを惜しみ、自らが創建した大徳寺高桐院に利休屋敷の一部と伝えられる書院を残し、屋敷跡地は、忠興の長男・長岡休無の茶室・能舞屋敷として活用された。

 だが、忠興の様に利休=大罪人となった者との関係者と見做されかねない行動を取るのは恐ろしい事だった。何せ秀長の死以来、利休切腹を含め、秀吉の歯車はゆっくりと、着実に狂い出していたのだから。
 利休の後継者である嫡男・千道安(先妻・宝心妙樹の子)と、千少庵(後妻・宗恩の連れ子で娘婿でもある)、は蟄居させられ、文禄四(1595)年になってようやく徳川家康や前田利家という秀吉政権の筆頭と次席の取り成しによって赦免された。
 この後の千家と茶道の歴史については申し訳ないが割愛させて頂きたい。高校の文化祭で茶道部の同級生に誘われて茶を飲んだぐらいしか茶道と縁のない薩摩守ごときが生半可な知識で茶道の変遷を記載するのは茶の湯に対して失礼と思し召規頂きたい (苦笑)。

 茶の湯については書きこなせないが、権力に媚びなかった死は生前の利休のこだわりと人柄を際立たせた。そんな数多いエピソードに触れることなら出来る(笑)。
 まずは利休を切腹させた張本人の秀吉。
 ある朝、利休に茶会に招かれた際に、庭の朝顔がすべて切り取られているのを訝しがりながら茶室に入った。
 すると床の間に一輪だけ朝顔が生けてあり、一輪ゆえに際立てられた朝顔の美しさに秀吉は深く感動したという。
 利休は庭の落ち葉を掃き終わった後に落ち葉を数枚撒いて、「少しくらい落ち葉がある方が自然でいい」と答えたように、自然体にこだわり続けた男だった。

 弟子・古田織部には利休の謙虚さを示すエピソードがある。
 織部の茶席で、籠の花入の下に薄板を敷いていないのを見て感じ入り、「この事に関しては私が弟子になりましょう」とまで述べた。
 世に、「俺は誰であれ、そいつが正しい、優れていると認めたら謙虚に見習う。」とエラソーにいう人間は多い。だが知識として「そうあるべき」と思っても、実際には「こいつ、俺より格下。」と見做した人間に対して、その長所すら認めない人間は少なくない。薩摩守も人の事云えないが。だが利休はそれが出来る人間だった。

 そして茶の湯に対する利休の恐ろしいまでの姿勢は豪傑・福島正則すら心胆を寒からしめた。
 正則は細川忠興が利休を慕っていることを疑問に思っていた。忠興に誘われて利休の茶会に参加した。茶会が終わると正則は「わしは今までいかなる強敵に向かっても怯んだことは無かったが、利休と立ち向かっているとどうも臆したように覚えた。」と感服して述懐したという。正則が何に臆したかは分からないが、彼を感服させた利休が並の人間である筈がなかった。

 そんな一代の巨人の死は豊臣家の行く末にも、茶の湯の行く末にも、彼を弟子と仰いだ大名達にの行く末にも、静かに、確実な影響を与え続けた。良いか悪いかは別として。


次頁へ
前頁へ戻る
冒頭へ戻る
戦国房へ戻る

令和三(2021)年五月二六日 最終更新