第漆頁 大谷吉継……面相を晒さない為に

名前大谷吉継(おおたに・よしつぐ)
血統大谷氏
地位従五位下・刑部少輔、越前敦賀城主
通称紀之介
生年永禄二(1559)年
切腹年月日慶長五(1600)年九月一五日
切腹場所美濃国関ヶ原松尾山麓藤古川台
介錯人湯浅五助隆貞
見届け人諸角余市・土屋守四郎
辞世契りあらば 六の巷に まてしばし おくれ先立つ 事はありとも
略歴 豊臣秀吉をして「一〇〇万の軍勢を指揮させてみたい。」と云わしめた知勇兼備も名将……それが大谷刑部少輔吉継という漢(おとこ)である。
 永禄二年、近江の生まれとされているが異説もある。幼名は紀之介(きのすけ)。
 同郷にして生涯の親友となる石田三成とは一歳違い(吉継の方が年長)。三成とは「佐吉」、「紀之介」と呼び合う仲だった(加藤清正と福島正則が「虎之助」、「市松」と呼び合っていたみたいなもの)。

 天正二(1574)年、その三成の手引きで羽柴秀吉に小姓として仕え始めた。秀吉の中国征伐の記録にもその名前が見られる。天正六(1578)年の三木城攻めでは馬廻りを務めていた。時に紀之介弱冠一六歳。

 天正一一(1583)年四月、賤ヶ岳の戦いにおいて、加藤清正・福島正則・加藤嘉明・粕屋武則・平野長泰・脇坂安治・片桐且元が「七本槍」として華々しい武功を挙げる裏方で、吉継は長浜城主・柴田勝豊(勝家の甥)を調略し、降伏させ、三成は賤ヶ岳までの一三里の道々に住まう民衆に握り飯・水の容易をさせ、勝利の要因となった集団マラソンを成功させ、共に秀吉を大いに感心させた。
 この時、秀吉は吉継の活躍に対して「一番槍の十番に匹敵する手柄ぞ。」と云って激賞している。

 天正一三(1585)年七月一一日、主君・秀吉が近衛前久(このえさきひさ)の猶子となって関白に就任すると、それに伴って吉継も従五位下・刑部少輔に叙された。
 翌天正一四(1586)年の九州征伐では三成と供に兵站奉行を命じられ、豊臣政権下における五奉行(浅野長政・前田玄以・増田長盛・石田三成・長束正家)に匹敵する奉行振りを発揮した。

 秀吉の天下統一を目前にした天正一七(1589)年、吉継は三一歳で越前敦賀五万石の城主となった。
 そしてついに天正一八(1590)年、秀吉が北条氏を降して天下統一。直後、吉継は全国の太閤検地に活躍。
 朝鮮出兵では軍監として人員と物資の輸送、兵站業務に従事。冒頭の秀吉による人物評はこの時生まれたものであった。
 余り関係無いが、文禄の役での和平交渉に際して、秀吉を激怒させた明からの「汝を日本国王の封じる」の(一方的な)冊封において吉継は三成・小西行長・宇喜多秀家・増田長盛とともに「大都督」に任じられていた。
 勿論、交渉自体が決裂したので官位に意味はないが、吉継が明皇帝にもその能力を認められていたのは見逃せない。だが、この頃既に吉継の体はハンセン病に蝕まれていた。

 病の為、文禄の役中途辺りから政務から離れ、豊臣政権の中枢から遠ざかっていたが、慶長二(1597)年、秀吉が徳川家康・織田有楽斎とともに伏見の大谷邸を訪問しており、翌慶長三(1598)年六月一六日には秀頼の中納言就任祝いにも列席した。
 だがその二ヶ月後の八月一八日、主君秀吉の薨去で吉継と三成の運命が暗転したのは周知の通り。

 とはいえ、吉継もいきなり家康と対立した訳ではかった。むしろ家康の実力を認めざるを得ないと見て、親しく接した。家康暗殺未遂事件でも、七将(清正・正則・嘉明・浅野幸長・細川忠興・池田輝政・黒田長政)による三成襲撃事件でも、宇喜多家内紛事件でも、その都度家康の指示で動いていた。
 そして七将襲撃事件において、三成を匿い、七将を説得して襲撃を思い留まらせた家康は事件のけじめとして三成に居城での謹慎を命じ、次男・結城秀康を佐和山まで警護させた。

 慶長五(1600)年六月二日、徳川家康は会津にて城郭や砦の修築を続け、上洛命令に応じない上杉景勝を討伐する為、大坂城西の丸に諸将を集めて軍議を開いた。その中には吉継もいて、討伐軍は一六日に大坂を発った。
 そして近江を通過するとき、佐和山城にて謹慎中の三成と会った吉継はそこで三成が家康打倒の兵を挙げる計画を持っていることを告げられ、協力を要請された。

 この時も吉継は石高・人望・戦経験のいずれをとっても三成では家康に抗し得ないことを説き、挙兵を思いとどまるよう三度に渡って説得した。プライドが高く、人の忠告に従わない三成だったが、無二の親友からの耳に痛い忠言を黙って聴き続けた。
 しかし、三成は決心を変えず、吉継は家康と同じ五大老である毛利輝元か宇喜多秀家を大将に立てることを助言して佐和山を発った。

 七月二日、家康は江戸城に入り、その一〇日後に三成の檄に応じた西軍諸将が佐和山に集結したが、その中には去った筈の吉継もいた。一度は断ったものの最終的には三成と供に死ぬ覚悟を固めて還って来ていたのであった。

 親友・石田三成の弱点が西軍の弱点に直結するとみていた吉継は味方の脆い結束を何より案じた。運命の九月一五日、既に馬にも乗れない吉継だったが、輿に乗って松尾山麓に布陣し、参上に陣取る小早川秀秋が裏切らぬよう脇坂安治・小川祐忠・朽木元綱・赤座直保の四将に備えさせた。
 そして関ヶ原の戦いが開戦するや島津義弘・吉川広家・毛利秀元・小早川秀秋・小西行長等がだんまりを決め込む中、石田隊・宇喜多隊・大谷隊のみが獅子奮迅の働きで戦い続けていた。
 大谷隊の相手は藤堂高虎・京極高知勢で、吉継は輿の上からよく隊を指示して奮戦したが、正午になって有名な小早川秀秋の裏切りが起きた。

 更には小早川勢に備えさせた四将までが寝返り、大谷勢は総崩れとなった。覚悟を決めた吉継は側近の湯浅五助隆貞に介錯と、自らの首を決して敵の手に渡さないことを命じて切腹して果てた。大谷吉継享年四二歳。
 この大谷勢の壊乱で西軍が一気に敗北に陥ったのは周知の通りで、関ヶ原を脱した三成も伊吹山中にて捕えられ、半月後の一〇月一日京都六条河原にて小西行長・安国寺恵瓊と供に斬られ、既に切腹していた長束正家ともども晒し首とされた。


漢の最期 石田三成への加勢を決めた時から大谷吉継には友情に殉じる覚悟は出来ていたのだろう。

 そして生に執着がなくなると冷静さが増すのか、関ヶ原の戦いにおける吉継の眼はすべて正確なものだった。
 前述したように吉継は松尾山の麓に布陣した。場所は関ヶ原西南にある山中村の藤川台で、率いる兵力は大谷一族・戸田勝成・平塚為広等の兵・五七〇〇。更には山上の小早川秀秋裏切りに備えさせた脇坂安治・小川祐忠・朽木元綱・赤座直保を四二〇〇。
 これらを率い、午前中は東軍の藤堂高虎・京極高知両隊を相手に奮戦した。大谷勢の奮戦は目覚しく、「士卒皆其恵に懐き、敢て離反する者なし、其敗るるに及びて、決然として自屠し、陵辱を受けず、人皆其智勇に服せり」と記される程だった。大谷軍からは一人も戦線離脱がなく、敗北に際しても整然と吉継の指揮にて勇猛に戦い続けたというのである。

 戦況は東西互角か、やや西軍押し気味と見られていた。そんな中、一万五〇〇〇の兵を率いる小早川勢の去就は両軍にとって勝敗を握る鍵となっていた。
 そして正午頃、徳川家康は松尾山に裏切りを催促する一斉射撃を命じ、吉継が懸念した秀秋に寝返りは現実の物となった。

 恐らく、秀秋だけの裏切りならどうにかなっていたのだろう。事前に秀秋の裏切りをある程度推測していた大谷隊は慌てることなく応戦した。前線から引き返した戸田勝成・平塚為広の合力もあって、二度に渡って山上から襲い来る自軍の数に勝る小早川勢を押し返した。この大谷勢の大抵抗を受けて小早川軍と行動を共にしていた東軍から監視役・奥平貞治が重傷を負い、後に死亡した。
 しかし、小早川勢に備えさせた筈の脇坂・小川・朽木・赤座の四将率いる四二〇〇の兵力までもが西軍を裏切って、大谷勢に襲い掛った。
 東と南から六倍近い兵力による挟撃を受け、さすがの吉継もこれに抗する術は持ち得なかった。

 もはやこれまで、と意を決した吉継は切腹を決意。切腹に際して吉継は側近の湯浅五助隆貞に最後の命令を下した。
 ハンセン病により、顔の皮膚も爛れに覆われていた吉継は頭巾をかぶり、面頬と布で顔を覆って参戦していた。死後、自分の首が敵の手に渡って晒されることを何より厭うた吉継は五助に「病み崩れた醜い顔を敵に晒すな」と云って、介錯と、斬り落とした後の自分の首を土中に埋めて敵の手に渡さない事を命じた。

 そして最期の最後に「おのれ小早川金吾め!人面獣心なり!必ずや三年の間に祟りを為さん」と叫んで大谷吉継は腹を掻き切った
 (※金吾=中納言の唐名。当時秀秋は中納言だった。※人面獣心=人の顔をしていても獣の様に卑しい心を持っている様を罵った四字熟語)
 泣く泣く介錯を務めた五助は吉継の首を関ヶ原内の何処かの土中に埋めさせると戦場に戻って藤堂隊に突撃した。

 藤堂高虎配下の藤堂高刑(とうどうたかのり。高虎の甥)は五助等が吉継の首を埋めたのを見ていたらしい。五助は自分の首を差し出すこと条件に高刑に首の場所を口外しないで欲しいと嘆願し、高刑はそれを承諾して五助の首を獲った。
 戦後、高虎から報告を受けた家康は、湯浅五助の首を取った高刑の手柄を褒めながら、吉継の首の在り処を尋ねた。だが高刑は五助最後の嘆願を守って、口を割らなかった。
 高刑の姿勢に感心した家康は自分の槍と刀を与えたという。かくして吉継の首が敵方の手に渡ることはついに無かった。

 余談だが、個人的に、薩摩守は呪いや祟りという者を信じていない。無念の死を遂げた者が祟るなら、古今東西祟られて死んで当たり前なのにのうのうと生き続けた奴等は星の数ほどいる。だが、小早川金吾秀秋は歴史的事実として関ヶ原の戦いの二年後に夭折した。
 死因には諸説あることからして不名誉な死ではないか、と囁かれており、その中の一つに「大谷吉継の怨霊に怯えた狂乱死。」というものがある(他には宇喜多家浪人に暗殺された説、無礼討ちにしようとした農民に逆襲の股間蹴りを喰らって即死した説、疱瘡説等)。


 尚、吉継の首の行方には異説もある(何か、異説が多いな……)。切腹した吉継の首を湯浅五助の配下・三浦喜太夫が袋に包んで吉継の甥の従軍僧祐玄に持たせて戦場から落とし、祐玄が米原の地に埋めたというものである。伝説の真偽はどうあれ、米原には吉継首塚がある。


切腹の影響 関ヶ原の戦いは多くの人間に様々な決断を迫り、単純に勝敗と名誉は比例しなかった。そこには少なからず、大谷吉継の見事な死に様も影響している。

 関ヶ原において、大谷家中は多くが吉継と供に戦場にその身を散らした。湯浅五助以外にも、諸角余市・土屋守四郎等が戦死し、三浦喜太夫は戦後の敦賀城引き渡しを見届けた後に吉継の追い腹を切った。

 一方で、生き残った者も少なくなかった。吉継の長男大谷大学吉治は戦場離脱後、浪人し、後年大坂の陣にて豊臣方について戦死した。尚、この大坂の陣にて最も高名な活躍をした真田幸村の正室は吉継の娘である。
 いわば義兄弟で豊臣秀頼に味方した訳で、吉継の豊臣家への想いは実の息子と義理の息子が最後の最後に見せてくれたのである。
 他の生き残った家臣達の多くは本来浪人となる所を東軍諸大名に再仕官した。
 湯浅五助の子・湯浅十郎左衛門は高力家に、笠井慶秀は井伊家に、敦賀城留守居役だった蜂屋将監は東軍への城引き渡しを済ませた後、福島正則に仕えた。
 関ヶ原の戦いによる減封・改易で多くの武士が浪人し、このことが大坂の陣遠因ともなった訳だが、そんな中で大谷家中の武士達が数多く再仕官を遂げているのも、諸大名が吉継の見事な散り様に魅せられていたから、と考えるのは薩摩守だけだろうか?


 そして時代がだいぶ下ってからではあるが、昭和が平成になる辺りから石田三成が見直されるようになった要因の一つに大谷吉継という漢(おとこ)の存在があった。
 つまり、吉継程の漢と「刎頚の友」であった三成もまた「それなりの漢」と見られるようになったと云えようか。
 この頁でも冒頭から三成との絡みは書いているし、吉継と三成が互いの為に尽力した例は枚挙に暇がない。そんな数ある例から二例ほどピックアップして、この頁を締めたい。

 一つは九州征伐直後のことである。島津を降伏に追いやり、筑前まで凱旋してきた秀吉に、吉継は何らかの諫言を行った(詳細不明)。だがこの諫言は秀吉の逆鱗に触れた。
 秀吉は一旦下がらせた吉継を再度呼び出して成敗しようとしたが、三成は博多の豪商・神屋宗湛(かみやそうたん)の元に吉継を逃がして、宗湛にその保護を依頼した。
 そして、吉継の母東殿局・北政所(秀吉正室)・豊臣秀長に取り成しを依頼。結果、秀吉は吉継を赦免した。これ以上の詳細が分からないのが恥ずかしい限りだが、淀殿派と見られていた三成が北政所に取り成しを嘆願している所に注目したい。
 一部に物凄く好かれ、その他大勢に物凄く嫌われた三成が多くの人脈を頼ったのも親友・大谷吉継を想えばこそだろう。ついでを云うと、三成の嘆願対象人選は極めて正しい(笑)。

 もう一例は割と有名な話。
 天正一五(1587)年、大坂城で開かれた茶会において、招かれた諸将は茶碗に入った茶を一口ずつ回し飲みしていた所に、吉継が飲む際、顔から膿が茶碗に落ちてしまった。
 誰もがその茶碗に口をつけたがらず、飲むふりをするだけであったが、三成だけ普段と変わりなくその茶を飲み干し、「美味なので全部飲んでしまいましたゆえ、もう一杯茶を注いで欲しい。」といって、吉継の面子も、参加者の面子も壊すことが無かった。

 昨今、とある戦国ゲームによって史実と異なる大谷吉継のイメージが横行しているのを小耳に挟んだが、これほどの漢の見事な散り様に何をかいわんや、である。


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令和三(2021)年五月二六日 最終更新