第捌頁 片桐且元……自害としか思えない三七日の死

名前片桐且元(かたぎり・かつもと)
血統近江国人衆片桐氏
地位従五位下・東市正、秀頼傅役、豊臣家家老、大和龍田藩主
通称助作
生年弘治二(1556)年
切腹年月日元和元(1615)年五月二八日
切腹場所京都片桐屋敷
介錯人不詳
見届け人不詳
辞世無し
略歴 「賤ヶ岳の七本槍」の一人として世に現れ、主君・豊臣秀吉から遺児・秀頼を託された片桐且元が只者である筈はなかった。しかし、時代と立場は彼に苦悩の最期をもたらしたのだった。

 弘治二(1556)年、近江国浅井郡須賀谷(現:滋賀県長浜市須賀谷)の国人領主・片桐直貞の長男に生まれた。母親は不祥。幼名は助作(すけさく)。
 父・直貞は浅井長政に仕えていて、父と共に織田方と戦ったが、天正元(1573)年八月二七日、助作一八歳の時に、浅井家は織田勢のために滅亡に追いやられた。
 小谷城落城の辛酸を供に舐めた茶々(淀殿)・大野治長とこの時点から三三年後に落城を巡って奇妙な関係になるとは誰も想像出来なかった(←当たり前だ)。

 浅井氏亡き後、その地にやってきたのは羽柴筑前守秀吉。「今浜」の地名を主君・信長の一字を取った「長浜」と改め、それまで身内(小一郎秀長やお禰の実家)か子飼い(加藤虎之助・福島市松等)しか配下の居なかった秀吉は近江の地で石田佐吉(三成)・大谷紀之介(吉継)等を召抱えて人材を集めた。そしてその中に助作もいた。

 秀吉配下は後に「武断派VS文治派」が対立することとなったが、それは「北政所派VS淀殿派」とも、「尾張出身派VS近江出身派」とも目された。が、助作はある意味どちらにも加わらなかった。別の見方をするとどちらにも属した。
 最終的な結末はともかく、大坂の陣に至るまでは双方の信頼を得ていたのであった。それというのも近江出身にしては珍しく、一〇歳近く年少の加藤虎之助や福島市松といった所謂、秀吉子飼いの者達とともに秀吉とその正室・お禰に可愛がられて育ったからである。

 「虎之助」とは加藤清正で、「市松」とは福島正則だが、そこに「孫六」と呼ばれた加藤嘉明等に混じって、「助作」と呼ばれて加わるようになった。

 その後、秀吉の中国征伐にも従軍したが、武将デビューは有名な「賤ヶ岳の七本槍」としてである。同じ立場の虎之助や市松等とともに天正一一(1583)年四月、賤ヶ岳の戦いにて大功を立て、各々三〇〇〇石の褒章を賜ったのである(市松だけ五〇〇〇石)。
 三年後の天正一四(1586)年一二月一九日、主君・羽柴秀吉が朝廷より新たな姓と官位を賜って太政大臣・豊臣秀吉となるに伴って、従五位下・東市正に叙任された。この頃に名も「直盛(なおもり)」と改めたと思われる。
 だが、その後、清正や正則がその後も前線にて戦働き・槍働きで活躍したのに対し、その後の直盛は武将というよりは文官として活躍。立場は馬廻衆として戦中の宿泊地や街道整備等の兵站に携わり、検地や軍船調達、降伏した敵城の接収等、地味ながらも重要な役割を果たした。

 朝鮮出兵では文禄の役において昌原城に駐屯し、晋州城の戦いに参戦したが、文禄二(1593)年九月に講和準備の為、諸将に先駆けて帰国。
 文禄四(1595)年に摂津茨木一万石を賜り、一端の大名となった。またこの年の一月一〇日に豊臣秀頼が五大老(徳川家康・前田利家・毛利輝元・上杉景勝・宇喜多秀家)・五奉行(浅野長政・前田玄以・増田長盛・石田三成・長束正家)に伴われて大坂城に入った際は、当時大坂に邸宅を持っていなかった家康が片桐邸に逗留していた。

 そして慶長三(1598)年、大坂城番に任命され、秀頼の傅役として城詰となった。片桐且元が「豊臣家家老」と呼ばれる所以である。「且元」と名乗りを変えたのはこの頃と見られ、豊臣姓を認められていたというから秀吉からの信頼は大変なものだった。だがこの年八月一八日に豊臣秀吉は薨去した。

 そして慶長五(1600)年九月に関ヶ原の戦いが起こると且元は西軍方につき、配下を大津城攻めに参加させたが、東軍勝利後、家康が秀頼と淀殿を戦に無関係、とした為、家老の且元も罪を問われなかった。
 その後且元自身は長女を人質に差し出し、豊臣家と徳川家の調整に奔走。家康も腹積もりはともかく、この努力を認め、大和竜田藩二万四〇〇〇石を与えた。そして秀吉の遺志を受け継ぎ、豊臣家の繁栄を願って畿内を中心に多数の陣復興事業に着手し、慶長九(1604)年と慶長一五(1610)年には秀吉七回忌・一三回忌大祭の総奉行を務めた。
 更には朝廷との橋渡しも担当し、慶長一四(1609)年の朝廷における醜聞事件においては京都所司代・板倉勝重に協力して、ここでも徳川方との重要な折衝先を作っていた。
 たが、ここに方広寺鐘銘事件が待っていたことで、且元の立場は一気に悪くなった。

 方広寺鐘銘事件は日本史上屈指の云い掛かり事件である。
 秀吉が建立した方広寺再建には九年の歳月を費やし、釣鐘には南禅寺長老・清韓文英(せいかんぶんえい)起草による鐘銘文が刻まれたのだが、その中の「国家安康・君臣豊楽」「『家康』の名を裂いて呪い、『豊臣』を『君』として『楽』しむことを願っている。」というヤク●も顔負けの云い掛かりをつけて来たのである。
 否、揚げ足取りで考えても劣悪過ぎる。

 慶長一九(1614)年七月末、板倉勝重から家康の元に鐘銘文が知らされるや、大仏開眼と供養の延期が命ぜられた。慌てた且元は大野治長、清韓文英と共に釈明の為、八月一三日に駿府に向かったが、同行した文英が一七日に軟禁されて金地院崇伝と南光坊天海の詰問を受ける始末だった。
 翌一八日、崇伝の根回しを受けていた京都五山の学僧は見事な曲学阿世となって文英に襲い掛かり、林羅山と共に「大御所様(家康)を呪っている!」と決め付けた。この中で、ただ一人権力に阿ることなく「愚もつかぬひがごと」(=下らん云い掛かり)と云い切ったのが塙団右衛門の師匠・海山元珠で…………えっ?ひつこい?スンマセン、私には依怙贔屓癖があります(苦笑)。
 いずれにせよ、文英は「結論ありき」の決め付けで叩かれまくった。
 翌一九日、且元は崇伝・本多正純に家康への弁明を申し入れたが、家康に会わせても貰えなかったが、ここには大きな罠があった。

 且元駿府派遣後、且元達だけでは埒が明かない、と見た淀殿は自分の乳母で、大野治長の実母でもある大蔵卿局も駿府に遣った。その大蔵卿局はあっさり家康との引見が許可され、家康は愛想良く、好意的に接し、大坂方に悪意など一切無い、と断言した(勿論大嘘)。

 この両面外交に大坂方は見事に騙された。

 帰坂途中、且元は同じく帰坂途次にある大蔵卿局に家康の尋常ならざる怒りを解く為には「秀頼の参勤」・「淀殿を江戸に人質に送る」・「秀頼が大坂城を出て他国に移る」のいずれかを選んで幕府への恭順を示すしかない、と話し、帰坂後その様に訴えたが、そんな家康の怒り様とは正反対の対応をされていた大蔵卿局は且元を怪しみ、報告を受けた淀殿達は一気に且元を疑うこととなった。

 結局、九月二三日に、織田信雄から薄田兼相等による暗殺計画があることを知らされた且元は屋敷に篭って守りを固めつつ、豊臣家出奔を決意。
 秀頼や木村重成等は双方を宥めんとしたが、且元は二八日に「高野山に入る。」として退城の旨を伝え、秀頼も改易を決めざるを得なかった。
 一〇月一日、且元は配下の兵三〇〇に火縄銃に火縄の火を点けた状態で自らの周囲を固めさせ、弟・貞隆、石川貞政等と共に大坂城を玉造門より退去。貞隆の茨木城へ入り、勝重に援兵を要請した。その際に且元は勝重から既に屋敷が打ち壊されたとの報告を受けた。

 その後、且元大坂冬の陣に徳川方として従軍。大坂方に目の仇にされたか、激しい抵抗を受け、一〇月一二日に家臣の多羅尾藩左衛門が堺の救援に向かう途中で迎撃されて戦死し、自らも尼崎入りを阻止された。一二月一八日、徳川方が放った大砲の砲弾一発が淀殿のすぐ近くに着弾し、これに怯えた淀殿が一気に講和に傾いたのは有名だが、これには家康の砲術方に加わった且元の助言があったと云う。

 冬の陣における且元の戦い振りを見ると、豊臣家の為に尽くしながら追放同然に城を去らなければならなかったことを恨んで先鋒に立った様にも見えるが、恐らくは力の差を見せつけることで早期に戦を終わらせ、和睦で豊臣家が生き残れるように考えていたのだろう。
 和睦が成り、かりそめの平和到来に安心したのか且元は翌慶長二〇(1615)年一月、隠居を願い出たが許されず、四月には駿府に屋敷が与えられた。
 そしてその屋敷から江戸の将軍・秀忠に挨拶に行く途上で大坂夏の陣が勃発した。同月二六日に且元居城の竜田城周辺が放火されることで始まったのである。且元は即座に大坂に向かい、五月六日に道明寺に到着(同日同地にて後藤又兵衛戦死)し、初陣となる嫡男・片桐孝利とともに参戦した。

 翌七日、真田幸村戦死により大坂方は総崩れとなり、秀頼母子と近臣達は炎上する大坂城を出て、山里廓に避難した。ここで片桐且元は豊臣家に対する最後の忠義に出た。
 且元は秀頼母子が落城の際に避難するとすれば山里廓であることを先刻承知していた。且元は秀忠にこのことを知らせ、その通報と引き換えに秀頼母子の助命を図ったのである。折も折、城内からは千姫(秀頼正室・秀忠長女)が掛け込んで来て秀頼母子の助命嘆願を行った。
 だが、家康・秀忠の思惑はどうあれ、結果として五月八日に秀頼母子は自害し、大野治長・毛利勝永・大蔵卿局・速水守久等近臣二七名がこれに殉じた。

 豊臣家滅亡を防げず、意気消沈する且元は前年より患っていた肺病が悪化。家康は医師片山宗哲を送って治療に務めさせたが、五月二〇日京屋敷にて死去。片桐且元享年六〇歳。だが、表向き「病死」とされているその死はタイミングから「殉死」と呼ばれ、薩摩守もそう見ている。


漢の最期 前述したように、片桐且元の死は病死とも、自害とも云われている。確率論で云えばどちらも充分あり得る話である。

 前者だが、且元が肺を病んでいたのは徳川家康が医師を派遣したことからも史実である。そして長年立たされていた且元の立場を想えば、豊臣家滅亡で意気消沈したことや、戦中に双方の非難を受けたことが病を悪化させたとしても全く不思議はない。
 何せ豊臣家と徳川家の間に立つ重要人物として当初は家康からも秀頼からも頼りにされながら、追放当然の身で大坂を退去し、大坂の陣に際しては豊臣方からは「裏切り者」とされ、徳川方からは「秀頼公に大坂城を出るべきであることをはっきり伝えれば二度の大戦は無かったのじゃ。」と陰口を叩かれたのだから、健康な人間が胃潰瘍や鬱に倒れても無理がないと思える程のストレスを抱え込んでいたであろうことは想像に難くない。

 そして同じことが後者にも云える。結果として豊臣家を救えなかったことや、戦前・戦中・戦後の周囲の揶揄を想えば、亡き秀吉への謝罪の意からも、恥辱に耐えられない意味からも、腹を掻き切ったとしても不思議は無い。

 そしてここからは薩摩守の推測、正確には希望的推論となるのだが、やはり片桐且元の死は追い腹を切ったものと自分の中では断定している。
 かつては且元が豊臣家に殉じたのであれば、秀頼母子の死から二〇日も経てから腹を切るタイミングに中途半端な長さを感じていたが、二つの事実を持って「追い腹に違いない。」と考えるに至った。

 それは、
 の二点である。

 且元はどこまでも豊臣家滅亡回避に努めていた(やり方が正しかったかどうかはともかく)。秀頼が死んだ後も国松が生き残れば豊臣家の血脈は残せただろう。だが五月二三日の処刑をもってそれも消えた。
 この処刑を且元は高台院(秀吉正室・お禰)とともに見届けた。高台院の要請を受けて且元は国松の遺体を高台院が引き取れるよう手配し、誓願寺に隠れ墓所も作って、供養が出来るよう段取りをつけた。
 そしてこの時点で片桐且元が豊家の為に為し得ることはすべて終わった…。五月二三日、秀頼の死から初七日、二七日は既に過ぎていた。故にこの日から最も近い中陰法要は三七日となり、その日に京屋敷にて片桐且元は切腹して豊臣家に殉じた
 当時豊臣家は二度の乱に敗れた大罪人とされ、大坂の陣における落人達の追跡・逮捕・処刑は徹底を極めていたのが世相だった。そんな中、これに殉ずると云うことは、幕府への反逆と受け止められかねない危険行為でもあった。
 だが一切の咎めは無かった。本当に病死だったのか、それとも苦しい立場を同情し慮ったゆえの病死扱いなのかを完全に断じるにはタイムマシーンかタイムテレビの開発される日を待つしかない(苦笑)。


切腹の影響 時代の大局という意味においては片桐且元の死は後々に何の影響も与えていない。且元の後は嫡男・孝利が継いだが、その後の片桐家は子宝に恵まれず、孝利の二代後に無嗣絶家による改易となった。一応、弟・貞隆の家系が明治まで存続し子爵となったが、江戸時代を通じて特に片桐家の名が目立つこともなかった。

 且元の名が史上にクローズアップされるようになったのは明治に入り、豊臣家やその関連者を讃えることがタブーにならなくなってからである。
 大陸進出が叫ばれ、朝鮮出兵初期の秀吉軍の快進撃が注目されたことで、秀吉と秀吉恩顧の大名は大陸で連戦連勝を重ねたヒーローとして、その手本にされた。秀吉恩顧の大名末裔で明治まで存続していた華族達によって「豊国会」が結成された(初代会長は黒田長成侯爵)。
 そんな時代に流れの中、日本最初の小説家・坪内逍遥が『桐一葉』(きりひとは)を著し、歌舞伎にて大ヒットしたことが片桐且元の知名度を一気に押し上げた。

 プライバシーに関わることなので余り詳しく掛けないが、かつて薩摩守はソフトウェア開発会社(実態は殆ど派遣会社)に務めていたとき、上司(社長)・社員(エンジニア)・クライアント(顧客)の間で労働条件・料金支払・契約履行等で二重三重の板挟みに遭い、最後には脱走したことがあるので、且元の立場には非常に同情するものがある。
 同情的に見ることを鮮明にしておいた上で記したいのだが、豊臣家滅亡は且元に細かい過失はあっても罪は無い、と薩摩守は見ている。
 且元がどう足掻こうと徳川家康・金地院崇伝・南光坊天海達の老獪な手練手管に抗し得なかっただろうし、滅亡を防ぐには秀頼も淀殿もプライドが高過ぎた。
 それゆえ且元を嵌めた意識持つ家康・秀忠は片桐家を冷遇せず、病気の治療にも気配りをしたのだろうし、追い腹を切ったことも黙認して「病死」としたのだろう。
 政治的にはともかく、片桐且元が後々の世に人間の立場という者を考察する材料として残したものは極めて大きいと薩摩守は考える。
 このサイトを閲覧している方々も企業・政界・芸能界などにおいて多方面から非難されている人の立場をチョット考えてみては如何だろうか?


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令和三(2021)年五月二六日 最終更新