第1頁 「冤罪」を巡る死刑廃止論について

キーワード冤罪
死刑廃止重要度★★★☆☆☆☆☆☆☆
死刑存置重要度★★★★★★★☆☆☆
重視すべき判例足利事件、免田事件、和歌山カレー事件、その他
 「被告人を死刑にして、もし冤罪だったら取り返しがつかないじゃないか!」と云う声。実に重い。俺の死刑存置論・死刑執行を求める声の矛先を最も鈍らせるのがこの冤罪問題かも知れない。
 もし自分が無実の罪で死刑判決が下り、そのまま執行されたらと思うと堪ったものじゃないし、自分の身内が冤罪で処刑されたら国家権力を骨の髄まで恨むだろう。
 実際、欧州ではイギリスとフランスが死刑廃止に踏み切った要因はこの冤罪問題によるところが大きい。殊にフランスでは「真相が明らかになるのを待っていては間に合わない!」と云う理由で世論の6割が死刑に賛成しているにもかかわらず死刑制度が廃止され、死刑廃止論者が死刑に反対する際にいの一番に提起するのがこの冤罪問題でもある。
 勿論、実際に人を殺した者が死刑(を含む有罪)になりたくなくて「冤罪だ!」と叫ぶケースもあるだろうし、無実の人間を死刑にすることが無いようにする為に三審制が敷かれ、再審請求と云う制度もある。
 人命を奪う刑罰の賛成する以上、死刑廃止論者よりも、死刑存置論者の方がより真剣に冤罪回避に努めなくてはならないと考える。

 では、現在叫ばれている冤罪に対する考えは本当に適切なものだろうか?



考察1 取り返しがつかないのは、どの事件も同じ。
 冤罪で死刑判決を下され、再審請求で無罪を勝ち取った例が確かに存在する。再審が受け入れられるまで何時死刑が執行されるかも分からない恐怖の中で何年、何十年も過ごした日々や失われた時間を(可能な限り)その身になって考えると言葉も出ない。
 また足利事件の様に無期懲役になった後に無罪を勝ち取ったケースを考えれば、心の底から「死刑判決じゃなくて良かった!」と思われたことだろう。
 改めて俺は主張する、

 無実の者が処刑されることがあってはならない。

 否、それ以前に、

 無実の者が有罪になることがあってはならない。

 と。
 それ故、日本の裁判は三審制で、再審請求と云う手段(極めて狭き門だが)も存在する。だが、人間は完璧な存在ではない。いくら三審制を敷き、捜査能力が向上しても、冤罪を完全になくせる保証はない。それゆえ「冤罪だったらどうするんだ?!」と云う声を退けることは俺には出来ない。

 だが、忘れないで欲しい。

 冤罪で取り返しがつかなくなるのは死刑に限った話でない。

 と云うことを。
 仮に裁判官が冤罪によって人を殺すことを恐れて無期懲役に減刑されたとしても、それは「死刑よりまし…。」なだけで、「死刑じゃないから、まぁいいか。」とは絶対にならない

 死刑は免れ、無罪を勝ち取ったとしても、服役によって失った時間は決して戻らないし、服役しなければ送れていたであろう普通の時間も戻らない。
 もっと云えば、裁判で無罪を勝ち取った場合でも、それまでの時間は戻らないし、裁判経過によっては「無罪」になっただけで、世間から「無実」と認められず、苦難の日々を生涯送り続けることだって考えられる。

 冤罪は決して死刑判決を下された者だけの問題ではなく、逮捕されただけでもその者の人生を大きく狂わせる可能性が濃厚なのだ。
 勿論、実際に罪を犯した者が罪に服したくない一心で冤罪を叫ぶことは大いにあり得るし、証拠や嫌疑が不充分で有罪や起訴を免れた犯罪者も存在し得るだろう。

 公正な裁きによる有罪・無罪判決は大事だし、それ以上に警察・検事には慎重になって欲しい。

考察例
 和歌山毒カレー事件と云う事件がある。
 裁判の結果、死刑判決が確定した林眞澄(現姓・稲垣)死刑囚は冤罪を主張している。個人的に俺はこの林の死刑執行には逡巡している。
 勿論有罪なら即座に八つ裂きにして欲しい程の凶悪犯罪だ。だが、状況証拠しかないことと、動機が分からないことが俺に躊躇いをもたらしている。

 林の過去の犯歴や様々な言動を巡る性格や、林以外の者がカレーにヒ素を入れ得たとは考え難い状況から十中八九俺も林の犯行に間違いないと見ている。
 だが、過去の林の犯罪はすべて保険金が絡んでおり、その狡猾さ・欲深さゆえに林が金にならず死刑のリスクしかない毒殺事件を起こしたということに一抹の疑問を感じるのである。

 返す返すも林にぐうの音も出させない証拠が挙げられていないことがもどかしい(そんなものがあったところで、「でっち上げだ!」と林が叫ぶ可能性は極めて高いと思うが)。



考察2 実は然程重視されていない?
 少し誤解ある書き方をしたが、要は死刑廃止論者の多くは冤罪問題が無かったところで死刑に反対すると云うことだ。
 本当に冤罪だけが問題なら、池田小児童殺害事件の宅間守(執行済み。死刑執行時の姓は「吉岡」)死刑囚を処刑するのは何の問題も無いことになる。つまり絶対に冤罪を疑い得ない事件に対しては冤罪を理由とした死刑廃止論は無効となる筈である。

 だが、冤罪問題を声高に叫び、死刑廃止を主張する人々が宅間の死刑に賛成したかと云えば、そんなことは無い。さすがに宅間のケースに冤罪を叫んだものは皆無だが、死刑になることを望んで宅間が事件を起こしたあの事件に対して廃止派は「死刑制度があるからあんな事件が起きた!」と宅間以上に死刑制度を悪者にした。

 要するに死刑廃止論の一因として冤罪問題をいの一番に提起するのは、それが死刑は死刑存置論者を逡巡させるのに一番有効だからに他ならない。

 私事だが、死刑廃止派である親友の一人に聞いたことがある。もし、『ドラえもん』のタイムテレビみたいなものが発明されたとして、冤罪が全く起こらない世の中が確立したとしても、死刑に反対するのか?と。
 彼はあっさり肯定した。
 勿論、「冤罪は絶対になくならないよ。」と云う観点に立つなら上記の質問は意味を成さない。また冤罪だけを理由に死刑に反対している人なら翻意することはあり得るだろう。
 だが、俺の知る限り冤罪問題がなくなったとしても、前述の親友に限らず多くの死刑廃止論者は意見を変えないだろう。全員がそうだとは云わないが、多くの者にとって、まず「死刑反対」があって、その有効な理由の一つとして「冤罪問題」が有るのだろう。



考察3 時間が掛かり過ぎると云う問題
 くどいが、冤罪問題は重要な問題である。そこで考察したいのが、死刑問題を別にしても何故に冤罪問題が厄介なのか、と云うことである。
 そもそも、冤罪が何故起きるのか考えたいのだが、

日本国憲法第38条 何人も、自己に不利益な供述を強要されない。強制、拷問若しくは脅迫による自白又は不当に長く抑留若しくは拘禁された後の自白は、これを証拠とすることができない。何人も、自己に不利益な唯一の証拠が本人の自白である場合には、有罪とされ、又は刑罰を科せられない。

 これに則るなら、冤罪の疑いが濃厚でも確たる証拠の無いものは無罪となり、冤罪事件など起こらない様に思われる。ましてや三審制を経て慎重の上にも慎重を期すのが現代の裁判である。
 だが、実際には日本国憲法施政下でも冤罪によって死刑判決が下され、再審で無罪になった例はあり、懲役刑で服役した者が後に再審で無罪になった例も有り、捜査段階での誤認逮捕発生は今後も避けられないだろう。
 勿論、後からでも誤りとあればそれは正されなければならない。その為にも三審制も再審請求も大切な制度で、まして死刑案件となれば慎重の上にも慎重を期さなければならない。

 だが、それ程までに冤罪を避ける為の司法システムがありながら袴田事件を初め、冤罪が濃厚な死刑囚の再審はなかなか行われない。逆に再審請求する側も一度や二度の棄却を当たり前のように捉え、大して説得力のない事柄、酷い時には事前に却下された事柄を「新証拠」として再審請求を繰り返し、死刑執行に対して再審請求回数が少ない段階であることが抗議材料にされる。
 こんな好ましくないケースが相次ぐ要因の一つに、日本の裁判が時間の掛かり過ぎるものだからという点があるだろう。

 時間が掛かり過ぎるから、長い時間を掛けて確定した内容を覆す動きに裁判所は滅多なことでは応じようとしない。また、検察も被害者遺族ももうその被告を犯人にしないと気が済まない空気に捉われる。
 取り調べも、裁判も始まった直後に被告の無実を確定付ける証拠が見つかればまだ応じ易いだろうし、真犯人を捕まえようとの動きも起きるだろう。だが、何十年も経過した後となるともう引っ込みがつかなくなる。それゆえ、有罪の証拠が薄弱であるとの理由による再審請求はまず通らない。
 勿論だからと云って冤罪で人が有罪にされていいと云う訳ではない。時間が掛かってでも解決しなければならない問題は確かにあるが、時間が掛かることで巻き戻しが困難になる問題もあることをすべての法曹関係者に心得て欲しいものだ。



考察4 事後の責任を取らない国家
 絶対に冤罪の出ない体制があれば死刑存廃にてこのことが語られることはないだろう。同時に冤罪の出ない体制が確立したとしても、死刑廃止派からそれが認められることも無いだろう。

 何故か?

 国家が信用されていないからである。

 ここで云う「国家」は警察や司法関係者も含む。そして「信用されていない。」は能力的なものだけではなく、姿勢的なものも含まれる。
 一番の問題は、過失に対して「謝らない。」と云うことだろう。
 警察は誤認逮捕に対して、容疑者とされた無実の人物に対してまず謝罪しないと云うのが一般的なイメージだ。詳細に調べれば、誤認逮捕に対して逮捕された人に謝罪したケースがないでもない(例:大阪市営地下鉄痴漢冤罪でっち上げ事件では、大阪府警はくそ大学生に嵌められた会社員に謝罪している)。
 だが、それらの謝罪もかなり小規模であることが大半で、疑われた人の名誉を充分に回復させるほど誠意あるものは聞いたことが無い。しかも真犯人の逮捕や、かなり大きな騒ぎになって申し訳程度の謝罪であることが多い(様に思われる)。
 一件、腹立たしい例を挙げると、桶川ストーカー殺人事件で、事件前にストーカー被害を真摯に対応せず、一度取り下げた告訴は二度と出来ないにも関わらず、「また告訴出来るから。」と虚偽でもって告訴を取り下げさせ(←犯罪だろ?これ)、結果殺人事件にまで至ったことに対して埼玉県警も桶川署のいまだに遺族に謝罪していない!

 裁判所も同様である。長期化した裁判や服役後に冤罪であることが判明したことで、無実の罪を疑われた人に対する国家の補償もあるにはあるが、失った時間や名誉に対してとても充分とは思えないし、誤った判断を下した者が冤罪者に謝罪した例も聞いたことが無い。
 邪推であることは百も承知だが、冤罪で死刑が確定したことが濃厚なのに、再審請求がなかなか通らないのは、死刑判決を下した裁判官を「無実の人に死を命じた。」と云う不名誉から司法全体で守ろうとしているからではあるまいか?

 いずれにせよ、疑われ、裁かれ、時間・名誉・社会的地位・職業を失った人々に対して、それを回復させる為の司法の腰はとんでもなく重く、謝罪も責任も不充分極まりない。それゆえ近年起きた冤罪事件である湖東記念病院事件で服役した女性は無実が認められた後も国に対して賠償請求する裁判を起こすに至ったのだろう。彼女が失ったものに対して司法・国家の誠意が余りに足りない故に。

 かかる無責任ぶり故に、冤罪は恐ろしく、万が一にもそれで死刑になるなんてことを許せないと思うのは多くの人々が思う処だろう。
 だが、だからといって冤罪が全く考えられないケースの死刑まで反対するのは筋違いに思われる。

 それゆえ、死刑存置派は、死刑に処された人が万が一にも冤罪だった場合のとんでもなさを充分に懸念し、死刑廃止論者以上にこの問題に真剣に向き合うべきだと思うし、死刑廃止論者に対しては、冤罪が疑われるケースには徹底して執行に反対して欲しい。

 勿論、死刑以前に冤罪が決して起きてはいけないことで、冤罪が完全に防止されることでこの論点での議論が不要になることが好ましいことを万人が自覚するべきだろう。


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令和三(2021)年二月八日 最終更新