第2頁 「国家権力」を巡る死刑廃止論について

キーワード国家権力
死刑廃止重要度★★★★★☆☆☆☆☆
死刑存置重要度★★★★★☆☆☆☆☆
重視すべき判例特になし
 「殺人を禁じている国が死刑で人を殺すのはおかしい!」
 死刑廃止論者によって良く叫ばれる台詞である。一面正しい。ただ、一面だ。個人として禁じられていることを国家が行っている例は枚挙に暇がない。否、個人が行うことが許されない故に国家がやらなければならないことも確かにある。

 例えば、刃物でもって人の体を傷つけ、血を流せば傷害罪(刑法204条)となる。
 だが、医者が外科手術の為に患者の体をメスでもって切り開いて血を流したとしてもそれで傷害罪になることは無い。それは外科手術が正当業務行為だからである。

刑法第35条 法令又は正当な業務による行為は、罰しない。

 つまり、法的にその職務上必要な行為と認められ、その結果何らかの害が生じてもそれは処罰の対象にならないと云うことである。これがある故に、医師が外科手術において患者の体をメスで切っても、消防士が放水することで火災家屋の一部を破壊しても、プロボクサーが対戦相手を殴っても、刑務官が死刑囚を処刑しても処罰されないし、されて堪るか!と思う。

 勿論、これらの行為を職務外で行ったり、不要なのに行ったりすれば重罪である。医師だからと云って外科手術以外で人の体をメスで切ったり、外科手術でも内蔵の手術なのに関係のない部位を切ったりすれば傷害罪が適用される。
 プロボクサーが試合や練習以外で人を殴れば、暴行・傷害に問われ、ライセンス剥奪等の大きな制裁を受ける。

 故に俺は法で殺人を禁じた国が死刑を行うことに問題は無いと見ている。そもそも法で禁じていることを国がやってはいけないと云うなら、逮捕監禁罪を定めている国が罪人を拘束するのは同なのか?税金滞納者や脱税者に対する差し押さえも見方を変えれば国家による収奪である。懲役刑も国が禁じている強制労働である。
 故に、「国が禁じている。」からと云って、「国がやってはいけない。」にはならない、と俺は考える。ただ、「人を殺すことが出来る権利」と云うのが甚大な権利であることは間違いなく、これが濫用されるのは非常に恐ろしい話だ。
 それゆえ、死刑を初め、「国が人を殺す。」と云うことは真剣に向き合わなければならない問題である(死刑存置派・死刑廃止は関係なく)。



考察1 戦争は?
 2018年7月6日、オウム事件の死刑囚7名の死刑が執行された(20日後には残る6名も執行)。この死刑執行に対して、死刑廃止を訴える人権団体が抗議の声を上げたのはいつものことだが、このときはEUからも抗議の声が寄せられた。

 これに対して、死刑執行に賛成する人々からは「内政干渉だ!」の声が上がった。確かに内政干渉だ。これに応じる義務も義理もこれっぽっちも無い。
 ただ、庇う訳ではないが、ドイツもフランスも何も内政干渉が好きな訳ではないだろう。死刑以外で自分達に直接関係ないことで諸外国が日本に何かを云ってくることは極めて稀で、恐らくEUも「死刑」をとんでもない罪悪と見做しているから、オウム事件における一度に7人も処刑されたことに居た堪れなくなって声を上げたのだろう(通常の死刑執行に対してまで国家が声を挙げることは極めて稀だ)。

 ただ、海外からの死刑執行に対しての抗議に対して、「内政干渉」よりも反論したいことが俺にはある。それは、

 テメーの国が戦争を廃止してから言いやがれ!!

 と云うことである。
 如何なる重罪を犯しても、その犯人を死刑にしないと云うことは、その国が如何なる理由があっても自国民を殺さないと云うことである。だが、国家が自国民を殺す権利を認めないと云うなら、自国法の庇護下に無い他国民を殺す権利はもっと無い筈である。

 まあ、これが些か暴論なのは認める。
他国からテロリストが武器を持って雪崩込んで来たら法律がどうの、人権がどうのと云っておられず、国家が然るべき武力を率いて迎え撃たなくてはならない。急迫不正の侵害に対してやむを得ず武力・暴力を用いることは国家であれ、個人であれ、認められなければならないだろうし、禁じたところで場合が場合となると禁忌も意味を成さないだろう。

 それ故、テメーで云っておいて何だが、「戦争を廃止してから死刑を廃止しろ。」と云うのは無理があると思うし、まして日本は(建前上)戦争を禁じているから、日本の死刑廃止派は胸を張って国家が人を殺す権利を認めない旨を主張出来るだろう。

 ただ、死刑存置派であれ、廃止派であれ、戦争も死刑も国家が人を殺すことを命じる点で共通していることを忘れてはならないだろう。その命じるところの重大さと共に。



考察2 現場射殺は?
 国外からの死刑執行に対する抗議の声に、日本国内から存置派が挙げる声に、「日本では凶悪犯罪者も生きて逮捕した上で裁きに掛け、処刑している。現場でバンバン射殺しているような国に云われたくない!」と云うものがある。
 勿論日本国内でも凶器を持って激しい抵抗をする犯罪者相手に発砲が止むを得ないことがあり、発砲や射殺が無い訳ではない。発砲もその多くが威嚇射撃や正当防衛で必ずしも犯人の命を奪うことを目的としてはいないし、撃たれた者は即座に病院に運ばれ、救命措置が取られる。
 それでも撃たれた者が命を落とすことがある訳だが、基本、自業自得である。

 云うまでもないが、現場射殺は決して好ましいことではない。
 俺は凶悪犯罪者が死刑に処される場合でも、然るべき裁きに掛けられ、動機・(存在するなら)背後関係を明らかにし、真に死刑に相当するかを吟味し、可能な限りその罪の重大さを自覚させ、贖罪の気持ちを抱かせるべきだと考えている。
 現場で射殺することは謝罪も償いも断ち、動機や背後関係も闇に葬ることになる。それ故、可能な限り現場での射殺を回避し、真っ当な裁判に持ち込む日本の姿勢を、死刑を廃止しておきながら現場で射殺することの多い国から云われたくないという意見は大いに頷ける。

 ただ、正直に白状しておくが、実際に数値的に日本と海外とでどれほど現場射殺の比率に違いがあるかを俺は知らない
 凶悪犯が現場で激しい抵抗を示す際も、相手が刃物を持っているか、銃器を持っているか、で対応が異なる場合もあるだろうから、単純比較は難しいだろう。
 実際のところ、死刑を廃止している国でどれほどの凶悪犯罪件数があり、その内どの程度が射殺されているかを俺は知らない。
 それゆえ、これ以上深くはツッコまないし、「現場射殺しているんだから、死刑に反対するな!」とも云わない。ただただ巷間で噂されている様に、死刑廃止国が日本よりも現場射殺が多いなら、日本の死刑に反対する以上に自国内の現場射殺を反省しろ、とは云いたい。
 現場での射殺も、死刑による絞殺も、国家権力による殺人であることに変わりはない。



考察3 私刑をさせない為にも
 日本で死刑存置派が廃止派を遥かに上回る要因の一つに、古来日本人が「仇討ち」を尊んできた歴史があると云えよう。
 『忠臣蔵』が根強い人気を持つともに、同作で悪役を振られた吉良上野介や大野九郎兵衛が史実の実態を無視するほど嫌われる傾向が根強いのも、四十七士が為した仇討ちが古来喝采され続けて来た故だろう。

 だが、「仇討ち」と云えば聞こえは良いが、要は「報復・私刑」である。江戸時代には士分が正式な許可を得ることで、自らが仇を殺すことを認められた。とは云え、国が個人に殺人を許すのだから、制約も多かった。
 基本として、被害者の尊属に仇討は許されなかった(例えば、殺された者の親が我が子の仇討ち許可を求めても却下された)。また、個人の殺す権利を例外的に認める代わりに、仇と目された者が反撃する権利も認められた(所謂「返り討ち」が起き得た)。

 ともあれ、被害者遺族が加害者遺族を殺して仇を討ちことに快哉を叫んできた日本人だから、「人を殺した者は殺されて当然。」と云う風潮は根強い。
 本来士分だけに認められた「仇討ち」だが、農民や商人が犯した殺人でも、動機が仇討ち的なものと認められれば寛大な裁きとなることが多かった。如何に日本人が仇討ちを美徳としてきたかの証左と云えよう。
 だが、日本における仇討ちは明治6(1873)年2月7日以来禁じられることとなった。つまり個人における合法的な殺人は有り得ない。それ故大切な家族を殺した者が死刑にならないことに対して怒りの声を上げる遺族は決して少なくない(←勿論すべての遺族が死刑を望んでいないことぐらい理解している)。

 もし、日本で死刑が廃止されれば、被害者遺族の中には自分の手で加害者の命を奪いたいと考え、殺害に走る者が出かねないとはよく云われる。
 実際にそうなるかどうかは死刑を廃止して見ないと分からないのだが、個人的には死刑が廃止されても私刑が増えるとは考え難いと思っている。もしすべての被害者遺族が、加害者が死刑にならないことに対して個人報復に出るのなら、仇討ちを動機とした殺人事件はもっと多発している筈だ。
 まあ、多くの遺族は死刑にならなかった加害者をこの手で殺したいと思ったとしても、周囲が止めたり、他の身内が「犯罪者の身内」になることを憚って殺人を思い止まったりで、「仇討ち殺人」は決して多くない。

 ただ、「加害者が絶対に死刑にならない。」という前提条件が生まれれば、「私刑が増えない。」と誰が断言出来ようか?
 例え凶悪犯罪者に対するものでも、個人が罰を与えることは許されない。それゆえ国家は責任をもって処罰を行わなくてはならない。然るべき死刑執行は個人に私刑という犯罪を行わせない意味でも。



考察4 権力はつけあがる
 力は得てして暴走し易い。国家権力もまた例外ではないだろう。まして、冒頭でも書いたように法的根拠がどうあれ「人を殺すことの出来る権利」とはとんでもない大権である。これが暴走するのはとんでもない話である。それ故非難・批判の声は大切だ。

 考察2で挙げた「現場射殺」も国家権力の為す殺人で、不当不要の射殺と見做された場合はその警察官は激しい非難に曝されるだけではなく、罪人として裁かれることもあり得る。
 まして誤射で関係ない人間を巻き込んで死なせたとなるととんでもない大問題となる。

 それゆえか、日本では警察官は滅多に拳銃を抜くことは無い。元警察官に聞いたことがあるのだが、(担当部署にもよるが)殆どの警察官は訓練以外に拳銃を発することなく定年を迎えるらしい。
 偏に「発砲」に対する厳しい目が有るからだろう。実際に発砲が為され、犯人が負傷したり射殺されたりするとお決まりの様に所轄警察署の副署長が出て来て「正当な行為だったと考える。」の一言が為される(←副署長は警察の広報責任者らしい)。だが、発砲を非難する声は必ず起きる。

 中には国家権力嫌い、警察嫌いな者達による反射的な非難の声もあるだろう。ただ、現場射殺にせよ、死刑執行命令にせよ、国家権力による殺人である以上、力の暴走で不当な実践が為されるのは許されないし、許してはならない。
 絶対的な権力が得てして暴走し易いのは企業も、家庭も、教育現場も、国家も同様であることもまた存置派・廃止は関係なく忘れてはならないことだろう。
 特に死刑存置派は凶悪犯を殺すことに同意するのだから、国家権力が誤ったり、暴走したりすることには廃止派以上に厳しい目を向けるべきだろう。



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令和三(2021)年二月八日 最終更新