リトルボギーの死刑廃止論

タイトルを見て驚かれた方々へ
 オッス!法倫房リトルボギーだ!
 何?態度が悪い?まあそう固いことを云うな(お約束)

 本題に入る前に述べておきたいが、タイトルを見て、「リトルボギーは死刑廃止派へ宗旨替えしたのか?!」と驚いた人もいるかも知れんが、リトルボギーは今日もバリバリ死刑存置派である
 余程人生観が変わるようなことがない限り、この主義主張は変わらないだろう。

 そんな俺が「死刑廃止論」を語るのは、死刑を廃止したいからではなく、死刑存置論者だからこそ、死刑の問題点に目を伏せるのはアンフェアだと思っているからだ。

 死刑廃止を求める声には様々な主張がある。
「冤罪だったら取り返しがつかない!」、「殺人を禁じている国が人を殺すのはおかしい!」、「死刑に抑止力は無い!」、「最低限の人権を守れ!」、「生かして償わせるべきだ!」、「死刑廃止は世界の趨勢だ!」、「執行する刑務官の心の痛みを考えろ!」、「死刑を望まない遺族もいる!」、「加害者のも家族がいるんだぞ!」、「国家といえども人を殺す権利はない!」、「死刑になりたくて殺人を犯した者もいるんだぞ!」、「絞首刑なんかであっさり逝かせるな!」、等々‥‥‥………私見に照らして、「一理ある。」と云えるものもあれば、「阿呆か………。」と云いたくなるものもある。
 だが、存置派であれ、廃止派であれ、共通して大切なことがある。それは「命の問題を軽く考えるな!」と云うことである。まあ、こんな風に云えば存置派であれ、廃止派であれ、「真剣に考えてるわ!」と反論する者も多いことだろう。
 注意して欲しいのは、ここで云う「」とは、犯罪によって失われたも、極刑によって奪われるも対象だと云うことだ。
 これまた「両方とも真剣に考えている!」と云う声が聞こえそうだが、独断と偏見を恐れず述べれば、自らの主義主張に立って、対極に位置する命を軽視、又は無視している様に思われてならない時が少なからず存在する。
 勿論、被告側弁護人が弁護する対象である被告の命を最優先するのは当たり前のことだし、原告側検事は被告の罪状に応じて最大の刑罰である死刑を求刑することで被告の命を奪う判決を強いるから、立場で「」に優先順位が有るのは仕方がない。

 逆に云えば、(無罪を含め)如何なる判決も被害者・被告の「命」を軽々しく捉えることには異を唱える。
 何度も云うように俺は死刑存置派で、人を殺めた者は原則として死刑になるべきだと考えているが、凶悪犯の死刑が確定したり、執行されたりしたからと云って嬉しい訳でも、楽しい訳でもない。そもそも死刑案件の裁判が開廷される以前に勝者など居ないのだ(無罪判決の苦だった被告は「勝者」とされるが、それ以前に時間と名誉を大きく失っている)。
 そんな救いのない事件が死刑案件なのだが、当然極刑である死刑を巡っては裁判・判決・執行に際して様々な賛否が寄せられる。
 本作は、敢えて死刑に反対する要因に注目し、それをリトルボギー風に論ずる。

 誤解無いよう云っておきたいが、本作は死刑廃止理由にいちゃもんを付けるのが目的ではない。前述したが死刑廃止論で挙げられる理由の中には(例えそれに賛成しなくても)一理も二理もあるものもあるし、死刑廃止派よりも死刑存置派の方が重視しなくてはならない事柄もある。
 別段本作を呼んだからと云って、死刑廃止派の人に存置派になれというつもりはない(そもそも死刑存廃論争は「結論ありき」で不毛に終わることが大半だ)し、死刑存置派の人が廃止派に転向しても文句は云わない。

 偏に、「」という何物にも替え難い問題が絡む故、存置派であれ、廃止派であれ、自分と異なる意見を鼻で笑うことなく、真剣に捉え、例え意見を変えずとも多少なりとも世のすべての人々が受け入れ易いものに近づけられるならこれに優る喜びは無い。
第1頁 「冤罪」を巡る死刑廃止論について
第2頁 「国家権力」を巡る死刑廃止論について
第3頁 「抑止力」を巡る死刑廃止論について
第4頁 「基本的人権」を巡る死刑廃止論について
第5頁 「償い」を巡る死刑廃止論について
第6頁 「国際情勢」を巡る死刑廃止論について
第7頁 「死刑に携わる人々」を巡る死刑廃止論について
第8頁 「遺族」を巡る死刑廃止論について
最終頁 何故俺が「死刑廃止論」に頷けないのか?


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令和三(2021)年二月八日 最終更新