最終頁 何故俺が「死刑廃止論」に頷けないのか?

 かつて闇サイト殺人事件の被害者遺族が募った死刑判決嘆願書命に協力し、その事を旧菜根道場BBSで、「お前それでも仏教徒か?笑わせんな!」との罵倒を書き込まれたことがあった。  正直、この書き込みは今でも根に持っているから、俺は狭量な人間である。確かに御仏の慈悲を尊ぶ身としては死刑に反対するのが筋である。

 だが、俺は自分の本音を偽る気はない。

 死刑に賛成する=凶悪犯の命を奪うことに賛成することの重みを受け止めて尚、何の落ち度もない人間が殺され、その相手が生き延びることの不条理不平等・不公平には耐えられないし、死刑を廃止することで凶悪犯罪者によって人の命が奪われるのに加害者の命が保証されるのは断じて納得がいかない。
 正直、理屈じゃなく感情が先走っている面もあるのは否めない。本作を作ったのも、「死刑に賛成するからこそ死刑制度の問題点から目を背けてはならない。」という義務感もあれば、「様々な数多くの反対材料を列記して尚、死刑は存置すべきであることを主張したい!」という願望もあった。
 存置論であれ、廃止論であれ、万人が納得することが有り得ないのは端から承知だが、それでも存置派でありながら廃止論を考察した意義を述べて本作を閉めたい。


最終考察1 結局は「結論ありき」で平行線
 簡単に云えば、「人を殺した奴が生きている。」と云う事が俺は許せないんだろうな。勿論情状酌量を無視するつもりはない。
 さすがに娘を強姦殺害され、それに対して犯人が武勇伝の様に語る様な輩だった場合にその父親が犯人を刺殺したようなケースで死刑は求めんし、可能な限り寛大な処罰を求めるだろう(無罪は求めんがな)。
 逆に身勝手な快楽や金銭目的に何の罪もない人を通り魔的に惨殺し、その被害が数人以上に及ぶ上に、全く反省・謝罪の意を示さないような被告から、「八つ裂きにして欲しい。」と望むだろう。
 俺自身の人間性がどうあれ、かけがえのない命を奪えば、それを奪われたくない、奪ってはならないと云う意見は極めて通り辛くなろう。

 一方で、死刑廃止論者はそんなとんでもない凶悪犯であっても命を奪ってはならないとしている。如何なる理由があろうと国家が命を奪うことはならないとしているのだ。
 こうなると、「とんでもない凶悪犯」の命を国家が奪うことに賛成するか反対するかで、この賛否はもう理屈ではなかろう。
 死刑廃止派も、死刑存置派も、死刑に賛成・反対する意見をそれぞれ提示するが、俺に云わせると後付けである。

 冤罪で死刑に反対する死刑廃止論者は、冤罪が決してあり得ないような現行犯逮捕の事件だからと云って死刑に賛成したりしない。
 被害者が被告の死刑を望んでいない際にその事を持ち出して死刑を反対する死刑廃止論者が、被害者遺族が極刑を望んだ際に死刑に賛成するかと云えば、決してそんなことは無い。
 国際社会で死刑存置国よりも死刑廃止国の方が多いことをもって死刑廃止を主張する死刑廃止論者は、国内の死刑存置論が大勢を占めることをものの見事に無視するか、「質問の仕方が恣意的」といちゃもんをつけてでも存置派優勢を認めず、賛成意見が多いことにより死刑存置派もって認めない。

 同様の事は死刑存置論者にも云える。
 被害遺族感情をもって死刑を訴える存置派は、死刑に反対する遺族が出たからと云って死刑存置論の矛先を丸めたりはしない。
 冤罪によって処刑された疑いが濃厚な過去の例を持ち出されても、「昔は昔、今は今!」、「無期懲役だって取り返しはつかない!」と言い出す。
 死刑廃止国の数が存置国のそれを上回る事実に対して、「海外は海外、日本は日本!」、「多数派が必ずしも正しいとは限らない!」と反論する。

 結局、「結論ありき」だと論争はどこまでいっても平行線なのだ。死刑存廃問題以外でも、南京大虐殺肯定否定論争や、日本再軍備の是非を巡る意見でも同様だろう。
 偏に、死刑廃止論者は俄かな死刑廃止が不可能な現実に対して、少しでも死刑廃止に近づく為に可能な限り展開出来る反対理由を連投し、死刑執行を少しでも行いにくくし、死刑執行に対して口を極めて抗議するのだろう。

 結局、死刑制度の是非以前に存置派も廃止派もまともに相手の意見を聞きやしない。自分で云うのもなんだが、冤罪問題や執行に携わる刑務官の心の痛みと云う死刑存置における不利な材料と向き合っているだけでも俺は自分が公正公平に近づこうしている人間だと思っている。勿論、俺自身「結論ありき」と無縁な訳ではないのだがな。

 そしてこれらを鑑みて尚、俺の「身勝手に人を殺した奴が生き残るなんて不公平・不平等だ!」の思想原則は変わらなかった。端的に云えば、殺された被害者に対して加害者が生き残る事への嫌悪感だ。それゆえ、俺は人殺しが死刑を免れる求刑・判決のみならず、人殺しが死刑判決に対して控訴・上告・再審請求することにも嫌悪感を覚える。法としての正当な権利を否定はしないが、それならそれで、「人を殺しながら自分は死にたくない。」と抜かす輩に俺が嫌悪感を抱く思想の自由も認めて欲しいものである。
 勿論、個々の事案ごとに例外や軽減すべき状況が有るのは認めているが、廃止派は個々の事案ごとに例外や加重すべき状況を一切合切無視して死刑を認めないのだから、こりゃ平行線になるのも無理はないな。



最終考察2 「死刑廃止」は俺の忌む「極論」である。
 前述した様に、死刑廃止論者は如何なる理由であっても国家が加害者の命を奪うことを是としない。そう、どんな理由であってもだ。独断と偏見を承知の上で書くが、時として「死刑廃止論者=国家権力嫌い」に見えてしまうことがある。
 勿論国家権力を重んじる人々の中にも死刑廃止論者は居よう(死刑廃止論者だからと云って、凶悪犯罪者の厳罰を是とする人々は多い)。ただ、国家権力嫌いの左派に死刑廃止論者が多いのは統計的事実だ(逆に右派は殺人を伴わない国家への犯行にも厳罰を求める傾向にある)。

 つまるところ、死刑廃止論とは、俺の嫌いな、当道場が「非」とする『極論』なのだ。
 「極論の何が悪い?極論であっても死刑廃止は正しい!」と反論する方もいると思うが、それならそれで死刑存廃アンケートの「どんな場合も死刑は廃止すべき。」と云う質問のし方に反発しないで欲しい。
 勿論俺とて極論のすべてを否定しようとは思わない。それこそ極論だ(苦笑)。だが、「どんな犯罪に対しても」となれば、やはり俺は死刑廃止論者に踏み切れない(同じ理由で、「殺人は如何なる理由があろうと問答無用で死刑!」という極論にも俺は賛成しない)。

 一例を挙げるなら、「私はどうしようもない犯罪に対しては死刑も止む無しと考えるが、犯罪の多くは酌むべき事情があり、贖罪を重んじて可能な限り死刑は回避すべきだと考える。」と云う人なら、その人がその思考に基づいた結果、1000件の凶悪犯罪に対して1000件とも死刑に反対したとしてもそれを非難しないだろう(個々に反対したとしても)。

 法が個人に課せる罰には限界がある。だが個人が奪い得る命の数に限界は無い。そんな状況で如何に酷く、非人道的で、救いのない凶悪犯罪が起きるかも分からないのに「死刑は駄目!」とは俺には考えられない。
 まして、人一人の命を奪っても、「原則死ね!」と思っている俺にとって、複数の命を奪っても死刑にならないということは、「被害者の命はそんなに軽いのか!!」との想いを生むだろう(実際、被害者が一人の場合はまず死刑にならず、この想いを抱くことは少なくない)。

 「最初から殺さない。」‥‥‥‥‥‥……このことの大切さは国家以前に個人であろう。殺人事件が一件も無ければ死刑判決は一件も下らない。勿論執行も起き得ない。「鶏が先か?卵が先か?」よりも分かり易い理論だと思うのだがな。



最終考察3 頑張れ!死刑廃止派
 充分か不充分かはともかく、様々な思考・調査・再考を経て、今も俺は死刑存置論者だ。余程のことが無い限り廃止派に転向することは無いだろう(廃止派の皆さん、貴方は御自身が存置派に転向すると思われていますか?)。

 結局俺自身を含む死刑存置派と死刑廃止派は相手の意見を殆んど受け入れず、非難し合うことだろう。この頁の冒頭にも書いたが、かつて闇サイト殺人事件の被害者遺族が募った死刑判決嘆願書命に協力し、その事を旧菜根道場BBSで、「お前それでも仏教徒か?笑わせんな!」との罵倒を書き込まれたこともあった。
 かかる言葉汚い罵倒かどうかはともかくとして俺は今後も死刑廃止派の批判・非難を浴び続けるだろうし、そのこと自体は充分に覚悟しているし、内容的に余りに不当と思えばそれ相応の反論もするだろう。
 だが、誤解無いよう、云っておきたいことが2点ある。それは、

●死刑廃止派の存在はこの世に必要と思っている。
●「死刑廃止論者」=「俺の敵」では決してない。

 ということである。
 死刑に限らず、刑罰自体が重い命題である。まして命を奪う刑罰である死刑には冤罪を許さない為にも慎重な上にも慎重な運用が必要である。いくら事件の加害者が極悪残忍非道で、裁判なしで即座に八つ裂きにしてやりたい様な奴でも、正当な裁判を経て、確固たる証拠をもって、その犯行に酌量すべき情状が有るかを充分に吟味し、間違いのない判決でもって死刑は確定されねばならない。
 処罰感情の赴くまま、薄弱な証拠で有罪を確定させたり、冤罪で死刑を執行したりすることを決して許さない為にも、死刑執行に厳しい監視の目が注がれるのは絶対に必要だと思っている。
 死刑を執行する権利とは、人を殺すことの出来る権利で、その強大さ故にその暴走は深刻な結果を生む。それでなくても国家権力を初めとする大きな権力は暴走し易く、思い上がり易い。ストッパーとなる世間の厳しい監視の目は必要で、死刑廃止論者の厳しい目が必要となる

 今後も死刑廃止論者の方々には、死刑判決に対して反対の声を挙げ、死刑執行に際しては抗議の声を挙げ、死刑に携わるすべての人々、死刑報道を耳目にするすべての人々に、死刑が重く、酷く、厳しい刑罰であることを訴え続け、軽々しい死刑、誤った死刑、感情暴論で流される死刑へのストッパーであり続けて欲しい。
 俺は凶悪犯罪者の死刑執行に対して出される抗議の声を「ウザい。」とは思うが、「不要」とは思わない。これらの声があれば、裁判官も法務大臣も冤罪可能性のある案件で軽々しく死刑を命じないだろうし、正当な再審請求にも少しは耳を傾け易くなるだろう。
 但し、それらの抗議の声が死刑に反対したい余りに、被害者遺族を中傷したり、正当な業務に従事する人々を人殺し呼ばわりしたり、死刑存置派を悪魔呼ばわりするものであれば俺は許さない。

 最後に、もし凶悪犯罪者に対して、その犯人が心底己の罪を悔い改め、被害者遺族をして「そこまでするなら恨みを忘れよう。」と思わしめる程の贖罪行動を取らせることを可能とし、悲惨な被害に対する補償が充分に為され、「生かして償わせる。」ことが間違いなく行われた果てに死刑が廃止されるなら‥‥‥‥‥‥……それは素晴らしいことである!
 不可能と断言出来る程の理想論を展開しているが、死刑廃止論者の方々にはこの理想に一歩でも近付けるよう是非とも頑張って欲しい。その結果、死刑が一件でも減るなら本当に素晴らしいことだし、それに近づく社会なら、そもそも死刑相当の事件自体が相当に減っていよう。そしてそれに邁進する死刑廃止論者は、死刑是非の観点では相反する存在でも、俺にとって尊敬に値する存在であることを断言する。

 頑張れ!死刑廃止論者!



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令和三(2021)年二月八日 最終更新