第8頁 「遺族」を巡る死刑廃止論について

キーワード遺族
死刑廃止重要度★★☆☆☆☆☆☆☆☆
死刑存置重要度★★☆☆☆☆☆☆☆☆
重視すべき判例特になし。
 死刑存置派が、「凶悪犯は死刑にしなければ被害者遺族の無念が晴れない。」と主張するのに対し、死刑廃止派は「例え犯人を死刑にしたところで被害者は還って来ず、遺族の無念も晴れない。」と反論する。そして時折廃止派は、「犯人の死刑を望まない遺族もいる!」と云う主張を展開する。

 確かに死刑を望まない遺族もいる。また、執行後に気が晴れたりせず、虚しかっただけだと云う声も耳にしたこともある。遺族の心の癒しを求めて死刑に賛成するなら、死刑を望まない遺族の声を無視しては片手落ちと云えよう。
 では、無念が晴れないなら死刑は反対されるべきなのか?遺族が望まないなら死刑判決は回避されるべきなのか?
 当事者の立場に立つのは難しいが、それゆえこの問題も真剣に考えなくてはならないだろう。



考察1 確かに死刑に反対する遺族もいる。
 悲惨な殺人事件の被害者遺族でありながら、犯人の死を望まない人の例は確かに見たり聞いたりしたことがある。

 ある書籍で見たアメリカ人女性は、当時7歳の娘を強姦した上に殺されるという悲惨な目に遭い、さりながら被告の死刑に断固として反対していた。
 彼女の言い分は、「例え犯人を死刑にしても娘は還って来ない。」、「自分の大切な愛する娘の命と、犯人の命を吊り合わせて堪るか!」と云うものだった。
 彼女にとって、凶悪犯の死刑とは加害者の命でもって被害者の命を奪った報いとするもので、愛する娘の命と凶悪犯の命を一緒くたにすることで、「大切な娘の命を侮辱することになる。」と仰っていた。
 俺が彼女の立場なら、そんな価値比較を行わず、「娘が殺されながら犯人が生きていることなど許せねぇ!」と考えて犯人に娘以上のひどい目を見た果ての死を求めるだろう。そんな俺と彼女とでは彼女の方が余程理性的で、論理的な人間で人として好感も持てよう。

 また、岐阜・愛知連続集団リンチ強盗殺人事件でクソガキ三匹(死刑確定・令和3年2月8日現在未執行)に殺害された男性の兄上は裁判を重ね、加害者であるクソガキと接見を繰り返し、その変化を見る内にクソガキの死刑を望まなくなったと云う。
 この兄上がどういう考えでもってクソガキどもの死刑を望まなくなったかは寡聞にして存知ないが、あれほど酷く、凄惨な事件でありながら死刑を望まない人がいたことから、死刑囚の刑死を望まない被害者遺族が存在するのは間違いない。
 だが、云いたい。

 「稀少な例をもって鬼の首を取ったように叫ぶな。」

 と。
 確かに死刑を望まない遺族がいることは理解した。
 だが、それは被害者遺族の内の何割ほどなのか?
 遺族の報復感情を死刑存置の理由としない程に反対者は多いのか?
 死刑を望まない遺族に注目するのは良いが、死刑を望む遺族を無視するのはどうなの?

 これらの提示に関して俺が個人的にひどいと思ったのはオウム事件死刑囚の死刑執行後である。
 例によって死刑執行に対する抗議の声が出された訳だが、被害者遺族の中にも死刑執行を望まない人や死刑の在り様に対する異論が紹介された。
 麻原以外の弟子達を「マインド・コントロールの被害者」と見て、教祖以外の処刑に反対する声。
 多人数を一度に処刑したことに抗議する声(←共犯者は一緒に死刑執行するのが決まりだって!)。
 余りの被害の甚大さに、死刑囚の死刑が執行されても虚しさしか感じない声。
 確かに様々な声があったが…………そりゃそうだろう一連のオウム事件による被害者は殺人に限定しても数十人に及び、その遺族は何千人単位だこれだけ「遺族」がいれば、どんな意見の持ち主がいてもおかしくない
 そんな中に例え少数意見でも死刑執行に反対する人もいるのを紹介するのは悪くないが、それを死刑執行批難の材料とするのは薄弱過ぎるだろう。

 ともあれ、俺が見てきた限り、死刑囚の死刑を望む遺族と、望まない遺族とでは圧倒的に前者の方が多い(と思う)。「死刑を望まない遺族」を重視して死刑に反対するなら、「死刑を望む遺族」も重視してその死刑には賛成するのが筋だろう。
 本当はどんな死刑にも反対するくせに、「死刑を望まない遺族」だけを声高に叫ぶのには大きな欺瞞しか感じない。被害者遺族が凶悪犯の死刑を望まないなら、その事は死刑存置派こそが注目すべきだろう。



考察2 感情に流されてはいかんが、無視してもアカンだろう?
 日本の裁判は良くも悪くも判例主義だ。そして検察は基本的に「勝てない喧嘩」はしない(逆に云えば、「勝てる喧嘩」だけをするから日本の裁判は有罪率が極めて高い)。
 それゆえ、「死刑は難しい……。」と判断したら、被害者遺族がどんなに死刑求刑を訴えても懲役刑求刑に留めるし、死刑求刑を退ける判決に対して遺族がどんなに望んでも控訴・上告を断念するし、「判例的に絶対死刑!」と思ったら、被害者遺族が被告の死刑求刑に反対しても死刑を求刑する。

 本当に日本の裁判は恐ろしいほど被害者に寄り添っていない。

 勿論、被害者遺族感情を必要以上に盛り込むのは危険である。
 世の中には掠り傷程度の傷害に対しても相手の殺意を抱く人間もいるから、軽微な生涯や窃盗に対して被害者が望んでいるからと云って死刑が求刑されたりする訳はない。
 また、遺族感情を判決の主因とするなら、被害者が天涯孤独な場合は厳罰を考えなくていいのか?と云う反論もあるだろう。

 だが、そもそも人間に「殺されたくない。」。「傷付けられたくない。」と云う想いがあり、不幸にして大切な身内が凶悪犯罪の被害に遭えば、その罪を謝し、賠償に努めることを望むし、何をもっても償えない、許せないと断じれば、身内があった以上の痛い目を見ろと考えるのは自然な感情で、だからと云って私的な報復・制裁を加える為の違法行為を許す訳にいかないから、法を定め、これに逸脱した加害者を国が司法権にて裁くのだから、公正公平に立ちつつも法が被害者の救済に立たないのはおかしい、と俺は考える。
 その救済に加害者の処刑を用いることを死刑廃止派が反対するのは自由だが、それならそれで被害者の心を慰謝する代替方法を提示して然るべきだろう(←云っておくが、無期懲役では納得しない人が多いから、日本は依然死刑存置派が大勢を占めているのを忘れない様に)。

 繰り返しになるが、だからと云って如何に正当な感情でもその暴走は許されない。故に刑法では罪状ごとに如何なる刑罰が科されるかが明記されている。
 例を挙げれば、殺人なら刑法第199条で「死刑又は無期若しくは5年以上の懲役」と定められている。それゆえ、同じ殺人でも強烈な怨恨や相当に切羽詰まった境遇に情状酌量の余地があり、初犯で、計画性が無ければ遺族がどれほど死刑を声高に叫んでも懲役期間が10年を上回ることは無いだろう。
 反面、殺害人数が複数に及び、身勝手な動機で、反省や改悛の色もなく、殺人前科や計画性が伴えば、遺族が許すと云っても、良くても無期懲役は免れないだろう。
 これが遺族の声で前者が無期懲役になったり、後者が懲役5年で済んだりしたら声のデカい遺族の意がすべてになりかねない。

 裁判は公正公平に行われ、検察による原告(或いは被害者)の云い分、弁護士による被告(或いは加害者)の云い分の双方を精査し、法の定めに応じた判決が下されなければならない。
 それゆえ幾ら被害者への同情が大きい事件でも「遺族の云いなり」になってはいけないが、(有罪を前提とした判決なら)被害者遺族への慰謝の為にも量刑に多少の増減が伴うのは、俺はおかしいこととは思わない。

 ま、死刑と無期懲役の差が大き過ぎるから、「多少の増減」を論じるのが難しい訳だが。
 いずれにせよ、現状日本の裁判は上記の「遺族感情の暴走を許さない」以前に、被害者遺族に寄り添わなさ過ぎである。こう云えば、

 「司法は遺族の為にあるんじゃない!」と主張する者もいる訳だが、遺族をいじめ、苦しめるものでもない筈である


考察3 「遺族」が努力する必要はない!
 大切な身内を殺傷した相手に遺族が激しい怒り・報復感情・厳罰処罰感情を抱くのは自然なことである。だが、決して楽しいことではない。加害者の死刑が執行された際に納得したり、溜飲が下がったり、多少なりとも心安らぐことは有っても、喜んだり、楽しんだり、多幸感を抱いたりすることは無いだろう。

 この遺族感情の好例となるのが山口県光市母子殺害事件の被害者遺族である本村洋氏と云えよう。有名且つ悲惨な事件なので事件の詳細は割愛するが、当初本村氏は司法が被告であるクソガキを殺さないなら無罪放免にして欲しい、自分のこの手で殺すと公言されていた。
 その後裁判は一審無期懲役、二審無期懲役、最高裁にて高裁への差し戻し、高裁にて死刑判決を経て、2012年2月に最高裁で死刑判決が確定した(正式な確定は同年3月16日)。この間、本村氏のクソガキに対する死刑を求める意は一貫して変わらなかった。だが本村氏自身の思想はかなり変わった。
 一審で無期懲役判決が下った時には「司法に負けた!」、「司法に絶望した!」との声を挙げ、この7年後に当時の映像を見た本村氏自身が、「鬼のような形相。」と称した程だった。

 だが、憎しみ一辺倒だった本村氏はその後犯罪被害者の会幹部を務め、犯罪被害者の権利を訴え、同じ苦しみを持つ人々の声を聴く中、単純に憎しみから死刑を求めるのではなく、社会秩序から悪行に対して然るべき目に遭うことの正統性から死刑を求め、死刑を受けるであろうクソガキにも自らの罪悪を自覚した上で潔く刑に服することを求め、司法がしっかりと悪を裁き、罪に見合う罰を課すことで社会の規範となることが悲惨な事件に見舞われた氏の妻子及び処刑される元少年の命が無駄にならなくなる、としていた。

 長い時を経て、熟考と冷静さを取り戻し、被害者の権利を堂々と訴える氏は過去の暴言(=殺害予告)を詫び、クソガキが最後の最後まで罪を認めて謝罪に努めていれば死刑が回避されていた可能性に触れるまでになり、殺害予告を発した当初、氏に否定的だった道場主の親友(死刑廃止論者である)も氏への嫌悪感を捨てた(死刑自体には今も反対しているが)。
 一審直後、本村氏は被害者遺族に寄り添わない司法に対し、世に対し、「被害者も立ち直り、優しい心を取り戻すために死ぬほど努力しなければならないんです!」と声を荒げていたが、その言葉通りに冷静さと論理的思考や正当な権利を主張するために死ぬほどの努力をされたのだろう。

 忘れないで欲しいが、分かり易い例として本村洋氏を取り上げたが、すべての凶悪犯罪被害者遺族が事件以前の自己・日常を取り戻す為に死ぬ程の努力をしていると云っても過言ではない。それも完全には取り戻せないのを承知の上で、だ。
 犯罪被害ならずとも、事故や病気で身内を失った場合でも、その死を受け入れ、乗り越え、日常に戻る為に人を苦渋の努力を強いられる。まして、死刑を求刑されるほどの凶悪犯罪の被害となると、何の非や落ち度もなくある日突然に被害者遺族にされ、塗炭の苦しみを味わわされるのだから、立ち直りに必要な努力は外野の想像を絶しよう。まして、その努力は望んだ物でもなければ、被害に遭っていなければ全く不要の物なのである!
 それゆえ、被害者遺族の報復感情や、死刑以上の厳罰を求める感情は、例え法で否定されて正当性を失っても、「無理のないもの。」であることは誰も否定出来まい。

 前述した様に、凶悪犯罪被害者の遺族の中にも凶悪犯の死刑を求めない人は間違いなく存在する。思想や価値観の違いかもしれないが、達観した人や度量の広い人もおられよう。
 また、事件後長い年月を経て、冷静さや理知性を取り戻し、失われた命に命を奪うことで埋め合わせすることに意味を見出さず、謝罪や賠償を求める方向へシフトする遺族もいよう。
 だが、だからと云って、死刑を初めとする厳罰を望み続ける遺族を誰が非難出来よう。犯人を許したり、死を免ずる方向にシフトしなかったりしたとしても、そうしなくてはならない義務など、被害者遺族には一切ない!
 「義務」だと云うなら、そんな「義務」が生まれたのは誰のせいやねん!?!となろう。

 最後に、免罪符にするつもりは無いが、被害者遺族がどんなに激しい感情や非難に値するえげつない報復を望んだとしても、当の犯人がいなければ生まれ得なかったものであることは忘れてはいけないだろう。
 一言で云えば凶悪犯罪者の「自業自得」なのだ。


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令和三(2021)年二月八日 最終更新