第参章 島原の乱、その経過…乱後の処置

 「知恵伊豆」と呼ばれた老中・松平伊豆守信綱による強権発動、一二万を超える兵力の投入、四ヶ月の時間をもってして、島原の乱は終結した。
 その後、江戸幕府の統治下では数々の一揆が多発し、二〇〇年後には与力・大塩平八郎が乱を起こしもしたが、万を超える人間が戦端を開くことは無かった。
 この章では、乱終結後、その後の治安の為に、幕府が政治的に、刑罰的に、宗教的にどのような手を打ったかを見てみたい。
乱終結直後の動き
寛永一五(1638)年三月三一日 松平信綱、原城破却を命じる。
四月四日 幕府、松倉勝家と寺沢堅高の両名に対し、反乱惹起の責を問い、勝家は改易、堅高は天草領没収となる。
四月一二日 松倉勝家、美作津山藩預かりとなる。
七月一九日 松倉勝家、斬首刑に処される。

 戦は終わった。
 だが大切なのは双方の責任者の処罰を含む戦後処理である。これを誤ると同じ事は再度起きかねないし、場合によっては別の派生した理由で反乱が起きかねない。
 加えて、参戦者への論功行賞も重大な問題である。大きな戦であればある程、論功行賞はある意味、戦に勝つより難しいと云っても過言ではない。これに失敗した鎌倉幕府は滅亡へ歩みを急速には止めたのは有名である。

 結果を先に云えば、事の是非はともかく、幕府の戦後処理は正解だったと云えよう。散発的な一揆こそ頻発したが、幕府軍と反乱軍がぶつかり合う乱はちょうど二〇〇年後の大塩平八郎の乱まで起きなかったのだから。

 戦後処理には三つの側面があった。
 反乱軍への処置と、大名達への処置と、政策的処置である。
 まず「反乱軍」に対してだが、戦である以上総大将とその側近への処置が第一となる。総大将・天草四郎は前章で記した様に、肥後藩士・陣佐左衛門に討ち取られが、幕府側には四郎の姿や容貌の情報が全く伝わっていなかったため、幕府軍の陣には四郎と同じ年頃と見られる少年達の首が次々に持ち込まれた。
 勿論、一つを除いて他はすべて偽物なのだが、場合によってはすべて偽物ということも考えられない訳ではない。
 幕府軍は捕えていた四郎の母・よね(洗礼名:マルタ)を連れて来て首実検を行い、陣佐左衛門が持って来た首を見て顔色を変え、その場で泣き崩れたことで、その首が四郎の首と断定された(つまるところ、よねはそれが「四郎の首」は一言も云っていない)。

 そして既に論じた様に、一揆勢は殆ど全滅したに等しかったので、直接戦闘に携わった者へは処罰するまでも無かった(というかしようがなかった)が、一揆勢自体が、島原半島南目と天草諸島のカトリック信徒が地域を挙げての参戦したに等しかったので、領民自体が、乱への参加の強制を逃れて潜伏した者、僻地にいて反乱軍に取り込まれなかった者を除いて根絶となった(乱後に天草への移民を募った程だった)。
 僅かに乱に参戦しなかった信者達が深く潜伏し、隠れキリシタンとなっていったが、元々国家権力から身を隠した存在なので、その実数は詳らかではない。

 続いて大名達への措置だが、詳細は下記の表を参照して頂くとして、概略だけ述べると、乱がおきた原因は、藩主による「領民の生活が成り立たないほどの過酷な年貢の取り立てにあった」とされ、島原藩主・松倉勝家改易斬首となり、天草を飛び地として領有していた唐津藩主・寺沢堅高天草領没収の上、藩主でありながら出仕を許されず、精神に異常をきたし、九年後に江戸で自害し、嗣子のなかった寺沢家は改易となった。
 その他の参戦大名は戦の活躍・軍令違反によって、称されたり、罰せられたりしたが、乱の原因を咎められることは無かった(当たり前か)。


島原の乱における幕府軍の従軍者詳細
幕府
所属・役割氏名有名人との関係率いた兵力参戦経験乱後の賞罰・備考
上使板倉重昌板倉勝重三男八〇〇人 本人戦死。嫡男・板倉重矩が、抜け駆けと父の戦死責任を問われ、一年間謹慎処分。
上使松平信綱家光側近一五〇〇人 翌寛永一六(1639)年一月五日に三万石加増。
副使(目付)石谷貞清元徳川秀忠大番役不明 重傷。軍令違反を咎められ、一時蟄居。
副使戸田氏鉄元徳川家康近習二五〇〇人 軍人としてより、政治家としての方が優れ、明治に従三位を追贈。

諸大名
氏名有名人との関係率いた兵力参戦経験乱後の賞罰・備考
備後福山藩水野勝成幕府始祖徳川家康生母の縁者家系五六〇〇人 九州以外からの唯一の参陣。乱終結直後に隠居
水野勝俊勝成長男原城一番乗りを果たす。乱終結直後に家督相続。
水野勝貞勝俊嫡男父と共に原城一番乗りを果たす。一四歳で参戦。
筑前福岡藩黒田忠之黒田如水の孫、黒田長政の息子一万八〇〇〇人 乱における活躍で黒田騒動の悪印象払拭。
筑後久留米藩有馬豊氏 岡本大八事件で有名な有馬晴信とは別系。八三〇〇人 六三歳の最老齢で参戦。藩からは戦死者一七三人、負傷者一四一二人が出た。
柳河藩立花宗茂立花道雪養子五五〇〇人 乱終盤で一揆側の夜襲を予告・的中させた。
立花忠茂宗茂嫡男   
肥前島原藩松倉勝家松倉重政の子二五〇〇人 斬首刑に処される。
唐津藩寺沢堅高寺沢広高次男七五七〇人 天草領没収。後に狂乱して自害。
佐賀藩鍋島勝茂鍋島直茂の子三万五〇〇〇人 最終決戦における軍令違反(抜け駆け)で半年間の閉門。
肥後熊本藩細川忠利細川忠興の三男二万三五〇〇人   
日向延岡藩有馬直純有馬晴信の子三三〇〇人 戦地は旧領で、地理の明るさで活躍。
豊前小倉藩小笠原忠真徳川信康の外孫六〇〇〇人 主に守備担当
中津藩小笠原長次忠真とは別系二五〇〇人 宮本武蔵が従軍
豊後高田藩松平重直徳川信康外孫一五〇〇人   
薩摩鹿児島藩山田有栄島津家家臣一〇〇〇人 主君代理で参戦
 その他 八〇〇人が参戦し、総兵力一二万五八〇〇人、犠牲は死者一一三〇人、負傷者六九六〇人、(『島原記』より)


 最後の政治的処置だが、簡単に云えばキリシタン禁制と鎖国体制が強化された。
 幕末には祖法の様に云われていた鎖国だったが、初代将軍徳川家康は海外交易には大賛成だった(三浦按人や、ヤン・ヨーステンといった外国人顧問まで仕えさせていた程だった)。
 ただ、キリスト教に対しては家康も禁じる方針でいたため、「交易ウェルカム・布教お断り」のバランスが政治的に難しい問題となっていたが、事ここに至って、徳川家光は禁教を優先し、その為に貿易も大幅な制限が加えられることとなった。

 主だった変革を箇条書きにすると以下の通りになる。


 かくして、島原・天草には平和とまともな政治が帰って来た。松倉家に代わって島原と支配者となったのは徳川譜代の大名家ばかりで、天草は天領となった。
 島原の乱は確かに何万人もの人間が悪政と内乱で命を落とした悲惨なもので、双方に歩み寄りのなかった救いのない事件だった。ただ、それゆえに後々彼の地の統治に細心の注意が払われたことに間違いはなく、「乱後」の締めくくりに、一人の偉人を紹介しておきたい。


真の天草救世主・鈴木重成

鈴木重成(すずき しげなり)
天正一六(1588)年〜承応二(1653)年一〇月一五日
略歴 島原の乱後、天領となった天草の初代代官。
 天正一六(1588)年、三河鈴木氏の支流・則定鈴木家の鈴木重次の三男に生まれた。通称・三郎九郎
 徳川家康、秀忠、家光に仕え、大坂の陣に従軍して二〇〇石を知行。長兄・次兄が別家していたことで、元和六(1620)年に父・重次に家督を譲られ、既得の二〇〇石と合わせて七〇〇石を知行した。

 寛永一四(1637)年、島原の乱に幕府上使・松平信綱の旗下にて従軍。原城総攻撃で一番乗りの武功を顕彰された。
 寛永一八(1641)年、天領となった天草の初代・代官に任じられた。
 唐津藩主・寺沢広高堅高二代の過酷な収奪と、乱による荒廃で疲弊を極めていた天草復興の為、重成はこの地域への植民を促進し、寺沢氏の算出した石高を疑問視して再検地を実行。
 宗教面では、踏絵を執行しながら、出家して禅僧となっていた兄・正三を呼び寄せて説法を行わせ仏教への改宗を勧め、硬軟織り交ぜたキリシタン統制も行った。

 だがそれだけでは天草復興に限界があると痛感した重成は、幕府に対して年貢米の減免を建議。再三の要請したが聞き容れられず、承応二(1653)年一〇月一五日、訴状を残して江戸の自邸で抗議の自刃を遂げた。鈴木重成享年六六歳。
 これに驚いた幕府は、慌てて減免を前向きに検討し、実現した。
 文字通り命を張った重成の行為に感動した天草領民は郡内に重成を祀った鈴木神社を建立。各地に「鈴木様」と呼ばれる石塔を立て、名代官として長く彼を追慕した。

 その心意気が認められたものか、鈴木家は子の重祐が家督を継ぎ、旗本として幕府に仕え続けることが出来た。


偉業 「略歴」と被るが、硬軟織り交ぜた統治と、本気で領民サイドに立った行動が素晴らしい。
 古今東西世に、「民衆の為」という政治家、「御客様第一」という経営者、「読者の為」という出版会の業界人、「世のすべての人の為」という理想主義者は星の数ほどいるが、「口だけ」で終わっているケースがほとんどと云っていい(それが欺瞞によるものか、能力の至らざるによるものかは大きく違うだろうけれど)。

 だが、鈴木重成は実行動に移しただけでなく、方法も理に適っていた。
 島原の乱という痛ましい内乱がおきた要因は、キリスト教禁令に対する反発と、生活が立ち行かなくなる過酷な収奪にあったから、宗教問題と経済問題を解決しなくてはならないこと自体は誰にでも分かる。
 その点、鈴木の施政は決して頭ごなしではなく、完璧に領民に味方したものだった。

 キリシタン禁教に関しては、頭から禁ずるだけでなく(←踏み絵もやってはいた)、「禅の教理思想」をもって、「より素晴らしい教え」でもって教化するという方法は取ったが、なかなか考えつくことでもなければ、出来ることでもなかった。
 大矢野島などは殆どの住民が乱に参加して戦死したため、無人地帯と化していたが、周辺の諸藩から移住者を募り、復興に尽力した。当時の重農主義政策の世で、温暖ではあるが離島という土地柄、稲作に向かない天草に人を招くには、理に適った勧誘材料が無ければ出来なかったことは想像に難くない。
 更に、天草の貧窮は寺沢氏による現状無視の過大な石高の算定にあることを重成は見抜き、検地をやり直した。結果、石高の算定を半分の二万一〇〇〇石にするよう幕府に対して何度も訴えた。
 それを受け入れなかった幕府の云い分は「前例がない」だった。阿呆みたいな云い分だが、「前例がない。」の一言でロクに正論や現実と向き合わずに吟味もせずに、却下する悪弊を決して現代人も容易に笑えないと薩摩守は感じている。

 結果、重成は文字通り命を賭けて石高半減を幕府に抗議した。
 事態に驚愕した幕府は重成の死因を「病死」と発表(←官僚的だねぇ〜)し、養子の重辰(兄・正三の子)を二代目の代官に任命した。
 だが、こんな誤魔化しはすぐに露見し、重成の抗議の憤死を知った天草領民は皆号泣したと云う(そりゃ、泣くよね……)。
 前述の鈴木神社は今でも天草の人々の信仰を集め、二代目代官となった重辰もまた石高半減を幕府に再三訴え、重成の死から六年を経た、万治二(1659)年、幕府はようやくこれを認めた。
 五年後に重辰は京都代官に栄転し、天草を離れたが、鈴木神社には重成とともに重辰も祀られている。

 歴史教育においては、この様な人物こそもっとクローズアップするべきではないだろうか?と薩摩守は思う。
 「片手落ち」を忌む拙サイトにあっては『天然痘との戦い』に取り上げた人達以来の、珍しいべた褒めになったな(笑)。


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令和三(2021)年六月三日 最終更新