第伍章 多彩極める一揆構成員
前章では、天草四郎に注目した。既に触れた様に、四郎はシンボル的なリーダーだったと思われており、戦闘の中核となった主な構成員は、関ヶ原の戦いで処刑された小西行長、その後改易などにあった有馬晴信、加藤忠広(清正の子)の元家臣だった者が多いと思われる。
また、島原の乱は島原・天草地方の領民を地域ぐるみひっくるめた形で参戦となっており、彼の地にてキリシタンでなかった者や、反乱が嫌で藩に恭順的だった者も、参加せざるを得なかった空気があった。極端な例え方をすると、日中戦争・太平洋戦争中に戦争に反対でもそれを口にすれば「国賊!」、「非国民!」と呼ばれたのと同じ空気が蔓延していたのだろう。
屑野郎な権力者に味方するも、敵対するも、地域の空気に逆らい辛い点では、日本は今も昔も余り変わっていないのかも知れない。
そこで、この章では、カリスマ的リーダー・天草四郎の陰に隠れた、一揆参加者の実像に迫る為、その構成員について見てみたい。
もっとも、一人一人を丁寧に見るととんでもない量になるので、大雑把になるのをお許し願いたいが(苦笑)。
一揆軍構成
配置 役割 氏名 旧所属 キリスト教の信仰 備考 城内 総大将 益田(天草)四郎時貞 小西家 有 傀儡とまでは云わないが、精神的・シンボル的なリーダーとしての意味合いが強かった。 評定衆 益田好次 小西家 有 落城時に本丸にて戦死。 有家監物入道休意 有馬家 有 本丸大将・三ノ丸出丸大将を兼任。事実上の総大将。落城時に大江丸にて板倉重昌の子・重矩に討たれた。 蘆塚貞家 有馬家 有 一揆勢の軍師的存在。立花勢の武士を脇に抱えて断崖から身を躍らせ、最期を遂げた(←クリスチャンなのに良いの?)。 渡辺伝兵衛 大矢野村庄屋 有 幕府軍との矢文のやり取りで何度か名前を見せている。四郎に近侍していて、落城時に討ち死にしたが、詳細は不明。 赤星道重 加藤家 不明 徒士大将の一人として本丸付近の守備を担当。軍記物では三宅重元(乱初期に戦死した三宅重利の弟)との一騎打ちに敗れて戦死。 会津宗印 浪人 不明 大江治兵衛 天草大江村庄屋 不明 三宅重徳 松倉家 不明 惣奉行 森宗意軒 小西家 有 首謀者の一人。兵糧奉行を兼任。海外での活動経験も豊富。落城時に戦死。 蜷川左京 浪人 不明 天草四郎の参謀を兼任 武者奉行 池田光時 浪人 不明 侍大将を兼任。本丸守備担当。落城時に戦死。 松島半之丞 松倉家 不明 布津村代右衛門 浪人 不明 会津玄察 松倉家 不明 医者でもあり、二ノ丸北丸番頭を兼任。落城時に戦死したが詳細不明。 鉄砲奉行 柳瀬茂右衛門 浪人 不明 鹿子木右馬助 浪人 不明 時枝隼人 浪人 不明 使武者 千々石正時 浪人 不明 会津重定 浪人 不明 本丸物頭を兼任。 夜廻奉行 志岐義安 浪人 不明 栖本左京進 浪人 不明 本丸 番頭 山田右衛門作 有馬家 有 松倉氏御用達南蛮絵師で幕府軍に内通して生存。矢文を通しての幕府軍との交渉を担当した立場を利しての内通で、乱後はキリシタン目明しとして活躍したが、その後は不明。 鉄砲頭 上津浦忠次 不明 不明 物頭 坂部源八 有馬家 不明 蘆塚忠太夫 有馬家 有 蘆塚貞家の弟 蘆塚左内 有馬家 有 蘆塚貞家の子 天草四郎近習 三宅左平治 松倉家 不明 三宅重徳の子 大江丸 大将 大矢野近守 浪人 不明 百姓頭 千々石五郎左衛門 加藤家 不明 一揆勢の軍師的存在。軍記物では落城時に鍋島直澄との一騎打ちに敗れて戦死したとされている。 二ノ丸 大将 有馬重正 不明 不明 有馬晴信異母弟とは同姓同名の別人。 番頭 千束善右衛門 小西家 有 首謀者の一人。原城二の丸の守備を担当。落城時に肥後細川藩士に討たれた。 物頭 三会村金作 小西家 不明 「三会村金作」は偽名で、本名は駒木根友房。種子島出身で銃の名手。
板倉重昌を討ち取る活躍をしたが、落城時に戦死。二ノ丸出丸 出丸大将 田崎重吉 小西家 不明 森宗意軒の弟子。天草にして四郎のことを触れまわった。落城時に岩門に頭をぶつけて自害すると云う壮絶な最期を遂げた。 三ノ丸 大将 堂崎次家 浪人 不明 番頭 大江実光 小西家 不明 首謀者の一人。 鉄砲頭 布津村恭右衛門 日野江口村庄屋 不明 百姓頭も兼任 出丸鉄砲頭 佐志木佐治右衛門 浪人 不明 天草丸 大将 本戸安正 浪人 不明 鉄砲頭 上津浦種清 不明 不明 遊軍 浮武者頭 大矢野松右衛門 本多家 有 首謀者の一人。本多家では剣術指南役でもあった。軍記物では細川家藩士・長岡帯刀との一騎打ちに敗れて戦死。 山善左衛門 小西家 有 首謀者の一人
ちなみに原城各部署の配置人数は下記のようになっていた。
原城本丸 守備(約二〇〇〇人)
原城大江丸 守備(約一四〇〇人)
原城二ノ丸 守備(約五二〇〇人 ※非戦闘員除く)
原城二ノ丸出丸 守備(約五〇〇人)
原城三ノ丸 守備(約三六〇〇人)
原城天草丸 守備(約四〇〇〇人)
浮武者(遊軍)(約二〇〇〇人)
島原城略図
『余湖くんのお城のページ』(http://homepage3.nifty.com/yogokun/)の画像を一部修正して転載。
犠牲
幕府軍の攻撃とその後の処刑によって最終的に籠城した老若男女三万七〇〇〇人は全員死亡。内通者だった南蛮絵師・山田右衛門作のみ生き残った。
三万七〇〇〇人の中には、地域に漂う空気に抗し得ず、心ならずも一揆に参加した者も若干ながら存在したと見られており、隙を見て投降した者、原城から脱走した者、正月晦日の水汲みの口実で投降した者が存在したことは確認されている。
最終日の幕府軍総攻撃の直前にも、原城の断崖絶壁を海側に降りて脱出する一揆勢の目撃情報があったとする論もあるが、実数は不明である。
だが、その数がどれほどだったにせよ、一揆軍が幕府との間で、責任者の名の下に公式に投降したり、和睦に応じたりした者は皆無で、三万前後の人数が「降伏」の二文字を一切考えることなく原城に散ったのは厳然たる史実であった。
単純に考えるなら、
「一揆の全参加者が信仰を認められない世界で棄教して生きるよりは、信仰の為に最後の最後まで戦った。」
ということになるだろう。
確かに天草四郎をリーダーに、「デウス(ラテン語で「神」の意)の御導き」を合言葉に、戦死してもパライソ(スペイン語、ポルトガル語で「天国」の意)に行けると信じて戦い、それが団結力となり、松平信綱をして、兵糧攻めを決断させたのは間違いない。
また、上記の表の備考欄にある、「首謀者」達が旧小西家家中の者、キリシタンが多いのは事実で、島原の乱が一般に云われる様に、キリシタン一揆という側面を持っていることは間違いないだろう。
だが、少し前述しているが、一揆勢の中には、「地域の流れ」に抗し得ず参加した者、松倉重政、勝家父子による度を越した圧政、収奪の為に「取敢えず生きる為」という想いで参加した者、信仰と並行して反徳川の勢力を築く為に参加した者もいたのも間違いない。
特に旧加藤家家臣はキリシタンではなかった可能性が高い。
時代を遡れば、天正一八(1590)年に天下を統一した豊臣秀吉は、肥後を加藤清正と小西行長に与えた。清正は熊本を本拠に北半分を、行長は宇土を本拠に南半分を領有したが、この二人は良くも悪くも対照的な存在だった。
清正は尾張出身で、秀吉子飼いで、武断派で、北政所派で、日蓮宗の熱心な信者だった。
それに対して行長は和泉出身で、秀吉出世後の出仕で、文治派で、淀殿派で、敬虔なキリシタンだった。
当然両者の仲は悪く(特に石田三成を嫌い抜いていた清正が、三成と仲の良い行長を嫌い抜いた)、秀吉にしてみれば肥後統治を巡る良きライバル関係を作って、両者を良い意味で競わせる目算もあったと思われるが、肥後の北半分では仏教が保護されてキリシタンが迫害され、南半分では仏教が迫害されてキリシタンが保護された。何て分かり易いんだ(笑)。 ともあれ、信仰を巡る人口大移動が起きたぐらいだったから、ここまで極端な流れの中で、加藤派と小西派が握手したと云うのは信仰上考え難い。
ただ、逆を考えると信仰ではなく、「新豊臣・反徳川」の為に過去の行き掛かりを捨てて大同団結したということなら考えられなくはない。
関ヶ原の戦いで西軍についた小西行長は捕えられて斬首され、小西家は取り潰された。そして小西家が領有していた肥後南半分は、論功行賞により清正の加増分となり、加藤清正は肥後一国を支配した。
だが、加藤家も徳川秀忠が薨去した四ヶ月後に、改易となった。将軍徳川家光と実弟・徳川忠長の諍いに巻き込まれ、親忠長派と見られたから、という説が強いが、紀州頼宣の正室・瑤林院が加藤清正の娘ということもあり、「加藤家にそこまで酷な処分は下らないだろう。」と見られていたのに取り潰された。
こう
なると豊臣恩顧系は安心出来なかっただろう。
加藤家改易後に肥後の藩主となった細川家だって、幕府からは「豊臣恩顧」と見られていて、藩祖・細川忠興は、福島正則、黒田長政とともに大坂冬の陣に参戦することを許されなかった(夏の陣は、正則以外は許された)。
しかも、藩祖・忠興は島原の乱当時、七四歳の高齢ながら健在だった(隠居はしていた)。
一揆軍にしてみれば、「いつ云い掛かりをつけて改易になるかもしれない。」という不安を煽って、細川、黒田、有馬、島津、立花等の豊臣恩顧系や、九州土着系の大名を味方に引き込めたら……………一足飛びに幕府を滅ぼすのは無理があるにしても、江戸から遠い九州の地に反徳川の一大勢力を築くことは可能だったかも知れず、それに期待して一揆に加わった浪人も多かったことだろう。
あたかも、室町時代初期に、京都の北朝、奈良吉野の南朝と鼎立する第三勢力を九州に築いた懐良親王(かねよししんのう。後醍醐天皇第七皇子)の様に………。
つまりところ、島原の乱における一揆勢の構成メンバーには以下の大別が出来る。
キリシタン
新豊臣・反徳川浪人
圧政への反発者
食詰め者
地域的に参加せざるを得なかった者
また、これらの要素を複数兼ね備えた者も少なくなく、いくつもの要因が重なったことが、和睦や降伏、並びにその為の交渉を絶望的に困難なものとし、島原の乱は一揆勢が玉砕するまで徹底抗戦し、結果、世に類を見ない殲滅戦となってしまったのだろう。
誠に痛ましい話で、次章ではこのことを踏まえて、従来云われている「キリシタン一揆」という概念との比較・検証を行いたい。
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令和三(2021)年六月三日 最終更新