第陸章 認められぬ殉教者達

注 この章に関しては、薩摩守=菜根道場道場主の『独善』が他の章以上に満ち溢れています。
 同時に、かなり感情的な論や、場合によっては矛盾した論が展開されます。それゆえ、宗教や人間の生死に対する価値観、介錯、倫理観の相違で読んでいる内に不快の念を催す方が居てもおかしくないと思っています。
 閲覧される方は、予めそのことを承知の上での閲覧をお願いします。事前に、或いは呼んでいる途中で不快を感じる恐れを察知された方は遠慮なく最下段の「次章へ」をクリックして、この章を読み飛ばして下さい。

薩摩守

殉教の捉え方について
 島原の乱は、表面的には「キリシタン一揆」と見られている。否、内面的にそうだった、と云っていい。但し「すべて」ではないが。

 実際、一揆の参加者は総大将・天草四郎も、首謀者達となっていた小西家旧臣にも、一般参加者にも、キリシタンは多く、信仰の為に戦った故に「降伏」は有り得ず、世の多くの宗教戦争がそうであるように、悲惨な殲滅戦となった。

 冒頭でも触れたが、薩摩守が長年、島原の乱に対して思うところがあったのは、宗教は違えど、薩摩守も「信仰」を持つ物の一人として、「信仰」の為に命を捨てる程の奮闘をしながら、島原の乱に参加して、四万人近い人間が降ることなく最後まで戦って原城に散ったキリシタン達が「殉教者」として認められていない、という事実も大きく関与している。

 一言断っておきたいが、薩摩守は決して「殉教」という言葉を美しいとは思っていない。むしろ、「嫌悪している」と云っていい

 殉教するまで戦う人々の心根そのものは尊敬に値するが、そもそも「殉教」という言葉が幅を利かすこと自体悲しむべき歴史であって、古今東西「殉教」の悪用も後を絶たない
 また、殉教者「法敵と戦っている」という使命感から、降伏、和睦に応じず、勝つときには殺戮者となることも少なくない

 島原の乱が四万人近い犠牲者を出す殲滅戦になったのもそうだし、一向一揆比叡山焼き討ち長島殲滅十字軍プロテスタント虐殺、昨今のイスラム過激派による自爆テロ、と古今東西枚挙に暇がない………。
 そしてこれらの戦いにおいて、宗教に対して純粋であればある程「聖戦」、「殉教」という美辞麗句に酔い(或いは酔わされ)、進んで戦争やテロに身を投じ、その過程で命を落とす「敵」の犠牲に一欠けらの罪悪感も持たない。

 本当に神仏がそんな地獄絵図を望んでいると思ってんのか?!ゴルァっ!!!!(←う〜ん…我ながら、誰に怒っているのやら……)

 また「殉教」は刑死した殺戮者を「英雄」に仕立てたり、異教徒に対する殺戮に駆りたてたりするし、宗教でなくても、宗教的に同じ傾向を生みだす例もある。
 日中戦争太平洋戦争中、「靖国神社にて護国の神とならん」という合言葉の元に軍人達が無茶な作戦、無茶な攻撃で命を落とすことを強いられたのだって、殉教の悪用に等しい

 「殉教」に関してはまだまだ話したいこと、ぶちまけたい怒りは多々あるが、すべてを語ると紙面がいくらあっても足りないし、当然、キリスト教徒やイスラム教徒の方々には反論もあるだろう(正直、薩摩守が「殉教」のすべてを把握している訳ではない)。

 それゆえここで、話を「島原の乱」だけを対象としたものに戻す。
 いきなり矛盾したことを云うが、キリスト教から見て薩摩守は異教徒の立場ながら、

 島原の乱で命を落とした人々を、キリスト教世界は『殉教者』として認めてくれないものか?」

 と思う時がある。
 「上記と云っていることが真逆じゃないか!」「仏教徒の出る幕じゃない!」という声が多数聞こえてきそうだし、薩摩守自身上手く表現出来ないのだが、「殉教の悪用」は許せないし、「殉教を命じる奴」ほどのうのうと生き延びてふんぞり返っている実態には反吐も出るが、

「圧倒的な権力・暴力による弾圧の中、棄教を選ばず、信仰心を貫いて命を落とした者に対しては、世界が認めずとも、母体となる宗教団体は顕彰すべきではないか。」

 と薩摩守は考えるのである。
 勿論この考えが悪用されて、要らざる犠牲を強要したり、悪業を英雄的行為として正当化したり、といった悪しき傾向が多数あるのを承知の上で、自論の定義が極めて困難であることを承知の上で申している。

 正直、命の危険に曝されたら、その場限りの偽りで棄教した振りをするのは「有り」だと思うし、神の教えの為の死を(敵味方問わず)強要する指導者がいたら、どんな立派な宗教でも強要する奴自体は「悪魔」だと薩摩守は思っている。
 だが、敵味方問わず、神の教えの前に尊い血が流れることを悲しむ心を持ちつつ、誰からも強要されない一〇〇%自らの意志で教えの為に命を落とした者なら、その心根を讃え、その犠牲を悼むために「殉教者」とするのは適切と考える。
 勿論、「初めに『殉教』在りき」で人の死を生み出す輩は「くそ喰らえ」だと思っている。

 現実の世に様々な宗教が存在し、それらの宗教には殉教者を生んだ者も少なくないだろう。また宗教じゃなくても、「殉死」、「殉職」、「殉難」、「殉国」と云う言葉も存在する。
 何かに殉じた者を讃えるにしても、その定義は万人が共通して認めることはまずないと云っていいだろう。宗教、職種、国籍の違いで良しと認めるか、悪しきと認めるかが容易く入れ替わるだろうから。

 ただ、結論を云えば、薩摩守は(個人的に)島原の乱で命を落としたキリシタン達は「殉教者」と認められて欲しい気がする。
 というのも、彼等は禁教令の下、圧政に喘ぎ、自分達の教えと生活を守る為に孤立無援状態にもかかわらず、最後の一人まで戦った人達で、彼等を反乱に追い込んだ地方為政者=松倉勝家は「悪魔」としか云い様のない存在と捉えているからである。


「殉教」と認められない理由への考察

 道場主が「島原の乱」の存在を知ったのは小学六年生で、歴史を学び始めたときだった。そのときはまだ宗教に対してかなり無知で、江戸時代にキリスト教に対する相当な弾圧があり、「この乱をきっかけに鎖国体制が固まった。」ぐらいにしか意識していなかった。

 高校生になり、世界史を学び、キリスト教やイスラム教の、宗教弾圧や宗教戦争の歴史を学び、島原の乱に参加したキリシタン達が「殉教者」と認められていないことを知った。

 数年後、自らも仏教を信仰するに及び、「殉教」というものを真剣に考える様になり、そして戦国房を開設する何年前だったかは記憶していないが、島原の乱における犠牲者が「殉教者」と認められていない理由を探った。
 正しいかどうかは自信が無いが、現状で薩摩守はその理由を以下の様に捉えている。


 等である。
 この考察を反映したものかどうかは分からないが、「天草四郎豊臣秀頼の御落胤」という説を唱える人達は、島原の乱を「豊臣対徳川の戦」として、勝利した徳川方が、大坂の陣の勝利を台無しにしない為に、「豊臣残党軍」を「キリシタン一揆」に置き換えた、としている。
 つまりは純然たる「国家権力を巡る争いだった故に、殉教者として認められていない。」と。

 しかし、日本国内で上手く隠蔽出来たのなら、尚のこと欧州には「キリシタン一揆」として伝わりそうなものである。
 松倉圧政の苛烈さはオランダ人も欧州本土に伝えている。戦った構成員全員がキリシタンで無かったり、信教以外の目的が有ったりしたら「殉教」と認めないのは些かカトリック教会の頭が固く、島原・天草の民が可哀想な気がする。
 少なくとも、天草四郎の唱える「デウスの導き」、「パライソへ」の指揮下に最後まで戦ったのは事実なのだから。
 三八〇年近く認められなかったものが簡単に認められるとは思い難いが、ジャン・ダルクニコライ2世の様に、悲惨な死からかなりの時間を経てから聖者として認められるようになった例もあるので、いつか島原一揆勢の面々も殉教者として認めらる日が来ればいいと思う次第である。


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令和三(2021)年六月三日 最終更新