第肆章 謎多き天草四郎

 「島原の乱」と云えば、「天草四郎」と云って、いい程事件に関係した重要人物である。一般に抱かれるイメージは、

 「熱心なキリシタン美少年で、一揆勢のカリスマ的存在としてリーダーを務めた、数々の超能力伝説をもった人物」

 ではなかろうか?
特に史書にて容貌に触れられている訳でもないのに、歴史漫画等で不細工に描かれているのを見たことが無い(苦笑)。
また、襞襟(ひだえり)を指して、「天草四郎みたい。」という人も多い。勿論その人達が天草四郎を見たことはあるまいて(苦笑)。
 一応、『島原日記』という古文書には、

「神を茶筅に結い、前髪をたらし、
 普通の着物の上に白い綾織りの羽織を着て
 裁付袴(たちつけはかま)をはき、
 頭には苧(からむし)を三組にして鉢巻にし、
 顎の下で結び、額には小さなクルスを立て、
 手には御幣を持って総勢を指揮していました」


 と記されているのが唯一と云って良い手掛かりである。

 何せ聖徳太子や源義経並みに美しく人間離れした描写が目立ち、実像に不明点が多いが、間違いなく実在した人物で、島原の乱を分析するのに、全滅した一揆勢の(例え形の上でも)リーダーとして敵味方から認められていた人物の分析を避けては通れない。
 よって、ここでは拙房の数々の作品と同様の、天草四郎に関する解説を行いたい。
名前天草四郎(あまくさしろう)
本名益田四郎時貞(ますだしろうときさだ)。
生没年元和七(1621)年〜寛永一五(1638)年二月二八日
洗礼名ジェロニモ。後にフランシスコと改めた。
※表の内容を含め、数々の異説があることを予め記しておきます。

略歴 益田甚兵衛の子として母の実家のある天草諸島の大矢野島(現:熊本県上天草市)で生まれた。
 父の益田甚兵衛は肥後南半国の領主・小西行長に仕えていたが、主君・行長が関ヶ原の戦いに敗れて斬首されたため、小西家は取り潰され、浪人して宇土に居住していた。

 生まれながらにしてカリスマ性があり、経済的には比較的恵まれていたため、幼少期から学問に親しみ、優れた教養があったとされている。
 キリシタン大名だった小西行長の影響で、小西家旧臣や肥後南部の住人にはキリシタンが多く、救世主として擁立、神格化された。
 故に、「盲目の少女に触れると視力を取り戻した」「海面を歩いた」などの数々の奇跡的な逸話がある(チョットした手品で出来そうなものもよく語られている)。

 寛永一四(1637)年、島原の乱が勃発すると、カリスマ的な人気を背景に一揆軍の総大将となった(祭り上げられたとも云う)。
 戦場では、「十字架を掲げて軍を率いた」とも伝わるが、まだ一七歳だったことからも、実際に戦は浪人や庄屋達が計画・指揮していて、四郎の役割は一揆軍の戦意高揚だったと思われる。

 一揆軍とおもに廃城となっていた原城に立て籠り、三ヶ月に及ぶ籠城・抵抗戦を続けたが、幕府側の兵糧攻めの前に食料、弾薬も尽きて寛永一五(1638)年二月二八日、原城は陥落。その渦中にあって四郎も原城の本丸にて幕府方の肥後細川藩士・陣佐左衛門に討ち取られたと伝えられる。天草四郎こと益田貞時享年一八歳。


 殺された後に首は切断され、原城三の丸の大手門前、そして長崎出島の正面入り口前に晒された。
 幕府側には天草四郎の姿や容貌の情報が全く伝わっておらず、陣には四郎と同じ年頃と見られる少年達の首が次々に持ち込まれ、幕府軍は捕えていた四郎の母・よね(洗礼名:マルタ)で首実検を行い、彼女が見て泣き崩れた首、陣佐左衛門が持って来た首を四郎の首と断定した。


御落胤伝説 所謂、天草四郎豊臣秀頼の御落胤」とする伝説である。

 過去に一度、『生存伝説−判官贔屓が生むアナザー・ストーリー−』で簡単に触れたことがあるが、大坂夏の陣で母とともに自害した豊臣秀頼は、配下に火薬でもって自分の屍を焼き尽くすことを命じて自害した。
 自害に気付いた井伊直孝勢が、秀頼母子が潜んでいた山里廓に突入したとき、現場は猛火に包まれ、消火後に発見された二七人の遺体は判別不能なまでに焼き尽くされていた。

 こうなると、漫画で云うところの、「滝壺に落ちた奴」扱いである(笑)。DNA鑑定も無い時代、人々は自らの好悪で「生きている」ということにしてしまう。
 そして、「生きているなら」と仮定した際に、秀頼が逃げて潜伏した先には、肥後、薩摩を中心とした九州地方が推測された(実際、九州には豊臣恩顧が多かった)。

 御落胤伝説を唱える人々は、四郎の馬印が秀吉と同じ瓢箪だったことや、原城陥落後に出土した黄金の瓦に豊臣家の家紋と同じものがあったことを証拠とし、

島原の乱は、豊臣秀頼の落胤・豊臣秀綱による反徳川戦争。」
「反徳川戦争ゆえに改易された加藤家、小西家の浪人衆が多数参戦した。」
「本当は、旧豊臣軍による、徳川幕府への報復戦争だったが、それでは大坂の陣が失敗だったことになるので、先祖の名誉の為にも、幕府側は『キリシタンによる一揆』ということにしてしまった。」
「実態が、豊臣残党と幕府による世俗の権力を巡る争いだったので、島原の乱で命を落とした一揆参加者達は殉教者と認められていない。」

 との論を展開している。
 話としては実に面白いし、秀頼大坂の陣で命を落とさず、西国に逃げていれば有り得た展開とも思うが、勿論学界では一笑に付されている。
 薩摩守的にも、「豊臣対徳川」の戦いとするなら、一揆側の世に対するアピールや、幕府軍の編成(黒田、細川といった豊臣恩顧系がかなりの軍勢を出している)にも疑問を覚える。
 まあ、確かに一揆勢には小西家の旧臣が浪人となっていた者が多かったし、大坂の陣にて、徳川に勝利することでキリスト教の信仰が容認される世を作ろうとした者達が多数豊臣方に参戦した背景と似たものが島原の乱に多少あったのは事実だ。
 誰だった苦しい戦いに喜んで挑む訳じゃないから、カリスマ的指導者や、大義名分といった、戦いのシンボルとなる美しきものを戦いに求める……………天草四郎にとって、信仰のために戦って果てるは本望だっただろうけれど、シンボルとされることを本当に望んでいたのだろうか?
 良くも悪くも、二〇歳にもならない少年に歴史が背負わせたものは余りにも大きかったと云えよう、現代に至るまで。


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令和三(2021)年六月三日 最終更新