第参頁 藤原国衡……秀衡痛恨の心残り

名前藤原国衡(ふじわらのくにひら)
生没年不詳〜文治五(1189)年八月一〇日
家系奥州藤原氏
藤原秀衡
蝦夷の娘という以外不詳
嫡男となった弟藤原泰衡(年齢差不詳)
最終的な立場
概略 う〜ん………「庶長子」という立場に着目する作品でも作らなければ、コイツを取り上げることはなかっただろうな(苦笑)。

 生年は不詳だが、藤原国衡は奥州藤原氏第三代当主・藤原秀衡を父に、蝦夷の娘を母に生まれた。異母弟・藤原泰衡が久寿二(1155)年の生まれなので、それ以前に生まれたと推測される。

 母が正室でなかったため、早くから後継者候補としては除外されていたが、長男ということもあって、兄弟内における存在感は高く、秀衡国衡の立場については様々に気遣った(詳細後述)。

 中央では源平の戦いが続く中、父・秀衡は対外的には中立を守りつつも、平家から鎮守府将軍に任じられたり、源氏の御曹司・源義経を平泉に迎えたり、院近臣・藤原基成の娘(←泰衡の母)を正室に迎えて繋がりを持ったりしつつ、黄金と蓄えた軍事力を基に隠然たる勢力を築いていた。
 それゆえ、文治三(1187)年二月に、平家滅亡後に兄に疎まれた義経が平泉に逃げ込み、これを秀衡が匿ったときも、源頼朝は「下手に手出し出来ない。」と考え、後白河法皇に義経引き渡しの院宣を出させるに留めた(←セコイ奴め)。

 秀衡も頼朝と積極的に事を構えようとはしなかったが、脅迫に屈することもなく、頼朝に馬や黄金を送って友好的に接しつつも、院宣は無視し続けた。
 だが、頼朝にとって幸運なことに、義経にとって不運なことに、迎え入れの僅か八ヶ月後の文治三(1187)年一〇月二九日、藤原秀衡は病没した。
 余りのタイミングの良さに頼朝による暗殺説が囁かれることもあるが、中尊寺金色堂に眠る秀衡のミイラに外傷はないので薩摩守はこれには否定的である(拙サイト『「殺された」人達』参章)。

 勿論、秀衡は自分の亡き後を懸念していた。
泰衡を四代目とすることは早くから決めていたが、息子達に対し、義経を大将として推戴し、兄弟異心無きよう泰衡国衡・義経に起請文を書かせ、三人一味となって頼朝の攻撃に備えるよう遺言した。

 懸念通り、頼朝は秀衡の死を好機と捉え、後白河法皇に更なる義経引き渡しの院宣を出させた(←やはりセコイ)。
 そして甘言(←勿論大嘘)と恫喝(←では済ます気は更々なかった)を弄し、これに屈した泰衡は家臣に衣川館に籠っていた義経を襲撃させ、自害に追い込んだ。
 同時に義経派であった異母弟・忠衡も殺害。国衡は妾腹の生まれという負い目からか、傍観するだけだった。

 泰衡は義経の首を鎌倉に届けたが、頼朝は首を受け取りながら「院宣に従わなかった。」と云い掛かりをつけて奥州征伐を敢行。
 文治五(1189)年八月七日、大将軍となって迎撃に出た国衡は、伊達郡阿津賀志山(現:厚樫山)で寡兵ながら三日間に渡って善戦したが敗れ、出羽国へ逃れようとした。
 しかし鎌倉方の武者・和田義盛に矢で射られて倒れたところを、畠山重忠の家臣・大串次郎に討ち取られた。


庶長子としての立場 当時、「蝦夷」と呼ばれ、京の貴族から「夷狄」と見られていた。奥州藤原氏は先祖を辿れば、平将門の乱を追討した藤原秀郷に繋がり、父系的にはれっきとした和人の血筋だったのだが、蝦夷の地も入っており、完全に土着していたようである。

 そんな奥州藤原氏における家督制度は詳らかではないが、前述した様に泰衡の四代目継承は早期に(恐らくは正室の腹から男児=泰衡が生まれた時点で)決まっていた様で、泰衡が「母太郎」「当腹の太郎」と呼ばれたのに対し、国衡は「父太郎」「他腹の嫡男」と呼ばれ、明らかに嫡子・庶子の区別(←誤解を恐れずに云えば「差別」に近かったかも知れない)が為されていた。

 ただ、完全に土着していた奥州藤原家中においては、京下りの公家の娘から生まれた泰衡よりも、身近な一族の娘から生まれた長男で、体格がよく(但し、かなりの肥満でもあった)武勇優れた国衡への期待が高かったらしい。

 秀衡自身は、長子に生まれながら妾腹の出ゆえに家督を相続出来ない、国衡を不憫に思うと同時に、国衡泰衡の仲が上手くいかないことで家中が割れるのを懸念し、自分の正室(泰衡の母とは別人で、継室)を国衡に娶らせた。
 つまり国衡にとっては義母にあたる人物で、現代の感覚では理解し辛いのだが、彼女は秀衡継室として強い立場を持ち、そんな彼女を国衡の側に置いたのも、国衡の立場を固めんとする秀衡なりの心遣いだったようである。

 ただそれでも国衡泰衡が義経や忠衡を殺すのを止められず、鎌倉からの襲来に対して、泰衡の命で出陣したのだから、父の根回しがあっても、庶長子の立場とはさほど強いものではなり得なかった様である。


嫡男との関係 まずは藤原国衡の兄弟関係を分かり易くする為に下記の表を参照頂きたい。

藤原秀衡の息子達
兄弟順名前生没年立場
国衡 (くにひら) 不詳〜文治五(1189)年 秀衡庶長子(第一子)
泰衡 (やすひら) 久寿二(1155)年〜文治五(1189)年 秀衡嫡男(第二子)
忠衡 (ただひら) 仁安二(1167)年〜文治五(1189)年 秀衡三男(第三子)
高衡(たかひら) 不詳〜建仁元(1201)年 秀衡四男(第四子)
 ※他にも通衡(みちひら)、頼衡(よりひら)の兄弟がいるが、詳細不明。

 殆ど前述しているが、勇猛に戦える人物でありながら、国衡泰衡に逆らった形跡がなく、その暴走を止められなかったところからも、奥州藤原家における当主の地位はかなり強い立場だったようである。

 国衡泰衡は仲に対して、例によって推測になるのだが、秀衡が様々に心を砕き、手を打っていたことからも、根回しが必要であったこと自体が、程度や目に見えていたものは不詳ながら、国衡達、兄弟の仲はかなり悪かったのだろう。
 そもそも兄弟仲が盤石なら、起請文を書かせる必要などないのである。

 秀衡死後、源頼朝は即座に兄弟仲の悪さに付け込むことを考え、その標的を泰衡に定めたのだから、敵にまで知られている仲の悪さとは、文字通り致命的だった。
 こうなると泰衡には悪いが、奥州藤原家にあって、「当主の座」に伝来の権威は有っても、彼自身の人望はかなり低かったと推測される(泰衡は部下に裏切られて落命するという最期を遂げた)。

 唯一つの救いがあるとすれば、泰衡が、庶兄・国衡を頼りにしていた面が伺えることである。奥州藤原氏以外に敵対勢力の無い頼朝は全国の御家人を動員し、その数は何と二八万!『吾妻鏡』のいうこと故に話半分に受け止めても相当な大軍で、この時点で奥州藤原氏に生き残る道があるとすれば、緒戦で鎌倉方に大きな被害を与え、和睦に近い降伏をするぐらいしかなく、その為にも緒戦の総大将に課せられる責務は重大で、泰衡忠衡を見ていた様な目で国衡を見ていれば、彼を総大将に任ずることは出来なかっただろう。
 国衡にしても、泰衡を身内と見做していなければ、与えられた兵力そのままに頼朝に降伏して、泰衡討伐の先導を務めることで生き延びを図る道もあった(まあ相手が頼朝じゃ、いつかは殺されただろうけれど)。

 そんな国衡が討ち死にした後、泰衡は殆ど戦わずに逃亡を図った(途中で降伏を申し出たが、頼朝はこれを無視)。泰衡も全く人望がなかった訳ではなく、捕えられた泰衡の郎党・由利維平は、頼朝と面会した際に、「泰衡は奥州に威勢を振るっており、刑を加えるのは難儀に思っていたが、立派な郎従がいなかったために、河田次郎一人に誅された。両国を治め一七万騎を率いながら、二〇日程で一族皆滅びた。云うに足らない事だ」と云われた際に、「故左馬頭殿(源義朝)は、海道一五ヶ国を治められたが、平治の乱で一日も支えられず零落し、数万騎の主であったが、長田忠致に誅されました。今と昔で優劣があるでしょうか。泰衡は僅か両国の勇士を率い、数十日も頼朝殿を悩ませました。不覚とたやすくは判断できないでしょう」と答えた。
 これに感じ入った頼朝は畠山重忠に維平を預けて殺さず、細心の注意を払って降伏者の赦免や本領安堵などの処理を行った。

 これらの経過を見れば、秀衡、頼朝の両人が見た様に、国衡泰衡、義経が一致団結していれば、頼朝とてそう簡単には奥州を征伐出来ず、「奥州藤原氏」という「敵」が存在する間は、頼朝もそう簡単には弟や重臣達を殺せなかっただろう。
 先が読めていながら、読めた未来を防げなかった秀衡の無念はさぞ大きかっただろう。国衡が、曾祖父・清衡が血の繋がらない兄・真衡、異父弟・家衡と争った後三年の役をどうとらえていた方は分からないが、遠慮深さが仇となったのは皮肉である。
 国衡は遠慮深かったから人望があったのか、人望があったから遠慮深くなってしまったのか、いずれにしても敵・源頼朝がどういう奴であるかを国衡泰衡が今少し深く理解して、協力し合えば奥州は安泰ならずとも、防衛は叶ったのではなかっただろうか?正室腹・側室腹に絡む家督問題は誠に難しいことを秀衡国衡泰衡の関係は教えてくれる。


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平令和三(2021)年六月三日 最終更新