第漆頁 伊達秀宗……宇和島と仙台

名前伊達秀宗(だてひでむね)
生没年天正一九(1591)年九月二五日〜明暦四(1658)年六月八日
家系奥州伊達氏
伊達政宗
飯坂御前
嫡男となった弟伊達忠宗(九歳違い)
最終的な立場宇和島流伊達家始祖、宇和島藩初代藩主
略歴 庶長子として「父にとって最初の男児」に生まれても、正室が嫡男を産んだら「弟に臣下として頭を下げなくてはならない。」ということに、「御家のルール」として理解し、納得した風に振る舞いつつも、内心面白くないものを感じる人間は少なくないだろう。
 その想いを馬鹿正直に前面に押し出し過ぎるのは生きていく上で考えものだが、そんな庶長子の辛さを最も具現化した人物がこの伊達秀宗ではないか、と薩摩守は考えている。

 豊臣秀吉が天下を取った長後の、天正一九(1591)年九月二五日、「独眼竜」として名高い伊達政宗を父に、その側室・飯坂御前を母に(生母に関しては異説有り)陸奥村田城にて生まれた。幼名は兵五郎(ひょうごろう)。
 生母の飯坂御前は、正室の愛姫(めごひめ)よりも後に政宗に嫁いだが、先に男児を産んだ。愛姫も後には何人も子供を生んだのだが、この時点では懐妊すらしたことがなかった。

 文禄三(1594)年、兵五郎政宗に伴われて豊臣秀吉に拝謁し、政宗正室の愛姫とともに、秀吉に人質として差し出されることとなり、伏見城で養育された。
 この時期、政宗は対秀吉追従において、かなりの綱渡り状態にあったが、兵五郎自身は子煩悩男・秀吉に可愛がられ、文禄五(1596)年五月九日、豊臣秀吉の猶子となり、秀吉のもとで元服し、秀吉の偏諱・「」と、伊達家代々の通字・「」の偏諱を受けて伊達秀宗と名乗った。
 同時に従五位下侍従に叙位・任官され、豊臣姓も授かり、豊臣秀頼の小姓として取り立てられるという厚遇振りだった。

 秀吉死後の慶長五(1600)年、関ヶ原の戦いにおいて、西軍方の人質として、宇喜多秀家の邸に軟禁されたが、幸いに戦は東軍の大勝利に終わり、解放された。
 二年後の慶長七(1602)年九月、今度は徳川氏の人質として江戸に向かい、徳川家康に拝謁した。
 だが翌慶長八(1603)年一月、政宗は、関ヶ原の戦いの前年に正室である愛姫との間に生まれた虎菊丸(忠宗)を家康に拝謁させ、秀宗の立場は微妙なものとなった。
 慶長一四(1609)年、家康の命令で井伊直政(徳川四天王の一人)の娘、亀を正室に迎えるも、異母弟・虎菊丸が二年後の慶長一六(1611)年一二月に江戸城で元服し、将軍徳川秀忠と父・政宗から一字ずつ偏諱を受けて、伊達忠宗と名乗ったことで、政宗の後継者は忠宗に確定した。

 慶長一九(1614)年、大坂冬の陣に父とともに参加し、初陣。講和後、大御所・徳川家康から参陣の功として政宗に与えられた伊予宇和島一〇万石が、与えられ、秀宗が別家としてこれを継ぐこととなり、同年一二月二五日に宇和島藩初代藩主となった。
 宇和島には政宗が家中から厳選した者達が秀宗に従って入部。同時に政宗秀宗に藩政整備の為の初期資金として仙台藩から六万両を貸し与えた。

 元和六(1620)年、宇和島藩にて家老・山家公頼(やんべきんより)が対立していた桜田元親に襲撃されて一族皆殺しに遭うという一大事件が勃発した。自分の重臣というより「本家側の人間」というカラーの強い山家を疎んじていた秀宗はこれを幕府や政宗に報告しなかったことから、激怒した政宗によって勘当された。
 尚も収まらない政宗は翌元和七(1621)年、老中・土井利勝に対して宇和島藩の返上・改易を申し入れまでした(和霊騒動)。

 幸い、利勝はやんわりと政宗を宥めて返上申し入れを取り下げさせただけでなく、父子和解の為の面談をセッティングした。
 その場で秀宗は、長男であるにもかかわらず徳川時代に入って仙台藩の家督を継げなかったことや、長期にわたって人質生活を送らされていたことから、政宗に対して抱いていた負の想い、本音を曝け出した。
 すべてを受け止めた政宗秀宗の気持ちを理解し、勘当は解かれ、以後親子の関係は良好に転じた。

 その後秀宗は藩政に尽力し、官位も昇進し続けた。
 政宗とも、和歌を交歓したり(←二人とも和歌好きで堪能だった)、「唐物小茄子茶入」と秘蔵の伽羅の名香「柴舟」を贈られたりした(唐物小茄子茶入」と「柴舟」は宇和島藩伊達家の家宝として秘蔵された)。

 寛永一三(1636)年五月二四日、伊達政宗逝去。六月に仙台の覚範寺で営まれた葬儀に秀宗は次男・宗時と共に参列した(秀宗にとってただ一度の仙台訪問となった)。  寛永一四(1637)年、幕命により、島原の乱に藩兵を派兵したが、本人は中風で病臥することが多くなっていた。そのため、寛永一五(1638)年に世子であった次男・宗時が宇和島に帰国して政務を代行した。
 慶安二(1649)年二月五日、宇和島を大地震が襲い、翌慶安三(1650)年に中風療養を理由に幕府より許されて宇和島に帰国。承応二(1653)年、世子としていた宗時が三九歳で早世したので、三男・宗利を世子とし、明暦三(1657)年七月二一日、宗利に家督を譲って隠居した。  同年八月一六日、五男・宗純に伊予吉田藩を分知し、宇和島藩は七万石、吉田藩は三万石となった。
 明暦四(1658)年六月八日、江戸藩邸で病没。伊達秀宗享年六八歳。


庶長子たる立場 生誕時、伊達政宗の正室愛姫に男児がいなかったため、兵五郎は周囲からは「御曹司様」と呼ばれて伊達家の家督相続者と目されていた(早い話他に候補者がいなかった)。

 だが、だからといって、「伊達政宗の後継者候補・兵五郎」の立場は決して喜ばしいものではなかった。何せ伊達政宗と云う人物は、長く天下取りの野望を捨てず、しかしそれを表に出さず、様々な意味で捕え所がなく、天下人にとっても、「味方にしては頼もしいが、敵に回すと厄介な人物」だった。
 徳川家康薨去寸前になってようやく天下への野望を捨て、その隻眼で泰平の世を守る為の睨みを利かせてくれる存在になった、と見られて家康、秀忠、家光から心底厚遇される様になったが、逆を云えばそれまで政宗「油断も隙もならない男」で、それゆえ「政宗後継者候補」でいた内の兵五郎はどんなに厚遇されてもその立場は「まず人質」だった(秀宗自身、そのことを思い切り自覚していた)。

 徳川の天下になってからは、長女・五郎八(いろは)姫の婿に松平忠輝(家康六男)を迎えたこともあって、政宗は野望を持ちつつもより賢く立ち回ったが、秀吉の天下に遭ったときはかなり危うい綱渡りをしていた。
 当然危機にも見舞われ、その一例が秀次事件だった。

 望外の次男・秀頼が生まれたことで、関白職を譲った甥の豊臣秀次が疎ましくなった秀吉は、文禄四(1595)年七月に、豊臣秀次を謀反の嫌疑で関白職を剥奪し、高野山に追放、その一週間後には切腹させるという事件が起きた。
 正直、このときの秀吉は好意的に見ても狂っており、秀次の妻子は悉く処刑されたが、その中には生前秀次と顔を合わせてもいなかった駒姫(最上義光の娘)もいた。
 駒姫は政宗にとっても従妹だったが、この連座振りに秀次と親しくしていた大名は震え上がり、秀次と親しくしていた政宗、義光もかなりやばい立場に立たされた(一時は秀次に金を借りていた細川忠興や、親しくしていた徳川秀忠もやばかった)。
 実際、政宗もこの事件への関与を疑われ、秀吉から「隠居して家督を兵五郎に譲ること」「伊予への国替え」を命じられたことがあった。

 幸い、徳川家康が取りなしてくれたことで、事なきを得たが、秀吉の心証が良好に転じた訳ではなく、同年八月二四日、在京の重臣一九名の連署による起請文提出を命じられ、その書面において、「もし政宗に逆意があればただちに隠居させ、兵五郎を当主に立てる」との誓約が為された。
 この様な形で兵五郎の名が出るのは、政宗にとっても、兵五郎にとっても面白くなかっただろう。

 やがて慶長三(1598)年八月一八日に、厄介な形とはいえ自分を可愛がってくれた豊臣秀吉が没し、翌慶長四(1599)年一二月八日に異母弟で、政宗にとって嫡男となる虎菊丸が生まれると秀宗の立場にも徐々に翳りが差した。
 勿論待望の嫡男が生まれたからと云って政宗にとって秀宗が可愛くなくなった訳ではないし、いくら「政宗唯一の男児」の立場を失ったからと云って時の権力も秀宗を邪険にした訳ではなかった(当時は幼児死亡率も高く、秀宗虎菊丸の行く末も見据え難いし、邪険にする理由もなかった)
 慶長一四(1604)年に井伊直政の娘を正室に迎えた頃まではまだ何とも云えなかったが、五年後の慶長一六(1609)年に虎菊丸が江戸城で元服し、将軍秀忠から一字を賜って忠宗と名乗った時点が、家督相続権を名実ともに失ったときだろう。
 単純に秀宗が庶長子の立場にあったこともそうだが、秀吉の偏諱を受け、秀吉・秀頼の側近くに仕えた経験を持つ秀宗と、現役将軍・徳川秀忠の居城である江戸城で、将軍の偏諱を受けて元服した忠宗とでは、豊臣カラーと徳川カラーの濃淡が一目瞭然だった(本人の意思とはかかわりなく)。

 庶長子としての秀宗に救いがあったとすれば、「政宗唯一の男児」として世間に注目されていた時間が長かったことと、父・政宗が祖父・輝宗程ではないにしても子煩悩な人物だったことだろう。
 家督を継ぐ立場にないとはいえ、官位とそれなりの知名度を持つ伊達秀宗を時の権力も無視する訳にいかず、紆余曲折あったが、伊予宇和島一〇万石の藩主となった。
 宇和島の地は大坂冬の陣の褒美として政宗に与えられたものだったが、政宗はこれをそっくり秀宗に譲り、別家させる許可を幕府から得た。純粋な愛情である。
 昭和六二(1987)年放映のNHK大河ドラマ『独眼竜政宗』では秀宗 (辻野幸一)に宇和島一〇万石が与えられた祝宴で、秀宗生母の猫御前(秋吉久美子※このドラマでは政宗の二人の側室を足して二で割った様な人物に設定されていた)が宇和島と仙台の距離や、忠宗が次ぐ六二万石との格差から「これは島流しじゃ…。」とぼやいて愛姫に窘められるシーンがあったが、実際、当時の通例と比較すれば、庶長子としての別家で一〇万石も与えられるのは破格の厚遇と云っても過言ではない

 「本来なら六二万石を継げたかも知れない……。」と思い込んだら五〇万石以上の格差は頭の痛い話だが、後々徳川御三家の兄弟達が別家松平氏として大名に取り立てられた場合でも互いは三万石程(しかも実収はもっと少なかったケースが多い)で、松平頼重(徳川頼房の長子、徳川光圀の兄)の高松一二万石、田安宗武(徳川吉宗次男)の田安門一〇万石、一ツ橋宗尹(徳川吉宗三男)の一ツ橋門一〇万石でも優遇された方であることを想えば、外様の庶長子で一〇万石は文句を云ったら罰が当たるレベルである。

 まあ勿論、幕府にしてみれば伊達政宗&松平忠輝の舅・婿タッグに油断がならないところに、それなりに成長した秀宗を加勢させない為に四国に置きたい気持ちもあって、政宗の申し入れを許可した可能性はとても高いが、結果秀宗が中堅所の一藩主として独歩性を持てたことは間違いないことだった。


嫡男との関係 異母弟である・伊達忠宗に対して、伊達秀宗にはある種のライバル意識は間違いなく存在した。一方で、父性ならぬ「兄性」も持っていた。

 まず忠宗に対するライバル意識から見てみたいが、元和七(1621)年の和霊騒動後に土井利勝によってセッティングされた父子面談の場で、秀宗は長男であるにもかかわらず徳川時代に入って仙台藩の家督を継げなかったことを負の想いとして持っていたことをはっきりと伊達政宗に告げている。
 些かこじつけじみているかもしれないが、秀宗が「仙台六二万石藩主」の立場に持っていた未練を忠宗に重ねていたとしてもおかしくない、と薩摩守は考える。

 確かな史実として、秀宗は「宇和島藩=仙台藩の支藩」として見られたり、扱われたりするのを嫌い、諸大名が一同に将軍と対面する御成之間で忠宗より上座に着座して、仙台藩の風上に立つ事を示した。
 伊達家とは関係ないし、時代も異なるが、この着座順位はかなり重要で、五代将軍綱吉の時代に、綱吉の後継者がまだはっきりしない時期に水戸光圀は自分が六代将軍候補として推していた甲府宰相綱豊(家宣)に自分より上座を勧めたということがあった。
 ただ、だからと云って秀宗忠宗を憎んだとは思えない。
 秀宗の実家に対する対抗意識は、忠宗よりは政宗に依存するところが大きかった。  政宗は間違いなく秀宗に対する愛情を持っていたが、皮肉にもその想いは正確には秀宗に伝わらず、秀宗政宗に負の感情を抱く方に作用した。

 秀宗が拝領した宇和島=伊予国は、福島正則、安国寺恵瓊、加藤嘉明といった大名が領有しては他領へ移ったり、改易されたりで領主がなかなか定まらず、領内は疲弊していた。
 一〇万石とは云え、その様な地に赴任する秀宗を気遣った政宗は「五十七騎」と呼ばれる家臣を付け、初期運営費として六万両を貸した(秀宗がその返済を終えたのは寛永一二(1635)年)。

 だが、筆頭家老を務めた山家清兵衛公頼は、藩政に手腕を発揮する一方で、幕府や、伊達宗家との関係を重視する行動を取ったため、秀宗はこれを疎んじるようになった。
 実際、山家は秀宗の浪費癖を政宗に伝え、政宗がこれを窘める書状を秀宗に送っていたから、山家には明らかに「宗家からの御目付役」としての密命があり、大藩を継げなかった気持ちを独立性で耐えていた秀宗にとっては山家も父も疎ましく映っただろう。
 また山家は元最上家の家臣で、代々から伊達家の家臣だった者達からの人望が厚かったとはお世辞にも云い難く、元和五(1619)年、幕府から請け負った大坂城の石垣修復普請の運営を巡り、桜田玄蕃元親と対立を起こし、秀宗が桜田に味方したため、山家は失脚した。
 そして翌元和六(1620)年六月二九日深夜、山家邸が襲撃され、山家一族は皆殺にされた。
 公頼は元より、江戸にいた長男を除くすべての子息も殺され、四男に至っては井戸に放り込まれるという酷い殺され方だった(公頼の母・妻は無事だった)。
 かかる空前の大虐殺だったにもかかわらず、前述した様に、秀宗はこれを幕府はおろか、政宗にも報告しなかった。勿論政宗は激怒し、幕府に宇和島藩の改易を嘆願する事態となった。

 さすがにこれには秀宗も慌てて、父からの謹慎命令に応じつつ、幕府や政宗に釈明の使者を出したり、正室の実家である彦根藩井伊家に仲介を依頼したりした。ちなみに山家一家への虐殺事件を政宗に通報したのも、政宗からの詰問・謹慎命令を通したのも、五十七騎の者達だった。事件の解決は前述したが、事件自体の非は確かに秀宗にあったが、宇和島という遠隔地に来て、独立した大名にまでなりながら父の監視下にて、子供扱い、支藩扱いに面白からざる感情を抱くのも分からないではない。
 ただ、この事件は土井利勝の仲介もあって、話し合いによる解決が成立し、父子関係が良好に転じたこともあって、これらの流れが秀宗忠宗の兄弟間に悪影響を及ぼしたという話は聞かない。前述の上座を巡る話は単純に長兄、一大名としての矜持で、忠宗がこれに異を唱えたり、反発したりといった話も聞かない。まあ六二万石の藩主として、これしきのことで腹を立てては却って沽券にかかわったという見方も出来るが。

 最後に「兄性」について触れておきたい。幼少の頃より人質生活が長かった秀宗は豊臣秀吉、秀頼父子と接した時間も長かったが、秀頼と組み討ち遊びの時、二歳年長の秀宗は秀頼を組み敷いたが、踏みつける際に咄嗟に懐紙を取り出し、直に踏まなかったので豊臣秀吉・淀殿夫妻をはじめ豊臣家の面々は秀宗に大いに感心した、と伝わっている。

 つまるところ、秀宗はその生涯において、人質生活や大藩を継げなかったことへの負の感情を持った時期はあっても、最後には良好な関係に転じた訳で、関係修復出来た事実だけでも彼が家族とは愛し合える人物であったことが分かる。
 政宗が逝去した際には仙台での葬儀に駆け付けているが、当時は家を出て別家した後に実家の有る地に戻ることは珍しく、秀宗が実家との関係を完全修復していて、忠宗にも含むところがなかったことが伺える。
 そう考えると、冷却期間を置く意味でも、宇和島と仙台の遠い距離はいい方向に作用したのかも知れない。なまじ近かったら、どちらかが若い前に強硬手段に出た事だって考えられただろうから。


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令和三(2021)年六月三日 最終更新