第陸頁 織田信広……濃過ぎる「弟」

名前織田信広(おだのぶひろ)
生没年不詳〜天正二(1574)年九月二五日
家系織田弾正忠家
織田信秀
不詳
嫡男となった弟織田信長(年齢差不詳)
最終的な立場織田家連枝衆纏め役
略歴 「織田信長の兄」として、名前自体はそれなりに有名なのだが、「竹千代(徳川家康)との人質交換」以外の事績や人物像が意外と知られていない人物………それが織田信広である。

 父は織田信秀で、その長子に生まれたが、生年も、側室だった生母の詳細も不明で、立場的に家督継承権は初めからなかったことだけがはっきりしている。
 異母弟である信秀嫡男・信長が一〇代前半には織田家中においてそれなりに軍事的にも重要な役割を任されていたと見られている。

 天文一七(1548)年三月、第二次小豆坂の戦いで先鋒を務め、緒戦では劣勢に立たされたが、本隊合流後に、松平勢を退けた。
 だが今川方の岡部長教率いる伏兵に総崩れにされ、大敗し、安祥城への敗走を余儀なくされた。
 翌天文一八(1549)三月、安祥城の守備を任されていた信広は今川義元の軍師・太原雪斎率いる今川・松平連合軍二万の侵攻を受け、本多忠高を討ち取ったが、一一月に再度攻められた際には平手政秀の援軍も間に合わず、落城。信広は生け捕りにされた。

 後に、今川方から、松平竹千代(徳川家康)との人質交換が提案され、信秀もこれに応じた為、織田家へ送還された。
 この敗北と一連の流れは、三河における織田家の勢力を大きく後退させることとなった。

 天文二〇(1551)年三月三日、父・織田信秀が逝去し、嫡男・信長が後を継いだが、若き日の信長はその奇行・異装から「うつけ者」と呼ばれ、親族にも、家中にも信長の身内を担いで信長に反旗を翻そうとする者達が存在した。
 弘治二(1556)年、信広は美濃稲葉山城の斎藤義龍と組んで謀反を画策。この頃、信長は美濃からの兵が来れば自ら清洲より出陣し、後詰めに信広が清洲城に入り居留守役の佐脇藤右衛門が信広の応対に出てくるのが常となっていた。
 信広はこれを利用して、信長出陣後にいつも通り後詰めとして清洲城に入り、佐脇を殺害して城を乗っ取り、信広と義龍とで信長を挟撃せんとした。
 だが、計画は事前に漏れ、信広は佐脇に入城を頑なに拒まれ、連携する筈だった斎藤義龍もいつまで経っても「清州城乗っ取り成功」の狼煙が上がらぬことで美濃へと引き上げた。
 進退窮まった信広はやぶれかぶれで叛意を露にして信長と戦ったが、小規模な戦闘はことごとく退けられ、降伏した。

 一般に、冷酷非情と云われることの多い織田信長だか、あっさりと信広を赦免。以後信広は二心無く信長に仕えた。
 永禄一二(1569)年、信長が足利義昭を報じて上洛を果たすと、信広は元亀元(1570)年まで京都に常駐して信長の庶兄」という立場から室町幕府、公家との折衝役を任され、山科言継、吉田兼見、一条内基らと交友を持った。

 その後、信長に従って、比叡山焼き討ち、岩村城救援などにも参戦した。天正元(1573)年四月七日、信長と不和になっていた足利義昭と信長の名代」として交渉に臨み、和議を締結させた。
 天正二(1574)年、伊勢長島一向一揆攻めに参加。兵糧攻めで干殺しにされた一揆勢は降伏・長島退去を信長に打診。信長はこれに応じた(振りをした)。
 九月二九日、砦を出た一揆勢に、信長は物の見事に約束を反故にして一斉射撃を浴びせた。過去作『戦国ジェノサイドと因果応報』『反故にするんじゃねぇ!』でも触れたが、信長背信に対する一揆勢の怒りは凄まじく、彼等は一斉に捨て身の大反撃に出た。
 この大反撃の渦中、織田信広は大木兼能と一騎打ちとなり、討ち死にした。


庶長子たる立場 織田家において、「嫡男」とそれ以外の兄弟、そして「嫡流」と「庶流」の立場の違いはかなり厳格だった。
 それゆえ、織田信広も一般には「織田信長の兄」とは認識されておらず、「織田弾正忠家の一員」扱いであった。

 少し織田家というものを御理解頂く為に、まずは下の主従図を見て頂きたい。

 

 そもそも織田家とは、「足利氏の家来・斯波氏のそのまた家来」の家格だった。
 尾張守護を兼任していた斯波氏は、自分の代理として家臣の織田氏を「尾張守護代」としていたが、その守護代が上四郡を統治する織田伊勢守家(本拠は岩倉)と下四郡を統治する織田大和守家(本拠は清洲)に別れ、上図にある様に、織田大和守家の部下である三奉行の一つ、弾正忠家の者達が、信秀信広信長達だった。
 名前の通り、弾正忠家の当主は代々「織田弾正忠」を名乗った(信長の嫡男・信忠も、嫡孫・秀信も「織田弾正忠」であった)。
 ちなみに信広の通称は「大隅守」で庶腹生まれの段階で早々に信秀後継者候補からは外されていた。

 若き日の異装・奇行で信長が「うつけ者」と呼ばれたことは有名だが、そんな信長信秀後継となることで織田弾正忠家の行く末を案じた家臣も少なからず存在したが、彼等の多くが勘十郎信行を立てようとしたのも、信行信長と同じ土田御前の子、つまり正室腹の生まれだったからである。
 そして、家臣団のざわめきを一蹴して、信長を自分の後継者として決める信秀に誰も表立って反対出来なかったのも、それだけ「織田弾正忠家嫡男」の立場が厳格なまでに強かったからだろう。

 織田信広とは関係ない話だが、「織田弾正忠家嫡男」の立場を露わしたこんなエピソードがある。
 本作の前作とも云える過去作・『嫡男はつらいよ』にも記したが、それは信長の息子達に対する教育で、信長は息子達といえども食膳の後片付けを自分達で行わせた。だが、嫡男・信忠だけは例外だった。信長の気性からして信忠を甘やかしたとは思えない(信忠に限らず、信長の子なら成長過程で親父から拳骨ぐらい喰らったことあるだろう)。偏に、「嫡男」の立場がそれだけ強かったということである。

 だが、これらのことを踏まえた上で、考察するなら、織田信広の「庶長子」としての立場は冷遇されたものだとは云えず、むしろ厚遇されていたと云える。
 特に信広の場合、信長が天下布武に乗り出そうした頃、まだ息子達が幼かったり、他家に(乗っ取り目的に)養子に行っていたりしたこともあって、「信秀の血を引く者の中で一番の年長者」ということもあって戦経験もそれなりに豊富な信広は織田家連枝衆の中ではまとめ役的な存在であったという。
 前述した様に、「信長名代」として、足利義昭や公家とも折衝しているから、当時の嫡流・庶流の格差を考えれば、信広はまだ厚遇されていた方ではないか?と薩摩守は考える。


嫡男との関係 何せ織田信長の個性・存在感が余りにも強過ぎるので、織田一族並びに織田家中の人物検証・考察はどうしても「信長発」になってしまう(苦笑)。

 恐らく、織田信広信長は、

信広 → 信長……当主として、敬意をもって接した。
信長 → 信広……公の場では呼び捨てにしたり、命令形で接したりしても、織田家内にあっては、タメ口か、少々の丁寧語を持って接した。

 という感じで接していたのではなかろうか。

 前述した様に、当時の大名家でも嫡流・庶流の立場の違いは厳格だった上に、織田家では特にそれが強かった。
 信長が庶兄である信広をオイコラ呼ばわりしても、全く問題はなかったし、信長の気性を考えたり、軍事行動においては完全に上から目線で命令したりしていたことも充分考えられる。だが薩摩守は、信長は嫌いでも、身内に対する愛情はちゃんと持っていた人物と見ているので、信広を「兄」として接していた面はあったと考えている(感情的な意味でも、打算的な意味でも)。

 過去作で何度か触れているが、信長は自分に謀反した身内を赦している。信広もそうだし、信行も一度目に反逆したときは、信長信行の実母・土田御前の助命嘆願もあって、信長は赦した。
 それでも信行は懲りずに再度の謀反を企て、一度は信行に従った柴田勝家に密告されたのだから、これはもう自業自得である。二度も命を狙われて二度も許すというのは、相当温厚な人物でも考え難い。案の定、信行は殺されたが、それでも信行の子は助命された(←土田御前の助命嘆願もあってだが)。
 また、信長は徳姫を除く実娘を政略結婚に使っていない(徳姫の政略結婚とて、相手が徳川家康の息子なのだから、人質色は薄い)。

 どうも、さっきから話が信広よりも信長に偏っているが(苦笑)、徹底した現実主義者にして、合理主義者だった信長は、自らの計算や理論に基づいて、「是」とすればどんな残虐なことでもやってのけたが、逆に「非」とすれば、一切の残虐行為を許さなかった。
 そんな信長が、長島一向一揆征伐において、織田信広の意見を容れて一揆側の使者と会談している。

 少し上記と矛盾することを云うが、薩摩守は、長島征伐における信長の助命反故を過去二作品で非難しつつも、信長が長島一向一揆を憎んだのは止むを得ないことと思っている。何せ長島一向一揆には弟・信興を殺されている。
 それゆえ信長は長島一向一揆の降伏を受け入れるつもりはなく、最初は使者と合おうともしなかったが、それを取り成したのは信広だった。

 合戦時に長島側の篠橋城を攻めていた信広は篠橋城将・太田修理亮連れて信長に具申した。
 「太田が上様に申し上げたきことがあると。」

 と伝える信広に、信長は、

 「降伏は許さぬ。戦に情けは無用!信興は一揆どもに情けをかけたために殺されたのだ!兄者信興の兄であろう!弟を殺した一揆どもが憎くはないのかっ?」

 と突っぱねたが、信広は、

 「だって憎い。しかし、時には情けも必要だ。上様の情けがなければ、こうして生きながらえてはいなかった。」

 と、逆に自らの体験を持ち出して、信長に理を持って諭しに掛った。こう云われては信長も頭ごなしな突っぱねは出来ず、

「わかった。話だけは聞こう。ただし、その後どうするかはの勝手だ。」

 として太田との会談に応じた。

 この兄弟の会話は信長信広の関係が見て取れて実に興味深い。

 皮肉だったのは、この会談で為された助命や苦情を信長が反故にし、反故に対する反撃で、仲介者だった信広が命を落としたことだったのだが………。

 一揆勢殲滅後、最後の猛反撃で身内を数多く失ったことを知った信長は、犠牲となった身内の中に信広が含まれていたことを知って、愕然とし、信広の遺体に向かって、

 「何だ兄者!立てっ!今川に人質に取られても死ななかった兄者が、に謀反を起こしても生き延びた兄者が、どうしてこんなところで死んでいるんだ!早く立ちやがれっ!」

 と絶叫したと云われている。

 織田信広にとって、「織田信長の庶兄」という立場は複雑で、気苦労も多かったことだろう。だが、これほど気性の激しい弟に、(一度逆らったにも関わらず)然るべき立場を任され、ある程度とはいえ「兄」として遇された兄弟関係は当時の世間並みな「庶兄」と「正室腹の弟」の間ではまだ良好だったと云えるのではなかろうか?

 織田信広、織田信忠、織田信雄、織田有楽斎、etc………信長を近い身内に持った者達は、それゆえの幸福も不幸も大きかっただろうけれど、もっと歴史的にも、人物的にも目立って然るべき者達が少なくない。
 まあ身内に限らず、横に信長に並ばれたら殆どの人間は存在がかすむのだろうけれど(苦笑)。


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令和三(2021)年六月三日 最終更新