第参頁 早良親王……都ごと逃げ出す執念深さ

怨霊にされた人 参
名前早良親王(さわらしんのう)
生没年天平勝宝二(750)年〜朱鳥元(686)年一〇月二五日
身分皇太弟
理不尽な仕打ち謀反の濡れ衣とそれによる廃嫡、流刑、絶食抗議無視
怨めしい相手桓武天皇
「怨霊の影響」桓武天皇縁者の連続死、長岡京廃都
略歴 天平勝宝二(750)年に白壁王(しらかべおう。後の光仁天皇)を父に、百済人・高野新笠(たかののにいがさ)を母に次男として生まれた。平安遷都で有名な桓武天皇は同母兄である。
 生誕時、皇室は天武系の全盛期で、天智系であった父・白壁王は即位など望むべくもない立場にあった。母親zも渡来人の娘で、皇族内での優位な地位すら望めず、早良自身は天平宝字五(761)年に一二歳で出家して東大寺羂索院や大安寺東院に住み、親王禅師と呼ばれた。

 ところが宝亀元(770)年に称徳女帝が崩御すると天武系の血統が途絶え、勢力を取り戻した藤原氏の手によって父・白壁王が即位し、兄・山部王(やまべのおう。後の桓武天皇)が皇太子となると、自然、境遇が変化した。
 天応元(781)年、父帝が老齢を理由に兄・山部王に譲位すると、父の勧めによって早良親王は還俗し、立太子されて皇太弟となった(光仁上皇は翌年崩御)。

 延暦三(784)年一一月一一日、桓武天皇は平城京から造営中の長岡京に遷都した。
 理由は「政治的な力を持ち始めた仏教勢力と距離を置く」、「帰化人勢力との関係」、「天智系に皇統が戻った事による人心一新」、「淀川−山背国−琵琶湖・近江国のルートが成立」等を理由としたものだったが、翌延暦四(785)年九月二三日夜、長岡京造営の責任者にして、桓武天皇の信頼厚かった藤原種継(ふじわらのたねつぐ)が監督中何者かに矢で射られ、翌二四日に死亡するという事件が起きた(藤原種継暗殺事件)。

 信頼していた寵臣を殺された桓武天皇怒りは凄まじく、首謀者とされた大伴継人(おおとものつぐひと)が斬首されたのは勿論のこと、大伴氏からは継人を含む四人が斬られ、二人が流刑に処され、事件の一ヶ月前に病死していた大伴家持(おおとものやかもち)まで官位を剥奪するという徹底ぶりだった。
 そしてこの事件に早良親王早良親王も関わっていたとされ、怒り心頭の桓武天皇早良親王を乙訓寺に幽閉させた。
 審議の結果、桓武天皇早良親王を廃太子とし、淡路島への流刑と決めた。これに対し早良親王は無実を訴えるため絶食して抗議した。だが桓武天皇が耳を傾けることなく、早良親王は淡路に流される途中、事件から五日後の九月二八日に河内国高瀬橋付近(現・大阪府守口市)で憤死に近い餓死にて落命した。早良親王享年三六歳。


死後の経過と祟り(?) 早良親王の廃太子(とその死)により、桓武天皇の息子・安殿親王(あてしんのう。後の平城天皇)が立太子されたが、その出世にあてつけるかのような不幸が桓武天皇の身内を襲い、それ等は早良親王の怨霊によるものとされた。

 新皇太子となった安殿親王の発病したのを皮切りに、早良親王憤死から三年後の延暦七(788)年五月四日に桓武天皇の妃・藤原旅子(ふじわらのたびこ)が三〇歳の若さで病死、翌延暦八(789)年一二月二八日に桓武天皇の母・高野新笠(←早良親王の生母でもある)が七一歳で逝去し、追い打ちを掛ける様に翌延暦九(790)年閏三月一〇日に桓武天皇の妃で、平城天皇の生母でもあった藤原乙牟漏(ふじわらのおとむろ)が三一歳の若さで病死した。
 また長岡京周辺では疫病の流行、洪水等が相次ぎ、伊勢神宮正殿でも放火事件が起きた。これ等の不幸や天災は陰陽師の占断により、「早良親王の祟り」であるとされ、幾度か鎮魂の儀式が執り行われた。
 だが、直後に大洪水が起こり、藤原種継暗殺事件から七年を経た延暦一一(792)年、いまだ長岡京造営の終着が見えない不安の中、桓武天皇は「怨霊」に抗し切れないと考え、「鎮魂」よりも、「逃げる」ということを選択。和気清麻呂の進言を容れ、翌延暦一二(793)年に新都・平安京の造営を命じた。
 そして延暦一三(794)年)、文字通り逃げる様に、まだ造営途中の平安京に遷都したのだった。

 その後、延暦一九(800)年に桓武天皇早良親王に「崇道天皇 (すどうてんのう)」の尊号を追贈し、その墓を淡路から大和に移葬させた。
 奈良市八嶋町の崇道天皇陵がその場所だが、近くには八嶋神社、北数キロ離れた奈良町に崇道天皇社、御霊神社を造って崇道天皇を祀り、京の鬼門に位置する高野村(現:京都市左京区上高野)には、京都で唯一早良親王のみを祭神とする崇道神社まで造って鎮魂に努めたのだった。


祟り(?)への疑念 例によって、桓武天皇一家を襲った不幸を早良親王の「怨霊」によるものだった、と仮定して論述したい。

 早良親王にしてみれば、無実の罪で皇太弟の地位を奪われ、絶食してまでの命懸け抗議にも耳を貸されず果てたのだから、兄への怨みは骨髄に達していたとしてもおかしくなかっただろう
 だが周知の様に、身内に不幸が相次ぎながら桓武天皇自身は政治的にその地位を失うことは無く、早良親王の憤死から二〇年後に七〇歳の天寿を全うした。加えて早良親王に成り代わって皇太子となった安殿親王も病気に苦しみながらも命を落とすことなく、後に平城天皇として即位した(退位後に藤原薬子の色香に迷って破滅したが、命は失わなかった)。
 確かに人間は自分が痛い目を見るよりも、身内に不幸が相次いだ方が精神的な苦痛は大きいだろう。とはいえ、「祟った。」というには桓武天皇本人に対する報復(?)はどこか中途半端だ。

 そこで怨みの度合いを測る為にも、早良親王桓武天皇に対してどこまでの怒りや怨みを抱いていたかを薩摩守なりに考察してみた。
 早良親王桓武天皇を恨むということは、桓武天皇によって失ったものが参考になる訳だが、一番大きいのは「皇太弟の地位」である。勿論命を失ったのが大きい(だからこそ怨霊化した)のだが、そもそも桓武天皇には殺意は無く、抗議の為の絶食で果てた早良親王の死は自害に近い。
 生きていればいつかは罪が許されたり、無罪と認められたりして皇太弟に復位する可能性は皆無ではない。思考はどうあれ、命を落とすまで食を採らず、生前に名誉を取り戻す可能性を壊したのは早良親王本人に他ならない。そうなると早良親王桓武天皇に対する怨みにも少しは歯止めがかかったのではないだろうか?
 実際に命を落とした桓武天皇の母や妃、何の関係もなく疫病や自然災害で命を落とした民衆は堪ったものではなかっただろうが

 詰まる所、皇太子になる前から皇族・貴族間の暗い権力闘争や陰謀を目の当たりにし、蝦夷討伐において降伏した筈の阿弖流為を処刑させるような行為を繰り返した桓武天皇は自らの行動に止むを得ないものを感じつつ、同時に多少の罪悪感も抱いていたのだろう。藤原種継の死から七年を経ても完成しない長岡京から平安京に逃げ、ようやくにして平穏を取り戻した訳だが、遷都の六年後に早良親王崇道天皇の追尊を行っている様に、早良親王のことは気にかけ続けた。

 これは薩摩守の推測に過ぎないが、父・光仁天皇の命令で皇太弟にした早良親王ではなく、自分の息子である安殿親王に皇位を継承させたいというエゴから早良天皇を嵌めた桓武天皇が、殺すまでは考えていなかったのに結果として死に追いやってしまったことへの罪悪感からすべての不幸を早良親王と絡めたのではなかろうか?
 平城京の仏教勢力を嫌い、降伏した蝦夷を処刑した桓武天皇が後には新興宗派(天台宗)を保護し、軍事を停止したことから、桓武天皇は行動力を持ちつつも、それによってもたらされたマイナス面を気にせずにはいられない人物だったと薩摩守は見ている。

 死を選んだのは早良親王自身だが、そう考える環境に叩き込んだのは桓武天皇であることに変わりはない。「殺す」と「死に追いやる」の相違並びに責任の割合とは非常に複雑と云える。果たして早良親王は皇位にどれほどの執着を持っていたのだろうか?



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令和三(2021)年六月八日 最終更新